史学雑誌
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三新法体制における府県「公権」の形成
府県庁舎建築修繕費の地方税移行を手がかりに
袁 甲幸
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2018 年 127 巻 7 号 p. 1-35

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抄録

本稿は、府県庁舎営繕費の地方税移行過程を検討することによって、地方制度の変化がもたらした府県権力の性格変容を考察するものである。 府県庁舎営繕費の地方税負担を規定した明治十三年太政官第四十八号布告が出されるまで、府県庁舎は中央省庁と同質のものとされており、その営繕には国家の権威付けが意識されていた。そのため、庁舎は住民と距離の遠いものであり、新庁舎の落成に伴う行事にも、「官」「民」二元対立的な府県内の権力構造が反映されていた。
第四十八号の布告から施行までの移行期において、地方官の駆け込み上申に対し、中央政府は建前上、庁舎営繕を府県内一般の公同事務とみなし、目下の国庫支弁はあくまで地方税不足分に対する補助であるとしていた。ただし、茨城・群馬県の事例で示されているように、府県内の一部地域の「民意」から出た営繕要望が、府県会において「公論」としてまとまらなかった際にも、補助が認められた。そこにおける「民意」は、後づけられたものさえあったが、「民意」を調達するために地方官は、庁舎営繕と府県住民の福祉とリンクしはじめ、庁舎の情報を積極的に発信し、さらに「官」「民」二元対立的な権力構造を多少払拭しうる「牧民」像を語りだした。
やがて庁舎営繕費が地方税負担となり、府県会や世論においては、庁舎は国家権威ではなく「我々の府県」のシンボルとして認識されるようになった。一方、府県行政は府県会を通じて営繕費の予算を確保する以外も、住民に向けて庁舎をアピールし、「牧民」像に代わる「官民調和」論を唱え、より広範囲な「公論」を求めていた。
このように、税源の移行により、庁舎営繕事務が国家事務から府県内一般の公同事務へと変化したことにより、その施行には、広範な「公論」に依頼する必要性を増した。そのことで同事務を運営する権力の性格は、従来の国権から「公権」へと移りつつあったのだと理解できるのである。

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