抄録
筆者は近年に行なった難波宮や推定難波京域に関する検討の成果をもとに、大川南岸と四天王寺周辺とにおける遺構・遺物の二極集中をふまえ、前者の地区でその分布が時代とともに西へ拡大することや、さらに北の旧中津川流域や、三国川など北摂山系からの河川流域まで開発が進んでいることを発掘調査成果から示した。奈良時代後半以降の難波での賑わいが上町台地の宮殿周辺からすでに大川南岸に移っているという観点から、関連する史料を参考にしつつ、難波津や摂津国府の位置推定などを検討した。少なくとも奈良時代には起
源を遡ることができる、難波での重要な祭祀儀礼である八十島祭や斎王の解除儀礼が、形は変化しつつも王権の祭祀として存続していたことからも、古代の難波は常に海を意識して発展してきたことがわかる。そうした理解をもとにして、難波宮・京が“副都”と位置づけられることへの疑問を呈した。