抄録
『寛永諸家系図伝』によると、服部保次の生国は伊賀で、徳川家康の伊賀越えを助けた功で鉄砲同心五十人を預かったという。「服部介」宛など、保次拝領と思われる文書の写しが内閣文庫に残っているが、これまで足利義輝関係のものとされてきた。しかし徳山稔家文書と照合すると、足利義昭関係のものであることが分かる。また「服部同名中」宛のものがあることなどから、服部要介(介)を甲賀衆とする説があるが、各文書をみる限り、甲賀衆と断定することはできない。また義昭に対する働きから『寛永伝』の永禄八年に家康に仕えたとの記事は成立しない。多くの伊賀者由緒関係文書は、家康は大和から伊賀に入った点で共通し、保次と思しき「服部仲」が家康を助けたという。この大和越えは『当代記』等、多くの史料に記されているが、通説の前に否定され、
「服部仲」も無視されてきた。大和越えの蓋然性を確認し、併せて、伊賀越えにおける保次の働きを再検証すべきと考える。