本稿は, ビッグデータに対する推進論や警戒論に対して, その議論の基盤となるような理論的観点を提案する。私はビッグデータを, 世界についての情報を表現した「表象」とみなし, ビッグデータ・テクノロジーを世界についての表象を取り扱う技術であると考える。表象は解釈によって意味が確定する記号や表現であり, 従ってビッグデータを扱うテクノロジーの評価とコントロールについては, こういった解釈をめぐる人文・社会学的なアプローチが必須である。
表象について, 認知科学や心の哲学では局所表象と分散表象という区別がある。分散表象とは, 意味的な単位が分解されて, システム全体の中に分散的に存在している表象のことであり, その処理過程を意識化することは不可能である。ビッグデータがこうした分散表象として処理される場合, データの利用者にとっても処理の過程を意識化することはできない。従って, 専門職としてのデータ・サイエンティストであっても、このテクノロジーについての透明性や説明責任を保証することは難しいだろう。そこで, 分散表象的なビッグデータの社会的コントロールについては, 専門職や政府, データ利用者だけでなく, データ対象となっている市民の参加を保証した、参加ガバナンスの構築が必要であると思われる。