2006 年 55 巻 11 号 p. 35-47
アパッチ族と称されていた「在日朝鮮人」を描いた開高健の『日本三文オペラ』(一九五九)がそこを「不法」の空間として表象するのは、開高が日本の「戦後」を「戦前」とは断絶しているとみなす忘却によるものであった。一方、アパッチ族を日本を滅亡させる存在として描く小松左京の『日本アパッチ族』(一九六四)は、「戦前」を記憶しているゆえの、しかし忘却への欲望が書かせたものである。しかし、逆に「連続する戦前」を強調する梁石日『夜を掛けて』(一九九四)も、同じく表象の次元を超え出ないものであり、その限り「戦後」議論は実を結ばないだろう。