2011 年 60 巻 6 号 p. 12-23
「夢応の鯉魚」は多くを先行作に依拠しながら、そのいずれとも異なる絶妙な世界を作り上げている。それは偏に、「絵」を描く「僧」、興義の設定に因る。「延長」という具体的な年号を示されながら、この画僧の有り様は時代を超えている。つまりそれは決してあり得ない存在なのだ。しかし、この不可能性は特定の時間に限定されぬ普遍性にも通じ、奇妙な既視感を読む者に与えることになる。また、「鮮」を厭う興義の物言いは仏教の原理とは相反するものだが、読む側はそれを仏者のものとして疑うことはない。ここには、不浄なる食を忌み、清らかな自己の保全を願う心性が見て取れる。本篇は、かくのごとき心性が希求して止まぬ、清閑の理想郷に遊戯する自己という不可能な夢を、言葉によって結晶化せしめた、いわば究極の絵画とも称すべき作である。