史学雑誌
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隋唐洛陽城の穀倉
子羅倉、洛口倉、回洛倉及び含嘉倉をめぐって
宇都宮 美生
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2018 年 127 巻 3 号 p. 40-65

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抄録

穀倉に関する研究は、穀物の貯蔵が国家財政の基礎になるとの認識から国家体制の有り様をみる一つの手段として展開されており、隋唐の穀倉について、発掘成果のある洛陽含嘉倉が独り議論の対象とされてきた。しかし、含嘉倉は唐代の倉であり、隋代の子羅倉、洛口倉、回洛倉の存在は見落とされている。よって本稿では、隋唐令や発掘資料を用い、洛陽四倉の特徴と変遷、設置場所ならびに各倉の相互関係と役割を明らかにする。そして、隋三倉から唐含嘉倉一倉への移行にみる穀倉の存在と位置づけを導き出し、もって隋唐期の国家体制にみる地下式穀倉の意義を再検討していく。
まず、隋唐期の穀倉に関連する史料の再検討を行い、窖の実測値を用いた蓄積量の分析や、施設の規模・構造ならびに立地関係を探究した。次に、その考察から得た知見と唐令とを照合し、隋唐両代の運営状況を検証した。第三に、多方面から隋三倉と含嘉倉とを比較して、両時代の行政の変化の過程を考察した。
上記考察の結果、子羅倉は宮廷内飲食用の穀物倉、洛口倉は洛陽・長安への転般倉および北方への軍倉、回洛倉は洛陽城の太倉として、それぞれが役割を分担し隋後半の洛陽城を支えたことが理解された。これに対して、唐代高宗期からは含嘉倉が登場し、やがて一倉がこの三倉の役割を集中した。隋三倉に比べ規模の縮小した含嘉倉が、一倉のみで累年の集積量増加に対応できたのは、令の規定を踏まえた業務の改善により、作業の効率化に成功したからである。つまり、隋三倉から含嘉倉一倉への移行は単なる構造や設置場所の変化だけでなく、隋唐期の行政実務の変化をあらわしている。地下式穀倉の運営が唐代で成熟した段階に達したことが認められる。

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