「自己決定権」の概念は、人工妊娠中絶へのアクセスを求めるフェミニズムの主張の論拠として1980年代後半以降広く使われてきたが、日本のフェミニズムは「権利」の語の使用には積極的ではなく、それはしばしば忌避され、ときには棄却されてきた。フェミニストたちは、自己決定することは胎児の生命の価値を否定するものではない、女性の「自己」とは胎児と別個に存在しているのではない、と繰り返し論じてきたが、「権利」のないその「自己決定」は「決定」の名に値するものなのか。はたして「権利」は中絶をめぐるフェミニズムの言説において本当に必要ないのだろうか。これらの問いに答えるために、カール・シュミット、ジャック・デリダ、エルネスト・ラクラウらの議論を参照して主体と決定との構成的な関係を考察する。それによりフェミニズムが用いてきた自己決定権の主張がはらむ問題点を明らかにし、これまで避けられてきた「権利」概念の必要性を論じたい。