哲学の探求
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個人研究発表
ヒューム証言論の個人主義的な解釈の限界について
高萩 智也
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2022 年 2022 巻 49 号 p. 82-91

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ヒューム証言論の個人主義的な解釈の限界について

高萩 智也

1.はじめに

本論文は, デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)の「証言(testimony)」に対する哲学的考察, すなわち証言論の解釈を目的としている. ヒュームの証言論は主に『人間知性研究』において, 彼が宗教的奇蹟の存在を立証するような証言は存在し得ないと主張する文脈で, 言い換えれば, 宗教哲学的な文脈で展開されている. しかし, 近年の解釈者のなかには, ヒュームの証言論を宗教的な文脈に限らず, 一般に認識の問題として捉えようとしているものたちがいる. 筆者もこれまでの研究では, そうした流れにのって, ヒュームの証言論を文脈に限られない一般的な認識論として解釈することも試みてきた.

こうした研究潮流において, ヒュームの証言論解釈の問題となっているのは, 「聞き手はいかにして話し手の証言から知識(正当化された信念)を得るか?」という問いにどう答えるかということである. いやそもそも, ヒュームのテキストは一つの著作のうちで, 証言を信頼できる信念形成手段とみなしているかと思えば, すぐ後でそれを信頼できないものとして棄却するという一見した不整合を見せている. ほとんどの解釈者たちは, ヒュームが棄却しているのは特殊な証言に限られると考えているようだが, そうした前提を置いた結果として, 聞き手が個別の証言をかなりの認識的負荷を伴って吟味しなければその内容は知識にならない, という考えをヒュームに帰属させることとなっている. 言葉を変えれば, ヒュームの証言論を個人主義的なものとして解釈してしまっているのだ. しかしこれは, 私たちが証言に関して実際に行っている営みとしても, (実は)ヒューム解釈としても正しくない.

本論文は, ヒュームの証言論を個人主義的に解釈する限りでそれがうまくいかないことを示し, 最後に, 社会認識論として読み直す提案をする. なお, 本論文が解釈の対象とするテキストは『人間本性論』第一巻「知性について」と『人間知性研究』であるが, そこにおいてさえすでに, 社会認識論的な要素が含まれていることが最後には理解されるだろう.

本論に先立って本稿の構成を述べておく. まず, ヒュームの証言論の概要を述べ, それが一見すると矛盾を孕んでいるように思われることを指摘する(第2節). 次に, いくつかの先行研究を紹介し, それらが矛盾を回避しつつ, 「聞き手はいかにして話し手の証言から知識(正当化された信念)を得るか?」という問いにそれぞれどのように答えようとしてきたのかを整理する(第3,4,5節). 最後に, こうした解釈が個人主義的である限りにおいて解釈としての限界があることを指摘し, 社会認識論の可能性を示唆する.

2.ヒューム証言論の概要

まず, ヒューム哲学における「証言」概念の特徴をいくつか確認しておこう. ただし, 以下の条件はヒューム自身が明示しているわけではなく, 彼が証言として挙げる諸事例を分析することで筆者が整理したものである. 第一に, 証言は話し手が自分の心のうちにある観念を, 言葉を用いて聞き手へ伝える一種の言語行為である(cf. T 1.3.9.12). 第二に, 話し手が自分自身も他人から手に入れた情報を報告することも証言に含まれる(cf. T 1.3.4.2). 第三に, 音声だけでなく文字による伝達も証言と言われる(ibid.). 第四に, 証言は話し手や聞き手に中立的に成り立つ. すなわち, 証言者であるために例えば宣誓が必要であったり, 聞き手であるために学者であったりする必要はない1. 第五に, 証言は内容中立的に成り立つ. つまり、宗教的な内容を伝達する報告だけが証言の名で呼ばれるに値するとか, あるいは, ゴシップは証言に含まれないとか, そのような条件はない2. ヒュームが証言をもっとも中心的に論じた『人間知性研究』第10節「奇蹟について」においてすら, 第二部で奇蹟に関する証言を分析するのに先立って, 第一部で証言一般に関する議論を展開しているのである. ヒューム証言論におけるこうした「証言」の性質に鑑みて, 本稿は宗教哲学的な含意よりもむしろ認識論的な含意を取り出すことを試みる.

実際ヒュームはいくつかの箇所で, 証言が人間の認識に重要な役割を果たし, 知識を生み出す手段のひとつであることをはっきりと認めている. 例えば次のような記述である.

私たちが人間の証言に対する確信を得た後では, 書物や会話がある人の経験と思考を別の人よりもずっと拡大する(E 9.5 n20.11)

人間の証言, つまり目撃者や見物人の報告から生じるものよりも、人間生活にとってよりありふれており, 有用で, 必要ですらあるような種類の推論はないということを私たちは観察できる(E 10.5)

これらの箇所において彼が証言一般の信頼性を認めていることは注目に値する.

ところでヒュームは, 話し手の証言を受けて聞き手が知識3を形成することを一種の「因果推論(causal reasoning/inference)」とみなしている(cf. T 1.3.9.12; E 10.5). というのも彼によれば, 人間が自分で直接に経験したことのない/経験できない事象について知識を得る方法は, 因果推論をおいて他にないからであり, 証言はまさに, そうした事象についての知識を得る手段だからである. このことからヒュームは, 因果推論と同様に証言もまた, 「経験(experience)」と「習慣(custom)」という原理から生じていると考える(cf. T 1.3.9.12; E 10.5).

ヒュームは証言論においてこの二つの原理のうち, とりわけ経験の方に注目して, 証言が信頼できる理由, 言い換えれば, 証言が知識を生み出す理由を次のように述べている.

なぜ私たちが目撃者や歴史家に対して信用を置くかといえば、それは事実と証言との間にアプリオリに知覚する結合が理由なのではない。そうではなくて、事実と証言との間に私たちが常に一致を見てとるからである(E 10.8)

ここでヒュームが言わんとしていることを理解するためには, 先立って, 彼の因果論の中心概念である「恒常的連接(constant conjunction)」の説明を行うのがよい. ヒュームは, なぜ私たちが「次にマッチを擦っても発火する」と考えるかということに関して, それは, 神によって与えられた直観や演繹的な論証によるのではないと言う. というのも結局のところそうした論証は, それ自体が論証不可能な自然の斉一性を前提としたものにならざるを得ないからである. 代わりにヒュームが持ち出すのが恒常的連接である. 彼曰く, 私たちは何度も似た対象が伴って現れると, 次もまた双方が伴って現れるだろうと期待してしまう. 逆に, たまにしか伴って現れない対象については, 一方が現れても, 他方が現れることを期待しない. そしてこの期待は, 実は自然の行程と一致するようになっている. だから, 恒常的連接に基づいた人間の期待を生み出す因果推論は, ある種信頼性のある正当なものとして受け入れられる(cf. T 1.3.3-6; E 5,21-22). 上記に引用したテキストの説明に戻ろう. ここでヒュームは, 事実と証言との間に一致があると述べている4. つまり言い換えれば, 実際に成立した出来事と報告された内容との間に恒常的連接が成り立つというわけである. だから, この恒常的連接にもとづいて「次の証言も事実と一致し, 真であるだろう」という期待が正当化されるのだ.

ヒュームは以上のようにして, 人間の世界において証言が知識を生み出しているという事実を認めるだけでなく, 証言に知識を生み出す資格を与えていると言える. しかし一方で, 証言がそれ自体では知識を生み出し得ないと強く主張するテキストが見受けられる. 彼の証言の認識論的役割に対する否定的な態度は, とりわけ宗教的内容を持つ証言を論じた箇所において顕著である.

人間本性の弱さが最も普遍的で目立っているのは, 通常「軽信(credulity)」と呼ばれるもの, つまりは, 他人の証言をいとも簡単に信じてしまうということにおいてである.〔中略〕[証言の受容において] 私たちが経験によって完全に制御されているということはほとんどなく, 報告されることはなんでも, 亡霊や魔法や不可解なものに関する報告すら, 日常的な経験と観察とどれほど矛盾していようとも, それを信じてしまう顕著な傾向性を持っている.(T 1.3.9.12)

このテキストは『人間本性論』のうちでヒュームが, 因果推論から算出される信念の度合いを強化する要因を列挙していく箇所である. 彼はこの前後で, 宗教に熱狂する信者たちの心のうちを説明しようとしている.しかしここでヒュームは, 証言, それも証言一般に対して強く懐疑的な態度をとっている. というのも彼は, 人間が内容に関わらずなんでも信じてしまうと述べているからである. また上記の引用箇所の直後において彼は, 証言が「経験が正当化するものを超えて私たちの同意を要請する(command our assent beyond what experience will justify)」と述べる(ibid.). これが正当化の範囲を超えて信念を抱かせるという意味であるならば, 正当化された信念を生み出す手段から証言を排除することで, ヒュームは明らかにそれを知識獲得のための手段として認めない議論を展開したことになるだろう.

この疑念は『人間知性研究』の奇蹟論における次のテキストによってさらに強いものになる.

非常に興味深いニュースを伝え広めて, その最初の報告者となることの喜びは、知性に優る. そして, このことは非常によく知られているので, 良識ある人は誰も, より大きな証拠によってそれらの報告が確証されるまでは, それらに対して注意を向けない(E 10.19)

ヒュームはここで, 良識ある人々は, 証言によって伝えられた出来事を「より大きな証拠」を獲得するまで信じずに保留しておくのだ, と述べている5. 奇蹟論の別の箇所を参照すると, この「より大きな証拠」とは, 感覚器官から得られる証拠, すなわち自分で直接に見聞きして得られる証拠のことだと考えられる(cf. E 10).

ところでヒュームはしばしば, 「哲学者(philosopher)」(T 1.3.13.1)や「賢人(wise man)」(E 10.3)の信念形成方法を従うべき理想的なものとみなしている. そして彼はおそらく, 先の「良識ある人々」も同じような種類の人々とみなしているだろう. したがって, 私たちは真偽を自分で直接に確かめるまでは, 証言によって報告された出来事の内容を「知っている」と言ってはいけないことになる.

このように, ヒュームは証言に対して肯定的と否定的な評価を同時に下しており, テキスト的な矛盾が生じているように思われる. ここでとりうる解釈の選択肢は次のうちのいずれかである. 第一に, 否定的な評価の方を彼の最終的な判断だとみなし, ヒュームは証言に対してある種の懐疑論を展開したと主張するものである. 第二に, 否定的な評価の方を文脈に限定的なものだとして弱め, ヒュームはやはり証言から知識が生み出されうると認めていたと主張するものである. 本稿は以下で, 解釈者たちがこの問題をどう解決しようと試みてきたのかを整理した後で, このうちの後者の選択肢をとり, 証言に対するヒュームの肯定的主張を前面に押し出した解釈を展開することを試みる.

3.コーディによる報告内容に注目した解釈

ヒュームの証言論に比較的早い時期から注目していたコーディは, 次のテキストを解釈の手がかりとした(cf. Coady 1973; 1992, chap.4).

目撃者と人間の証言から生じる証拠は過去の経験にもとづいているので, それは経験とともに変化し,特定の種類の報告と特定の種類の対象との間に見出される連接が恒常的か変わりやすいかに応じて証明か蓋然性とみなされる(E 10.6)

以上のテキストをめぐってコーディは解釈を展開していくのだが, その議論において彼は, ヒュームが, 証言は知識を生み出すことを認めようとしていた(つまり懐疑的な態度を取ろうとはしなかった)と考えている. このテキストに対するコーディの解釈を整理する前に, いくつかの用語に説明を加えておこう.

ヒュームによれば, 数学や論理学の知識を除いたあらゆる知識は「蓋然的(probable)」であると言われる. しかし, 「太陽が明日ものぼる」や「人間はみな死ぬ」といった命題が蓋然的にしか真ではないということは直観に反するだろう, と彼は言う(cf. T 1.3.11.2). そこで, 彼は信念の度合いを認め, 「疑いや不確かさから完全に逃れて」いる経験的知識を「証明(proof)」, そしてそれに劣るような「まだ不確かさの伴う」ものを「蓋然性(probability)」と呼ぶ (ibid.).

先の引用箇所の説明に戻ろう. そこでヒュームは, 「特定の種類の報告」と「特定の種類の対象」との間にある連接の“恒常性”を問題にしている. 要するに, いつも事実と一致していたタイプの報告は強く信じることにおいて正当化され, あまり一致していないタイプの報告はあまり信じないことにおいて正当化されるという具合である.

しかしコーディによれば, 先のテキストは曖昧性を含んでいる. というのもヒュームの「特定の種類の報告」と「特定の種類の事実」という表現に対して「どんな種類の特定の報告と事実なのか?」という問いが立てられるからである. コーディはいくつかの可能性を検討した上で最終的に次のものが「ヒュームの意図を解釈する自然な方法」(1992, 84)だと論じる. それすなわち, 特定の種類の報告とは, 報告内容の種類を意味する, と. 例えば私たちは日常生活の中で, 「◯◯社は嘘の記事ばかり書く」とか「△△新聞は政府に忖度しているので信用ならない」とか言いつつも, その新聞が伝える殺人事件や交通事故については信じている. つまり, 交通事故情報や事件の情報は大体いつも正しいという経験を持つので, そうしたタイプの報告を強く信じることにおいて正当化されるが, ゴシップや政治的な利害関係のある内容の報告については, しばしば事実と異なる報告がなされるという経験を持つため, 信じることにおいて正当化されないというわけである6.

4.萬屋とライトによる「有徳さ」に注目した解釈

次に, 近年の, やはり懐疑論を取らない解釈としてサラ・ライトの解釈(Wright 2011)とそれを発展させた萬屋の解釈(萬屋 2017)を紹介する.コーディが報告される内容のタイプで信念の度合いを決定する場合わけを行ったのに対して, 彼/彼女らは, 証言者のタイプでそれを場合わけすることを重視する. ライトが自らの解釈を「徳理論的(virtue theoretic)」と名づけていることからもわかる通り, 彼女は, コーディの解釈を整理した際に論じた「特定の種類の報告」が報告者のタイプを意味すると考える. より具体的に述べると, ヒュームの証言論においては, 聞き手が話し手についてその「誠実さ(honesty)」と「有能さ(competence)」を経験していることが, 話し手の証言から聞き手が知識を得る条件である, とライトは主張している(Wright 2011, 254-255).

以上のライトの解釈を支えているのが, 『人間知性研究』における次のテキストである.

もし記憶力がある程度まで強くなかったとしたら, もし人間が一般に真理への傾向性と廉直性の原理を持っていなかったとしたら, もし嘘を見破られた時に恥を感じることがなかったとしたら, 要するに, もしこれらのことが経験によって, 人間本性に本来的に備わった性質であると発見されていなかったとしたら, 私たちは人間の証言に少しの信頼も決して置くことができなかっただろう. 狂乱状態の人(delirious), あるいは嘘つきや悪人として知られた人は私たちに対していかなる権威も持たない (E 10.5)

ライトによれば, ここでヒュームが狂乱状態の人と嘘つきや悪人の証言を認めないとしていることが, 彼がそれぞれ「誠実さ」と「有能さ」の徳の経験を聞き手に要求していることの証左だという(2011, 255). したがってライトの解釈では, 誠実で有能な人だと判断された人の報告内容は強く信じることが正当化される一方で, 不誠実で有能ではないと判断された人の報告内容は信じることが正当化されないことになる.

より最近になって萬屋が, ライトの解釈に付加的な条件を加えて発展させている(萬屋 2017). 萬屋によれば, ライトの解釈が提案した「誠実さ」と「有能さ」は, 信念の正当化条件として必要ではあっても十分ではない. というのも, その条件では, 聞き手の側において, 話し手がどんな種類の内容を報告することにおいて有能であるかを判断しきれないからである7. 例えば, 医学的内容について正しく報告する能力を持つ人が, 必ず政治的内容について正しく報告する能力を持つわけではないし, その逆もまた然りである.

そこで萬屋は, ヒュームが『道徳原理研究』であげた「知恵(wisdom)」という有徳さに注目する. 萬屋によれば知恵は, 「話し手の伝えた情報に関する背景知識によって、話し手が具体的にどの専門に属する証言をしたのかを判定できる」能力であり, これを発揮することによって聞き手は, 話し手がどの分野において有能さを持ち合わせているのかを判断する(2017, 241).

この萬屋の解釈は, 「ヒュームの証言論において, 証言から知識が生み出されるのはいつだとされているか?」という問題に対して, 重要な示唆を与えている. というのもこの解釈は, 知恵を発揮して話し手の証言を分類できなければ, 聞き手はその証言を信じることにおいて正当化されないということを含意するからである. これによって例えば次のような事例において, ライトと萬屋の解釈は鋭く分かれるだろう. 今, 学校で先生や教科書から教わる内容は正しいという経験を持っている小学生の太郎がいる. 太郎が姉の花子が持っていた高校の教科書を読んだとしよう. 太郎はまだ小学生なので, 姉の教科書に書かれている内容が何についてのものなのかわからなかった. ただ彼は, 教科書にふられたルビをみて「ときとじょうけんをあらわすふくしせつではみらいのこともげんざいけいであらわす」のだ, と思った. この時, ライトの解釈では, 太郎は教科書が信頼できる媒体だと知っているだけで, 太郎の信念は正当化される. つまり, 太郎はこの事例において知識を獲得したことになる. しかし一方で萬屋の解釈では, 太郎はこれが何についての証言であるか判断できる背景知識, すなわち知恵を持っていないため, この事例において太郎は知識を獲得できていないと説明することになる.

5.フォグリンによる二段階プロセス解釈

これまで紹介してきたコーディ, ライト, 萬屋の解釈は, ヒュームが証言を知識形成の手段だと認めようとしていた, という解釈の方向性を取りつつ, 彼のテキストの「特定の種類の報告」が意味するところを吟味していた. とりわけ萬屋の解釈が明らかにしたのは, 聞き手が話し手の証言から知識(正当化された信念)を獲得するためには, 証言の内容のタイプと証言者の有徳さの二つのことがらについて十分な経験を持っている必要があるということであった.

なお, 一見するとこの帰結は当然のことであるように思われるが, これは, ヒュームが私たちの証言をめぐる認識実践についてある程度まで正しい理解を持っていたということを示している. ヒューム哲学の目的は, 『人間本性論』第一巻の序文に従えば, 人間が日々行っていることを記述し, その営みを可能にしている人間精神の原理すなわち人間本性を解明することにある(cf. T intro. 4-10). したがって, もし彼が人間の営みに関して誤った理解を持つならば, その記述も誤ったものにならざるを得ず, 結局その背後にある原理の解明も失敗に終わるだろう. だからこそ, ヒュームが証言に関して“常識的な”見解を持っていたと確認しておくことは, 重要なのである8.

さてしかし, 萬屋の解釈においても不明瞭な点がある. それは, 話し手の種類に関する経験と報告内容の種類に関するそれという全く異なったものをどのようなプロセスで私たちが比較するのか, という点だ. 二つの条件は共約可能なのだろうか. そうでないならば, どちらが優先されるのだろうか. こうした問題に対してひとつの可能性を示した解釈として, フォグリン(2003)がある. したがって, フォグリンの解釈を紹介する.

フォグリンによれば, 聞き手が証言から知識を獲得するためには, 「直接的方法(direct method)」と「逆算的方法(reverse method)」という二つの手続きを順にふむ必要がある(2003, chap.1). この特徴を踏まえて, 本稿では彼の解釈を「二段階プロセス解釈」と名づけて紹介を進める.

まず直接的方法に関して, フォグリンは次のような特徴づけを与えている. すなわちそれは, 「報告それ自体の性質(the quality of the reports themselves)」や, 「報告をした人物の資質(the qualifications of those who have offered them)」を基準にして判断を下す方法である, と(2003, 6).

フォグリンによれば, 以下のテキストが, この直接的方法をヒュームに帰属させる根拠である.

私たちは次のような時には, どんな事実の問題に関しても, 疑念を抱く. それは, 目撃者が矛盾[した証言を]するときや, ほんの少ししかいない時であり, あるいは彼らが疑わしい性格をしているとき, そして自分の主張することがらについて利害関心を持っている時であり, また, 躊躇いながら証言するときや, 逆に, 非常に激しく断言する時である(E 10.7)

フォグリンはここから, 次の五つの条件を直接的方法において考慮されるべき必要事項だと論じる.

1. 証言が互いに矛盾しているのではなくて, 一致している

2. 証言者が少数ではなく, 多い

3. 証言者が, 疑わしい性格ではなく, 非難される余地のない性格の人である

4. 証言者が[証言内容に対して]利害関心のある集団ではなく, 無関心な集団に属している

5. 証言者が証言を躊躇ったり断言したりするのではなく, 自信に関して調整された口調で提示している(2003, 8)

これらの条件を列挙した後でさらに彼は, 話し手が「問題となっていることがらに関連した専門知(special knowledge)を持っている」という条件を加えることができるだろう, と述べている(ibid.). これは, ライトのあげた「有能さ」や, 萬屋がライトの解釈に対して加えた「知恵」と同様の条件だとみなすことができるだろう. また, 条件3や5は, 「誠実さ」と同様の条件だとみなすことができる.

一方でフォグリンは, 逆算的方法について以下のように論じる.

 

私たちは, 報告されたある出来事が起こりえた蓋然性を, 与えられた証言それ自体を考慮に入れることなしに考えることから始める. もし出来事が常軌を逸していたり驚異的なものであったりした場合は, まさにヒュームの言葉を繰り返せば, 「その事実がどれほど普通でないかということに比例して, 証言から生じる明証性に減少の余地が生まれる」のだ. ここで出来事が生じることが蓋然的ではない(improbability)ということが(おそらく決定的ではないにしても), その証言の力を疑問に付す. これを, 証言を評価する逆進的方法と呼ぼう(2003, 7)

このフォグリンのテキストは, 逆算的方法それ自体のプロセスと, 直接的方法と逆算的方法との関係という, 二つのことがらに関する彼の主張を明らかにしている. まず逆算的方法それ自体のプロセスに関して言えば, これは直接的方法とは異なって, 証言された内容の出来事それ自体の起こりやすさを考慮するものである. 例えば, 日本において, 国鉄が民営化してからというもの, ストライキにより電車が遅れるということはなかった. したがって, いかに多くの信頼できる人が「ストライキで新幹線が運休している」と報告しようとも, この出来事の起こりやすさ(起こりにくさ)に比例して, 信念の強さを減じることが要求される, という具合である. これは, コーディの報告内容の種類に応じて信念を調整するという条件と同様のものとみなすことができるだろう. 次に, フォグリンの二段階プロセス解釈における直接的方法と逆算的方法の関係について, 先の引用箇所からわかることを示しておく. 先のテキストから, フォグリンは, まず私たちは直接的方法によって信念を獲得した後で, 必要があれば逆算的方法によってその度合いを減じ, 適切な強さで信念を抱く(あるいはそもそも信念を抱かない)ようになる, という証言受容のプロセスをヒュームに帰属させている, と理解できる. 彼のこうした見解は, 本節冒頭で先に提示したところの, 「話し手の種類に関する経験」と「報告内容の種類に関する経験」の間の関係の問いに対して, 十分ではないにしても, ある示唆を与えているように思われる. それは, 心的プロセスの中では前者が順序においては先であるということだ.

以上のようなフォグリンの二段階プロセス解釈は, ヒュームの「特定の種類の報告」という表現の解釈だけでなく, そこで考慮される要素どうしの関係まで述べている点で, これまで紹介してきた他の解釈よりも優れたものだとみなすことができる. しかし一方で, 直接的方法において考慮されるべきだと言われている話し手の性格やその評価方法の具体性が欠けている. こうした点は, ライトや萬屋の解釈の方に分がある. したがって, 筆者自身の考えを言えば, 証言を聞くことで知識が生産されるプロセスの全体に関しては,フォグリンの解釈を取りつつ, それぞれの条件のより具体的な説明を萬屋の解釈で補うことがヒュームの証言論解釈としては適当であると思われる9, 10.

6.社会認識論への第一歩

さて, 先行研究を整理した本稿のこれまでの議論が正しいならば, 人が証言から知識を得るためには, あらかじめ証言という手段が一般に信頼に値するものだという信念を持った上で, 直接的方法と逆算的方法によって適切な度合いの信念を抱くというプロセスを経なければならないのであった. とりわけ直接的方法において人は, 話し手の誠実さだけでなく有能さを見極める必要がある. そこでは, 単に話し手が有能だと判断するだけでは十分ではなく, どの分野の報告をすることにおいて有能さを持ち合わせているかを判断できなければならないのであった. こうした要求が, 聞き手に高い認識的負荷をかけることは言うまでもない. というのも聞き手は, これまでに話し手や証言内容に関して自分が見聞きしてきたことを精緻に分析する必要があるからである.

実はヒュームは, 『人間本性論』第一巻第三部第十五節「原因と結果を判定するための諸規則」において, 因果推論をするにあたって人が従うべきだと認めるような八つの規則をあげている(T 1.3.15.2-10). これらの規則は, 証言から知識を得るために聞き手が自分の過去の経験を分析する方法として理解することもできる(既に本稿第一節で指摘しておいたように, ヒュームにとって証言は一種の因果推論であるのだから). この規則を八つ列挙した後でヒュームは, 次のように述べる. すなわち, 「これらの規則は, 考案することはとても容易だが, 適用することは異常なほど難しい」, と(T 1.3.15.11). さらに注目すべきことに, ヒュームは, 学者がこの規則を用いるということにおいて一般大衆よりも優れているということはない, と言う(ibid.). なるほど, 本稿がこれまで述べてきたように, ヒュームはとりわけ『人間知性研究』の奇蹟論において, 聞き手個人が特定の証言から知識を得るため(あるいは特定の証言を排除するため)になすべきことを論じたのかもしれない. しかし『人間本性論』では一方で, そうした個人への要求には限界があることをはっきりと認めているのである.

これまで述べてきたように, ヒュームにとって証言は因果推論の一種であるが, この個人への要求には限界があるという事態は証言になると因果推論よりもさらに深刻である. 彼は「いつの時代にも人々が嘘をつくことは何も不思議なことではない」(E 10.21)と言うし, あるいは, 証言を聞くということには情念の影響で判断力が働かない事態があることを強く示唆している (cf. E 10.17,18). つまり, 話し手の証言を聞いたときに, 聞き手が常にフォグリンや萬屋の主張したようなプロセスで信念を形成し, 知識を獲得できているとは言い難いのだ. このことは, コーディが最終的にヒュームの証言論を過度に個人主義的だとして批判したこととも繋がるだろう. 彼はヒュームの証言論に関する解釈を展開した後, 最後に「ヒュームの証言に関する描像は, 認識的自律性に関して幻想的とさえ言える理想的なものを支持している」(Coady 1992, 100) としてヒュームを糾弾した. ここでコーディが言わんとしていたのは, 結局ヒュームの証言論では, 知識はなんでも自分の経験によって獲得すべしという明らかな無理難題を私たちに課すことになるということである.

こうした疑念は正しく, やはりヒュームは奇蹟の証言を排除する過程で, 明らかに過度な要求を主体に対して行ってしまったのだろうか. もしそうだとすれば, 先にも確認したように, ヒュームの哲学的プロジェクトは失敗していることになるだろう.

ここで筆者は, ヒュームが『人間知性研究』において社会制度に言及した認識論を展開していることに注目し, 彼の証言論が以上の指摘から逃れていることを示したい. 彼は次のように述べている.

あらゆる歴史の中で, 十分な数の次のような人々によって証言された奇蹟というのは, 一つも見当たらない. その人々というのは, 疑いのない良識を持ち, 教育を受け, 学識があることで, 彼ら自身が全く欺かれていないと私たちを安心させるような人々であり, また, 疑問の余地のない誠実さ(integrity)を持つことで, 他人を欺こうという企図を持っているのではないかという疑念から全く逃れている人々であり, 人類の目には信用と評判があると写っているので, もし何か偽りが発見された場合には多くのものを失うような人々である. しかもこれと同時に, 事実の証言が公然と, 世界の著名な場所で行われているため, その証言が看破されることが避けられないような場合においてはそうである. これらが人々の証言を十分に確信させるのに必要とされる全ての事情である(E 10.15)

ヒュームはこのテキストにおいて, 証言を構成する要素のうち, 聞き手の判断力よりもむしろ証言がなされる状況や話し手に課される制約によって, 奇蹟的な証言がなされなくなると主張している. 言葉を補えば, この箇所は, 話し手が的確で正しい証言をする傾向性を持つ人々で構成されているか, そうでなかったとしても, 正しい証言をする (誤った証言をしない)ことに対して社会がインセンティブを与えることによって, 聞き手の信念が正当化されるという可能性を示唆してはいないだろうか. もしそのような指摘が可能ならば, 個人の心的プロセスに限らず, 社会的なプロセスによる知識形成を認める点で, ヒュームの認識論は社会認識論への第一歩を踏み出しているといえる.

7.おわりに

これまで本稿は, ヒュームの証言論に関する先行研究を整理し, それらが証言から知識を得るプロセスを論じようとしつつも, 聞き手に対して過度に負荷をかける解釈となっていることを明らかにした. その上で, 『人間知性研究』のうちに, ヒュームが社会認識論的な考察を行っているとみなすことのできるテキストを見出し, 個人主義を打破するために, 社会認識論として読むという方向性を示した.

一見すると本稿が提示した解釈は, テキスト的根拠が乏しく, 突飛なものに思われるかもしれない. しかし第一に, ヒュームの知識観に照らし合わせると, それほど突飛ではないことが理解されるだろう. 彼が『人間本性論』で打ち出した「人間学」は, 経験と観察という方法論を採用しているが, これは人間学がヒューム自身の経験と観察だけに基礎づけられているというのではない. むしろ歴史, つまりは過去の人物が経験したことや観察したことまでも含む. これが意味するのは, ヒュームの哲学探究がそれ自体で社会認識論的だということだ. また第二に, ヒュームは『人間本性論』第三巻や『道徳原理研究』, そして『道徳政治文学論集』においては, 人間本性を社会制度の分析を通して, 学問的探究一般の社会性を明らかにしている. 例えば「技芸と学問の発展及び生成について」では, 「国民が自由な政体の恩恵を享受するのでない限り, どんな国民の間でも, 技芸と学問が第一に生成することはない」(Essays, 103)といったテーゼを提示するのも,社会認識論的な分析とみなすことができるだろう. だが以上のことは, 個人主義的な解釈の限界を示すことに終始した本論文の目的を大きく超えることとなる. したがって, 今後, 彼の一見したところ個人主義にみえる認識論が, どのような仕方で認識の社会性という側面を捉えているのかを明らかにしていくことが必要である.

  1.    ただしこの点に関しては, 現代の証言の認識論において議論が交わされている. 例えば, 盗み聞きをすることは証言から知識を得ることだろうか. あるいは, 話し手が自分では全く信じていないことがらに関して報告した結果, 聞き手が真なる信念を獲得することは, 証言によって知識を獲得したことになるのだろうか. こうした問題は知識の本性の問題というよりもむしろ, 誰を証言者や聞き手として認めるかという問題であるように思われる. 詳しくはLackey 2011を参照されたい.
  2.    第四及び第五点目に関しては, ヒューム自身が明文化しているわけではないが, 証言や伝聞を論じたテキスト(『人間本性論』や『人間知性研究』, 『道徳政治論集』等)の諸例から概ね主張することができる.
  3.    ヒュームの知識論におけるいわゆる「ヒュームのフォーク」に従えば, 数学と論理学に関する知識とそれ以外の知識が区別され, それぞれ「知識(knowledge)」と「蓋然性/蓋然的信念(probability)」とされるため, ここでは正確に言えば「蓋然的信念」とすべきである. しかし本稿では, ヒュームの言葉遣いによって読者を混乱させることを避けるべく, 蓋然的信念も正当化された真なる信念である限りで, それを知識と呼ぶことにする.
  4.    ここで, 私たちが事実と証言との間に一致をみてとるという認識論的な主張から, 一致があるという存在論的な主張へと飛躍していると思われるかもしれない. その正当性についてここでは十分に議論することができないが, 一般に「恒常的連接」が経験つまり認識についての主張なのか, あるいは対象すなわち存在についての主張なのかに関しては, ヒューム自身の記述が曖昧であると考える. これは例えばGarrett 2015による恒常的連接の説明が「別のタイプの出来事に付き従われている, あるタイプの出来事の繰り返しの生起, あるいはその経験(the repeated occurrence or experience)」となっていることからも理解されるだろう(339).
  5.    ただしここで「証拠」というのは, 現代認識論における「証拠主義」が用いるような意味での証拠に限られない. 現代認識論における証拠主義については, 上枝 2020を参照されたい.
  6.    コーディの解釈のより詳細な検討については山田(2010), 萬屋(2017), 及び高萩(2021)を参照されたい.
  7.    萬屋自身の表現では「有能さ」ではなく「専門家」である(2017, 240)が, 話をわかりやすくするために本稿では, 先行する研究であるライトの表現に揃えている.
  8.    ヒュームと常識との関連については, 相松(2020)がある. 相松はそこで, ヒュームの道徳哲学における常識の発生論をコンヴェンションや言語と絡めて論じている.
  9.    ただし筆者は, 話し手の性格という条件を考慮する具体的なプロセスが萬屋の解釈で十分だと考えているわけではない. この点はまた別の機会に論じるつもりである.
  10.    この機会をとらえて, 以上の解釈研究がこれまで明示してこなかった(悪くすれば見落としていた)点について少し詳しく論じておきたい. さて, ここで筆者がまず主張したいのは, ヒュームが証言論の中で混同されがちな二つの別個な問題を論じているということだ. それらの問題とはすなわち, 「個別の証言の信頼性をどのように得るか」という問題と, 「証言一般の信頼性をどのように得るか」という問題である. この問題が関連しつつも別個であることは, 例えば次のようなことを考えてみれば容易に理解されるだろう. つまり, 近視の人が, 「このメガネをかければ遠くのものがよく見える」と考えることと, 「そもそもメガネをかけると遠くのものが見えるようになる」と考えることが別であるということだ. 実はこのような区別は, 因果論においてまさにヒューム自身が行ったものであった. 彼は『人間本性論』において, 「あらゆる存在の始まりには原因がある」という一般因果律の問題と, 「しかじかの結果にはしかじかの原因がある」という個別因果法則の問題を一度は分けて論じている(T 1.3.2.14,15). さらに, 証明と区別された狭義の蓋然性について論じたテキストの中でヒュームは, 人が成人すれば(成人しなくとも, ある程度の年齢でも十分だろうが), 例え一度しか経験したことがなかったとしても, 十分にその事例を吟味した上で, 次に起こることを予測可能であると論じる(T 1.3.12.1-4). この時彼は, 人は「原因と結果の結合に関する別の観察」を持っているがゆえにこれが可能なのだと言う. 木曾も訳注で指摘している通り, これは自然の斉一性の信念であり, つまりは, 一般因果律をすでに知っている人が個別の因果法則をどう学ぶかということがそこでは問題となっていることの証左である(1996, 348). 要するにヒュームは因果論の中で, 「因果推論一般は信頼に値するものなのか, そうだとすれば, その信頼性はどこからくるか」という問題と, 「しかじかの因果推論が信頼に値すると言う信念はどこからくるか」と言う問題を分けて論じているのである. これは, 自然の斉一性という概念の獲得過程の問題と, その適用の問題の区別であるとも言い換えられるだろう. ここで重要なのは, ヒュームも正しく理解している通り, 人が個別の因果推論を行うためには, 一般因果律を知っていることが前提となっているということだ. どのような因果推論をすれば真なる信念を獲得できるかを吟味するという営みは, 因果推論が一般に真なる信念を生み出す手段だという信念なしには行われ得ないのである. さて, 以上のことをふまえれば, ヒュームが証言論においても(彼自身自覚してはいなかったかもしれないが)異なる二つの問題を論じていた可能性を指摘することができる. つまり, 「証言は一般に信頼できるのか, そうだとすればその信頼性はどのように獲得されるのか」という問題と, 「どの証言がとりわけ信頼に値するのか」という問題である. その上で本稿がこれまで整理して紹介してきた先行研究を振り返ってみると, どれももっぱら後者の問題を扱っていたことがわかる. しかしどれも, 人が証言一般の信頼性をどのように獲得するのかという問題には触れていない. それどころか, 悪くすれば, この二つの問題を混同している様子さえ見受けられる. そこで, 「そもそも証言一般は信頼に値するものだ」という信念がどのようにして人のうちに生じるか, に関するヒュームの見解をここで述べておく. 重要なのは, ライトの解釈を紹介する際にも引用した, 『人間知性研究』の次のテキストである. すなわち, 「もし記憶力がある程度まで強くなかったとしたら, もし人間が一般に真理への傾向性と廉直性の原理を持っていなかったとしたら, もし嘘を見破られた時に恥を感じることがなかったとしたら, 要するに, もしこれらのことが経験によって, 人間本性に本来的に備わった性質であると経験によって発見されていなかったとしたら, 私たちは人間の証言に少しの信頼も決して置くことができなかっただろう. 狂乱状態の人(delirious), あるいは嘘つきや悪人として知られた人は私たちに対していかなる権威も持たない」 (E 10.5)とヒュームは述べている. ここで彼は, しばしば話題にする歴史家や旅行者といった特定の人の証言に限ることなく, 証言一般をなぜ私たちが信じるのかということを問題にしている. また, 私たちがここであげられているような人間本性の原理を経験することで, 証言一般の信頼性を獲得するのだと論じている. したがって, 次のように主張しても良いであろう. すなわち, 成人が一般に自然の斉一性原理を知っていて, それに基づいて個別の因果推論を行うのと同様に, 人の誠実性や恥について知っていて, それに基づいて個別の証言の信頼性を評価するのである, と.
  11.    本論文は, 高萩の研究発表である「ヒューム証言論の社会認識論的な洞察について」(2021年度哲学若手研究者フォーラム)の原稿を大幅に加筆・修正したものである. 先の研究発表に対して有益なコメントや重要な示唆を与えてくださった, 阿部裕彦さん, 田中凌さん, 中根杏樹さん, 三浦隼暉さん, 渡辺一樹さん(五十音順)と, 匿名の校正者に, 深く感謝する. また, 本研究は、JST次世代研究者挑戦的研究プログラムJPMJSP2123の支援を受けたものである.

参考文献

【ヒュームの著作】

Hume, David. [1739-40] 2007. A Treatise of Human Nature, 2 vols., Norton, David F. & Norton, Mary J. (eds.), Oxford: Oxford University Press. (=木曾好能[他訳]. 1995-2012.『人間本性論』, 法政大学出版局.)[略号:T]

———. [1741-1777] 2021. Essays, Moral, Political, and Literary, 2 vols., Beauchamp, Tom L. & Box, Mark A. (eds.), Oxford: Oxford University Press. (=田中敏弘訳. 2011『道徳・政治・文学論集』(完訳版), 名古屋大学出版会.)[略号:Essays]

———. [1748] 1999. An Enquiry concerning Human Understanding, Beauchamp, Tom L. (eds.), Oxford: Oxford University Press. (=神野慧一郎&中才敏郎[共訳]. 2018『人間知性研究』, 京都大学学術出版会.) [略号:E]

———. [1751]1998. An Enquiry concerning the Principles of Morals, Beauchamp, Tom L. (eds.), Oxford: Oxford University Press. (=渡辺峻明訳. 1993『道徳原理の研究』, 晢書房.)

【二次文献】

相松慎也, 2020. 「コンヴェンション・言語・常識 ヒュームの道徳哲学における常識の生成」, 『「常識」によって新たな世界は切り拓けるか—コモン・センスの哲学と思想史—』, ⻘木裕子, 大谷弘 [編]. 晃洋書房.

Coady, John. 1973. “Testimony and Observation,” American Philosophical Quarterly, Vol. 10, No. 2, 149-155. ———. 1992. Testimony: A Philosophical Study, Oxford: Oxford University Press.

Fogelin, Robert. 2003. A Defense of Hume on Miracles, Princeton University Press.

Garrett, Don. 2015. Hume. New York: Routledge.

林誓雄. 2015.『襤褸を纏った徳 —ヒューム 社交と時間の倫理学』, 京都大学学術出版会.

木曾好能. 1995. 「解説—Ⅱヒューム『人間本性論』の理論哲学」, デイヴィッド・ヒューム著, 木曾好能訳, 『人間本性論第一巻—知性について』, 法政大学出版局, 367-616.

Lackey, Jennifer. 2011. “Testimony Acquiring Knowledge from Others,” Social Epistemology: Essential Readings, Alvin I. Goldman & Dennis Whitcomb (eds.). Oxford University Press.

高萩智也. 2021. 「証言という印象:ヒュームの認識論に「証言」を位置付けなおす」修士学位論文:慶應義塾大学(哲学).

上枝美典. 2020.『現代認識論—ゲティア問題から徳認識論まで』, 勁草書房.

Wright, Sarah. 2011. “Hume on Testimony: A Virtue-Theoretic Defense,” History of Philosophy Quarterly, Vol. 28, No. 3, 247-265.

山田貴裕. 2010. 「証言の認識論—還元主義と反還元主義」『哲学論叢』(京都大学哲学論叢刊行会)第37号, 61-72.

萬屋博喜. 2017.「証言と徳—ヒュームの証言論」『哲学』(日本哲学会)第68号, 231-245.

 
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