2014 年 80 巻 1 号 p. 37-58
ドイツでは,第一次大戦の勃発による戦時経済への移行に伴い大量失業が発生し,各都市ではその対応策として順次,戦時失業扶助が導入された。ライヒ政府は当初,失業扶助に対して消極的であったものの,1915年より戦時福祉事業の一環として戦時失業扶助にはライヒの補助金が投入されることとなった。だが,運営は引き続き各都市に委ねられ,ライヒの関与は財政支援にとどまった。戦時失業扶助の主たる担い手は都市によって異なり,自治体と民間慈善団体に二分された。ハンブルクでは市政府による公的失業扶助を求める動きもあったが失敗に終わり,「ハンブルク戦時救済」とよばれる民間慈善団体が終戦まで一貫して失業扶助を運営した。同団体は,扶助の「個別化」を重視する民間慈善の伝統の下,多様な社会層のニーズに応じるため,地区単位の分権的な失業扶助を実践した。以上のハンブルクの事例より,本稿では,大戦期の「社会都市」は,19世紀末以来の扶助の組織形態を継承しつつ戦時の社会情勢に即した失業扶助を展開させ,それを通じてワイマール「社会国家」の基礎を築いたことを明らかにした。