抄録
後期難波宮の造営過程に関しては、筆者は2010年に論文を発表し、西方官衙での造替えや所用瓦の年代観から神亀3年(726)から始まった造営と、それが一段落した後、天平4年(732)から10年(738)頃までに行なわれた2段階の造営を考えた。あわせて平城宮東区上層の大極殿院・朝堂院の造営年代を天平17年(745)の還都後からという説を否定して、恭仁宮造営と概ね並行したものと結論づけている。本論ではその論文を継承するかたちで、批判に応えて自説を補強するとともに、恭仁宮・紫香楽宮といった他の聖武朝の宮殿遺跡と比較して、平城宮東区上層の大極殿院・朝堂院の造営年代をあらためて平城京還都前に位置づけた。また、難波宮がこうした都城となぜ並行して造営しえたのかについて、この宮殿を首都にしようとする摂河泉を中心とした在地勢力の存在を考古資料や史料から検討した。加えて、後期難波宮が長岡京遷都よりも前の奈良時代後半の時点で、すでに機能を終えていた可能性について新たな歴史像を示した。