地震学的には不明な点が多い琉球弧中央部について、琉球国史『球陽』の読解からその地殻変動像の復元を試みた。その結果、対象地域では18世紀後半に巨大地震が続発していたことが示唆された。1768年の地震では、地盤の強固な首里で建造物や陵墓などが損壊し、時の尚穆王が王殿からの退避を余儀なくされたほか、慶良間諸島の座間味島では津波による家屋流失の後、旧阿佐村が移転を強いられるなど、大きな被害を生じた。いわゆる八重山津波として知られる1771年の震災では、沖縄島、慶良間諸島、久米島で先島より強い地震動が表現されており、那覇にも強度1程度の津波が到達していた。また西表島では余震または誘発された地震による液状化が起きている。1791年には津波地震と思われる、地震動の記述を欠いた大規模な潮位変化が沖縄島内各地で記録された。特に中城湾に面した与那原では津波の高さが10mを超えたとされる。これらの地震・津波は、その現象の強さと空間的広がりから、プレート境界を震源とするM8 級かそれ以上の巨大地震によって引き起こされた可能性が高い。また、それらの地異が集中した期間の前後約100年間には、匹敵する地震・近地津波の記述が無いことから、琉球海溝では巨大地震が続発する数十年の活動期と百年スケールの静穏期とが繰り返されていると考えられる。