宗教研究
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「渇仰の貴賤」の信仰としての如来教 : 一八〇〇年前後宗教社会から救済言説を読み直す
石原 和
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2015 年 89 巻 3 号 p. 445-470

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抄録
本稿は、一八〇〇年前後に生きる「渇仰の貴賤」--宗教・信仰の受容者--の群像から民衆宗教の先駆とされる如来教の開教とその意義を考えるものであり、また同時に民衆宗教の新たな語りを模索する試みでもある。当時多く行われた開帳と寺社の再建・新設工事に注目すれば、結縁の場に積極的に赴き、金銭の提供や労働を厭わず仏神に「渇仰」する人々の姿が浮かび上がる。その行動の背景には当時の人々が共有していた作善という問題があった。このような<場>から如来教が強調する善心による救済を考察すると、それが宗教社会での救済=作善による救済="善を作すか、悪を作すか"ではなく、"心を善くするか、悪くするか"と心のあり方を重視したものだったとわかる。この如来教の救済は、様々な救済言説が同じ現実にぶつかった人々に対峙し、応答していた時代にあって、差異こそあれ、心のあり方を重視するという点において、それらと同じ地平に登場したと意義づけられる。
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© 2015 日本宗教学会
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