抄録
久坂部羊の代表作『老乱』は、認知症患者を抱える家庭における世代間コミュニケーションの困難を主題とした作品である。作中に描かれる世代間葛藤は主として三点に集約される。第一に、世代間の交流が困難となること。第二に、患者が「負担」として位置づけられることにより主体性を喪失し、対話が不可能となること。第三に、患者と介護者との認識の差異が衝突を招くことである。
これらの葛藤に対して、作品においては三つの和解の方法が提示されている。すなわち、書簡による交流、「共同記憶」による感情の喚起、そして患者とその病気を受け入れる介護者の姿勢である。これらの方法は、世代間関係改善の可能性を示すと同時に、認知症文学の語りの射程を広げていると言えよう。
総じて言えば、『老乱』は高齢化社会における家族倫理や世代間コミュニケーションの研究に新たな視座を提供し、認知症に対する社会的理解を深化させる上で重要な示唆を与えている。