日本考古学
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律令体制の形成と須恵器生産
7世紀における瓦陶兼業窯の展開
城ヶ谷 和広
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1996 年 3 巻 3 号 p. 83-100

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抄録

律令体制の形成という大きな政治的ながれは,当然,須恵器生産にも様々な影響を及ぼすこととなる。逆に言えば,須恵器生産の変化の中から,その政策の一端を復元することも可能となる。
この時期の須恵器生産の変化の鍵を握るのが,瓦陶兼業窯であると考え,具体的には,尾張の瓦と須恵器生産を例にとって,律令体制の形成と地方における生産との関わりについて検討した。
まず,7世紀前半代においては,推古朝の新しい産業政策の実施などにより,北陸地方などで一郡一窯体制といった新しい生産体制がとられるが,国造勢力の強かった尾張猿投窯では,ほとんど変化がみられず,新しい政策に対して,反応が比較的薄かった。
ところが,7世紀後半になると,政治的な制度の整備に加えて,仏教政策,産業政策などが一体となって,中央の地方浸透政策はさらに強力なものとなる。
中央権力は尾張国造勢力の支配に楔を打ち込むため,支配下に入った在地豪族へのテコ入れを行い,東畑廃寺を造営させる。そして,この寺院へ瓦を供給する窯として,篠岡2号窯が構築される。
篠岡2号窯開窯にあたっては,おそらく工人を伴う形で奥山久米寺の瓦の笵型がもたらされるが,須恵器工人は国造勢力のおさえていた猿投窯から割きとる形で動員され,新たな丘陵を開発している。その後も,尾北窯では中央から瓦の技術が継続的に導入されるとともに,焼成された須恵器が,飛鳥石神遺跡など畿内中枢部へもたらされた。その意味では7世紀後半は仏教政策と産業政策を一体としてとらえることができ,その象徴が瓦陶兼業窯であった。
このような7世紀後半の動きは富山県小杉丸山窯,福島県善光寺窯や滋賀県木瓜原遺跡など各地で見られるが,これらの窯の多くが,後に製鉄技術も扶植され,生産コンビナート的な生産地となっていく。大きくみれば,これらの生産地は同じ施策のもとに生み出されたもので,「新規開発型」
(篠岡窯,木瓜原遺跡など)と「在地再編成型」(善光寺窯,小杉丸山窯など)に分けられる。
しかし,8世紀半ばになると,これらの産地は衰退し,再編成の波が押し寄せる。尾張では尾北窯が衰退する一方,猿投窯が律令制下に組み込まれ,安定した生産を続けるようになる。

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