幕藩期の弘前藩において農業利水の確保を目的に創設された田山制度を対象に、幕藩期における特徴を把握し、近代以降の政策展開と保安林制度への継承実態を明らかにした。田山制度の創設は1663(寛文3)年以前であり、江戸末期には管理村数80ヶ村に149箇所の田山が認定された。田山は小規模な沢を水源とするものが多く、集落の近隣に位置し一村村中による管理が行われていたことから、用水確保による受益者と管理者の範囲が重複していた特徴を指摘できる。また、平時においては禁伐とされた田山であったが、大飢饉発生時には伐採がなされており、農民救済的な性格を有していた。明治30年森林法により、田山は救荒備林の性格を備えたまま「従来保安林」として保安林制度へ継承された。しかし、田山の救荒備林的性格は、近代保安林制度の要件と齟齬を来す結果となり、その多くは保安林解除となった。保安林制度による利用規制の変化は、農民の日常的な生活水準の継続的維持をもたらしたが、一部で日常的な過伐が行われ田山の荒廃を誘起したと考えられる。