日本中東学会年報
Online ISSN : 2433-1872
Print ISSN : 0913-7858
19 巻, 1 号
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  • 三浦 徹
    原稿種別: Special Issue
    2003 年19 巻1 号 p. 1-2
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
  • 岸本 美緒
    原稿種別: 特集
    2003 年19 巻1 号 p. 3-26
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
    「共同体的所有から私的所有へ」といった共通の発展論的枠組が解体し、臓器移植や中絶をめぐる新しい問題群が出現するなかで、「所有」をめぐる問題は、一種の混沌感覚を伴いながら、論議の的となっている。本稿は、清代中国を中心として所有をめぐる若干の問題を素描しつつ、歴史上の所有観念の比較の方法を論じようとしたものである。清代においては土地をはじめとして奴婢を含むさまざまなものや人が相当程度自由に売買されており、その所有権のあり方は近代の私的所有権にも比せられる性格をもっていた。しかし、清代における家産に対する家長の権利や「王土王民」観念の存続を検討するとき、その所有主体として想定されているのは、「自らを所有する」自立した人格というよりは、垂直的な人倫の網の目の一環としての人であることに思い至る。ただその網の目が開放的に広がっているため、強固な統制力をもつ共同体などを欠いた開放的で自由な社会とも見えるのである。中国の帝政時代には、民の土地所有の究極的な正当性は、古代の理想政治における王による土地分配に帰せられていた。これは、無主の地の開墾を契機とする前国家的な権利に正当性の基礎を置くロック的な論理と対比されるものである。ここから、「個的権利」を出発点とする論理(「A型」)と「全体」を出発点とする論理(「B型」)とを理念的類型として抽出することができるが、しかし実際には個的確利と全体の福利との緊張関係こそが多様な地域における所有論議をひきおこしていたのであり、これらの型は、その際に用いられる言説的枠組の相違をいうにすぎない。なお、イスラーム社会においては、A型・B型を超越する「神」が論理的な基点となるため、所有権論議のあり方は、中国や近代ヨーロッパとはまた異なる形をとったといえよう。国家的土地所有はしばしば「アジア的専制」の一表現と考えられてきたが、実際には、歴史上「国家的土地所有」に類する観念は、地主権力の抑制、地税の確保、小農民の保護など、さまざまな課題に対応し得る汎用性のある理論として用いられてきた。絶対的な私的所有権が資源に対する他者のアクセスを阻害するものであることを考えるとき、「国家的土地所有」の観念がむしろ「自由」と親和的にとらえられる場合もある。また、臓器や胎児の処分権をめぐって今日問題になっている「自己所有」に関しても、様々に伸縮し得る「自己」の境界を考慮にいれるならば、共通の問題は歴史上の多くの社会においてみられ、「自由」と複雑に絡み合った問題群を形成してきた。本稿は、これらの問題に対する初歩的な素描にすぎないが、今後比較の問題を考えて行く上での糸口となれば幸いである。
  • 柳橋 博之
    原稿種別: 特集
    2003 年19 巻1 号 p. 27-43
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
    後世のハナフィー派はタウリヤを、「信頼売買」の一つとして定義している。同派は、タウリヤにおいては、売主が目的物の取得に要した原価を表示し、それと同額で転売することから、これを商取引に疎い買主を保護することを目的とする売買と解したのである。しかしイスラーム法形成期の8世紀の少なくとも初頭においては、タウリヤが締結される場合、買主が目的物を転売することによって得られる転売益について売主が一定の取り分を留保することが予定されており、従ってタウリヤは一種の組合契約であった。しかし、タウリヤは形式上は売買であって、所有権を移転する機能を有することから、その締結後、ないしは少なくとも目的物の引渡しが完了した後には、その滅失・毀損について売主は危険を負担しなかった。しかし、「危険を負担しない物から利益を得てはならない」という原則が8世紀前半に導入されることによって、このいわば原タウリヤ売買は非合法化され、それに代わるものとして、イシュラークが導入された。
  • 三浦 徹
    原稿種別: 特集
    2003 年19 巻1 号 p. 45-74
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
    日常的な約束のなかから、社会的な義務を伴った「契約」を切り出してくる基準線はどこにあるのだろうか?本稿は、ヨーロッパ、中国、東南アジアとの比較のなかで、中東・イスラム世界の契約のあり方を検討し、個人の結びつきの社会的位置づけを探る。オスマン朝時代には、イスラム法廷(カーディー法廷)の文書記録が膨大に残されているが、文書化され、証人を立てて、法廷に登記された契約のほとんどは、不動産と家族法に関係するものであった。両者は、当事者のみならず、親族や隣人を含む、永続的な権利関係に関わるため、文書化と登記を行うことによって、権利の侵害に対抗し、将来の紛争を防止しようという意図をもっていた。契約の登記には、第三者を証人としてたて、法廷の吏員やカーディーの署名も証人としての機能を果たした。また当事者(もしくは代理人)、各種の証人役が出廷し、公式の手数料のみならず、非公式の謝礼などの経費を必要とした。ここからしても、登記の目的は、単発の取引の保証ではなく、長期的な経済的および社会的な利害にあった。しかし、登記の効果は、紛争の抑止力の域をでるものではなかった。訴訟において、売買の証書は副次的な証拠にすぎず、決定打は証人の証言や当事者の宣誓、また有力者の調停であったからである。逆に、偽証や裁判官の買収によって不当な利益を得ることも可能であり、これを常套手段とするものもいた。形式的要件を重んじるイスラム法の原則が、一方では偽証を生み、他方では予想される結論を回避して当事者の合意できる裁決に導くための調停を促した。これに対して、動産の取引は、法廷台帳に登記されることはなく、当事者同士の口頭の約束ないしは覚え書きで行わたとみられる。コーランは、「当事者のその場での取引であれば文書を交わす必要はないが、売買の場合は証人をたてよ」(2:282)と述べているが、法学者は、市場などでの売買(物件と代金の同時交換)であれば文書契約の必要はないと解釈した。イスラム法が禁止する付帯条項付きの契約や利子付きの貸付を行うのであれば、むしろ契約を文書化しない方が得策であった。登記された契約(法廷文書)の外側には、口約束の取引、当事者の間での決済が拡がっていた。人々は、以上のような構造を弁えて、二種類の契約(現代法でいう約束と契約)を使い分けていた。この二つの世界に共通の仕掛けが、アッラー(神)であった。法廷での陳述、証言、宣誓はもちろん、日常的な約束の際にも「神かけて(ワッラーヒ)」というせりふが用いられ、神は、約束の保証人であった。法廷の世界と当事者の世界の違いは、証人の有無、すなわち第三者を介在させるか否かにある。当事者だけでなく、隣人や家族などをふくむ社会(共同社会)の利害に関わるときに、第三者を委嘱して、紛争を防止し、紛争の解決をはかった。それを担ったのが、法廷を舞台とした世界であった。国家は、カーディー法廷にせよ、マザーリム法廷にせよ、法廷の世界を維持することで、行政権力として、人々を取り込むことができた。換言すれば、不動産と家族の管理に関わることが、国家の存在理由のひとつだったのである。契約の難しさは、自由な意志をもった個人をいかに束ねるか、しかも、過去から未来という時間のなかでこれを結びつけることにある。この難題に対して、ヨーロッパでは普遍的な法、中東イスラム世界では「第三者」という存在、中国では「一心の合意」という仕掛けをつくりだした。マレー世界では、交易の場合でも親族関係や口頭の約束が結合の基盤となり、文書契約は発達しなかったが、19世紀以降イスラム法が家族法の領域に浸透し、イスラム法廷が家族の紛争調停の場となっている。
  • 西尾 寛治
    原稿種別: 特集
    2003 年19 巻1 号 p. 75-96
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
    前近代の東南アジアの「契約」に対する関心は概して高いとはいえない。だが,マレー・インドネシア世界については,次のような興味深い論議が提出されている。すなわち,商業的契約,政治的契約を問わず口頭契約が一般的であったこと,また当事者間で家族的紐帯の構築が強調されていたことである。ところが,近世には,南アジア,西アジア,ヨーロッパとの交易が飛躍的に発展し,その結果,文書契約の慣行が港市を中心に現地社会へ次第に浸透していったという。以上の論議はおおむね妥当なものと考えられる。だが,現地社会の契約慣行の変容過程に関しては,なおいくつかの問題点が残されている。例えば,イスラームや他の民族の契約概念が,具体的にどのような変化を生じさせたかという問題である。また,特に政治的契約については,文書の利用が普及した後も口頭契約は維持されたという指摘もある。ただし,事例研究が少なく,またごく一部の地域に片寄っているため,それがマレー・インドネシア世界の実態をどの程度反映しているか明らかではない。そこで,本稿では,マレー・インドネシア世界の西部の事例に焦点をあて,現地語文献史料の分析を通して,上記のような問題へのアプローチを試みた。その結論は以下のようである。(1)18世紀以降,マレー社会では政治的契約が一層重要な意味をもつようになった。これには,域内及び域外の他民族からの文化的影響も認められる。(2)また,18世紀以降には,イスラーム的観念が誓約の保証として一層重要な役割を果たすようになった。ただし,内陸部のムスリム住民には,土着の宗教的観念による裏付けも依然として重要視されていた。(3)政治的契約では,文書よりも契約を結ぶ際の儀礼的行為が重要であったというL.Y.アンダヤの指摘は,マレー社会にも妥当する。(4)外来の契約概念の影響が認められるとはいえ,口頭契約の慣行やそれが宗教的観念の裏付けを必要としていた点に変化はみられない。それは,マレー・インドネシア世界の人々が,外来の諸観念を通して,自己の伝統を再構築していたことを示唆している。
  • 斎藤 剛
    原稿種別: 論文
    2003 年19 巻1 号 p. 97-124
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー

    Sidi Mhammad ben Ya'aqub (d.936h./1555) is one of the most famous Muslim saints among the Berbers of the Sus region, located in southwestern Morocco. He is buried in the small rural village of Imi-n-Tatlt, which is situated deep in the mountains near the Saharan desert. Since Sidi Mhammad ben Ya'aqub was alive, his descendants, the Ya'aqubiyin were beginning to disperse outward from this village encompassing the whole eastern part of the Sus region. At the same time, they built several traditional religious schools (madrasa, sing./madaris, pl.) and religious lodges (zawiya, sing.; zawaya, pl.) in the settlements and devoted themselves to traditional religious studies. In consequence, many religious scholars from Ya'aqubiyin have appeared in succession from the region ('alim, sing./'ulama', pl.), who obtained their recognition on the basis of their status as descendants of saints, and as religious scholars. Although Sidi Mhammad ben Ya'aqub and his descendants, the Ya'aqubiyin have played an important religious role among the Berbers as stated, they have largely been overlooked in anthropological or historical studies on Muslim saint-worship in this area. In this paper, using Sidi Mhammad ben Ya'aqub and the Ya'aqubiyin as a case study, I will examine how this saint's descendants diffused in particular places, and how they made use of their social networks to acquire religious knowledge and fame, and how they constructed social relationships with other prominent saints and with regional inhabitants, and finally, what kind of tactics and means they used to build their reputations. The main resources used for this article are the following: statements of oral traditions that I had collected during my field research, and some literary works of the great religious scholar Mukhtar as-Susi (1900-1963), such as al-Ma'asul, and Khilal Jazula. Chapter 1 is dedicated to an explanation and evaluation of the works of Mukhtar as-Susi to underscore the value of his works as a principal resource for the study of historical anthropology. Before discussing the Ya'aqubiyin, in chapter 2, I will concentrate on a description of Sidi Mhammad ben Ya'aqub. The most important point of this chapter in relation to the later discussion is the multi-dimensional characteristics of his religious legitimacy as a saint-in particular, his noble pedigree as a descendant of prophet Muhammad (sharif), his miraculous power (karama), blessing from God (baraka), and his status as an ascetic (sufi). In chapter 3, Sidi Mhammad ben Ya'aqub will be juxtaposed with two other distinguished saints of southern Morocco, Sidi Ahmad ou Musa and Sidi Mhammad ben Nasir, so as to shed lights on the social position of Sidi Mhammad ben Ya'aqub in the Sus region. Sidi Ahmad ou Musa is well-known as the greatest saint of this region, and there are many oral traditions of him among the Berbers. Through an investigation of a hagiography written in 17th century by a Berber scholar, and some oral traditions, it becomes clear that Sidi Mhammad ben Ya'aqub shared quite a close relationship with Sidi Ahmad ou Musa. This relation was not only in historiographical sense, but also existed in the context of the people's imagination. On the other hand, the oral tradition also elucidates the social imaginary of the strong relationship between Sidi Mhammad ben Ya'aqub and Sidi Mhammad ben Nasir, who was the founder of a mystical order called Nasiriyya. The religious studies of this order have wielded an immeasurable influence upon an entire region of Morocco, especially in the south. Through a comparison of these figures and the basis of their religious legitimacy, we can determine the importance of their relationship in enabling the descendants of Sidi Mhammad ben Ya'aqub to acclaim their religious authority not only through associating

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  • 後藤 絵美
    原稿種別: 論文
    2003 年19 巻1 号 p. 125-151
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
    After the media coverage of Afghan "Burqa" and recent revival of the dispute over "Scarves" in Europe, the Muslim woman's veil has been attracting a great deal of public attention. Extensive literature exists on this topic, but little has been done for understanding the basis of the debate-the Qur'an and its interpretation by Muslims. Therefore, as the first step to understand the meanings of the veiling of women in the Islamic cultural context, three relevant passages from Qur'anic Revelation are examined in this paper. Analysis of these passages with a number of hadith clarifies that the veil was, at first, adopted by Islamic society to distinguish free women from slaves, and to protect their safety (33:59). The "Revelation of Hijab" (33:53) which descended to the wives of the Prophet Muhammad, also secured and distinguished their status. Then 31 of Sura al-Nur (24) had come, as follows: "And tell the female believers that they restrain their eyes and guard their private parts, and not display of their adornment (zina) except for what is apparent (ma zahara min ha) and draw their veils (khimar) over their bosoms…" The words contained in this passage, such as "adornment" and "what is apparent," are very obscure. To decide the limits or the extent of the coverage, religious scholars and jurists had to interpret this passage, and because there was no solid hadith on this part, the meanings changed over time. At first, face and hands could be exposed, but around the 13th century, some scholars interpreted that those parts of the body should be covered if there were "a fear of fitna". Fitna is a temptation, a disorder of mind and society. This idea led to the severe restrictions on women showing their faces and hands; the restrictions sometimes extended to barring women from leaving their homes. This tendency is seen not only in the religious literature but also in other historic or literary sources from 10th to 16th century. Even today, the word "fitna" is used in religious literature. For example, the Taliban mandated the "Burqa" because of this fear of fitna. The fitna is one of the many reasons for the tradition of veiling Muslim women, past and present.
  • 松尾 昌樹
    原稿種別: 論文
    2003 年19 巻1 号 p. 153-174
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
    本稿はイギリス東インド会社ならびに英領インド政府によるブー・サイード朝の君主に対する称号の適用方法の変化を明らかにすることを目的とする。イギリス側は1861年まで「イマーム」の称号を適用したが,この称号を冠せられた支配者達は,イバード派の教義に則ったイマームではなかった。このような誤用の原因には,イギリス人がイバード派の教義やブー・サイード朝の歴史に関する知識を持たなかったことだけではなく,プー・サイード朝の君主達がこのような使用法を黙認することによって,イギリスからオマーンの君主と見なされる効果を期待していたことが考えられる。1859年から1871年にかけて,英領インド政府の役人であったバジャーは,オマーンの年代記の翻訳を通じて,イバード派の教義の知識を得たが,同時に彼はそれまでのイギリスによる称号の適用手法に誤りがあったことを認識するとともに,イマームではなかったブー・サイード朝の君主達を正当化する必要性を強く認識した。バジャーは彼の著作の中で,誰がオマーンの君主であったのか,というイギリスの歴史認識に適合するように説明を行った。「サイィド」が支配家系が用いた称号であり,イマームではなかったブー・サイード朝の君主が摂政としてイマームの権威を有していたという有名な説は,このようなバジャーの試みの産物であった。このような説明を用いて,バジャーは一連のマスカトの支配者を支配家系として歴史的に正当化したのである。
  • 柿崎 正樹
    原稿種別: 論文
    2003 年19 巻1 号 p. 175-205
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
    本稿では、トルコ共和国における共和人民党の社会民主主義政党への変容とそれに伴う党理念の変遷を、第三代党首ビュレント・エヂェヴイットの著作や発言を中心に分析することを試みる。共和人民党は共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによって1923年に結党され、一党支配体制の下、共和国の近代化を進めるべく様々な改革を断行した。1931年には「六本の矢」として知られるケマル主義六原則を党大会で採択し、共和主義・世俗主義・民族主義・人民主義・国家資本主義・革命主義を党の行動理念とした。37年にはこれらは共和国憲法にも取り入れられ国是となる。トルコは第二次世界大戦後、その政治体制を一党支配体制から複数政党制へと移行させる。1950年総選挙では、共和人民党の非民主的かつ官僚主義的な政権運営に反対し、より自由主義的経済政策を追求する民主党が圧勝した。一方、共和人民党は1960年クーデターで軍部が民主党政権を崩壊に追い込むまでの10年間野党の座に甘んじ、選挙での敗北を重ねていく。しかし、この野党時代、特に民主党政権が独裁的傾向を強めていく50年代後半、共和人民党には改革志向の強い若手党員が加わり、新たな党のアイデンティティーの模索が始められる。その中から党首イスメット・イノニュの支持を背景に頭角を現し、共和人民党の「左回旋」の中心的人物となったのがビュレント・エデェヴィットであった。1965年にイノニュが共和人民党は「中道左派」であると宣言したが、エヂェヴィットはそれをアタテュルク革命の延長線上にあり、アタテュルク革命を補完する行動理念と位置づけた。さらに、イノニュに代わって第三代党首となったエデェヴイットは、「中道左派」を「民主左派」に改め、党綱領を一新する。そこではケマル主義と共に民主左派主義が併記され、エヂェヴィットの下で共和人民党が社会民主主義政党にむけてケマル主義の大幅な再解釈を行ったことが伺える。結論を先取りして言えば、共和人民党の社会民主主義政党化の狙いは、それまで大衆から隔絶された中央エリートの政党というイメージを払拭し、大衆利益を代表する政党への転換であった。そのために、共和人民党は大衆に対する従来の否定的な見解を肯定的なものへと逆転させ、さらに大衆を「経済的に搾取され、政治的に抑圧された人々」とした。そしてその大衆は労働者と農民からなる集団であるとしたのである。こうして共和人民党は労働者と農民の支持を取り付け、彼らの政治的経済的権益の拡大を求めて、「人民セクター」・「農業組合」・「農村都市計画」などの政策を掲げた。70年代にはその多分にケマル主義の要素を含んだ社会民主主義は、トルコの主要な政治潮流の一つとなっていったのである。
  • 鈴木 均
    原稿種別: 書評
    2003 年19 巻1 号 p. 207-212
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
  • 2003 年19 巻1 号 p. 213-221
    発行日: 2003/09/30
    公開日: 2018/03/30
    ジャーナル フリー
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