障害者をめぐる文学は、近代的思想における自由主義のもとにある個人という概念が持つ限界を描いてきた。本稿では、身体障害者の「自己決定」に、国家や社会が振りかざす新自由主義に基づく欺瞞と暴力が潜んでいることを、山里禎子「ソウル・トリップ」(一九八九)の作品分析を通じて論じる。新自由主義の萌芽期に、沖縄を彷彿とさせる「島」空間で主人公が抵抗として行う〈拒食〉という「自己決定」は、「柔軟な身体」の「フレキシブル」な対応へとすり替えられてしまう。しかし、「自律/自立」的な身体を閉じることなく「自己決定」を行うことで、自由主義の限界や新自由主義の企図から逃れ、個に閉じられることのない生の可能性があることを示したい。