産業衛生学雑誌
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調査報告
日本における職場でのメンタルヘルスの第一次予防対策に関する費用便益分析
吉村 健佑川上 憲人堤 明純井上 彰臣小林 由佳竹内 文乃福田 敬
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電子付録

2013 年 55 巻 1 号 p. 11-24

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Abstract

目的:本研究では,職場におけるメンタルヘルスの第一次予防対策の実施が事業者にとって経済的利点をもたらすかどうかを検討することを目的とし,すでに公表されている国内の研究を文献検索し,職場環境改善,個人向けストレスマネジメント教育,および上司の教育研修の3つの手法に関する介入研究の結果を二次的に分析し,これらの研究事例における費用便益を推定した.対象と方法:Pubmedを用いて検索し,2011年11月16日の時点で公表されている職場のメンタルヘルスに関する論文のうち,わが国の事業所で行われている事,第一次予防対策の手法を用いている事,準実験研究または比較対照を設定した介入研究である事,評価として疾病休業(absenteeism)または労働生産性(presenteeism)を取り上げている事を条件に抽出した結果,4論文が該当した.これらの研究を対象に,論文中に示された情報および必要に応じて著者などから別途収集できた情報に基づき,事業者の視点で費用および便益を算出した.解析した研究論文はいずれも労働生産性の指標としてHPQ(WHO Health and Work Performance Questionnaire)Short Form 日本語版,あるいはその一部修正版を使用していた.介入前後でのHPQ得点の変化割合をΔHPQと定義し,これを元に事業者が得られると想定される年間の便益総額を算出した.介入の効果発現時期および効果継続のパターン,ΔHPQの95%信頼区間の2つの観点から感度分析を実施した.結果:職場環境改善では,1人当たりの費用が7,660円に対し,1人当たりの便益は点推定値において15,200–22,800円であり,便益が費用を上回った.個人向けストレスマネジメント教育では,1人当たりの費用が9,708円に対し,1人当たりの便益は点推定値において15,200–22,920円であり,便益が費用を上回った.上司の教育研修では2論文を解析し,Tsutsumi et al. (2005)では1人当たりの費用が5,290円に対し,1人当たりの便益は点推定値において4,400–6,600円であり,費用と便益はおおむね同一であった.Takao et al. (2006)では1人当たりの費用が2,948円に対し,1人当たりの便益は0円であり,費用が便益を上回った.ΔHPQの95%信頼区間は,いずれの研究でも大きかった.結論:これらの研究事例における点推定値としては,職場環境改善および個人向けストレスマネジメント教育では便益は費用を上回り,これらの対策が事業者にとって経済的な利点がある可能性が示唆された.上司の教育研修では点推定値において便益と費用はおおむね同一であった.いずれの研究でも推定された便益の95%信頼区間は広く,これらの対策が統計学的に有意な費用便益を生むかどうかについては,今後の研究が必要である.

I.はじめに

近年,産業医学における精神保健の重要性は増しており,我が国においてもうつ病をはじめとする精神疾患を抱える社員は年々増加傾向にある1).これを受けて2006 年には厚生労働省より労働者の心の健康の保持増進に関する指針2)も出された.しかし,2007年時点の調査によると心の健康対策に取り組んでいる事業所は33.6%に留まっている3).増加するメンタルヘルス不調への対応として,特に労働者のメンタルヘルス不調の第一次予防対策に対する関心が高まりつつある4).しかし,その手法として科学的有効性が報告されている「職場環境改善」「個人向けストレスマネジメント教育」「上司の教育研修」の3つの活動4)は,なお全事業所のそれぞれ7%,17%,12%でしか実施されていない3).心の健康対策に取り組まない理由として,12.1%の事業所が「経費がかかる」と回答しており3),費用の問題から対策が進まない側面も窺われる.また,対策に取り組んでいる事業所でも心の健康対策の効果について31.4%が「わからない」と回答しており3),事業者は明確な対策の効果を見いだせないまま,十分な取り組みに踏み切れずにいる状況が推察される.

職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の効果については,抑うつ気分,不安など従業員の心理的ストレス反応の低下を指標にして研究されることが多い.しかし一方で,こうした精神健康指標に対する効果は,事業者にとっては理解しにくい.対策には費用がともなうことから,事業者にとっては対策が企業の経営や業績にどの程度影響したかがわからないと,対策の実施に強い動機づけになりにくい.職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の企業経営に及ぼす影響には,過重労働による精神障害等の労働災害の防止など法的リスクのマネジメント,労働者の生産性の向上などさまざまな側面がある4).近年特に,産業保健において従業員の労働生産性に注目した研究が増えている5).従業員の労働生産性の評価対象としては,休業している状態(absenteeism)と,出勤しているが労働遂行能力が低下している状態(presenteeism)の2つが知られている6).特に最近ではpresenteeismによる労働損失が大きいという報告がなされており7,8,9),わが国でも大うつ病性障害やアルコール依存症を患う労働者では,absenteeismによるよりもpresenteeismによる労働損失の影響が大きいという報告がある10).こうした研究の蓄積は,労働生産性の観点からも産業保健活動を評価する視点につながってきている.これは職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の効果評価にも応用されるべき視点である.

医療経済評価のうち,費用便益分析は費用と,得られる結果(便益)をすべて金銭で表して,効率性を検討する方法で,費用便益比と純便益(=便益-費用)を算出することで,比較対象がなくても意思決定の基礎とすることができるという特徴を持つ11).事業者の視点から産業保健領域での経済評価について2,640論文を検討した系統的レビュー5)では,良くデザインされ,かつ精神保健に焦点を当てた研究は2論文12,13)のみが取り上げられている.このうちの1つであるLo Sassoら (2006)の研究12)ではabsenteeismおよびpresenteeismの観点から労働者のうつ病治療に対する費用便益分析が行われている.もう1つのSmootら(1995)の研究13)では,離職,休業,業務パフォーマンスへの影響の観点から精神科病棟に勤務するスタッフに対し,入院患者とのコミュニケーション技術訓練を行うことでプラスの費用便益が得られることが報告されているが,同研究は精神科患者とのコミュニケーションという治療的技術を身につけることに対する費用便益分析であり,職場のメンタルヘルスという視点からの研究とは言えない.以上より,明確に従業員の第一次予防に焦点を当てて行われた費用便益分析の報告は見られていないのが現状である.

本研究では第一次予防対策の実施が事業者にとっての経済的利点をもたらすかどうかを検討することを目的とし,すでに公表されている国内の研究からabsenteeismあるいはpresenteeismに対する介入効果の報告されている介入研究を文献検索し,職場環境改善,個人向けストレスマネジメント教育,および上司の教育研修の3つの手法に関する先行研究の結果を二次的に分析することで,事業者の視点で第一次予防対策の方法別費用便益分析を実施した.本研究では,各研究の元データまでさかのぼって再解析をすることは一般的に困難であることから,各研究における費用便益の点推定を事例として報告し,職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の費用便益の目安となる情報を提供することを主目的とした.しかし,可能な範囲で費用便益の95%信頼区間についても計算した.本研究により,各手法の費用便益および手法間の比較が明らかとなり,事業場における職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の普及につながることが期待される.

II.対象と方法

1. 分析対象論文の抽出

Pubmedを用いて研究論文を検索し,2011年11月16日の時点で,キーワード(“stress, psychological”[MeSH Terms] OR(“stress”[All Fields] AND “psychological”[All Fields]) OR “psychological stress”[All Fields] OR(“mental”[All Fields] AND “stress”[All Fields]) OR “mental stress”[All Fields]) AND performance[All Fields] AND(“japan”[MeSH Terms] OR “japan”[All Fields])にて該当した118,および(“mental health”[MeSH Terms] OR(“mental”[All Fields] AND “health”[All Fields]) OR “mental health”[All Fields]) AND performance[All Fields] AND(“japan”[MeSH Terms] OR “japan”[All Fields])にて該当した125文献(重複あり)をリストアップした.これらの文献とその引用文献のうち関連があると考えられる文献を著者が精査し,わが国の事業所で行われている事,第一次予防対策の手法を用いている事,準実験研究または比較対照を設定した介入研究である事,評価として疾病休業(absenteeism)または労働生産性(presenteeism)を取り上げている事を条件に抽出した結果,4論文が該当した.なお,医学中央雑誌刊行会Webを用い,同条件で検索したところ条件に該当した論文はなかった.また,関連すると思われる国内文献を可能な限り検索を行ったが,条件に該当した論文はなかった.以上より,上記の4論文14,15,16,17)を本研究の解析対象とした.4論文のうち,Tsutsumi ら(2009)14)は職場環境改善を用いた無作為化比較試験であり,職場環境改善における費用便益分析の対象とした.Umanodan ら(2009)15)は個人向けストレスマネジメント教育を用いた比較対照試験であり,個人向けストレスマネジメント教育における費用便益分析の対象とした.Tsutsumi ら(2005)16)は準実験研究,またTakao ら(2006)17)は無作為化比較試験による上司の教育研修の効果評価であり,これら2論文を上司の教育研修の費用便益分析の対象とした.

2. 費用便益分析

これらの研究を対象に,論文中に示された情報および必要に応じて著者などから別途収集できた情報に基づき,事業者の視点で費用および便益を算出した.

1) 費用の算出

研究論文の記述と,可能な場合には著者への聞き取りから,介入に必要な費用の総額と介入群の従業員1人あたりの費用を算出した.費用のうち大きな部分を占めるのは,従業員や管理監督者などのプログラムに参加時の賃金である.賃金の算出根拠として,平成22年厚生労働省賃金構造基本統計調査18)より一般従業員年収435万円(うち賞与額は80万円:年収の18.4%)時給2,000円(男女平均年収を参照),管理職年収880万円(うち賞与額は210万円:年収の23.9%)時給4,000円(大学大学院卒・管理事務技術労働者,勤続年数25–29年を参照)と概算した. また,教育講師費用については産業保健専門職10名から意見聴取を行い,1回あたり30分程度で1.5万円,60分程度で3万円,120分程度で5万円,240分程度で7万円と設定して概算した.各研究とも異動や脱落などが見られたが,異動・脱落者も含め介入群全員の費用を算出した.

2) 便益の算出

解析した研究論文はいずれも労働生産性の指標としてHPQ(the WHO Health and Work Performance Questionnaire)19,20) Short Form 日本語版(付録参照),あるいはその一部修正版を使用していた.先行研究によると製造業,サービス業,会社幹部などの多様な職種において,HPQを用いての自己記入による労働生産性と上司からの客観的評価による労働生産性の間に十分な一致が報告されている19,20) .今回の解析では,介入前後の労働生産性の指標の変化割合を用いて便益を計算した.労働生産性の指標は0点=「最悪の出来」から,10点=「最高の出来」で表現されている.一部修正版では,指標の範囲を0–100点までとしていた.

便益の算出根拠となる賃金は,人事労務担当者などからの意見聴取に基づき,年間給与のうち賞与額のみとした.これは身分保障的な側面の強い月給給与に比べて,賞与額は事業場における労働生産性の合計や企業の収入・収益とある程度の相関をもつと考えられるためである.

介入前後でのHPQ得点の変化割合を以下のようにΔHPQと定義し,これを元に事業者が得られると想定される年間の便益総額を算出した.

  

便益総額=ΔHPQ×介入人数×年間賞与額(一般従業員 80万円)

なお,異動や脱落によりデータが得られなかった場合は介入群,対照群とも該当者のΔHPQ=0と仮定して便益を算出した.また,1年単位での解析としたため,便益の時間割引は調整不要であった.関連する結果として,便益総額,1人当たり便益に加え,1人当たり費用から1人当たりの便益を減じた1人当たり純便益,1,000人当たり純便益,費用に対する便益の比(ROI: return on investment)を算出した.

3)休業日数の変化に対する補正

4つの研究のうち,職場環境改善を用いた介入研究である Tsutsumi ら (2009)14)では,著者から介入群,対照群の介入前,1年後の休業日数のデータの提供を受けた.これ以外の3つの研究では休業日数のデータが得られなかったので,計算に含めなかった.休業日数を含めた場合のΔHPQを求めるための基礎資料として,平成23年厚生労働省就労条件総合調査21)より国内の年次有給休暇の利用状況8.6日,年間休日日数113.0日を入手した.これによれば年間所定労働日数は365–113.0=252.0日であり,これから8.6日の年次有給休暇を差し引いた上に,さらに介入群,対照群の増加休業日数を差し引くと,各群の出勤日数が計算できるとし,これらの出勤日数にはΔHPQ分だけ労働生産性が増加することから,休業日数を含めた修正ΔHPQを以下の計算式により求めた.

  

4)感度分析

2つの観点から感度分析を実施した.

(1) 効果発現の時期および効果継続のパターン

職場環境改善14)については,図1に示す通り事前調査時の12ヶ月後である事後調査時の介入効果が最大であり,これを1.0としたとき,効果は介入後直線的に漸増すると考え,6ヶ月後の介入効果を①0.5とした場合と,6ヶ月後ですでに最大の効果に達していると考えこれを②1.0とした場合の2通りについて便益を算出した.

図1.

職場環境改善14)における2 種類の感度分析.縦軸の介入効果は事前調査時を0.0 とし,12 ヶ月後である事後調査時の介入効果を1.0 としたもの.6 ヶ月後の介入効果を① 0.5 とした場合と,② 1.0 とした場合を想定した.それぞれグラフの下側面積は年間の総介入効果となる.それぞれグラフの下側面積は年間の総介入効果となる.

個人向けストレスマネジメント教育15),および上司の教育研修のうちTsutsumi ら(2005)16)についても,複数の感度分析を行った.図2に示す通り事前調査時の約6ヶ月後である事後調査時の介入効果が最大であり,これを1.0としたとき,その後12ヶ月後にかけて効果が漸減すると仮定し,12ヶ月後には効果が①なし (0.0) まで低下するとした場合,②1/3 (0.33)まで低下するとした場合,③2/3 (0.67)まで低下するとした場合,④低下せずに保持される (1.0)とした場合の4通りについて便益を算出した.

図2.

個人向けストレスマネジメント教育15),および上司の教育研修のうちTsutsumi らの研究16)における4種類の感度分析.縦軸の介入効果は事前調査時を0.0とし,介入6 ヶ月後(事後調査時)の介入効果を最大と考え1.0 とした.12 ヶ月後の介入効果は漸減し① 0.0 となるとした場合,② 0.33 となるとした場合,③ 0.67 となるとした場合,④ 1.0 のままとした場合を検討した.それぞれグラフの下側面積は年間の総介入効果となる.

(2) ΔHPQの95%信頼区間

今回の研究では,いずれの論文も調査個票は得られなかったため,論文中に示されたHPQ得点の点推定値および標準誤差(SE)を用いてΔHPQの95%信頼区間(95%CI)を推計した.また,この推計をもとに便益の95%信頼区間を算出した.

III.結 果

1. 職場環境改善

1)研究の概要

Tsutsumiら (2009)の研究は,国内のある製造工場において行われた14).事業所規模は14職場(n=139),であるが3職場(n=42)は職場組織の変更のため不参加であり,11職場(n=97)が研究に参加した.職場単位で,無作為に介入群と対照群に割り付けを実施した.6職場(n=47)が介入群となり,従業員参加型職場環境改善が実施された.5職場(n=50)が対照群となった.盲検化は実施していない.論文の記載内容から,2005年5月に介入群の各職場からファシリテーター1名ずつ選抜し,計6名に対してファシリテーター教育を行ったこととした.2005年7月に介入群・対照群ともに事前調査を実施した.2005年10月に,介入群の職場管理職6名に対し職場環境改善に関する意義の説明を行ったこととした.2005年11月に,介入群に対し職場環境改善を目的とした参加型研究集会(講義および集団討論)を実施した.2回の事後研究集会を行い,2006年8月に介入群・対照群ともに事後調査を実施した.ここで,著者への聞き取り調査により,各職場のファシリテーター教育の参加人数が計12名,職場管理職への説明の参加人数が計12名との情報を得た.実際にはこのような状況で実施されたが,これは今回の研究の特殊事情である.一般の現場で実施される場合を想定して,今回の分析では,ファシリテーター教育の参加人数が計6名,職場管理職への説明の参加人数が計6名として解析を行った.この研究の結果,HPQの増加に対して有意な介入効果が報告されている.介入群と対照群のHPQについての群と時点を要因とする2元配置分散分析を実行し,その交互作用項が有意であった(F値=4.05, p=0.048).

2) HPQ変化量の算出

介入群47名のうち,12名は異動等にて脱落し,4名は最終評価が行えなかった.解析が行えた31名については,介入前後のHPQはそれぞれ 65.1 (SD 12.3), 67.3 (SD 10.3)であり,変化量は +2.2 (paired t-test:t=–0.95, p=0.348) であった.対照群50名のうち,8名が異動等にて脱落し,3名は最終評価が行えなかった.解析が行えた39名については介入前後のHPQはそれぞれ 66.9 (SD 7.9), 63.8 (SD 9.3) であり変化量は –3.1 (paired t-test:t=2.13, p=0.040) であった.以上に基づいてΔ HPQを計算すると以下となる.

  

また,著者への聞き取り調査により,介入前後の休業日数の変化について,介入群47名中32名の年間休業日数が介入前3.09日であったのが,介入後6.31日に3.2日増加し,対照群50名中41名の年間休業日数が介入前4.95日であったのが,介入後3.37日に1.6日減少との結果を得た.ここで全ての介入群,全ての対照群は,それぞれ上記と同一の年間休業日数であると仮定し,ΔHPQの補正を行った.

  

ΔHPQ(revised:95%CI)=[–0.0113, 0.0878]

3) 費用の算出

費用総額および介入群47名で除した1人当たり費用を表1-1に示した.介入群1人当たりの費用7,660円のうち,従業員・管理職の賃金は5,533円(72%)であり,講師謝金は2,127円(28%)であった.

表1-1. 職場環境改善14)における費用算出の根拠[nk 1]
費目 算出根拠 費用総額 介入群1人当たり費用*
ファシリテーター教育
従業員賃金 4時間×2,000円×6名 48,000円 1,021円
講師謝金 4時間7万円 70,000円 1,489円
管理職説明・教育
管理職賃金 1時間×4,000円×6名 24,000円 511円
講師謝金 1時間3万円 30,000円 638円
環境改善ワークショップ
従業員賃金 2時間×2,000円×47名** 188,000円 4,000円
合計 360,000円 7,660円

* 費用の総額を介入群47名で除した.**ファシリテーター6名を含み,合計47名が参加したものとした.

4) 便益の算出

便益総額,介入群47名で除した1人当たり便益,1人あたり純便益,1,000人当たり純便益および費用に対する便益の比(ROI)を表1-2に示した.介入効果の発現時期については図1に示した感度分析を行い,それぞれ95%信頼区間を示した.点推定値に基づく1人当たりの純便益は7,540–15,410円,ROIは1.98–2.98であったものの,便益の95%信頼区間はいずれも0を跨いでいた.

表1-2. 職場環境改善14)における便益,純便益およびROI
感度分析① 感度分析②
便益総額(円) 714,400* [–206,800, 1,654,400] 1,071,600** [–310,200, 2,481,600]
1人当たり便益(円) 15,200 [–4,400, 35,200] 22,800 [–6,600, 52,800]
1人当たり純便益(円) 7,540 [–12,060, 27,540] 15,410 [–14,260, 45,140]
1,000人当たり純便益(万円) 754 [–1,206, 2,754] 1,541 [–1,426, 4,514]
ROI*** 1.98 [–0.57, 4.60] 2.98 [–0.86, 6.89]

感度分析①②の定義は図1に示した通り.介入群47名として1人当たりの便益,純便益を算出した.算出根拠としては,ΔHPQ[95%CI]=3.8%[–1.1%, 8.8%]を用い,点推定値[95%信頼区間(CI)]を算出した.* 80万×47名×0.038×1/2. ** 80万×47名×0.038×3/4. *** ROI: return on investment(費用に対する便益の比).

2. 個人向けストレスマネジメント教育

1) 研究の概要

Umanodanら (2009) の研究は,国内のある製鉄事業場において行われた15).研究対象は7職場(n=182)でありその全てが研究に参加した.職場単位で介入を受けるか否かの意思を確認した.介入を受けることに同意した5職場 (n=105)のうち事前調査を拒否した9名を除外し,5職場(n=96)が介入群と割り付けられ,従業員に対し個人向けストレスマネジメントが実施された.介入を受ける事に同意しなかった2職場(n=77)のうち事前調査を拒否した24名を除外し,2職場(n=53)が対照群と割り付けられた.無作為化および盲検化は実施されていない.2006年10月に介入群・対照群ともに事前調査を実施した.2006年10月から2007年4月にかけて介入群である5職場それぞれに対し毎月1回の計6回,1回30分間の個人向けストレスマネジメント教育講習を実施した.2007年4月に介入群・対照群ともに事後調査を実施した.介入群96名のうち,3名は調査データが得られず,49名は講習の一部分のみに参加した.これらを除く完遂者44名と対照群との比較では,心理的ストレス反応に加え,HPQ得点の改善に有意な介入効果が報告されている.介入群と対照群の介入後のHPQ得点について,介入前値を共変量とした共分散分析にて有意な群間差を認めている(F値=3.755, p=0.047).

2) HPQ変化量の算出

上記の完遂者44名を解析の対象とした.介入前後のHPQはそれぞれ 6.1 (SD 2.0),6.6 (SD 2.0) であり変化量は +0.5 (SD 1.4) であった.対照群53名のうち,2名はデータが得られず解析から除外した.解析を行った51名については介入前後のHPQはそれぞれ 5.9 (SD 2.2), 5.9 (SD 2.2)であり変化量は 0.0 (SD 1.6)であった.以上に基づいてΔHPQを計算すると以下となる.休業日数は不明であるため,計算に算入しなかった.

  

∆HPQ(95%CI)=[–0.0176,0.0938]

3) 費用の算出

従業員の時給については,部分的な参加にとどまった従業員も含めた延べ参加人数について総プログラム費用の一部として算出した.費用総額および介入群96名で除した1人当たり費用を表2-1に示した.介入群1人当たりの費用9,708円のうち,従業員の賃金は5,021円(52%)であり,講師謝金は4,687円(48%)であった.

表2-1. 個人向けストレスマネジメント教育(合計6回)15)における費用算出の根拠
費目 算出根拠 費用総額 介入群1人当たり年間*
従業員賃金 0.5時間×2,000円×482名** 482,000円 5,021円
講師謝金 30分1.5万円×6回×5職場 450,000円 4,687円
合計 932,000円 9,708円

*費用の総額を介入群である96名で除した.**ストレスマネジメント教育への延べ参加人数482名であった.

4) 便益の算出

便益総額,介入群96名で除した1人当たり便益,1人あたり純便益,1,000人当たり純便益および費用に対する便益の比(ROI)を表2-2に示した.介入効果の持続期間については図2に示した感度分析を行い,それぞれ95%信頼区間を示した.点推定値に基づく1人当たりの純便益は5,492–13,212円,ROIは1.57–2.36であったものの,便益の95%信頼区間はいずれも0を跨いでいた.

表2-2. 個人向けストレスマネジメント教育15)における便益,純便益およびROI
感度分析① 感度分析② 感度分析③ 感度分析④
便益総額(円) 1,459,200* 1,702,400** 1,945,600*** 2,188,800****
[–691,200, 3,609,600] [–806,400, 4,211,200] [–921,600, 4,812,800] [–1,036,800, 5,414,400]
1人当たり便益(円) 15,200 17,827 20,373 22,920
[–7,200, 37,600] [–8,400, 43,867] [–9,600, 50,133] [–10,800, 56,400]
1人当たり純便益 (円) 5,492 8,119 10,665 13,212
[–16,908, 27,892] [–18,108, 34,159] [–19,308, 40,425] [–20,508, 46,692]
1,000人当たり純便益(万円) 549 812 1,067 1,321
[–1,691, 2,789] [–1,811, 3,416] [–1,931, 4,043] [–2,051, 4,669]
ROI***** 1.57 [–0.74, 3.87] 1.84 [–0.87, 4.52] 2.10 [–0.99, 5.16] 2.36 [–1.11, 5.81]

感度分析①②③④の定義は図2に示した通り.介入群96名として1人当たりの便益,純便益を算出した.算出根拠としてはΔHPQ[95%CI]=3.8%[–1.8%,9.4%]を用い,点推定値[95%信頼区間(CI)]を算出した.*80万×96名×0.038×1/2.**80万×96名×0.038×7/12.***80万×96名×0.038×2/3.****80万×96名×0.038×3/4.*****ROI: return on investment(費用に対する便益の比).

3. 上司の教育研修

3-1. Tsutsumi ら(2005)16)の結果

1) 研究の概要

Tsutsumi ら (2005)の研究は,1,644名の職員を持つ国内のある自治体において行われた16).上司は473名,一般職員は1,171名であった.一般職員のうち593名はデータ不十分であり除外した.データを得た一般職員(n=578)を,上司の1/3以上が参加した「高出席率職場」(n=442)を介入群と割り付け,上司の参加が1/3以下であった「低出席率職場」(n=136)を対照群として割り付けて比較した.無作為化および盲検化は実施していない.2002年11月に介入群・対照群ともに事前調査を実施した.2002年11月から2002年12月にかけて,5回に分けて90分の講義と45分の参加型研修からなる同一の内容で上司教育プログラムを実施し,各上司は1回,任意で参加することとし,合計267名(56%)の上司が参加した.2003年3月に介入群・対照群ともに事後調査を実施した.結果として,心理的ストレス反応については,上司を含む全職員で有意に(p=0.021),上司以外の職員では,有意傾向で(p=0.071)介入効果が認められた.しかし,介入群と対照群のHPQについての群と時点を要因とする2元配置分散分析では,その交互作用項が有意ではなく(F値=1.24, p=0.267),介入効果は確められなかった.

2) HPQ変化量の算出

介入群442名のうち,49名は調査データが得られず解析から除外した.解析を行った393名については,介入前後のHPQはそれぞれ66.7 (SE 0.4),67.1 (SE 0.4)であり変化量は+0.4 (SE 0.4)であった.対照群136名のうち,11名はデータが得られず解析から除外した.解析を行った125名については介入前後のHPQはそれぞれ66.9 SE 0.7),66.5 (SE 0.7) であり,変化量は–0.4(SE 0.7)であった.以上に基づいてΔHPQを計算すると以下となる.休業日数は不明であるため,計算に算入しなかった.

  

∆HPQ(95%CI)=[–7.53×10–3,0.0292]

3) 費用の算出

高出席率職場の上司の参加人数は232名であった.費用総額および介入群442名で除した1人当たり費用を表3-1に示した.介入群1人当たりの費用5,290円のうち,管理職の賃金は4,723円(89%)に上り,講師謝金は566円(11%)であった.

表3-1. 上司の教育研修のうちTsutsumiらの研究16)における費用算出の根拠
費目 算出根拠 費用総額 介入群1人当たり年間*
管理職賃金 2.25時間×4,000円×232名** 2,088,000円 4,723円
講師謝金 2.25時間5万円×5回 250,000円 566円
合計 2,338,000円 5,290円

*費用の総額を介入群442名で除した.** 高出席率職場の上司の参加人数は232名であった.

4) 便益の算出

便益総額,介入群442名で除した1人当たり便益,1人あたり純便益,1,000人当たり純便益および費用に対する便益の比(ROI)を表3-2に示した.介入効果の持続期間については図2に示した感度分析を行い,それぞれ95%信頼区間を示した.点推定値に基づく1人当たりの純便益は–890–1,310円,ROIは0.83–1.24であり,費用と便益がほぼ同一であったものの,便益の95%信頼区間はいずれも0を跨いでいた.

表3-2. 上司の教育研修のうちTsutsumiらの研究16)における便益,純便益およびROI
感度分析① 感度分析② 感度分析③ 感度分析④
便益総額(円) 1,944,800* 2,268,933** 2,593,067*** 2,917,200****
[–1,326,000, 5,127,200] [–1,547,000, 5,981,733] [–1,768,000, 6,836,266] [–1,989,000, 7,690,800]
1人あたり便益(円) 4,400 [–3,000, 11,600] 5,133 [–3,500, 13,533] 5,867 [–4,000, 15,467] 6,600 [–4,500, 17,400]
1人あたり純便益(円) –890 [–8,290, 6,310] –157 [–8,790, 8,243] 577 [–9,290, 10,177] 1,310 [–9,790, 12,110]
1,000人あたり純便益(万円) –89 [–829, 631] –16 [–879, 824] 58 [–929, 1,018] 131 [–979, 1,211]
ROI***** 0.83 [–0.57, 2.19] 0.97 [–0.66, 2.56] 1.11 [–0.76, 2.92] 1.24 [–0.85, 3.29]

感度分析①②③④の定義は図2に示した通り.介入群442名として1人当たりの便益,純便益を算出した.算出根拠としては,ΔHPQ[95%CI]=1.1%[–0.75%,2.9%]を用い,点推定値[95%信頼区間(CI)]を算出した.*80万×442名×0.011×1/2.**80万×442名×0.011×7/12.***80万×442名×0.011×2/3.****80万×442名×0.011×3/4.*****ROI: return on investment(費用に対する便益の比).

3-2. Takaoら (2006) 17)の結果

1) 研究の概要

Takaoら (2006) の研究は,301名の従業員を持つ国内のある日本酒醸造所において行われた17).上司は46名,一般職員は255名であった.上司46名を,教育研修を受ける群(n=24)と待機群(n=22)の2群に無作為に割り付け,一般職員のうち上司が教育研修を受けた群(n=154)を介入群と割り付け,上司が待機群であった部下(n=101)を対照群として割り付けて比較した.盲検化は実施していない.2002年10月に介入群・対照群ともに事前調査を実施した上で上司の教育研修を実施し,2003年1月に介入群・対照群ともに事後調査を実施した.

2) HPQ変化量の算出

一般職員(n=255)のうち42名はデータ不十分であり解析から除外されていた.データの得られた一般職員(n=213)のうち介入群126名については,介入前後のHPQはそれぞれ67.2 (SE 0.67)および66.7 (SE 0.74)であり変化量は–0.50であった.対照群87名については,介入前後のHPQはそれぞれ66.9 (SE 0.80)および66.4 (SE 0.89)であり変化量は–0.50であった.従ってΔHPQ=0であった.休業日数は報告されていないため,計算に算入しなかった.

3) 費用の算出

教育研修の上司の参加人数は24名であった.費用総額および介入群154名で除した1人当たり費用を表4に示した.介入群1人当たりの費用2,948円のうち,管理職の賃金が2,494円(85%),講師謝金は455円(15%)であった.

表4. 上司の教育研修のうちTakaoらの研究17)における費用算出の根拠
費目 算出根拠 費用総額 介入群1人当たり年間*
管理職賃金 4.0時間×4,000円×24名** 384,000円 2,494円
講師謝金 4.0時間7万円×1回 70,000円 455円
合計 454,000円 2,948円

* 費用の総額を介入群154名で除した.** 教育研修に参加した上司の人数は24名であった.

4) 便益の算出

ΔHPQ=0であったため,便益は得られなかった.介入群1人当たりの純便益は費用をそのまま反映し,–2,948円であった.

4. 方法別の費用便益分析の比較

職場環境改善14),個人向けストレスマネジメント教育15),上司の教育研修のうち,Tsutsumiら(2005)の結果16)の各々における,一人当たりの費用および便益の比較を図3に示す.Takaoら (2006) の研究17)ではどの感度分析でも便益が0円のため,図には示さなかった.感度分析①②③④はそれぞれ図1および図2の内容に対応している.

図3.

職場環境改善14)),個人向けストレスマネジメント教育15),および上司の教育研修のうちTsutsumi らの研究16) の費用便益分析における,一人当たり費用および便益の比較.感度分析①②③④はそれぞれ図1 および図2 の内容に対応している.上司の教育研修のうちTakao らの研究)17)では介入群1 人当たりの費用金額は2,948 円であり,便益は感度分析に関わらず0 円であった.

IV.考 察

本研究でとりあげた先行研究の事例では,3種類の職場のメンタルヘルスの第一次予防対策における従業員1人当たりの費用は約2,900–9,700円であり,介入手法別に一定の差が認められた.費用の大部分(52%–89%)は対策への参加時の従業員ないし管理職の時給であった.職場環境改善および個人向けストレスマネジメント教育では,点推定値において便益は費用を上回り,これらの職場のメンタルヘルスの第一次予防対策が事業者にとって経済的な利点がある可能性が示唆された.また,上司の教育研修では点推定値において便益と費用は概ね同一であり,費用便益分析の観点からは限定的な効果しか得られない可能性が示唆された.しかしながら,ΔHPQの95%信頼区間は,いずれの研究でも大きかった.

職場環境改善14)では介入群で休業日の増加がみられたものの,労働生産性の増加が大きく,総合すると大きな便益が認められた.職場環境改善のROIは約2–3であり,費用にくらべて2–3倍の便益を得られる結果となった.職場環境改善では職場内からファシリテーターを養成することや職場構成員の自発性に基づくアクションプランを実施するなど,職員が自立的に共同作業を行うよう促す特徴がある.この点において,日常業務にも影響が表れ,作業効率の改善や生産性の向上につながった可能性が考えられる.この研究14)で介入群に休業日数が増加した理由として,職場環境改善により職場でのコミュニケーションが円滑となり,従業員が病気休業の申し出をしやすくなったことが考えられる.このことにより,生産性の低いpresenteeismが回避され,休業することで体調の思わしくない従業員の休養や回復が促されて,結果的にHPQで評価された労働生産性が上がった可能性もある.職場環境改善では,労働生産性への効果が1年目まで漸増するという仮定(感度分析①)と,6ヶ月で最大に達しその後1年目まで持続するという仮定(感度分析②)の2つの感度分析を実施した.この研究14)では,従業員参加のワークショップによる職場環境改善のアクションプランの作成の後,プランはただちに実施されており,その効果は比較的早期から現れている可能性がある.従って,感度分析②の推定の方が適切と考えられる.さらに,職場環境改善の効果は,例えば6ヶ月後の時点では,1年後の効果測定時点よりもより大きく上昇していた可能性もある.このような場合には,職場環境改善の労働生産性への効果は感度分析②よりもさらに大きくなる可能性もある.

今回とりあげた個人向けストレスマネジメント教育の研究15)では,全てのセッションへの参加者に限ると労働生産性が有意に増加しており,このグループに着目した本費用便益分析ではROIが1.6–2.4と,いずれの感度分析でも費用が便益を上回っているという結果となった.この個人向けストレスマネジメント教育は6セッションからなるが,毎回内容が異なり,全てを受講することで一通りの方法を身につけ,これを労働生産性にも反映させる事ができたと考えられる.しかし,全ての回に出席する従業員はこのプログラムに途中から何らかの効果を感じている者が多いと想定される.従って,効果の高く出やすい対象者の結果のみを取り上げている可能性がある.この点について,本研究では費用は延べ参加人数について計上し,便益は完遂した従業員のみから得られると仮定して分析を実施した.このため,原論文15)に比べて純便益についてはバイアスの少ない,より厳しい推定になっていると考える.こうした厳しい仮定にもかかわらず,なお,正の純便益が得られている点は注目に値する.しかし,この論文15)のもう1つの問題点である,介入群と対照群の割り付けがランダムでない点については影響を調整できていない.個人向けストレスマネジメント教育では,6ヶ月後の事後評価時点から12ヶ月にかけて効果がどのように減衰するかにより,4つの感度分析を行った.個人向けのストレスマネジメント教育の効果の持続については,フォローアップセッションがなければその効果は比較的早期に低下することが報告されている22).従って,感度分析のうちでは,12ヶ月後には効果が6ヶ月後の時点と比べて,なしまで低下する(感度分析①),ないしは1/3まで低下する(感度分析②)がもっとも現実的なパターンと考える.

上司の教育研修16,17)では,実施費用の大部分(85%–89%)は上司の賃金であった.上司に介入することによって,部下の生産性の向上を図るという間接的な手法であるためか,他の手法よりも労働生産性の改善は小さかったないし,みられなかった.Tsutsumiらの研究16)については,効果評価が実施された6ヶ月目以降の効果の減衰の程度に応じて実施された4つの感度分析では,ROIは0.8–1.2と他の手法より低めであり,また,うち2つの感度分析では純便益はマイナスであった.先行研究によれば,上司教育が管理監督者の知識,行動に与える影響は教育後6ヶ月まではよく保たれている23).上司教育の感度分析としては,6ヶ月後の効果が12ヶ月後まで持続すると仮定する(感度分析④),または2/3まで減少すると仮定すること(感度分析③)が現実的であると考えられる.従って,上司の教育研修によるROIは1.1–1.2と,いくらか1を上回ると想定される.上司の教育研修からは労働生産性向上による大きな便益は望めないが,概ね費用と便益が同一という結果であり,上司の教育研修の少なくとも実施費用は回収できていることになる.Tsutsumiらの研究16)はそのデザインが準実験研究であり,そのために上司が多く教育に参加しやすい職場とそうでない職場の間に,教育による介入以外の要因によるバイアスがある可能性がある.上司の教育研修の費用便益は,本研究の分析よりもさらに低い可能性がある.Takaoらによる上司の教育研修の無作為化比較対照試験17)では,部下の労働生産性への効果の点推定値はゼロであり,上司の教育研修では労働生産性からの便益は得られないという結果であった.他の第一次予防対策の手法に比べて上司の教育研修は,労働生産性の増加には一般に結び付きにくいと考えられる.しかし,上司の教育研修は,職場のメンタルヘルス対策として基本に位置づけられるものであり4),上司によるサポートは部下のストレス反応に良好に作用するという報告もあることから24),職場のメンタルヘルス対策の実施において重要な役割を占める上司が適切な知識や態度を身につけるために必須のものである.上司の教育研修の実施にあたっては,費用便益分析の結果のみならず,金銭的便益を超えた上司の教育研修のメリットがあることを事業者は考慮するべきである.

本研究の費用便益分析においては,いくつかの仮定をおいて検討を行ったことから,いくつかの留意点がある.第一に,労働生産性は労働者のHPQあるいはその変法への回答で評価できるとし,これに基づき便益を産出した.先行研究においても同様の自己記入式の生産性の評価を便益に換算した例が見られる12) .また,HPQを客観的な生産性の指標と比較して妥当性があるとした研究もある19,20) .しかし,ΔHPQを労働生産性の変化分としてよいかどうかについてはなお検討が不十分である.また,Presenteeismを定量化するための質問法は他にも数多く開発され,今回とりあげた研究で用いられているHPQの他に,Health and Labor Questionnaire (HLQ), Health Related Productivity Questionnaire-Diary (HRPQ-D), Stanford Presenteeism Scale (SPS), Work Limitation Questionnaire (WLQ) などが知られている6) .これらの異同について,一部については比較研究も行われている25) が,網羅的に検証した知見は得られていない.これらの指標が,HPQよりも正確な労働生産性の測定法になりうる可能性もある.労働生産性をどのような方法で測定し,どのように数量化するかによって費用便益分析の結果は大きく異なってくる.労働生産性の指標とその標準化に関する研究がさらに必要である.第二に,事業者が得られる便益を,平均年間賞与額を基本にして算出した.年収でなく年間賞与額を基本とすることが妥当か否かについては議論があるかもしれない.人事労務担当者からの意見聴取においては,一般に従業員給与のうち一定割合は生活保障の意味あいが強いものであり,能力給分(賞与)に労働生産性が対応すると考えて妥当ではないかとの意見を得ている.しかし,従業員給与のうち何%を能力給と考えるかについては別の考え方もあり得る(例えば給与総額の30%など).さらに,労働生産性の増加による事業者の便益は,従業員の給与ではなく,増加した労働生産性によって企業の業績がどの程度増加したかであるという考え方もある.本研究での従業員賞与に基づく便益の算出方法は,ストレスなどによる労働コストの低下をどの程度予防できたかという視点に近い.一般に費用便益分析においては,便益の算出に困難が伴う事が多いとされており,今後さらに医療経済学的および労働経済学的観点から検討が必要と考える.第三に,本研究では費用の計算にあたっては範囲を広く,多めに目算し,また便益の算出に当たっては,いずれの方法も対照群に比べて介入群では異動・脱落者が多かったにも関わらず,異動・脱落者では労働生産性がまったく増加しない(ΔHPQ=0)など介入効果を限定的・保守的な推定となるように仮定を置いて計算した.また,通常の産業保健活動は年次単位で実施・評価を行うので,1年間を単位としての費用便益分析は適切だったと考えているが,例えば,職場環境改善などでは介入2年目以降も介入効果が持続する可能性があり,便益は今回の推定よりもさらに増加する可能性がある.従って,本研究における費用便益分析の結果は,実際に産業現場で適用する際の費用便益比の下限に近いと考えられる.第四に統計解析上の留意点である.ΔHPQの95%信頼区間は,いずれの研究でも大きかった.これらの研究事例において推定された費用便益が偶然変動よりも大きなものであるかどうかについては,本研究からは結論できない.今回の研究では,いずれの論文も調査個票は得られなかったため,論文中に示されたHPQ得点の点推定値および標準誤差(SE)を用いてΔHPQの95%信頼区間(95%CI)を推計した.この場合,介入前後の点推定値それぞれに対して分散の加法性および定数倍の特性を用いて分散を算出したため,調査個票を用いて個人毎の変化の分散から算出したΔHPQの95%CIよりも広い区間となる可能性が高い.感度分析として算出したΔHPQの95%CI がいずれも0を跨いでしまったが,この点の解釈については個票を用いた時には範囲が狭まり,統計的に有意となる可能性があり得ると考えられる.これらの対策により統計学的に有意な費用便益が得られるかどうかについては,今後の実際の介入研究において確かめられる必要がある.

以上の留意点に加え,本研究の限界として,職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の各手法に関する研究が1ないし2つずつしか検索できず,費用便益分析の結果が特定の研究の結果に大きく依拠している点がある.同一手法であっても職種,業種などによってその費用便益は異なる可能性がある.このため一般化可能性については限られている.また,対象とした研究の研究デザインは無作為化比較試験,比較対照試験,あるいは準実験研究とまちまちであり,研究の質(科学的根拠の水準)にはばらつきがある.異なる研究デザインによる研究を比較して,職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の各介入手法の費用便益分析を行っている点には留意が必要である.さらに,個人向けストレスマネジメント教育および上司の教育研修についての研究では,疾病休業データは利用できず,労働生産性はpresenteeismのみから計算されている.こうした問題は,費用便益分析に使用できるようなabsenteeismおよびpresenteeismの指標を含めた職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の介入研究が少ないことから生じている.今後実施される職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の介入研究において,absenteeismおよびpresenteeismへの効果を測定する事を推奨することで,職場のメンタルヘルスの第一次予防対策の費用便益分析をより適切に,より一般化できる形で実施できるようになると期待される.

Acknowledgment

謝辞:本研究は,平成23年度厚生労働科学研究労働安全衛生総合研究事業「労働者のメンタルヘルス不調の第一次予防の浸透手法に関する調査研究」(H21-労働-一般-001)の一環として実施された.

References
 
© 2013 日本産業衛生学会
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