水利科学
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一般論文
多摩川近代改修の夜明け前 ──平間の渡し下流の攻防──(その2)
和田 一範
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2019 年 63 巻 5 号 p. 63-117

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抄録

明治29年(1896年)制定の旧河川法の手続きにあたって,それ以前にすでに大連続堤が整備済みであった東京府側が,これを了解しなかったために,内務省の河川堤防としての建設の認可が下りなかったものである。大騒動の後の内務省の最終調停は,東京側の堤防よりも三尺(約90cm)低くするという条件で,神奈川県側の新堤建設を認めるものであった。 一方,平間の渡し下流にはそもそも150間(約270m)の大きな突堤が,神奈川県側から東京府側に突き出すように整備されていて,長年有効に機能していた。この突堤は,背後にある神奈川県橘樹郡道兼用の伊勢浦堤と食い違うように配され,二つをあわせて霞堤としても機能していた。 神奈川県側,御幸村のこの地先には大変有効であったこの突堤は,対岸東京府側矢口村には,洪水流を対岸に向ける,脅威であった。東京府側,矢口堤防に大きな脅威をもたらすこの突堤を,矢口村の地域住民は相当,嫌っていた。 有吉堤の騒動の当初,神奈川県側は,この突堤と伊勢浦堤をつなげて,さらに上流側無堤地区の新堤につなげるという工事を始めたので,対岸の住民はたまらない。結局,この突堤の扱いは,内務省,東京府,神奈川県の三者調停の中で,最後までもめる最大の懸案事項となった。 このたび神奈川県立公文書館所蔵の飯田家文書(ID2200710116,ID2200710134)において,その後の顚末の全ぼうが明確になる新たな資料を見いだしたので,活字にして紹介するとともに,防災にかかる教訓として分析をしてみたい。それは,有吉堤の大騒動の結着に続く,次の大きな幕のドラマであり,さらには多摩川直轄改修への道につながる,橘樹郡の連携の復活劇である。 防災の基本である,防災の主役,自助・共助と,公助との連携の教訓の,歴史的なモデルがここに見いだされる。

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© 2019 一般社団法人 日本治山治水協会
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