山梨英和大学紀要
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ルターは「洗礼」と「聖餐」をどう考えたか—カトリック、ツヴィングリ、再洗礼派との違いを通して—
(宗教改革500年の旅-わたしたちは何処からきて、何処へ向かっているのか?-「県民コミュニティーカレッジ2017」レポート)
大久保 絹
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2017 年 16 巻 p. 115-120

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抄録
私は県民コミュニティーカレッジ「宗教改革 500 年の旅—わたしたちは何処から来て、何処へ向かっているのか?—」に司会・ナビゲーターの一人として参加し、5回の講座を県民とともに聴講する機会を得た。そこでは、多くの学びがあり、考えるべき課題を示唆された。たとえば、近代的個人の「良心」の基盤にはキリスト教があること(第1回)、礼拝で賛美歌を歌うことはルターの宗教改革の帰結であること(第2回)、人間の悪についてのパウロ、フロイト、ユングたちによる考察には今でも意義があること(第3回)、宗教改革の時代から現在までキリスト教徒として本質的な生き方とは何かを模索しながら独自な生き方を貫いている再洗礼派の姿勢(第4回)、カトリックのミサのパンとぶどう酒が信徒に与える力(第5回)など、である。そこで、以上の学びから刺激を受けた山梨県民として、今回の講座ではあまり踏み込まれなかったルターの神学、とくに「洗礼」と「聖餐」に関わるルターの主張について、考えてみたい。このふたつについて考えるのは、「実際、聖餐の問題は宗教改革者のあいだでもっとも重大な争点となっていた」からという教理史的な重要性もあるが、聖書を読み、イエス・キリストの投げかけた問いに応えるということは、キリスト教徒であり、山梨英和大学に奉職するものとして学ぶべき切実な問題だからでもある。
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© 2017 山梨英和大学
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