史学雑誌
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春秋中~後期の申の復国問題について
海老根 量介
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2016 年 125 巻 1 号 p. 1-38

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抄録

申は、西周期~春秋前期に河南省南陽付近にあった姜姓の諸侯国である。この申は春秋前期に楚に滅ぼされ、以後は楚の北方の大県として、楚の中原進出に大きな軍事的貢献をしたことがよく知られている。ところが『左傳』昭公十三年条や曾侯乙編鐘銘文、上博楚簡『靈王遂申』によれば、申国は楚に滅ぼされた後も存在していた。ただし申国はずっと存続していたのではなく、申県を構成する旧国人層の大部分によって、共王期後半~康王・郟敖期に復国されたと考えられる。
春秋後期の申の所在地については、信陽に結びつける説が近年勢いを得ている。しかし、それを支持する確かな文献・考古資料は存在せず、成り立ち難い。一方、上博楚簡『靈王遂申』・『平王與王子木』や彭氏家族墓といった新出史料によれば、申は南陽において復国され、申県と併置されていた可能性が高い。
申の復国は、春秋中期に中原と呉の二方面に対処しなければならなくなった楚が、軍事負担の増加した諸侯を懐柔し、楚王を中心とする国際秩序を保つために行った政策であった。申の旧国人層は復国によって心理的安定を得られるとともに、他の諸侯にも楚が小国を存続させる方針であることを知らしめる効果があった。
楚にとって諸侯軍は対外戦略のために必要な存在であったが、同時に潜在的な脅威でもあった。そのため楚は諸侯を懐柔するだけでなく、遷邑などの手段で諸侯を構成する国人層への介入を進め、その解体を徐々に図っていた。申国と申県の併置は、申県において国人層に頼らず民を直接支配する体制の確立を目指すとともに、申を分断して国人層を弱めるためでもあった。楚は春秋後期には諸侯を次々と滅ぼして直接支配下に置いていくが、それは民を兵役につけることが始められ、国人層の解体が進み諸侯軍の重要性が失われつつあったことが背景にある。すなわち申の復国は、春秋から戦国への過渡期という時代的特徴を極めてよく反映した施策であった。

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