坪内逍遥『小説神髄』の登場を経た一八八〇年代後半から一八九〇年代は、写実主義小説の時代だったと要約できる。しかし徳富蘇峰は逍遥の小説観に沿わない考え方を抱いていた。そしてこの人物を主な推進者とする形で一八九〇年前後に始まった、ユゴー流の認識の導入によって日本文学の刷新を図るという企ては、「社会の罪」という提言(森田思軒)を得ることで多くの賛同者を集め、のちの樋口一葉たちの小説に結実する。こうした「社会の罪」をめぐる資料群を掘り起こしていくと、従来互いに関連するものとして論じられてこなかった蘇峰と一葉の文業も同じ「社会の罪」という系譜の上にあったことが見えてくる。