鉄と鋼
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論文
焼戻しマルテンサイト鋼におけるVおよびMo炭化物の水素トラップ
木南 俊哉
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2022 年 108 巻 9 号 p. 656-665

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Abstract

The hydrogen trapping of V and Mo carbide precipitates were investigated using tempered martensitic steels (0.3%C-1.2%Cr and 0.2%V or 1.0%Mo), for the purpose of improving hydrogen embrittlement strength. The effect of tempering conditions on hydrogen trapping energy and trapped hydrogen content was studied. The trapped hydrogen content of V or Mo carbide was maximum value at the tempering temperature of 600°C for 1 hour and the trapped hydrogen content in Mo carbide was more dependent on tempering temperature than V carbide. In cases where the tempering time exceeded 1 hour at a tempering temperature 600°C, the trapped hydrogen content in Mo carbide decreased remarkably. At the tempering temperature of 600°C for 1 hour, the hydrogen trapping energy in V carbide was about 57 kJ/mol, which was a little higher than in Mo carbide. The V and Mo carbide at the tempering temperature of 600°C for 1 hour were identified cubic VC and MoC by TEM observation, respectively. The both form were plate-shaped with a width of about 1nm and a length of about 20 nm or less. At a tempering temperature of 650°C for 1 hour or 600°C for 24 hours, MoC was significantly reduced and precipitated rod-shaped hexagonal Mo2C. It was presumed that this was the cause of the decrease in the hydrogen trapped content of Mo carbide under these tempering conditions.

1. 緒言

高強度ボルト等の高強度鋼で課題となる遅れ破壊は環境から侵入する水素に起因した水素脆化と考えられる。このため遅れ破壊の改善には侵入水素量を抑制することおよび鋼の水素脆化に対する抵抗力を高めることが有効である。後者について主な破壊起点となる粒界の強度を高める結晶粒微細化やP,S等の不純物元素量の低減1)が有効である。また,高温焼戻し処理2)あるいは加工熱処理3)により粒界上のフィルム状セメンタイトを低減することも効果がある。

近年,焼戻しマルテンサイト鋼に微細析出した合金炭化物の水素トラップによる耐遅れ破壊の克服技術4)が注目されている。その機構は水素トラップにより破壊起点となる応力集中部に水素が集積するのを抑制するためと考えられている5)。たとえば,水素トラップがある場合の実効的な水素拡散係数はOrianiの局所平衡仮説では水素トラップサイトの数密度および水素トラップエネルギーが高い場合に低下することが示されている6)。この水素トラップサイトは焼戻し温度約600°Cにおいて微細整合析出するnmオーダーのMC型炭化物である。たとえば,Tsuchidaら7)は微細板状(V,X)C整合炭化物,Totsuka and Nakai8)は微細析出したMo2Cの水素トラップにより陰極チャージ法で吸蔵される水素量が焼戻し温度約600°Cの2次硬化領域で増加することを報告している。また,VC9,10),TiC1113)およびNbC14)の水素トラップ効果が報告されている。

しかし,水素トラップサイトを活用した耐遅れ破壊の向上技術は十分には明らかにされているとは言えない。第一に微細整合析出するMC型炭化物の種類による水素トラップ特性の差異が明らかではない。水素トラップサイトの特性値は水素トラップエネルギーおよびトラップ水素量で表すことができる。既に,水素トラップエネルギーは粒界,転位および界面格子欠陥について測定されている7,1517)。また,最近では析出物とマトリックスの界面格子欠陥における水素トラップエネルギーを第一原理計算により求める試みも行われている18,19)。今後,析出物の種類による水素トラップエネルギーおよびトラップ水素量の差異を明らかにする必要がある。第二に水素トラップサイトにより環境からの侵入水素量も増加すると考えられるため,遅れ破壊の評価には遅れ破壊試験(CLT,SSRTおよびCSRT法)で得られる限界水素量と侵入水素量を比較した水素量基準の遅れ破壊評価が必要である20)。たとえば,Mo炭化物の水素トラップはSSRT法での遅れ破壊強度を向上するが,侵入水素量も増加するためその有効性は明らかでないと報告されている21)。著者ら22)も引張強度1800MPa超の0.6%C-2%Si-1%Cr-1%Mo-0.3%V焼戻しマルテンサイト鋼においてMo炭化物が析出する600°C焼戻し材は析出の少ない500°C焼戻し材に比べてMo炭化物の水素トラップにより陰極チャージで水素を添加したCSRT法での遅れ破壊強度は向上するが,湿潤サイクル試験での侵入水素量も増加することを確認した。

そこで,焼戻しマルテンサイト鋼を用いて代表的な水素トラップサイトであるVおよびMo炭化物の水素トラップ特性を比較検討した。具体的には水素トラップエネルギーおよびトラップ水素量に及ぼす焼戻し条件(温度,時間)の影響を明らかにした。これは焼戻し条件により析出状態が変わり水素トラップ特性が変化するためである。また,微細整合析出するVおよびMo炭化物の透過電子顕微鏡観察を行いその要因を検討した。また,湿潤サイクル試験での侵入水素量およびCSRT法遅れ破壊強度に対するVおよびMo炭化物の水素トラップ効果を比較した。

2. 試験方法

2・1 供試材

供試材はTable 1に示した0.3%C-1.2%CrのA鋼,A鋼に0.2%V添加したB鋼およびA鋼に1.0%Moを添加したC鋼を用いた。なお,ボロンは無添加である。50 kg真空溶解材を温度1200°Cの熱間鍛造で直径32 mmの丸棒に加工し,920°C焼ならしおよび760°C軟化熱処理を行い,幅12 mm,長さ12 mm,厚さ30 mmの焼入れ試験片を作製した。焼入れは温度925°Cで油焼入れ,焼戻し条件は温度500,550,600および650°C,焼戻し時間は1 hで空冷である。同600°Cは焼戻し時間5 hおよび24 hも行った。

Table 1. Chemical compositions of steels used (mass%).
SteelCSiMnPSCrMoV
A0.330.050.300.0060.0031.22
B0.330.050.310.0050.0021.220.20
C0.330.060.300.0030.0011.211.00

2・2 水素分析試験

水素分析試験は幅10 mm,長さ10 mm,厚さ2 mmの薄板試験片を用いた。3 mass%NaCl溶液に3 g/L チオシアン酸アンモニウムを添加した溶液中で陰極チャージを行った。電流密度は0.05 mA/cm2,チャージ時間は24 hである。水素を添加した後直ちに四重極質量分析計を用いた昇温脱離水素分析を行った。昇温速度は一定条件で室温から約400°Cまで測定し,300°Cまでに放出される拡散性水素量を求めた。昇温速度は100,300,600,900,1300および1800°C/hで行った。

2・3 炭化物観察

V添加B鋼およびMo添加C鋼の焼戻し温度600°Cおよび650°C,焼戻し時間1 hの試料を用いてVおよびMo炭化物のTEM観察を行った。なお,C鋼は同600°C,24 hも行った。観察試料は両面ジェット電解研磨により作製した。TEM観察は200 kV電界放出型透過電子顕微鏡を用いた。また,分析に用いたEDSプローブ径は1 nmおよび電子回折プローブ径は約3 nmである。電子線入射方向は[001]αで行った。

2・4 遅れ破壊試験

A鋼,B鋼およびC鋼のCSRT法による遅れ破壊試験を行った。試験片はFig.1に示した切り欠き底直径6 mm,切り欠き半径0.25 mmの環状切り欠き試験片を用いた。焼入れ温度925°C,焼戻し温度600°C,焼戻し時間1 hである。試験片の直径10 mmの平滑部の横断面でビッカース硬さを測定した。荷重は2.94 Nで5点測定し平均値を求めた。前述と同じ陰極チャージ法を用い,電流密度は0.025から0.2 mA/cm2,チャージ時間は120 hで水素を添加した後直ちに,引張速度1 mm/minで引張試験を行い,破断強度と水素量の関係を求めた。水素量は破断後に直ちに破面から長さ10 mmの試料を切り出し,ガスクロマトグラフ法により昇温速度100°C/hで昇温脱離水素分析を行い,室温から300°Cまでに放出される拡散性水素量を用いた。なお,ここでチャージ時間を120 hとしたのは化学成分の近い鋼で水素量が飽和することが確認されているためである23)

Fig. 1.

Specimen (dimensions are in mm).

2・5 湿潤サイクル試験

B鋼およびC鋼の侵入水素量を湿潤サイクル試験により求めた。試験片は直径8 mm,長さ50 mmの丸棒試験片を用いた。焼入れ温度は925°C,焼戻し温度は600°C,焼戻し時間は1 hである。試験条件は温度35°Cで乾燥(30%RH,5.75 h),湿潤(98%RH,1.75 h)および塩水噴霧(0.5%NaCl,0.5 h)の1サイクル8 hで行った。所定のサイクル数で試験片を取り出し,ショットブラストにて錆を除去した後直ちに,ガスクロマトグラフ法により昇温速度100°C/hで昇温脱離水素分析を行い,室温から250°Cまでに放出される水素量を侵入水素量とした。

3. 試験結果および考察

3・1 水素トラップ特性

Fig.2に水素分析試験で得られた昇温速度100°C/hでの水素放出曲線を示す。また,Table 2に各測定試料における拡散性水素量および後述するトラップ水素量を示す。焼戻し温度600°C,焼戻し時間1 hの条件ではA鋼の放出水素量が最も少なく,V添加B鋼,Mo添加C鋼の順に多くなっている。これは微細整合析出物のないA鋼に対してB鋼およびC鋼ではVおよびMo炭化物の水素トラップがあるためと考えられる。一方,同650°C,1 hおよび600°C,5 hではV添加B鋼がMo添加C鋼より多くなっている。

Fig. 2.

Hydrogen evolution rate profiles at a heating rate of 100°C/h tempered at (a) 600°C, (b) 650°C for 1 h and (c) 600°C for 5 h.

Table 2. Diffusible and trapped hydrogen content of hydrogen evolution rate profiles at a heating rate of 100°C/h shown in Fig.2 (ppm).
Tempering temp.600°C650°C600°C
Tempering time1 h1 h5 h
Hydrogen contentDiffusibleTrappedDiffusibleTrappedDiffusibleTrapped
Steel A0.170.200.39
Steel B1.050.881.070.872.141.75
Steel C2.252.080.590.391.160.77

析出物の水素トラップ特性は得られた水素放出曲線から次のように評価した。析出物がある場合の水素放出曲線は析出物がない場合の水素放出曲線に析出物水素トラップの水素放出曲線が加算しただけと仮定して,同一昇温速度での析出物がある場合の水素放出曲線から析出物がないA鋼の水素放出曲線を差し引くことで析出物水素トラップの水素放出曲線を求めた。具体的にFig.3に焼戻し温度600°C,焼戻し時間1 hのV添加B鋼およびA鋼の昇温速度100°C/hでの水素放出曲線を示す。同図中のV炭化物の水素トラップによる水素放出曲線はV炭化物のあるB鋼とV炭化物のないA鋼の水素放出曲線の差分により求めた。V炭化物の水素トラップによる水素放出曲線はB鋼の水素放出曲線に比べて放出ピークが高温側に移動している。同様に各昇温速度(φ)における析出物水素トラップによる水素放出曲線の放出ピーク温度(Tp)を求め,昇温速度(φ)とピーク温度(Tp)の関係より水素脱離が水素拡散を無視した熱乖離過程のみと仮定してChoo-Leeの式(1)24)を用いて水素トラップエネルギー(Ea)を算出した。ここで,Rはガス定数である。

  
ln(φ/Tp2)/(1/Tp)=Ea/R(1)
Fig. 3.

Evaluation method of hydrogen evolution rate profile trapped by carbide precipitates.

また,析出物のトラップ水素量(Ht)は各昇温速度で求めた析出物水素トラップの水素放出曲線の300°Cまでに放出される拡散性水素量の平均値を用いた。

Fig.4はChoo-Leeの式による横軸1/Tpおよび縦軸ln(φ/Tp2)のプロットを示す。図中の傾きが水素トラップエネルギーとなる。たとえば,焼戻し温度600°C,焼戻し時間1 hの条件でのピーク温度(Tp)および昇温速度(φ)をTable 3に示す。これをプロットしたFig.4(a)の傾きから水素トラップエネルギーはMo炭化物が約53.0 kJ/mol,V炭化物がやや高く57.1 kJ/molである。なお,水素トラップエネルギーの標準偏差(σ)は各々5.3 kJ/mol,4.4 kJ/molである。このため,V炭化物とMo炭化物の水素トラップエネルギーに明瞭な差異があるとは言えない。なお,焼戻し温度650°C,焼戻し時間1 hの条件ではMo炭化物がV炭化物に比べて右側にある。これはFig.2(b)に示したように焼戻し温度650°CではMo炭化物の水素放出ピーク温度がV炭化物に比べて低いためである。

Fig. 4.

(φ/Tp2) vs. (1/Tp) plot tempered at (a) 600°C, (b) 650°C for 1 h and (c) 600°C for 5 h. Ea is hydrogen trapping energy and σ is standard deviation.

Table 3. Peak temperature (Tp) of hydrogen evolution rate profile trapped by carbide precipitates and heating rate (φ) tempered at 600°C for 1 h shown in Fig.4(a).
Heating rate (°C/h)10030060090013001800
Peak temp. (°C)V carbide96
99
102
119132
142
147143169
152
152
155
Mo carbide104
96
129134
127
147148166
167

Fig.5(a)は焼戻し時間1 hにおけるトラップ水素量に及ぼす焼戻し温度の関係を示す。また,Table 4Fig.5(a)のトラップ水素量および拡散性水素量を示す。Table 2は1測定の結果に対してTable 4は昇温速度を変えた測定結果の平均値である。なお,昇温速度は拡散性水素量およびトラップ水素量には影響しないと考えている。トラップ水素量に及ぼす焼戻し温度の影響に注目すると,V炭化物(B鋼)でもMo炭化物(C鋼)でも600°C焼戻し温度の条件でトラップ水素量が最大値となる。そして,600°C焼戻し温度の条件では,Mo炭化物(C鋼)のほうがV炭化物(B鋼)に比べてトラップ水素量が多い。また,Mo炭化物(C鋼)のほうがV炭化物(B鋼)に比べて,トラップ水素量に及ぼす焼戻し温度の依存性が大きいことがわかる。なお,焼戻し温度500°CではMo炭化物のトラップ水素量はゼロである。

Fig. 5.

Effect of tempering temperature on (a) trapped hydrogen content and (b) hydrogen trapping energy. σ is standard deviation.

Table 4. Diffusible and trapped hydrogen content in tempering time for 1 h (ppm).
Tempering temp.500°C550°C600°C650°C
Hydrogen contentDiffusibleTrappedDiffusibleTrappedDiffusibleTrappedDiffusibleTrapped
SteelA0.330.170.300.17
Steel B0.530.230.810.671.451.180.840.67
Steel C0.280.001.060.901.841.570.450.29

Fig.5(b)は焼戻し時間1 hにおける水素トラップエネルギーに及ぼす焼戻し温度の関係を示す。なお,同図中に標準偏差(σ)も示す。共に焼戻し温度が低くなると水素トラップエネルギーは高くなる。また,いずれの焼戻し温度でもV炭化物の水素トラップエネルギーがMo炭化物に比べてやや高い。焼戻し温度が高くなると炭化物が粗大化することが考えられる。トラップサイトの機構は明らかではないが,整合析出する微細炭化物では粗大化すると水素トラップエネルギーが低下し,トラップサイトとしての有効性が低下する可能性が考えられる。なお,非整合析出物では析出物サイズが大きくなると水素トラップエネルギーは高くなると考えられている13)。焼戻し温度550°CはVおよびMo炭化物共に水素トラップエネルギーが高いが,トラップ水素量は低下していることから,水素トラップサイトの数密度が低下していると考えられる。一方,焼戻し温度650°Cでは水素トラップエネルギーおよびトラップ水素量共に低下している。水素トラップサイトの数密度の低下だけではなく水素トラップ効果も低下していることが考えられる。

Fig.6(a)は焼戻し温度600°Cにおけるトラップ水素量に及ぼす焼戻し時間の関係を示す。Mo炭化物のトラップ水素量は焼戻し時間が長くなると大きく低下し,同24 hでは0.07 ppmである。一方,V炭化物のトラップ水素量は焼戻し時間5 hがやや高く1.67 ppmであるが,焼戻し時間の影響は比較的小さい。前述の焼戻し温度と同様に焼戻し時間が変化した場合でもV炭化物のほうがMo炭化物よりトラップ水素量の変化が小さく安定している。

Fig. 6.

Effect of tempering time on (a) trapped hydrogen content and (b) hydrogen trapping energy. σ is standard deviation.

Fig.6(b)は焼戻し温度600°Cにおける水素トラップエネルギーに及ぼす焼戻し時間の関係を示す。Mo炭化物の水素トラップエネルギーは焼戻し時間による変化は少ない。焼戻し時間が長くなるとMo炭化物のトラップ水素量が低下したのは有効なトラップサイトの数密度が減少したためと推定される。一方,V炭化物の水素トラップエネルギーは焼戻し時間が長くなるとやや低下する。

3・2 透過電子顕微鏡観察

焼戻し温度600°C,焼戻し時間1 hの透過電子顕微鏡観察ではB鋼,C鋼共に数nmの粒状および板状のCrを含有したFe炭化物(Fe3C,Fe5C2)が多く析出している。また,数百nmの粒状および板状Fe炭化物も認められる。Fig.7に微細炭化物であるB鋼のV炭化物およびC鋼のMo炭化物の透過電子顕微鏡写真を示す。幅約1 nm,長さ約20 nm以下の板状の析出物が観察される。なお,Fig7(b)左上の直径約50 nmの析出物はFe3Cである。同図左下のMoCの上にある長さ約30 nmの横に伸びたコントラストは析出物ではなく,おそらく転位組織と思われる。EDS分析および電子回折より各々VCおよびMoCであることを確認した。共に立方晶で(001)α面に[100]α方向に伸長しており,Baker-Nuttingの方位関係を持つNaCl型炭化物7,14)と考えられる。また,いずれもCrの濃化が認められた。なお,六方晶のMo2Cは観察されなかった。Fig.8の暗視野像の白点は主にVCおよびMoCの分布を示す。VCおよびMoC共に同程度に多数分布している。今回の観察範囲ではVCおよびMoCの形態,大きさおよび数密度に明瞭な差異は認められなかった。

Fig. 7.

TEM micrographs of (a) VC precipitate in steel B and (b) MoC precipitates in steel C tempered at 600°C for 1 h indicated by arrows.

Fig. 8.

TEM dark field images for (a) [011] VC (200) diffraction spot in steel B and (b) [011] MoC (200) diffraction spot in steel C tempered at 600°C for 1 h.

一方,C鋼の焼戻し温度650°C,焼戻し時間1 hあるいは同600°C,24 hでは板状立方晶MoCが大きく減少し,Fig.9に示した幅約5~20 nm長さ数10 nmの棒状六方晶Mo2Cがより多く析出した。なお,Fig.9(a)右上の直径約50 nmの析出物はFe3Cである。微細な板状立方晶MoCは有効なトラップサイトと考えられるが,粗大な棒状六方晶Mo2Cは有効なトラップサイトとはならず,C鋼のトラップ水素量が焼戻し温度650°C,焼戻し時間1 hあるいは同600°C,24 hで低下したと推定される。Fig.10に示したB鋼の焼戻し温度650°C,焼戻し時間1 hでは同600°Cと同様の板状の立方晶VCが析出する。焼戻し温度650°CのVCは同600°Cに比べてやや粗大化している傾向が認められた。なお,数密度に明瞭な差異は認められなかった。トラップサイトの機構は明らかではないが,VCが粗大化することで水素トラップエネルギーが低下し,トラップサイトとしての有効性が低下し,B鋼の焼戻し温度650°Cでは同600°Cに比べてトラップ水素量が低下した可能性も考えられる。

Fig. 9.

TEM micrograph of Mo2C precipitates in steel C tempered at (a) 650°C for 1 h and (b) 600°C for 24 h indicated by arrows.

Fig. 10.

TEM micrographs of VC precipitates in steel B tempered at 650°C for 1 h indicated by arrow.

析出物の水素トラップサイトとして析出物と母相(マルテンサイト)との界面の整合歪場が考えられる。VおよびMo炭化物はNaCl型と考えられたため,マトリックスと炭化物の格子ミスフィットを式(2)で求めた25)

  
格子ミスフィット比=|ap ao2|ao2(2)

ここでapは析出相の格子定数,aoは母相の格子定数である。Table 5に炭化物とマトリックスとの格子ミスフィット比を示す。VCの格子ミスフィット比は0.027でMoCの同0.055の約半分と小さい。VCの水素トラップエネルギーはMoCに比べてやや高めだが,格子ミスフィットはMoCのほうがVCより大きく,格子ミスフィット比では水素トラップエネルギーの差異を説明できない。

Table 5. Lattice misfit ratio of V and Mo carbide.
FeVCMoC
Lattice parameter (Å)2.874.174.28
Crystal structurebccfccfcc
Lattice misfit ratio0.0270.055

一方,ミスフィット比の大きいMoCのほうがVCに比べて非整合化し易いと考えられる。非整合化すればトラップ水素量は低下すると考えられるため,焼戻し条件がピーク条件から外れた場合にMo炭化物のトラップ水素量の低下が大きかったこととの関連性も考えられる。

また,トラップサイトとして炭化物とマトリックスの界面の転位が考えられる。しかし,転位による水素トラップエネルギーは高々30 kJ/molであり7,24,26),今回得られた50 kJ/mol以上の高い水素トラップエネルギーを説明できない。このことから,界面転位以外の結晶格子欠陥に起因する可能性が考えられる。たとえば,V4C3の水素トラップサイトは析出物とマトリックス界面のC空孔と報告されている27)

3・3 遅れ破壊強度

Fig.11(a)はCSRT法による遅れ破壊強度を示す。B鋼およびC鋼の遅れ破壊強度に明瞭な差異は認められない。なお,A鋼はV,Mo炭化物の析出がないため初期強度が低い。また,A鋼,B鋼およびC鋼の試験片のビッカース硬さはそれぞれ278 Hv,377 Hvおよび411 Hvである。Fig.11(b)にCSRT試験での電流密度と水素量の関係を示す。VおよびMo炭化物の水素トラップによりB鋼およびC鋼の同一電流密度の水素量はA鋼に比べて高い。なお,水素量が飽和していると考えられるチャージ時間120 h23),電流密度0.05 mA/cm2でのB鋼とA鋼の水素量の差は1.4 ppmおよびC鋼とA鋼の差は1.4~2.2 ppmである。これは前述の水素分析試験でのトラップ水素量と同程度であり,厚さ2 mmの試験片では24 hの陰極チャージでも水素量はほぼ飽和していると考えられる。Fig.12に試験後の破面表層起点部のSEM観察を示す。表層起点部は主に擬へき開破面であり,水素量が2.9 ppmと高い場合には粒界破面が観察される。

Fig. 11.

Relationship between diffusible hydrogen content and (a) fracture stress, (b) current density obtained by conventional strain rate test.

Fig. 12.

SEM fractographs of fracture origin in steel B with diffusible hydrogen content (a) 2.7 ppm, (b) 2.1 ppm and steel C with (c) 2.9 ppm, (d) 2.1 ppm.

3・4 侵入水素量

Fig.13に湿潤サイクル試験の侵入水素量を示す。V添加B鋼およびMo添加C鋼共に侵入水素量は約100サイクルで飽和傾向にあり,侵入水素量は0.7~1.0 ppmでほぼ同程度である。一方,A鋼の侵入水素量は0.1 ppm程度であり,微細炭化物の水素トラップにより10倍程度増加している。

Fig. 13.

Change of diffusible hydrogen content as a function of cyclic corrosion test cycles.

B鋼およびC鋼の侵入水素量および遅れ破壊強度に差異が小さかった一因として焼戻し温度600°C,焼戻し時間1 hの条件ではV炭化物とMo炭化物の水素トラップエネルギーおよびトラップ水素量の差異が小さかったことが考えられる。

4. 結論

0.3%C-1.2%Cr-0.2%Vおよび0.3%C-1.2%Cr-1.0%Mo焼戻しマルテンサイト鋼に微細整合析出するV炭化物およびMo炭化物の水素トラップ特性について以下の結論を得た。

(1)焼戻し時間1 hではV炭化物およびMo炭化物共に焼戻し温度500°Cから650°Cの範囲において同600°Cでトラップ水素量が最も多く,各々約1.2 ppmおよび1.6 ppmである。Mo炭化物のほうがV炭化物に比べてトラップ水素量に及ぼす焼戻し温度の依存性が大きい。焼戻し温度600°Cでは焼戻し時間が1 hを超えるとMo炭化物のトラップ水素量は大きく低下する。

(2)焼戻し温度600°C,焼戻し時間1 hでの水素トラップエネルギーはMo炭化物が約53 kJ/mol,V炭化物がやや高く約57 kJ/molである。焼戻し時間1 hではMo炭化物に比べてV炭化物の水素トラップエネルギーがやや高く,共に焼戻し温度が低いほど水素トラップエネルギーが高い。

(3)焼戻し温度600°C,焼戻し時間1 hではV炭化物およびMo炭化物は共に立方晶のVCおよびMoCである。幅約1 nm,長さ20 nm以下の板状であり,形態,大きさおよび数密度に大きな差異は認められない。一方,焼戻し温度650°C,焼戻し時間1 hあるいは同600°C,24 hではMoCは大きく減少し,幅約5~20 nm長さ数10 nmの棒状六方晶Mo2Cが析出する。同焼戻し条件ではMo炭化物の形態が変化し,粗大化することによりトラップサイトとしての有効性が低下し,トラップ水素量が低下したと推定される。

(4)焼戻し温度600°C,焼戻し時間1 hでV添加鋼およびMo添加鋼の侵入水素量および遅れ破壊強度に明瞭な差異が認められない。この条件ではV炭化物とMo炭化物の水素トラップエネルギーおよびトラップ水素量の差が小さかったためと推定される。

文献
 
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