音楽学
Online ISSN : 2189-9347
Print ISSN : 0030-2597
ISSN-L : 0030-2597
運動と触覚の「音楽的思惟」論 ―― Marie Jaëll の演奏哲学再考――
山上 揚平
著者情報
ジャーナル フリー

2018 年 64 巻 2 号 p. 144-160

詳細
抄録

   19世紀後半に活躍したフランス人ピアニスト兼作曲家であるマリー・ジャエルは、同時代の実証科学の影響の下に個性的なピアノ教育メソッドを実践した理論家としても知られている。本論は彼女のメソッドの中核を占めていた「指紋」の利用に着目し、それを理論的および美学的に支えていた彼女の学術的バックグラウンド ――実験心理学、指紋研究、病理心理学―― を明らかにすると共に、その特殊なメソッドの実践の中から生み出された彼女の音楽思想の再評価を試みる。その際、本論が注目するのは、「指紋」の導入に伴って彼女の教育論の中心に据えられる事になった「触覚」というファクター、及びそれに彼女が与えた特殊な役割である。
   タッチを行う「運動」の記録として導入された指紋の方法は、彼女をして指紋の紋様の調和と音色や響きの調和には何らかの関係性が存在する事を直観させる。正しく美しいタッチを身に付ける為、ピアニストは自らの指紋の並びをイメージできる能力を求められるが、その過程において「触覚」には徐々に大きな重要性が付与されていくのである。後期の著作に散見される「考えること」と同列に指先で「感じること」を置く彼女の議論は、音楽的思考と演奏運動とを一体と捉える彼女独自の音楽的思惟論を読み解く鍵ともなる。本論は彼女の全著作に散りばめられた断片的な考察を、同時代の学術思潮や彼女と近しかった人々の証言を手掛かりに繋ぎ合わせ、運動が「知性化」される契機として触覚がどのような役割を果たす事が出来るのか、その可能性を検討する。その結果見えてきたのは同時代の新しい「言語」及び「音楽言語」研究との繋がりであった。
   ジャエルの演奏論は、触覚という五感の中でも最も身体的な感覚を音楽言語の要素の統合という知的なプロセスに参与させる事によって、触感覚の斬新な再評価を行った点にその意義深い特色の一つが見出せるだろう。そしてその様な思想の形成に於いて「指紋」は、科学的図像記録と感性的イメージとの境界に在って、他に代えがたい決定的な役割を果たしたのである。

著者関連情報
2018 日本音楽学会
前の記事 次の記事
feedback
Top