サービソロジー
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特集:スマートシティ:まちの機能と文化の共創
コロナウイルス感染症COVID-19と監視社会
梶谷 懐
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2021 年 7 巻 1 号 p. 15-21

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1. はじめに

本年5月27日に,国家戦略特区法の改正案,いわゆる「スーパーシティ法案」が国会で成立した.新型コロナウイルス禍の拡大に伴う緊急事態宣言発令中の成立であり,報道などでは,遠隔医療の本格導入を始めスマート技術を用いた感染対策の進展に期待する声も多く聞かれた.

このスーパーシティ構想の背景としてAIやビッグデータを活用して社会のあり方を根本から変えるような都市設計を目指す動き,すなわちスマートシティの建設が世界各地で本格化していることが指摘されている.そのようなスマートシティの代表的な例として,内閣府の資料にも挙がっているのが中国浙江省杭州市の「シティ・ブレイン」である(内閣府地方創生推進事務局 2020).シティ・ブレインは,市街を走行中の自動車の情報をライブカメラを用いて収集,そのビッグデータをAIで分析してドライバーにフィードバックすることで都市の混雑を解消し,交通事故を減少させることを目的としている.

一方で,このようなスマートシティ構想の導入に当たっては,政府による個人情報の大規模な収集が不可欠になることから,プライバシーが十分に保護されない「監視社会」化を招くのではないかという批判も生じている.特に,上記の杭州市のような中国のスマートシティには強権的な国家による「監視社会」に対する懸念がどうしてもつきまとうことになる.

スマートシティ構想の背景にある「個人情報の収集と解析を通じた便利さの追求」と,個人のプライバシー保護との相克は,各国の新型コロナウイルスへの対応にも影を落としている.

コロナ禍が全世界に広がる中,アジア諸国と欧米との対応の差が大きくなった.その象徴が,発生源である武漢を皮切りに都市を封鎖し,人々の移動の自由を奪った上で,スマートフォンのアプリで個人情報を記録し感染対策を行う中国と,いくつかの都市を封鎖しながらも,感染対策を基本的に個人の判断に任せ,結果として世界最悪の感染拡大を招き,10万人を超える死者を出した米国という二大大国の対比だろう.

このような対応の違いを指して,「民主主義と権威主義の対決」が表面化したという見方もある.しかし,それは正しくないだろう.激しい民主化運動を経験し,独裁政権の恐ろしさを身に染みて知っているはずの韓国や台湾でも,コロナ対策では,市民が政府の権威に従い個人情報を自ら提供することに同意しているからだ.対応の違いは,欧米社会とアジア諸国の間でむしろ顕著であった.では,そこに存在する対立軸をどう読み解けばよいだろうか.以下では,コロナ禍によって顕在化した,個人情報を利用した感染対策の徹底化とプライバシー保護との相克という問題を,功利主義と監視社会という切り口から考えてみたい.

1.1 功利主義が招く「監視と隔離」

世界のコロナ禍への対応を見ていると,人々や社会がますます功利主義的な考え方への傾倒を強めつつあるようだ.

功利主義の主な構成要素は,一般的に「幸福(厚生)主義」「帰結主義」「総和主義」の三つだとされる.

幸福主義は,倫理的判断の基準として,人びとの幸福や満足度が増えたかどうかを第一に考えるというもので,帰結主義は,結果として幸福が増大したかどうかを重視し,そのための手段は問わないというもの.総和主義は,いわゆる「最大多数の最大幸福」を重視するという考え方で,人びとの幸福は全体として足し合わせることができ,その足し合わせた幸福を最大にすることが社会として望ましい状態だという考え方だ.

COVID-19の感染拡大に関して,人びとの自由や権利を国家が制限することは,感染拡大を防いで死者を最小にするためには正当化されるという考え方がある.これは, 死者の数を減らす,すなわち不幸の最小(幸福主義)という結果の追求(帰結主義)が,社会全体にとって望ましい(総和主義)と考える点で,典型的な功利主義的思考だといえる.ただ,これは「いくら目的は正しくてもそのために人権を無視してはいけない」という,手段の正当性そのものを重視する義務論的な考え方とは鋭く対立する.その意味では,もともと人権意識が希薄で,しかも多くの人口を抱える中国社会には非常に受け入れられやすい考え方である.

また,感染防止のための緊急事態宣言によって日本では,感染防止か,経済か,という二項対立が語られることが多い.特に前者の感染防止を優先させ,「命を救う」べきであるという議論に対し,「失業」や「貧困」など,経済的な要因によっても人命は失われるのだから,経済活動も重視しなければならない,ということが言われたりする.しかし,これらはいずれも「帰結としての幸福」を重視しているという点で,功利主義的な考え方に基づいた主張である.したがってこれらの主張は,適切な政策的介入が行われた場合,両立させること,すなわち,感染を抑え込みながら経済活動の経済を図ることは十分に可能である.現に,現在の中国あるいは台湾,さらにベトナムなどの「ウイルスの封じ込め」に成功したと言われている東アジアの国々では,概ねこの二つを両立させている.ただし,これらの社会は,例外なく

(1)徹底した検疫を行う

(2)個人情報を政府が把握し追跡する

(3)少しでも感染の疑いがある人物を厳格に隔離する

すなわち,「国家による個人の監視と隔離」をベースにした公衆衛生政策を徹底して行っているのが特徴だ.

筆者は,高口康太との共著(梶谷,高口 2019)の中で,ビッグデータを用いて市民に利便性と経済的利益を与える一方でその情報を使って社会の安定や治安の向上を図ろうとする中国の統治体制を,儒教的なパターナリズムと功利主義とが結びついた「幸福な監視国家」であると評価した.その状況は中国政府・社会のコロナ対策の取り組みにおいて一層明確になっただけではなく,ウイルスの封じ込めに苦戦する欧米の先進諸国との対比において,むしろ「監視と隔離」を徹底する中国式の公衆衛生政策のほうが普遍的かつ先進的かもしれない,というそれまでの価値観を揺るがすような事態さえ招いている.言い換えれば,地球レベルで現在問われているのは「民主主義か権威主義か」という政治体制上の対立ではなく,むしろ「個人のプライバシーか全体の利益(感染防止)か」という価値観の対立なのかもしれない.

その対立において個人のプライバシーをそれほど考慮しない,中国的な監視社会のほうが「攻勢」に立っているように見えるのは,そのほうが「最善の結果をもたらす」功利主義の原則により忠実だからに他ならない.いまのところ,個人のプライバシーや行動の自由を重視しているかにみえる米国は,感染や支社を抑えるという,功利主義的な観点からはどう考えても望ましい結果をもたらしているとはいいがたいからだ.

では,コロナ後の社会において,功利主義的な価値観を採用する限り,現在中国で進んでいるような監視社会化は避けられない現象なのだろうか.そもそも,なぜ功利主義と「監視社会」とは結び付きやすいのだろうか.

1.2 統治功利主義と監視社会

そもそも,功利主義はこれまで哲学的な議論が重ねられてきた思想であり,これまでに様々な批判にさらされ,それに対応する形で様々なバージョンの「功利主義」が唱えられてきた.その中でも重要なのが「行為功利主義」と「規則功利主義」の区分である.

デ・ラザリ=ラデク,シンガーによる功利主義の入門書によると,行為功利主義とは,個々の行為をその帰結によって判断することを要求する.それに対して,規則功利主義は,行為の正当化は社会のルールと個々の行為という,二段階のプロセスを通じて行われることを強調する(デ・ラザリ=ラデク,シンガー 2018).すなわち,社会におけるある行為は,正当化された社会のルールに合致するかどうかによって正当なものかどうかを判断される.そして,社会のルールは,その規則を圧倒的多数の人が受け入れることが最善の結果をもたらすと示すことによって正当化される,というわけだ.

規則功利主義は,功利主義に対する,「そもそも人が何らかの行為を行う際に,その結果の望ましさを冷静かつ正確に判断を下すという仮定は現実的ではない」という批判に反論する過程で生まれてきたもので,こちらの方がより現実的な考え方のようにみえる.ただ,一方で規則功利主義は,ある特定の状況(例えば,多くの犠牲者をもたらす爆弾が仕掛けられたとき)において,最善の帰結をもたらすであろう個人の行為(例えば,警官が,爆弾のありかを知っている人間に拷問を加える)を規則によって禁じてしまう,という根本的な矛盾を抱えてもいる.

このような矛盾を乗り越える一つの方法が「間接功利主義」の採用である.直接功利主義が,功利主義の原則を,個人がそれぞれの行為を決定する際の手続きとして採用すべき,という考えであるのに対し,間接功利主義とは,あくまで行為の評価基準として功利主義を採用すればよい,という立場である.そもそも,すでに述べたように個々の人間の能力ではどのような行為が「最善の結果」をもたらすのかを判断することは困難であるので,直接功利主義を採用するのは現実的ではない.それに対し,間接功利主義では,個々の人間が行動の際に「その結果が最善かどうか」をいちいち意識している必要はない,さらに言うなら,行為の評価者と行為の遂行者が分離していてもよい,という考えを取る.特に,行為功利主義の立場をとりつつ,行為の評価者と遂行者を分け,社会の統治者(具体的には統治行為に従事する公務員)のみが功利主義に基づいた様々な行為の評価者となることがより望ましい社会の条件となる,とするのが,統治功利主義の立場である.

安藤馨によれば,統治功利主義は,法体系などの規則体系とサンクションを通じて被治者の動機を制御することが,より功利主義的に望ましい(最善に近い)結果が得られることを主張する(安藤 2007,55頁).すなわち,社会における制度や規則の設計が適切になされていれば,被治者はそれが「本当に望ましいものか?」をいちいち判断する必要はなく,それらの規則に従うよう「動機付けられる」ことによってより多くの幸福を得ることができる.そのような統治のあり方が社会にとって最も望ましいはずだ,というわけである.

この場合の「規則」は法などの明文化されたルールに限らず,いわゆる「ナッジ」のような,それこそ「緩やかな動機付け」によって人々の行動を制御する場合も含まれる.特に行政府によってある政策を実行する際に「ナッジ」が用いられる場合は,それに「従う」人々が政策の「意味」や「理由」を理解することを求められていない.むしろ,「なぜそうなのか」という背景を理解しないままに「動機付けられ,それに従う」ことこそが求められていると言ってもよい.

これは,監視カメラなどいわゆる監視テクノロジーの偏在化によって社会の治安が改善される,という現象に関しても同じことができるだろう.個々の市民は,監視社会化についてそれが望ましいかどうか判断しなくても,あるいはそれに反対していてもよい.ただ,実際に監視テクノロジーの利用によって,犯罪が劇的に減少するなどの「望ましい結果」が得られるのであれば,政府によるその導入は統治功利主義的に支持される.要するに,情報技術の発達とともに監視社会化が進むのは,中国のような権威主義国家に限った現象ではなく,政府が功利主義的な原則を採用し,市民がそれを受け入れているなら,避けられない現象なのだ.

1.3 統治功利主義に基づく中国のコロナ対策

ここでは,これ以上思想としての功利主義についての考察は行わない.ただ,ここでは,前著『幸福な監視国家・中国』でも指摘したように,上記のような統治功利主義に基づく統治のあり方が,伝統的な中国の倫理観,そして現在の共産党による統治のあり方と極めて相性が良いことを,強調しておきたい.

中国社会が,統治功利主義となじみが深い理由としては,まず前著で指摘したように「庶民とエリート」の分裂が明確であり,後者がパターナリズムに基づいて前者を「善導する」タイプの統治が行われやすい,という点が挙げられる.ここではもう一つの背景として,ルールが事前の行動指針として働きがたく,むしろ行為を事後承認する形でルールが形成されがちである,という中国社会の特質を上げておきたい.このような「事後的なルール形成」は,特に新しい技術を「社会実装」するという文脈において顕著である.例えば,高須正和と高口康太らは,イノベーション都市として有名になった広東省深圳市がこのような「とりあえず手を動かしてやってみる,ルール作りはそれから」という性質を色濃く持っているとして,「プロトタイプシティ」という名で呼んでいる(高須,高口 2020).

このように,事後的なルール形成がスタンダードになっている社会では,そもそも「規則」の運用が政府のパターナリスティックな介入により影響されやすく,統治功利主義に親和的な政策が実行されやすい,といえるだろう.

特にCOVID-19への感染対策では,政府による人々の生活へのパターナリスティックな介入が全面的に展開された,といってよい(ここでは,言論の統制などの誤った政策による初動の遅れが感染を拡大させたことへの評価はあえて置いておく).専門家の助言により,それが最善であるということが明確になった場合,なりふり構わずそれを実行する,という為政者の態度が明確であった.具体的には武漢市の封鎖,隔離病院の急ピッチの建設,全国からの医療スタッフの動員,マスク生産の強化,そして,接触情報を含むスマホにより集められる個人情報を利用した徹底的な検疫隔離の実施である(浦上 2020).

これらの対策は,たとえ中国社会であっても従来ならば抵抗が大きすぎて実施できない.しかし,感染の防止には最善であることは明らかである.そもそも,ジェレミー・ベンタムの弟子として功利主義的な思考に基づき,19世紀の英国において公衆衛生行政に辣案をふるったエドウィン・チャドウィックの例が端的に示すように,「感染防止」という「全体の幸福」の実現を目指すために個人の活動の制限を要請する公衆衛生は,権威主義的でパターナリスティックな政策介入と結びつきやすい性質を持つ(児玉 2012).

専門家を含む統治者による「最善の結果」に対する評価を優先させた決定が行われ,被治者の側がそれに納得して従う,というのが統治功利主義のあるべきモデルであるなら,中国をはじめ東アジアの国々が採用してきた「監視と隔離」をベースにした公衆衛生政策は,明らかにそのモデルに従った感染対策を行ってきた,と言えそうだ.

功利主義に従った意思決定は「監視技術」を駆使した感染者の特定化・隔離にも効果を発揮している.今回のコロナ禍で,中国ではこれまでの技術の延長線上に開発された「健康コード」が使われた.これはアリペイやウィーチャット・ペイなど大手IT企業が提供する決済アプリとスマホの位置情報データ,公共交通機関の移動記録,そして病院での診察情報を組み合わせることで,一人ひとりの感染リスクを色で示すものだ.感染した可能性がある場合,その程度によって健康コードが黄色や赤になり,レストランなど多くの施設の利用ができなくなる.こういった徹底した個人情報の管理による防疫体制が進んでいる.

もちろん,今回コロナ禍を契機として,感染者との接触者を特定するテクノロジーは日本を含む西側先進諸国に広く導入されている.一時期は中国でジョージ・オーウェル(2009)の『一九八四年』式の監視社会が進行していることを痛烈に批判していた国々も,「コロナを防ぐため」「個人情報に十分配慮する形で」という留保をつけながらも,全世界が中国で先行したような,スマホから得られる情報を利用した監視技術を採用し,社会の安定化を図ろうとしているのが現状である.

1.4 「人権」は監視社会化の歯止めになるか

中国に対して,これまで西側先進諸国は「人権」や「法の支配」を考慮せよと批判してきた.しかし,コロナを経験した世界において,その主張は説得力を失いつつある.

ギャラップ・インターナショナルが3月に世界30カ国・地域の人々を対象に実施した国際世論調査(NRC, 2020)によると,「ウイルスの拡散防止に役立つならば,自分の人権をある程度犠牲にしてもかまわない」という考えにイタリアでは93%,フランスでは84%,全体では75%の回答者が賛意を示している.一方,日本は32%で,30カ国中最下位だった.筆者の見るところ,これは必ずしも「日本人は人権意識が高い」ことを示す結果ではなく,むしろ「人権」というものの捉え方が日本と,欧米社会とでは違うことを示している.

欧米で「人権をある程度犠牲にする」という時に人々が想像するのはまず「行動の自由の制限」で,「感染を防ぐために選択の幅が狭まるのは仕方がない」という意味で捉えている.それに対して,日本では「人権が制限される」と言うと,いきなり中国のような言論が厳しく制限された社会をイメージし,「それは嫌だ」といわば脊髄反射的に回答しているのではないか.

実際に今回,日本では,政府からの自粛要請が出た後,多くの店舗が閉店することで選択の幅が狭まり,県をまたぐ移動など行動の自由が大きく制限されたが,この状況を「自分たちの人権が奪われている」と捉えた人はほとんどいなかった.

「命を守る」という人間にとって究極の「結果」が問われる状況では,それを前提とした「人権・民主主義を守れ」といった主張はどうしても分が悪くなる.中国を批判してきた西側諸国の市民が監視社会の強化を「民主的に」望むようになるまでは,あと一歩の距離である.

実際に今,中国で仕事をしている日本人も含めて一様に指摘するのは,中国では政府が徹底したコロナ対策を行っているので,(日本より)ずっと安心だ,ということだ.特に感染が抑え込めているが,もしかしたら感染の第二波がくるかもしれないという時に,すべての人が「健康コード」を利用していれば,感染リスクがある人はレストランには入れないし,電車にも乗れない一方で,感染リスクがない人は普通に経済活動ができるので,経済活動にとってもプラスだと考える人が多い.

これに対して,「個人情報を無制限に政府に渡すのは危険だ」と批判するとして,ではどこまでなら渡してよいのか.情報を開示しないことで感染リスクが上がることをどう捉えればいいのか.いずれも,容易には答えが出せない問題である.結果として,「中国社会のほうが西側諸国よりもむしろ安全であり,安心感を与えている」と感じる人が増えてもおかしくないだろう.そういう意味で,コロナ禍が普遍的人権に代表される近代的な価値観を揺るがしていることは間違いない.

2. オルタナティブとしてのプラグマティズム

2.1 プラグマティズムと監視社会

かといって,中国型の監視社会への動きを肯定することについては抵抗感を抱く人の方が多いだろう.筆者もその一人である.だとするなら,監視社会,ひいてはその背景にある功利主義的な考え方に対抗するなんらかなポジティブな価値観を打ち出して行く必要がある.

一つのヒントを提供してくれそうなのが,アメリカ社会の民主主義の背景となってきたプラグマティズムだ.もっとも,思想的には,プラグマティズムも功利主義と同じく帰結主義の立場に立つとされる(大賀 2015).一方で,結果として「社会全体の幸福(厚生)の最大化」という明確な目標を設定し,その実現を目指す功利主義に対し,プラグマティズムはそのような明確に定義できる目標を設定しない.むしろ社会にとってなにが目指すべき目標なのか,その明確な答えはない,というところから出発するのがプラグマティズムの発想だといえよう.明確な目的や目標を設定しないのだとしたら,プラグマティズムは何を指針に,社会を動かしていこうとするのか.「経験」に学び,そこからのフィードバックを得ることを一つの指針にして,というのがその一つの答えだろう.

西洋政治思想史を専門とする宇野重規は,著書『民主主義のつくり方』で,アメリカのプラグマティズムの根っこに,過去の体験や経験を重視して,そこからポジティブなものを創り出していこうとする姿勢があることを指摘している(宇野 2013).

人々が社会の中で自由に行動するとお互いにぶつかったり,あるいは手痛い目にあったりしながら様々な「経験」をする.アルゴリズムにより「最適な行動」が決められ,人々がそれに従うようになった監視社会では,そういった試行錯誤の末の「経験」を積むことが困難になる.それは,より長期的な視野に立った時に,社会にある種の「弱さ」をもたらすのではないだろうか.

例えば,個人情報を国家に譲り渡し,どこで誰と会ったかをすべて記録されることで,感染の不安から解放される.この「取引」を通じて私たちは,これまで大切にしてきた経験の重みをどれだけ失ってしまうのか.世界中で監視社会化が進みそうな今,私たちにとってのかけがえのない「経験」を見つめ直し,それを守り抜いていくことが必要なのではないか.過去を顧みながらそれを考え抜く姿勢こそ,私たちがコロナ後の社会において,民主主義や言論の自由を維持していく上で必要とされるものだろう.

コロナ禍を経験した世界において,最も大きな混乱が生じている国の一つが米国であることは疑いないだろう.トランプ政権の感染対策はあまりにお粗末であり,人種差別に代表される社会矛盾の根深さもその混乱に拍車をかけている.しかし,その混乱の背景には,多様性と個人の行動の自由を尊重するという米国社会が守り抜いてきた「経験」を,何よりも重視する市民たちの姿勢がある.そうである以上,私たちはその混乱を単に否定して済ますことはできない.むしろ,そのような過去の「かけがえのない経験」を守り抜くことと,現在・将来の犠牲者数をできるだけ抑えることをいかに両立させるかを,真剣に問わなければならない.

ただそこで,監視社会化に対して,守るべき価値として抽象的な「人権」を前面に出すやり方は,おそらく有効ではないだろう.先ほどのアンケートからも分かるように,日本に住む私たちにはそもそも「人権」という概念に対しリアリティを抱くこと自体が困難だからだ.むしろ,具体的な「自分たちの社会の土台となるような経験」こそが,監視社会化の波に抵抗する,一つの防波堤の役割を果たすのではないだろうか.

2.2 コロナウイルスと日本社会

一方,日本では政府が個人情報を収集し,紐付けることへの抵抗感が非常に大きい.こうした日本の状況について,国家権力による自由の制限に一定の歯止めをかける役割を果たしている反面,感染対策のような非日常的な局面で系統立ったシステマティックな対策を取りにくいと言える.

今回,日本と対照的だったのが台湾である.台湾では,マスクを配布するときに日本の「マイナンバー」のような個人のソーシャルアカウントと紐づけ,誰がまだもらっていないのか一目瞭然にわかるようにして,全国民に迅速にいきわたるようにした.もちろんマスクの生産体制が素早く整えられたこともあるが,政府が個人情報を直接把握しているからこそ有効な対策を打てた.

それに対して日本ではそもそも政府が個人情報を直接管理する体制になっていない.日本政府によるコロナ対策で,評判の悪かった布マスク(アベノマスク)の配布も,「一律10万円」の配布にしても,すべて世帯を対象としたものになっている.さらに自治体ごとのシステムも統合されていないので,対応にも差が出ている.これは,日本の行政システムが住民票に代表される世帯を単位とした情報を,地方自治体が分散するかたちで管理しているために,個人を対象とした政策を行うときに,「国→地方自治体→世帯→個人」というさまざまな中間団体を経由しなければいきわたらないようになっているからだ.

羅芝賢によれば,「イエ」を規定として人を把握する戸籍制度は,明治日本が近代化を目指すにあたって,家父長(戸主)に徴兵免除や参政権といった権利を与え,その代わりに戸籍編成や徴税・懲役の末端での運用の役割を担わせる上で大きな役割を果たした(羅 2019).第二次世界大戦後,戸籍制度は「イエ」からより小さな「世帯」を単位とする制度へと衣替えしたが,制度の継続は国家が「個人」を直接把握することの障害となり続けた.マイナンバー制度の導入によってもこの状況は全く変わっていないことが明らかになった.皮肉なことに,このことは個人情報を国家が直接管理することが必要な監視社会化にとっては,結果として大きな障害になっている.

これに対し日本以外の東アジア諸国は植民地を経験し,後発的に近代化を遂げたことで,政府が個人情報を直接把握する制度が作りやすかった.内戦や戒厳令下の緊張状態が長く続く過程で,強権的な政府が住民を管理する制度が作られた国も多い.例えば韓国では,軍事クーデターによって成立した朴政権当時の1968年に行われた「住民登録法」改正によって,国民番号(住民登録番号)と身分証明書(住民登録証)の組み合わせによる住民管理が制度化された.羅によれば,このような住民管理のシステムは「国民」の再定義と不可欠であった.すなわち,反共イデオロギーの形成と共に「匪民」と「良民」という国民の再定義が行われた.国民番号制度に対して人権侵害を懸念する批判的な世論は,反共主義と治安維持の重要性を否定することはできず,制度の導入を阻止することはできなかったという(羅 2019).

また台湾においても,冷戦を背景にした戒厳令下において,蒋介石の国民党政権の強権的な支配体制が整備されていく中で,各個人に生涯不変の統一番号が割り振られるようになった.そして政府は,この番号を徴兵と徴税の目的で利用するようになったのである.このような過程を経て国民番号制度を確立した台湾では,その後の情報技術の発展とともに,行政そして機関の情報連携が一気に進められた.日本でもすっかり有名になった天才プログラマーの唐鳳(オードリー・タン)IT大臣の活躍は,このような国民番号制度を背景にした各行政機関における個人情報の集権的な把握が整備されていたからこそ可能になったのである.

このような経緯を得て「国家が個人情報管理する」仕組みが整えられた韓国や台湾では,コロナ禍を機に日本とはちょうど逆のプラス面とマイナス面が顕在化している,といえるだろう.

2.3 私たちにとっての「経験」とは

日本で監視社会化が進まない背景には古い共同体的なものが残っていたり,個人情報を管理するシステムの導入が遅れていたりすることもあるが,より根本的に,国家に情報を渡すのが怖い,という感覚が共有されている点が大きい.その源泉は何かと言うと,やはり戦争・戦後の経験である.

日本で「結果」を最優先する功利主義を批判し,「経験」や「過程」のかけがえのなさを追求した思想家の一人として,戦後民主主義を代表する知識人である藤田省三の名を挙げておきたい.宇野重規によると,藤田の思想には,戦後の焼け跡から立ち上がった普通の人々が,混乱の中から新しい社会を作り出そうとした「経験」へのコミットメント(深い関与)が色濃く見られる.藤田は昭和期の戦争および戦後の経験を通じて,社会の激動に揉まれる中で希望を失わず,新しいものを作り上げる人々の姿にその思想の原点を置いた,そこにはアメリカのプラグマティズムと非常に近い発想がある,というわけだ,

よく知られるように晩年の藤田は,「安楽」を求める一方で「不快」の源を除去し,見ないように努める高度消費社会のありかたを,「安楽」への全体主義として痛烈に批判する言論活動を行った(藤田 2014).このような藤田の思想には,「安心」と引き換えに「監視」を受け入れがちな私たちが,コロナ後の世界でいかに自由な精神を失わずに生きていくかを考える上で,重要なヒントが含まれているのではないだろうか.

翻って,いまの日本人に戦争体験以外によりどころとなる「経験」があるのだろうか.実際,リベラル派,あるいは護憲派の知識人はいつまでも過去の戦争の話を持ち出して政府批判をしている,として,それに鼻白むような感覚を抱く人たちが増えてきている.このように,もはや私たちは戦後体験に頼ることができないとすれば,監視社会化に対抗するために守るべき価値観や「経験」について,どのように考えていけばいいのだろうか.

コロナ禍への対応にあたっては,特に台湾や韓国をはじめとした近隣アジア諸国において,人々の過去の「経験」が大きな役割を果たしたことを改めて強調しておきたい.たとえば,台湾では2003年のSARSの,韓国では2015年のMARSの際の苦い経験が今回の対策に大きな役割を果たしたと言われている.

また台湾,韓国ともに,軍事独裁政権下における粘り強い民主化運動の結果民主主義を勝ち取ったという共通の「経験」があり,その経験が,政府が個人情報と監視技術を用いた感染対策を進める中で,市民の側がその濫用を許さない,一種の防波堤の役割を果たしている.日本に住む私たちがコロナ禍に立ち向かう上でも,自らの社会における過去の経験を振り返るとともに,自らも当事者として大きな影響を与えてきた近隣アジア諸国の人々の「経験」に改めて向き合うことが必要とされている.

著者紹介

  • 梶谷 懐

1970年生まれ.2001年,神戸大学大学院経済学研究科より博士号取得.神戸学院大学経済学部講師,助教授,神戸大学大学院経済学研究科准教授などを経て,現在,神戸大学大学院経済学研究科教授.専門は現代中国の財政・金融.著書に『現代中国の財政金融システム』(名古屋大学出版会,2011年,大平正芳記念賞受賞),『日本と中国,「脱近代」の誘惑:アジア的なものを再考する』(太田出版,2015年),『日本と中国経済』(ちくま新書,2016年),『中国経済講義』(中公新書,2018年)『幸福な監視国家・中国』(高口康太との共著,NHK出版新書,2019年)などがある.

参考文献
  •   NRC (2020). コロナウイルスに関する世論調査 ―30カ国グローバル調査. NRCレポート, 2020年04月09日,https://www.nrc.co.jp/report/200409.html,last accessed on July. 31, 2020.
  •   安藤馨(2007).統治と功利―功利主義リベラリズムの擁護.勁草書房.
  •   宇野重規(2013).民主主義のつくり方.筑摩選書.
  •   浦上早苗(2020).新型コロナVS中国14億人.小学館新書.
  •   大賀祐樹(2015).希望の思想 プラグマティズム.筑摩選書.
  •   オーウェル, ジョージ(2009).一九八四年. 高橋和久(訳),ハヤカワepi文庫.
  •   梶谷懐,高口康太(2019).幸福な監視国家・中国.NHK出版新書.
  •   カタジナ・デ・ラザリ=ラデク,ピータ・シンガー(2018).功利主義とは何か.森村進,森村たまき(訳),岩波書店.
  •   児玉聡(2012).功利主義入門―初めての倫理学.ちくま新書.
  •   高須正和,高口康太(2020).プロトタイプシティ―深圳と世界的イノベーション.KADOKAWA.
  •   内閣府地方創生推進事務局(2020).「スーパーシティ」構想について. http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/supercity/supercity.pdf, last accessed on Ausust.29, 2020.
  •   羅芝賢(2019).番号を創る権力:日本における番号制度の成立と展開.東京大学出版.
  •   藤田省三(2014).全体主義の時代経験 新装版.みすず書房.
 
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