日本地理学会発表要旨集
2004年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の228件中51~100を表示しています
  • 沼田 尚也
    p. 51
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     都市間,都市内にかかわらず,人口移動は都市構造の変容を考えるうえで重要な要素となるものである.人口移動において都市間人口移動は労働力移動,都市内人口移動は居住地選好の意味合いが強いが,そのうち,本研究では都市内人口移動を主に扱う.
    地理学における都市内人口移動研究においては,実際の移動単位である世帯別の詳細な移動データを用いたものは少なく,また都市内移動が居住地選好の意味合いが強い移動であるにもかかわらず,その着地である住宅立地と人口移動を重ね合わせて都市構造を解明した研究もあまり多くない.そこで,本研究では,詳細な世帯別の人口移動データによる都市内人口移動の傾向と住宅立地とから,都市の構造変容を解明する.

    2.研究方法
     本研究は函館市を対象地域とする.研究方法は以下のとおりである.
    まず,函館市における人口増減や転入人口などの人口特性,および住宅の立地を概観する.次に,男女別年齢別の都市内人口移動,および実際の移動単位である世帯別の移動パターンを明らかにする.最後に,それらをあわせ,さらに函館市の都市計画および住宅マスタープランを考慮に入れて,郊外化や再開発を中心に函館市の都市構造の変容を考察する.
    使用したデータは函館市から提供されたもので,主に2001年1月から2002年12月における函館市の転入,転出,転居に関する非集計データである.これは世帯を単位とするが,年齢や性別といった詳細な世帯人員のデータが記されており,そこから個人別の移動もわかるデータである.有効ケース数は転入が9,281世帯,転出が10,073世帯,転居が10,582世帯である.なお,移動の発地,着地は市内ならば町丁別に示されている.
    本研究ではこのデータからまず都市内人口移動数を図1のように示し,さらに各年齢階級や世帯の移動パターンを図2のように図示する.
     なお,資料として,住民基本台帳を基にした函館市の『町丁別年齢別人口表』,『国勢調査報告』,『函館市における新規建築申請』を併用する.

    3.結果
    分析の結果,函館市における都市内人口移動と転入人口,住宅立地の関係について下記のことが明らかになった.まず,人口特性については,函館市では郊外で人口が増加しており,都心部で減少していた.既存の住宅立地は郊外において一戸建住宅,都心部において集合住宅が多く,かつての都心部などでは長屋建住宅が多かった.新規の住宅は函館市の政策として,住宅の新規建築を誘導している市北部の郊外地区に一戸建,都心部に集合住宅の立地がみられた.また,転入人口は市の郊外地域と都心地域への転入が多くみられた.次に,都市内人口移動に関しては,個人別,世帯別の移動からは,結婚などといった人生の移動契機が多いと考えられる年齢層における移動が多いことがわかった(図1).そのとき,図2のような個人別,世帯別の移動分析から,移動契機が集中する年齢層であってもその世帯規模の別により,世帯規模が大きくなるほど郊外を指向することが明らかになった.
    さらに,人口移動や住宅立地の分析結果を併せると,函館市の都市構造変容に関しては下記のことがいえる.まず,函館市における郊外化は転入人口と都市内人口移動のうち,それぞれかなりの数が,市が政策として新規の住宅建築を促している郊外地区を指向することから起こっていることが明らかになった.このうち,中心的に分析した都市内人口移動よりその傾向をみると,移動数が非常に多い20_から_30代の年齢層が世帯の中心となって形成する世帯のうち,世帯人員の多い世帯ほど,郊外を指向し,函館市における郊外化を進める主な要因の一つとなっていた.しかしながら,同じ20_から_30代の年齢層であっても,単身世帯の場合は都心部における移動が多く,郊外化の要素にはあまりなっていなかった.だが,都心部においては新規の住宅立地として再開発と考えられる集合住宅の立地が多くあり,単身世帯の移動はこれに関連している可能性が高いことがうかがえた.
  • 守屋 以智雄
    p. 52
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1 はじめに  20年来継続している「世界の火山の地形発達とそれに基づく火山体の分類」研究の一環として,中米グアテマラの第四紀火山の地形・発達・分類,地域のテクトニクスとの関係などについて地形図・空中写真・文献などを用いて検討した結果をのべる.
    2 地域概要  グアテマラの第四紀火山は太平洋側のココスプレートがカリブ海プレートの下に沈み込むことによって生じた島弧型火山で,海溝から200 km前後の距離に北西ー南東方向に並ぶ.カリブ海プレートの西進とカリブ海プレートの北を境するCaymanトランスフォーム断層系北西部の運動に影響されたためか,火山列がブロック化し、その中の火山体や噴火の性質が異なるなどの,他の島弧の火山帯とは異なる特徴が見られる.
    3 火山体の種類・発達・年代・分布など  火山体の数は数え方によって若干異なるが75個識別された.これらの火山すべてについて地形図・空中写真を用いて地形分類を行い,地形面の特徴,重なり具合,侵食度などから地質構造・噴出量・地形発達などを推定した.その結果,成層火山41個,カルデラ火山10個,単成火山群24個の3種に分類された.
    1)成層火山はグアテマラ火山帯全体にわたって外弧側に多く認められる.1922年以来熔岩を流出し続けているSanta Maria, 2003年にも噴火したFuego, 近年しばしば噴火を繰り返すAgua,Pacayaなどの活火山はいずれも富士山型の若い成層火山(A1型)である.山頂部に数km径のカルデラを持ち,噴火活動最盛期を越したやや古い成層火山(A2型)も多く見られる.火山列南西に広がる海岸平野にはこれらの成層火山に由来する大規模な岩屑なだれ堆積物,土石流堆積物がつくる流れ山地形・火山麓扇状地が広く分布する.
    2)カルデラ火山は火山列のほぼ中央部にAtitlan, Amatitlan の二つの新しい大規模軽石噴火で生じた直径100 kmを超す大カルデラ火山の複合体が認められる..北西部のカルデラ複合体は4-5個のカルデラが重なり合って形成されたこれらのカルデラ火山は成層火山とし重なり合いながら,その内弧側に噴出している.
    3)単成火山群  グアテマラ火山列の南東側では古い成層火山群の北東にスコリア丘・溶岩流を主体とする小型単成火山群,小型溶岩原,小型楯状火山が点在する.これらは南北方向の断層にかなり激しく切られていることが多い.
    4 日本列島の火山との比較 グアテマラの火山を日本列島の火山と比較すると,次の相違点が見つかる. 
    1)日本は5つの島弧からなり,個々の島弧内では火山のタイプは比較的単一的である.しかしグアテマラの火山列は単一の島弧内にあるにもかかわらず,7つのブロックに細区分され,ブロックごとに火山のタイプなどに差違が認められる.
    2)成層火山はA2型火山が火山列全般にわたって分布する一方,A1型火山が火山列の東半分の外弧側に偏在し,会合部にA2型火山,弧状部にA1型火山が明瞭に住み分ける日本列島と明瞭に異なる.
    3)カルデラ火山の分布は成層火山の内弧側に接するように分布する.
    4)単成火山群は日本列島では内弧側の日本海沿岸に沿って細長く分布するが,グアテマラでは火山列の東端に偏在する.
    5 差違の要因 日本列島とグアテマラの火山の差違の要因として,沈み込みプレートの厚さ・温度(硬度)・傾斜や水平方向の連続性など、日本列島の背弧盆にあたる日本海・フィリピン海・東シナ海のプレートとグアテマラ弧の背弧盆であるカリブ海プレートの運動の差違などが考えられ,これらの複雑な要因をひとつひとつ解きほぐす作業が必要である.
  • 1933年と1993年に撮影された写真の比較
    吉岡 美紀, 伊藤 一
    p. 53
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1993年7月に、著者らはノルウェーと北極点の中間に位置するスバールバル諸島のスピッツベルゲン島を周回する船から、沿岸の連続写真を撮影した。
    1933年7月には、飯塚浩二が、やはりスピッツベルゲン島沿岸を船上から撮影している。
    新旧の写真の中には、ほぼ同じ地点から同じ方向を撮影した写真が数組存在する。その中には氷河が写っているものもあり、2枚の写真を比較することにより、60年の間隔をおいた氷河の変化を知ることができる。

    1.Tunabreen, Tempel Fjorden 
    Tempelフィヨルドの最奥にある氷河(図1中の1)。氷河末端(海上)部分をフィヨルド内から撮影している。氷河の厚みが減少し、末端の位置も後退している。(図2)

    2.Waggonwaybreen他, Magdalene Fjorden
    Magdaleneフィヨルドの最奥にある氷河と近傍の氷河(図1中の2)が撮影されている。厚みが減少した氷河や、以前は海上に張り出していた末端が後退して陸上にとどまっている氷河が見られる。

    3.Adambreen他, Magdalene Fjorden入り口南岸
    Magdaleneフィヨルドの入り口南岸にある氷河と近傍の氷河(図1中の3)が撮影されている。大きく後退し、画面から消えてしまった氷河もある。他の氷河も厚みが減少している。

    3地点ともに、氷河は沿岸から見える末端部分で、この60年間に厚みと面積を減少させている。

    スピッツベルゲン島の氷河の中には、サージを起こすものがあることが知られている。氷河は60年間、単調に後退していったのではなく、前進や後退を経て現在の状態になったと思われる。この点を確認するために地図や文献を調査している。

    参考文献
    飯塚浩二 1938. 「北緯79度」三省堂.
    伊藤一・吉岡美紀 1994. 沿岸定期船によるノルウェー・スピッツベルゲン島周辺の海洋調査. 海洋調査技術6(2):57-59.
    J. O. Hagen, et al. 1993. Glacier atlas of Svalbard and Jan Mayen. Norsk Polarinstitutt Meddelelser Nr. 129. Oslo.
  • ?デリー首都圏内近郊農村の事例?
    南埜 猛
    p. 54
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    問題の所在と研究の目的 インドでは,経済自由化後の急速な都市化・工業化の進展のもと,労働市場が拡大し,その就職において学歴のもつ意味が大きくなっている。このことは,これまでジャーティ(生まれ)が,職業の重要な規定要因であったインド社会において,その社会構造を大きく変革させる誘引になるものと考えられる。
    国立大学やIIT,IIMなどの一流大学への進学において,私立学校出身者の占める割合の高いことが指摘されている(押川,1998)。農村地域では,公立学校の整備さえも遅れがちで,私立学校の立地も限られていた。しかし都市が拡大することで,都市近郊に私立学校が立地し,近郊農村の住民にとって学校選択の幅が拡大している。また都市化や工業団地の立地により,就業機会も増え,それを受けて親の教育への関心も高まっているものと考えられる。そのような状況の下,近郊農村の住民が,その子供に対してどのような教育を与えているのか。そこに,インド社会を特徴づけているジャーティの間でいかなる違いがあるのか,またジェンダー間での違いはどうかを検討することが本研究の狙いである。すでに,このような視点から,デリー南東郊外のノイダ工業団地に隣接する農村R村(1997・98年調査)について検討を行い,公立学校と私立学校への進学において,ジャーティ間・ジェンダー間で格差が存在することなどを明らかにした(南埜 2003)。今回の調査では,先の調査経験を踏まえ,前回と同じくデリー首都圏の近郊農村を取り上げ,特に初等・中等教育に関わるデータを集中的に収集し,分析をおこなった。

    研究対象農村と調査方法 研究対象農村は,デリーの衛星都市グルガオン市の中心部から南西6kmに位置するGK村である。GK村は,グルガオン市中心部に近接するとともに,グルガオンの工業団地に隣接している。総世帯数は280,人口は1,698人(男927人,女771人;2001年推定)である。村には,ブラーミン,ジャート,バラギ,カティ,ナーイ(以上,一般カースト),チャマール,バルミキ(以上,指定カースト)の7つのジャーティ集団が確認された。さらに周辺の工場に勤める新住民が流入している。
    現地調査は,2003年12月に,調査票を利用した訪問聞き取り調査を行った。調査世帯は,ジャーティの構成比,家屋の分布を念頭にサンプルした。サンプル調査世帯は,村全体の約半分にあたる166世帯である。調査票では,ジャーティ,性別,年齢,職業などの基本指標に加えて,就学中の子供に対して,その通学している学校に関する情報(学校名,使用言語,所在地)を収集した。さらにサンプル調査によって確認された公立・私立学校への聞き取り調査を実施した。

    初等・中等教育の現状 インドでは,教育は州政府の所管であり,州によって教育制度は異なる。現在では,初等教育(5年),前期中等教育(5年),後期中等教育(2年)という編成に統一されつつある。GK村が属するハリヤーナー州も,基本的には,この編成である。GK村には初等教育と前期中等教育(第10学年まで)をカバーする公立学校があり,第10学年までの子供のうち65.3%はGK村の公立学校に通学している。残りは,周辺の他の公立学校(5.7%),私立学校(29.0%)に通学している。
    当日に発表では,サンプル調査より抽出した子供のデータをもとに,通学学校(公立・私立)とジャーティ,新旧住民,性,親の教育水準,親の収入とのかかわりについて,報告する。

    文献
    押川文子 1998.「学校」と階層形成_-_デリーを事例にー.古賀・内藤・中村編『現代インドの展望』125-148.岩波書店.
    南埜 猛 2003.インド農村における都市化・工業化にともなう教育行動の変化.兵庫教育大学紀要23:45-55

    (本研究は,平成15年度文部科学省科学研究費補助金 基盤研究(A)(2)「経済自由化後のインドにおける都市・産業開発の進展と地域的波及構造」(研究代表者:岡橋秀典,課題番号13372006)による研究成果の一部である)
  • 由井 義通
    p. 55
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    ハリヤナ州に属するグルガオンは首都デリーの南側に隣接し,1991年のセンサスでは114万6千に達する郊外都市である。本研究の目的は,デリー大都市圏内で都市化の進展の著しい都市の一つであるグルガオンを研究対象として,インドの大都市開発の実態と住宅供給の実態を明らかにすることである。
    グルガオンの開発はHUDA (Haryana Urban Development Authority) が主体となって行われている。HUDAは都市開発を目的として設立され,マスタープランの立案およびインフラ整備と住宅地供給などの開発行為を行っていたが,近年,開発をHUDAがライセンスを与えた民間ディベロッパーに委ねることによって,いわばエージェンシー的な役割に変化している。今回の発表はHUDAによる開発計画の紹介,DLFなどの民間ディベロッパーの活動状況,戸別訪問を行って聞き取り調査を行った結果の一部を発表する。
  • 白 迎玖, 三上 岳彦, 一ノ瀬 俊明, 嚴 香姫
    p. 56
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1.はじめに

     近年、都市ヒートアイランドによる都市熱環境問題が顕在化している。都市で働き、生活している人々が利便性を享受し、快適に暮らしてゆくために、最近では、日本をはじめ世界の様々な都市で、自然共生による都市再生・まちづくりが盛んに提唱されている。

     韓国ソウル市では、2003年7月1日から、市内の高架道路で蓋をされた状態になっている旧河川を蘇らせようという、都市内における大規模な清流復元事業(「清渓川(チョンゲチョンCheonggyecheon)復元事業」)が実施されている。この事業の環境改善効果としては、交通量の減少による大気浄化はもとより、河川周辺の夏季における暑熱の緩和効果にも注目が集まっている。

     本研究は、これまで高架道路であった清渓川を復元して水と緑の親水空間を創出するという、世界に例を見ない大規模な都市環境改善事業の実施過程で、対象地域におけるモニタリングを行うことにより、夏季の暑熱の緩和効果を定量的に実証することを目的としている。この研究はその第1報である。



    2.研究対象地域

     ソウルは、朝鮮半島の西側の中央部、漢江(ハンガンHangan)の河口から上流90km北岸の標高60mに位置する。漢江が貫流し、ソウルは南北に分断されている。ソウル市の面積は約605.52km(1997年)で、人口は韓国の総人口の4分の1に当たる約1026万人(2000年)である。

     漢江の北側にある清渓川はもともとの名称を開川(ゲチョン)といい、延長10.92km、総面積50.96平方kmである。1394年ソウルが朝鮮王朝の都となってから、清渓川は都の中心のシンボルとなってきた川であるが、長い年月を経て、1976年に高架道路で覆われたものである。清渓川高架道路は約6kmの長さで、ソウルの近代化の代表的な象徴である。高架道路は、李朝時代の王宮、廟などの観光名所が点在する鐘路(チョンノ)、ソウルの二大市場の一つ東大門(トンデムン)市場など、繁華街を通過している。



    3.観測概要

     本研究では、2003年7月1日の高架道路撤去工事開始に先んじて、6月中旬に、百葉箱内に小型温湿度計を置いた簡易自動観測ステーションを、清渓川南北500m以内に立地する小中高等学校7箇所ならびに公共機関8箇所に設置し、10分間隔のモニタリングを開始した。また、サーモグラフィー(熱赤外画像撮影装置)を用いて、当該事業の前(2003年夏)後(2006年夏)にわたる熱画像を取得するとともに、定期的に熱収支観測や温熱指数を測定することにより、都市内大規模清流復元事業の暑熱緩和効果を定量化し、日本の都市再生戦略へ応用する計画である。

     なお、当復元事業は2005年9月に終了する予定であるが、本研究では、水と緑の親水空間の創出・展開を対象とする新たなモニタリングを導入・継続する計画である。

  • 日野 正輝
    p. 57
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1.はじめに
     1980年代以降の東南アジアの大都市の成長には,外国からの直接投資(FDI)が牽引役を果たした.小長谷(1997)は拡大したジャカルタ大都市圏をモデルに「FDI型新中間層都市」論を提起している.また,外資の投資先は資源開発などの投資を別にすると首都圏に集中し,地域格差拡大の要因にもなっている.
    インドでは,国内総生産に占める外資の比率は東南アジア諸国に比べるとはるかに小さいが,1991年の経済自由化以降,FDIが急速に増大してきた.その結果,大都市の景観および都市間の成長の差に,FDIの影響がすでに現われている.
    本研究は,そうした認識から,インドにおける外資系企業の特定都市へ集中の実態と要因について調査を試みたものである.
    2.資料および調査
    インドにおける外国からの直接投資の地域的分布に関する資料に,インド政府のIndian Investment Centre が月次および年次ごとに編集・刊行しているインド企業との資本および技術提携が承認された海外企業リストがある.当該資料は外国企業とともに提携先インド企業名と所在地を紹介している.資本提携先のインド企業の所在地が外資による投資先地と見なせることから,当該資料に基づいてFDIの地域的分布を把握することにした.一方,外資の立地選択に関して,日系企業を対象にして立地要因に関するアンケート調査と聞取り調査を実施した.調査時期は2003年12月である.
    3.調査結果
    1)外資の大都市集中
     1999年,2000年,2001年の3年次に資本提携が承認された総件数は5,714件であった.このうち提携先インド企業の所在地が明記された件数は全体の95%に当たる5,400件であった.これら提携先企業の所在地は次の通り著しく大都市に集中していることが判明した.デリー1,821(32%),ムンバイ1,241(22%),バンガロール638(11%),チェンナイ549(10%),ハイデラバード288(5%),コルカタ115(2%).上記の6大都市だけで全提携先企業の82%を占める.
    2)デリーの卓越性
    インドでは,デリー,コルカタ,ムンバイ,チェンナイの四大都市がインド国内を4分した地域の中心都市として並立してきた.また,デリーは首都であるが,経済の中心はインド中央銀行などが立地するムンバイである.阿部(2001)が集計したインドの主要企業の本社所在地分布によれば,ムンバイの本社数は卓越して多く,一方,デリーの本社数はコルカタ,チェンナイと同レベルにあった.しかし,外資系企業の立地数において,デリーはムンバイをはるかに凌ぐ地位にある.外資系企業の立地には出身国および業種による違いがあるものの,デリーへの集中傾向は一般的現象である.他方,人口規模ではムンバイに次ぐ第2の都市コルカタの外資系企業の立地数はハイデラバードよりも少ない点が特筆される.
    3)日系企業のデリー集中とその理由
     外資系企業のなかでも日系企業の場合,デリー集中の傾向が強い.同資料で確認できる日本企業の資本提携件数263件のうち,53%に当たる139件がデリー都市圏に立地している.日系企業のデリー集中については,自動車関係のメーカー(自動車,自動二輪車)がデリー都市圏に立地したことが大きい.アンケート調査に回答のあったデリー所在の17社はいずれも主要選定理由に「業界および主要取引先との接触」を挙げ,しかも12社が当該理由を第1位理由とした.一方,首都機能に関係する中央政府との接触を主要理由とした企業は9社に留まり,当該理由を第1位とした企業は4社であった.このことからも,主要取引先の存在が日系企業の集積を高める要因になっていることが理解できる.

    参考文献
    阿部和俊(2001):『発展途上国の都市体系研究』地人書房.
    小長谷一之(1997):アジア都市経済と都市構造.季刊経済研究(大阪市立大),20-1,61-89頁.
    Banerjee-Guha, S. (1997): Spatial Dynamics of
    International Capital_-_ A study of multinational
    Corporations in India. Orient Longman.
  • 鍬塚 賢太郎
    p. 58
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    _I_.はじめに
     1990年代後半から,インドに多数のコールセンターが立地するようになった。コールセンターとは,顧客からの注文や問い合わせなどに対応するための業務を専門的・集中的に取り扱う組織・施設である。インドのコールセンターは,情報通信技術と相対的に安価な労働力の存在を前提として,アメリカを主とする先進国企業の業務外部委託の拡大によって成長してきた。
    こうした状況は比較的最近の現象である。そのため,その立地動向といった基本的な事項さえ十分に把握されておらず,いかなるインパクトを既存の地域構造に及ぼすのかについても不明確である。そこで本研究では,まずデリー首都圏地域(NCR)におけるコールセンターの立地動向について明らかにする。あわせて,デリー近郊グルガオンの事例を基づきながらコールセンターの実態について検討し,上記の課題に接近したい。なお,用いる資料は2003年12月に現地において外資系3社,インド系2社の人事担当者および所轄官庁等に対する聞き取り調査等を介して収集したものである。

    _II_.インドにおけるコールセンターの立地とその特徴
    インドにおけるコールセンター業務を通じたサービス輸出は近年急増しており,多国籍企業だけでなくインド企業も積極的に当該分野へ参入している。実際に,インドからの輸出額は 1999_から_01年度間に約4.5倍,従業員数も約4倍に増加している。
    国際通信回線を利用するコールセンター業務は,インド政府・通信情報技術省の管轄下にあり2003年12月現在516事業所が登録されている。その分布をみてみると,比較的に小規模な都市へも展開しているものの,ソフトウェア産業の場合と同様に大都市へ集積する分布形態を確認できる。なかでも,デリー首都圏地域に全体の25%が立地する。次いで,バンガロール(96事業所),ムンバイ(83事業所),チェンナイ(54事業所)が続く。ソフトウェア産業の場合,ムンバイやバンガロールにもソフトウェア企業が多数立地しその輸出額も大きかった。これと比較すると,コールセンターの立地においてデリー首都圏地域の卓越した地位を確認できる。

    _III_.デリー首都圏地域におけるコールセンター立地と実態
    デリー首都圏地域においてコールセンターは,デリー郊外部のグルガオンとノイダに多数立地する。特にグルガオンの割合は高く,首都圏地域全体の4割を占める。1996年の段階でアメリカ企業がグルガオンでコールセンター業務を開始しており,現在その周囲には多数のコールセンターが立地する。
    労働集約的な性格の強いコールセンター業務にとって,オフィス・スペースの確保はその立地決定にとり重要な要素となる。あるインド企業がグルガオンに設立したコールセンターは,現在650座席の座席を有し,約1,200人のオペレーターを雇用する。こうしたオフィス・スペースをデリー中心部で確保することは難しく,郊外部での立地が進展している。
    コールセンターのオペレーターは正規雇用で採用され,20代が大多数を占める。学歴は学部卒以上で採用にあたっては「訛りのない正確な英語」を話せることが重視される。通勤には企業が提供する自動車を利用しており,比較的広範囲から居住している。ソフトウェア技術者の水準には及ばないものの勤務経験1年程で月に8,000Rs_から_10,000 Rs程度の収入を得ている。コールセンターの顧客は主にアメリカであり,インドで行われる業務は深夜に及ぶ。なかには8時間勤務3交代制のシフト体制を組み,年中無休で業務を行っているところもある。このコールセンターの離職率は80%に及ぶものの,その業務は多くの新規学卒就職希望者の存在によって支えられている。

    _IV_.コールセンター立地の地域的インパクト
     郊外部への新規立地という点においてコールセンターは既存の地域構造にインパクトを与えている。また,その業務はアメリカ時間で行われており,時差を活用するソフトウェア産業とは大きく異なっている。こうした業務形態はオペレーターの行動時間や空間を大きく制約するものである。その地域的なインパクトを考察するにあたっては,事業所レベルだけでなく個人レベルからもアプローチしていく必要があろう。
  • 楮原 京子, 今泉 俊文, 八木 浩司, 佐藤 比呂志
    p. 59
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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     出羽丘陵と奥羽脊梁山地の間には,最上川とその支流の諸河川によって形成された盆地が連なる.これらの盆地の地形形成には,この地域の活構造が密接に関わっており,これまで,新庄ー山形盆地活断層帯については今泉(1976MS),活断層研究会(1980),鈴木(1988),文部科学省・地震調査研究推進本部(2001)などの報告がある.
     新庄盆地では主として南北性の2つの活断層が,新庄市から舟形町にかけて並走している.すなわち,盆地北西部の鮭川から本合海南に至る西傾斜の逆断層(鮭川断層)と盆地東縁から中央に並行して分布する数条の東傾斜の逆断層(経壇原断層・舟形断層・長者原断層)である.それらはいずれも中新統以上の地質構造に調和的である(池田ほか,2002).
     さらに後者の断層群の南方,山形盆地では大石田町から上山市に至る盆地西縁に盆地と出羽丘陵との境界をなすように活断層が延びている.特に,富並から谷地に至る地域では主に北東ー南西方向に卓越する数列の変位地形が,山麓から数キロの範囲で並列・雁行する(鈴木,1988).池田ほか(2002)は最新の変位地形から,谷地付近の最上川左岸に見られる低断層崖をなす活構造が大石田西方の断層崖まで追跡できるとし,このトレースを出羽丘陵側の最も東側の活構造と考えた.そして,前述の数列におよぶ変位地形を,この活構造(西傾斜の逆断層)上盤側に生じた短縮変形であるとした.
     また,これら盆地西縁に沿う断層とは別に盆地東縁にも尾花沢から楯岡まで延びる東側隆起の逆断層がある.さらに,寒河江付近からも最上川に平行して続く活断層(長井盆地西縁断層帯・五百川峡谷がみられ,最上川沿いの段丘面に断層変位地形が認められる.断層変位地形は,一様ではなく場所によっては共役断層によって地塁・地溝状の地形変位を伴うが,全体としては,西側隆起の断層変位である.
     このように,本対象地域における主要な活構造は,大局的には北(新庄)から南(寒河江)に向かって,西傾斜ー東傾斜ー西傾斜の逆断層が存在し,そして寒河江付近で南西(長井盆地)方の最上川沿いと南東(上山)方へ分かれる.
     筆者らは,空中写真判読と現地調査結果に基づいて,新庄—山形盆地断層帯周辺地域の地形面区分を行った.ここでは,段丘面の高さや開析度,連続性・テフラなどの関係から高位,中位,低位に区分し,それぞれ高位段丘面群(HI,HII),中位段丘面群(MI,MII),低位段丘面群(LI〜LIV)とした.地形面対比に用いたテフラの詳細については八木ほか(1998)に基づいた.山形盆地北西部から新庄盆地,五百川峡谷では,すでに離水した(段丘)地形面が大半と占めており,丘陵地も広く分布する.また,扇状地面や河岸段丘面の傾動や断層崖などの変位地形も明瞭である.
     例えば,新庄盆地では,長者原断層(富並背斜)・舟形断層・経壇原断層の構造に沿って丘陵頂部の高度が変化し,断層上盤側で高く,下盤側で低くなる.そして,これらの構造線を横切る位置で段丘面の多段化が進む.
     山形盆地中央から南部には,最終氷期以降の地形面(LII〜LIV)が広く分布する.山辺町ー山形市菅沢にかけては,扇状地上に比高数mの撓曲崖,逆傾斜帯,地塁状の高まりが発達する.また,最上川は,地表変形や段丘の多段化が著しい山形盆地北西部から新庄盆地・五百川峡谷では,活構造の隆起側先端をなぞるように穿入蛇行し,沖積面の広がる山形盆地中央部では直線的な流路となっている.以上のことからも,本地域の地形発達が活構造に大きく支配されてきたことは明らかである.
     今後,これらの活構造と地形面の発達を基に,この新庄ー山形ー米沢盆地活断層帯におけるセグメンテーションを地下構造と合わせて検討する予定である.
  • 2003年宮城県北部地震からの教訓
    村山 良之
    p. 60
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1. 2003年宮城県北部地震による災害
     2003年7月26日に発生した宮城県北部の地震では、局所的ながらひじょうに激しい被害が生じた。発表者らは、日本建築学会の災害調査WG(東北大災害制御センター・地理学教室・経済学研究科、工学院大など)に加わり、2,600棟あまりの建物について、現地調査とその後の解析を行っている。
    左の表は、震源のほぼ直上、旭山丘陵の緩斜面と谷底に展開する集落、河南町北村地区の木造家屋被害に関するものである。被災程度が、建築年代と建物直下の地盤変状(沈下や亀裂など)の有無と強く関係することが明瞭である。また、大規模な地形改変によってつくられた新しい住宅地である矢本町緑ヶ丘においては、道路や敷地の亀裂などが、盛土部や切土・盛土境界部に集中し、切土部にはほとんど無い。さらに、上記WGは、沖積低地内の南郷町二郷地区において、全壊や半壊の建物が自然堤防上に少なく、旧河道に多いことなどを明らかにした(左下の図)。以上は、地震災害において、建物の堅牢度とともに、土地条件が決定的に重要であること(増田・村山, 2001, 地学雑誌, 110)、すなわち、土地条件情報・図が地震ハザード情報・マップとしてきわめて有効であることを、改めて示した。
    2. 地域にとって有効なハザード情報・ハザードマップのために
     近年の地震災害の経験から、地形(とその改変)および地形で示されるごく表層の地質が地震に対する土地条件として重要であることは、我々地理学徒にとって、かなりの程度常識であり、上記の結果は、既に明らかないしある程度推測可能なものであったといってよい。とすると、建物被災を免れるまたは軽減するためには、土地条件に関する的確な情報を、地域の人々や行政などに正しく伝えることが、大きな課題として浮かび上がる。
     さて、長野県松本市では、1996年の糸魚川_-_静岡構造線の長期評価を受けて、1/2,500の詳細な危険度判定地図を作製して住民に公表し、これに基づいて、町内会などの小地域単位で説明会などを開催した。ただし危険度判定は、建物密度や老朽度のみに基づくもので、土地条件は一切考慮されず、市域全体で震度7が想定されていた。誰にもわかる情報・地図をもとに住民とのリスクコミュニケーションを図る(ひいては地域の安全性を高める)意欲的かつ有効なやり方と評価できよう。土地条件というさらに有効であるはずの情報提供がなされなかったことは、住民が納得できるほどに(行政が)土地条件を説明できない(ことへの懸念の)ためであると考えられる。
     以上から明らかなのは、地震など自然災害の土地条件を的確に表現する地形分類と、それを住民や行政に正しく伝えることが、地理学者(地形学者)に求められるということである。地形分類図、新旧の地形図、空中写真などを用いたプレゼンテーションやワークショップは、研究者と住民や行政とのリスクコミュニケーション手段として、有効であると思われる。さまざまな蓄積を有する地理教育の研究者・実践者の参画も強く求められる。
    また、土地条件・地形情報はGIS化され、地震工学分野などと情報を共有し定量的に検証されねばならない。他分野との交流も、お互いの研究分野にとって有益であると思われる。
  • 新井 智一
    p. 61
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに

     英語圏政治地理学では,1980年代以降,世界経済の進展下における「場所の政治」研究が数多く行われてきた(山崎2001).「場所の政治」は,グローバルに進行する一般的過程におけるローカルな個別的過程であり,「日常生活のレベルにおける人々の社会的相互作用の場」(山野1992)である場所のコンテクストより成り立つ(Agnew1987).しかし,ごく最近の批判的都市記述(原口2003;阿部2003)において,場所のコンテクストの記述は今後の課題とされている.

     本研究は,米軍横田基地の立地する東京都福生市を事例として,基地をめぐる場所のコンテクストと場所の政治について明らかにすることを目的とする.そのために,同市における場所の差異に着目しながら,今日までの基地問題の過程を記述する.


    2.福生市と横田基地との社会経済的関係の形成

     東京都福生市は都心部より40_km_圏内に位置する住宅都市である.福生市の東部には米軍横田基地が立地し,同市面積の32.4%を占める.横田基地は,第2次大戦直後,河岸段丘の上位段丘面に開設され,福生市に対し,さまざまな社会経済的影響を及ぼしてきた.

     まず,1950年代初期,福生駅東口周辺地区において,米軍人を主要客とする飲食店街が形成された.また,横田基地に隣接する地区では,基地前商店街が形成され,米軍人を主要客とするテーラー・外国車修理店などが数多く立地した.さらに,福生市内には米軍人とその家族向け貸家である「ハウス」が地主によって数多く建設され,「ハウス」地区が形成された.これらにより,福生市ではいわゆる「基地経済」が成立した.


    3.横田基地がもたらす都市問題とその表象

     1970年代における基地駐留軍人数の減少により,ハウスの居住者は,日本人の若者へと変化した.このハウスにおける若者の退廃的・享楽的生活は,1976年に発表された村上 龍による小説『限りなく透明に近いブルー』に描かれた.また,基地前商店街は,1970年初期における変動相場制移行に伴う円高により打撃を受けた.

     村上 龍の小説は1976年における福生市議会の一般質問でも議題に上った.しかし,ハウス居住者の記録(坂野1980)によれば,市議会に代表される「地元」はハウス地区の住民を蔑視する傾向があったという.福生市では,ハウス地区や基地前商店街のような,基地による問題をめぐる「場所」が形成された.


    4.横田基地をめぐる「場所の政治」

     しかし,以上のような基地をめぐる問題が,福生市議会において議題に上ることは少なかった.同市議会では伝統的に保守系議員が圧倒的に多く,彼らは政府の安保政策を追認するかわりに,政府に対し,防衛施設関連補助金などの増額を訴えてきた.

     また,福生市は,高度経済成長期において急激に人口が増加した.これに伴う都市基盤整備に防衛施設関連補助金は不可欠であった.このため,福生市長や市長与党は,野党による基地への反発に与せず,時には基地による問題をめぐる「場所」を無視することにより,都市基盤整備を推進したのである.

     ポスター発表では,以上の根拠となるテクストなどを示す予定である.
  • 古田 智弘, 田村 俊和, 森脇 寛, 後藤 光亀
    p. 62
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに
    森林斜面での降雨に対する土壌の水文地形学的応答を多面的に明らかにする一環として、自然斜面の土層構造に近似させた実験斜面を降雨装置下に設置し、土壌層位別の浸透・流出特性を連続的に観測した。そのうち、土壌各層位からの流出傾向が明白で、しかもA層の一部流動も発生した事例について報告する。
    2. 研究方法
     つくば市内にある防災科学技術研究所の大型降雨装置下に設置した実験斜面の諸元を図1に示す。幅0.5m,長さ4m,傾斜30度の斜面部と,その上方にある長さ1mの平坦部から成る鉄製の斜面台に,土層が滑り出さないように寒冷紗を敷き,その上に関東ロームを母材とするクロボク土のB層(透水係数10-4cm/sから10-7cm/s)25cmとA層(同10-2cm/sから10-4cm/s)13cmおよびO層(リター)5cmを重ねた.この斜面に,強度約30mm/hの降雨を11回降らせた.このうち斜面に積んだ土層の厚さも降雨時間も等しく、先行降雨も存在しない4回(実験日順にCase1_から_Case4とする)を以下の考察で取り扱う。
    3. 結果と考察
     流出はO層(リター)からの流出が最初に発生する場合のほか、Case4など、B層から先に流出が発生し、O層が遅れて急増する例も散見された。30mm/h程度の降雨時にはO層・A層の流出は土壌の物質移動の影響を受けた。斜面下端から0.5mのところにテンシオメータを設置したところ、降雨開始後1時間後と2時間後の間に顕著な圧力水頭の上昇(湿潤化)が起こった。降雨開始後1時間10分でリターの移動が始まり、1時間28分後に斜面上部でリターがA層を巻き込んだ小崩壊が発生した。その後、降雨終了までに7.5×104cm3程度の土砂が流動した。このため、降雨終了時にはA層が0cmのところも30cmのところも存在した。この後、斜面下方にたまった土砂の影響でO層からの流出が急減し、A層からの流出も若干減少したが、流動停止後、両層からの流出は回復した。土層の安定後、斜面下方の圧力水頭はゆるやかな減少傾向であった。
    浸透水が各土層中に貯留される容量および側方浸透を開始するタイミングについて,B層は透水係数が小さいので,貯留は緩やかに起こり、水の側方浸透は地中の割れ目やパイプなどで部分的に起こると考えられる。比較的透水係数の高いA層では、土層の締め固め方があまり強くない場合には、貯留はすばやく起こり、約1時間でA層全体に水分が広がって飽和していくのが側面から観察できる。一方O層では、水の貯留は一時的で、早い場合には降雨開始後10分程度でO層流出が発生するため、貯留容量は小さいと推定される。Case1-Case4において、A層が飽和して重力が増し、A層とB層の間の摩擦力が少なくなったことで、A層の一部流動が発生したという機構が推測される。

  • 神奈川県厚木市を事例として
    田島 幸一郎
    p. 63
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     わが国では、1960年代以降、自動車が普及したことによりライフスタイルが大きく変化した。こうした状況の中で、急速な勢いで台頭してきたのが幹線道路沿いに見られる「ロードサイド型店舗」と呼ばれる店舗である。こうした現象は全国的レベルで進展しており、ロードサイド型店舗が集中している地区では新しい商業地を形成するまでに至っている。このような傾向は住民の重要な商業拠点としての役割を果たしてきた中心商店街の衰退をもたらした原因の一つとして考えられている。
    2.研究対象地域と目的
    本研究では対象地域として神奈川県厚木市を取り上げた。厚木市内では国道246号線沿線と、国道412号バイパス沿線の2か所でロードサイド型商業地の形成が著しい。国道246号線は1964年8月に開通し、東京都渋谷区と静岡県沼津市を結んでいる。また、東名高速道路と並走しており、厚木I.C.は東京大都市圏の外縁道路と結ばれていることから自動車通行量が多く、ロードサイド型店舗も早い時期から立地が確認されている。それに対し、国道412号バイパスは1992年3月に開通した新しい幹線道路でありながら、すでに沿道には集中的に店舗が立地している。
    そこで、本研究では2ヶ所のロードサイド型商業地を業種構成や利用客の実態から比較し、双方の特徴を明らかにすることを目的とする。
    3.結果
     国道246号線沿線地域においては、店舗の立地が始まった1960年代後半では自動車販売業や自動車整備業、ガソリンスタンドなどの自動車関連業の割合が高かった。しかし、1970年代に入ると、飲食業が急激に増加しチェーン展開している店舗が立地した。以後、国道246号線沿線では飲食業の割合が常に1位となっている。また、道路の持つ性格上、利用客は広範囲に渡っていることも明らかになった。このことから、国道246号線沿線の商業地を「通過型」に分類した。
     国道412号バイパスは、厚木市の郊外地区を縦貫し、津久井郡へ抜ける生活幹線道路であり、特に厚木市内には吾妻団地をはじめとした住宅地が広がっている。これらの要因から、ロードサイド型店舗の主な対象客は地域住民であることが明らかになった。この通りでは、飲食店よりも衣料品店や家電販売店、自動車関連店などの物販店の割合が高いことから、国道412号バイパス沿線のロードサイド型商業地はその性格を「居住地型」に分類することができる。
     このように、厚木市の事例では、通過型と居住地型の2つのロードサイド型商業地が存在し、その業種構成や、成立過程にも違いがあることがわかった。





    表1 ロードサイド型商業地のパターン
      通過型 居住地型
    立地 都市と都市を結ぶ 市街地と郊外住宅地を結ぶ
    主要幹線道路沿線 生活幹線道路沿線
    顧客・商圏 広範囲 地域住民主体
    業種構成 飲食店>物販店 物販店>飲食店
    厚木市の場合 国道246号線 国道412号線バイパス
  • 吉田 浩之
    p. 64
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに

    本研究では、アフリカ大陸南西部、ナミビアを対象として、SPOT VEGETATIONからの時系列データと1km解像度のデジタル標高モデルを用いて、植生の季節性と地形の関連について分析を行った。特に、ナミビア西部の大西洋に面した10の流水域について考察した。これら10の流水域は、Desert Research Foundation of Namibiaによって画定され、それぞれ2,000から30,000平方km程度の面積を持つ。東側内陸部の比較的降水量の多い地域から大西洋岸の乾燥地域への漸次的変化は、東西間の標高差に呼応している。本研究では、上記の衛星画像データと標高モデルの処理とその結果の解釈を通じて、植生の季節性、東西間のグラデーションについて、全般的傾向を定量的に確認しつつ、いくつかの特異なポイントについて綿密な観察を行う。


    2. SPOT VEGETATION NDVIとNDWI

    本研究におけるデータ処理のアプローチは以下の通りとなる。1,998年04月から1,999年03月までの10 days NDVI(植生指標)maximum value composite(MVC)から月ごとのmonthly MVCを12セット作成し、Isoclustering手法を用いて、unsupervised classificationを行った。その結果は、植生の光合成活動の東西間のグラデーションについての定量的確認を可能とした。分類されたクラス間では、特に隣接するクラス間においては、フィーチャースペース上、低い分離度のみが示された。また、分類結果を地理空間上で確認すると、隣接するポリゴンは概ねフィーチャースペース上で隣接するクラスに属することが確認された。しかしながら、この全般的傾向から逸脱する植生ポリゴンも確認された。そうした例外をより詳しく観察するために、標高線と植生ポリゴンのアウトラインを組み合わせたサンプリング用の「枠(わく)」を作成し、NDVIと、中・近赤外線バンドから算出されるNDWI(水分指標)の時系列的変化を観察した。この観察結果は、NDVIとNDWIを軸とする2次元フィーチャースペース上で、「軌跡」として要約され得る。全般的傾向を示す「軌跡」と特異な季節性を示す「軌跡」を対比させることで、対象地域の植生の季節性と地形の関連について、さらに考察を進める基盤が形成された。


    3. 展望

    衛星画像データによる俯瞰的観察は、ナミビア西部において、水資源の有効利用や生態系の保全を考える際に有用な足がかりとなる。また、より一層詳細な空間データを取得するための地上観測装置の設置にあたって、どのような地点を選択することによりどのような意味を持った観測が可能となるのかを検討する一助となる。本研究では、獲得可能な1年間分のデータのみを用いたが、将来、複数年に渉るデータを用いることによって、さらに信頼度の高い知見を得ることが出来る。


    本研究は、文部科学省科学研究費補助金・基盤研究A(1)(研究代表者:水野一晴)「アフリカ半乾燥地域における環境変動と人間活動に関する研究」の一環として行われている。


    参考文献

    Gond, V., et al. (2000) Mapping and monitoring small ponds in dryland with the VEGETATION instrument _---_ application to West Africa. Proceedings of Conference VEGETATION 2000, Belgirate 3-6 April 2000. 327-334

    Running, S. W., et al. (1994). A vegetation classification logic based on remote sensing for use in global biogeochemical models. Ambio 23: 77-81.

    Xiao, X., et al. (2002). Characterization of forest types in Northeastern China, using multi-temporal SPOT-4 VEGETATION sensor data. Remote Sensing of Environment 82. 335_---_348.
  • 小橋 拓司, 鈴木 正了
    p. 65
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1.問題の所在
     教育におけるGIS導入検討の段階は終わり、今後どのようにGISを活用した教育を発展させていくかが課題となっている。GISを活用した教育(教育GIS)の裾野を広げていくためには、まず教員に対して、「教育GISがどのように認知されているのか」、「学校教育における教育GISの実態」を把握していくことが重要であると考えられる。福田・谷(2003)は、埼玉県の高校地理教員を対象に、GISを用いた地理教育についてのアンケート調査をおこった。その成果を踏まえ本研究では、対象を拡げて小学校・中学校・高校教員にアンケート調査を実施し、小中高校教員の教育GISに対する認知と活用の現状を把握することができたので報告する。小中高校の3つの校種の教員を対象としたのは、教育GISはそれぞれの校種で独立して行われるものではなく、連続性を重視すべきであるとの観点からである。また明らかとなった教育GIS導入における課題についても考察する。
    2.研究方法
     兵庫県内の高校地歴・公民科教員、神戸市立・西宮市立の中学校社会科教員、西宮市立の小学校教員を対象とした。西宮市の小・中学校教員に対して、市立小学校42校、市立中学校20校にアンケート用紙を郵送し32校より179名の回答を得た。神戸市の中学校社会科教員に対しては、2003年8月教員研修がおこなわれた際、参加者にアンケートを配布し記入をお願いし、52名の回答を得ることが出来た。また高校教員に対しては、2003年8月に行われた高校社会(地歴・公民)部会の授業研究大会において、アンケートを配布し、35名から回答を得た。有効回答の総計は266である。
    3.結果の概要
    (1)GISの認知
     よく知っている教員は4.1%、言葉を聞いたことがある教員は24.4%に過ぎず、全体として極めて低い結果となっている。小・中・高の校種別では高校の、専攻別では文学系専攻の認知が高い。年齢別では大きな差は見られないが、50代の認知が低くなっている。性差は見られない。
    (2)コンピュータ利用
     コンピュータを利用している教員とGIS認知との相関は見られない。教育GISの導入をはかるには、コンピュータを利用した授業ができていることが必要条件といえる。しかしながら中・高校の社会科・地歴・公民科においてコンピュータを1年を通し全く授業で利用していない教員は、73.1%にものぼる。
    (3)教育GIS研修の効果
     神戸市中学教員への調査は、教育GISの授業実践報告を受けた直後である。教育GIS研修を受けていない西宮中学教員と比較すると、_丸1_GISへの興味の上昇、_丸2_「GISを授業に活用できる」とする回答の増加、_丸3_GISを授業で活用するにあたっての課題の指摘数の増加等がみられる。これは教育GIS研修の有効性を示している。(4)教育GIS導入にあたっての課題
     指摘された課題は、多い順に_丸1_情報機器の不足(全回答中の指摘率35.3%)、_丸2_ソフトやデータに費用がかかる(32.3%)、_丸3_教員の研修機会(30.1%)、_丸4_授業時間数が少ない(25.2%)となった。この他、教育ソフトが少ない、教材準備に時間がかかるという指摘も多い。
    4.教育GISの課題
    (1)従来からGIS導入にあたっての課題は情報機器、ソフト・データ、教員の資質といわれてきたが、アンケート結果からもそのことが裏付けられた。近年の情報機器の導入推進、インターネット導入、web上でのデータ提供、低廉(フリー)な教育GISソフトの登場などによって上記問題点は解決されている部分も多い。しかしながらそのことは多くの教員には認知されていない。一層の広報活動が必要である。現時点での最重要課題は教員の資質向上であるといえる。
    (2)教育GISの裾野を広げる努力が必要である。神戸市と西宮市の中学教員の比較から明らかになったように、教育GISの研修の重要性が問われている。
    (3)中・高校の社会科,地歴・公民科教員の授業でのコンピュータ利用は遅れている。これら教科での導入を推進を進めるとともに、技術・理科・情報あるいは職業科目における教育GISの取り組みはさらに検討されるべきである。一方小学校ではコンピュータを活用する教員が多く、GISが導入される下地が出来つつある。小学校の課程に対応した教育GIS教材の蓄積が望まれる。
    文献
    福田徳宜・谷 謙二 2003.高校地理教育におけるGIS利用の可能性.埼玉地理27:17-25.
  • 展望
    門村  浩
    p. 66
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
     昨春 (地理要旨集 63 (2003), p.216) に続き,アフリカ大陸における環境変動の全体像を把握する作業の一環として,人類進化との関わりをも視野に入れ,後期第四紀を中心としつつも,過去約500万年間の変動史を素描し,課題を整理しておきたい.
     最近10年間,IGBP/PAGES/PEP_III_(Europe-Africa Transect)を中心とする国際共同研究の進展などにより,過去15万年間の古環境復元に有用なデータセットが急増した.しかし,高精度編年・高解像度データセットが得られるサイトはなお限られ,地理的にも偏っている.こうした限られたデータによっても,古環境(景観)像(最終氷期最寒冷期対応乾燥期森林refugia,完新世Hypsithermal期緑のサハラなど)は素描できるが,それは広域レベル変動の一断面を示す単純な仮説的スケッチに過ぎない.また,花粉化石や湖沼・河川・砂丘・洞窟等陸上堆積物と海底堆積物など,環境解像度と空間代表性を異にするポイントデータに依拠した古気候のモデリングにも問題がある.
     特に,その地理的位置と複雑な地形配置を反映して,現在でも気候システムが複雑な南部アフリカでは,データセットの飛躍的増加にもかかわらず,この地域に特徴的な気候・環境変動のメカニズムを明らかするまでには至っていない (Thomas & Shaw, 2002).
     チャド北部Djurab砂漠の上部中新統 (c.7 Ma) からの Sahelanthropus tcadensis 頭骨化石発見の報告 (Brunet et al., 2002) は,東部アフリカにおける人類の誕生・進化と環境変動についての,大地溝帯の形成を軸に組み立てられた単純な見方, East Side Story やSavanna Theory を再検討すべき機会を与えた (諏訪, 2002) 画期的なものである.また,湖沼と湖岸林,周辺の草原と砂漠などモザイク状のハビタットを見事に復元した地質・古生物学的成果 (Vignaud, 2002) も魅力的で示唆に富む.今回は,こうした最近の情報を背景に,次の3点を中心に報告したい.
    (1)100万年オーダーの環境変動史素描と東部アフリカ
    を対象とした環境変動復元のための枠組み提示.
    (2)少数の不確実データに基づく斉一的イメージの提示を避け,局所的な気候・地形・水環境条件のモザイク配置を考慮したハビタットレベルないしランドスケープレベルの,よりリアルな環境(景観)像を構築することの重要性.
    (3)地球温暖化と気候イベントに対する最近のレスポンス.

    文 献
    Brunet, M. et al., 2002. A new hominid from the Upper Miocene of Chad, Central Africa. Nature, 418, 145-151.
    Thomas, D.S.G., Shaw, P.A., 2002. Late Quaternary environmental Changes in central Southern Africa: prospects. Quat. Sci. Rev., 21, 783-797.
    Vignaud, P. et al., 2002. Geology and paleontology of the Upper Miocene Toros-Menalla hominid locality, Chad. Nature, 418, 152-155.
    諏訪 元. 2002. 中新世から鮮新世の化石人類_-_最近の動向. 地学雑誌, 111, 816-831.


  • 目崎 茂和
    p. 67
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    日本の主要な古神社の立地や分布配置を検討すると、地理・地勢・地脈などの特徴から、色濃く風水の構造が読み取れる。伊勢神宮・出雲大社・熊野大社などの具体例の比較分析から、考察したい。また、比叡山・高野山などの寺院や、修験道などの立地についても、言及したい。それは、日本神話の地理構造が陰陽・風水の原理によっていることを暗示するものである。
  • スコティッシュ・ミュージックにおける非歴史的な「ケルト」
    加藤 昌弘
    p. 68
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    ■はじめに:目的と仮説


     本報告では、インターネット上に溢れているごく一般的なホームページ(ウェブサイト)をテクストとして、現代における新たな空間把握の形成がナショナル・アイデンティティに及ぼしている影響を考察していく。近代に出版メディアを通じて形成された「想像の共同体」が、新たなメディアの登場によってその姿を大きく変えつつあるとする仮説を、ケース・スタディを通じて検証する。


    ■地域[リージョン]はネイションをめざす


     英国は正式には連合王国という名称を持つ国民国家であり、本報告で対象とされるスコットランドは、英国を構成する地域のひとつである。研究史上、英国を束ねるアイデンティティはブリティッシュ・アイデンティティと呼称され、各地域のアイデンティティと矛盾無く共存することによって国家としての紐帯を歴史的に保ってきたとされている。

     そのような中で、1970年代から盛り上がりをみせたスコットランドの地域主義は、「英国の解体」をもたらすものとして取り上げられ、西欧の国民国家システムに対する「エスニシティ」の挑戦であると捉えられたのである。

     しかしながら、英国というネイションを壊すとされたスコットランドもまた、ネイションになろうとしている。1999年に地方議会を開設し、政治的権限が英国から委譲されるにつれ、ナショナル・アイデンティティの確立に熱心になっているのである。英国から自立した時空間を確立するために、スコットランドの過去は卓越化され、文化はナショナル化されつつある。


    ■走り去る「ケルト」


     しかしながら、スコットランドの独自性を希求する人々にとって都合の悪い要素がある。それが「ケルト」である。というのも、スコットランドは「ケルト的な地域」として括られることによって、アイルランドやブルターニュなどと並置され、独自性が曖昧になってしまうからである。


     近年「ケルト」は、それがもたらす人種的なイメージや虚構の歴史性が批判にさらされ、とりわけ研究上ではその概念的な使用が忌諱されつつある。このことも、スコットランドを「ケルト」から遠ざける一因となっている。しかしその一方でポピュラーな分野での「ケルト」は未だ健在であり、むしろ一層の定着過程にある。「ケルト」の通時性とその真贋は、現代メディアによって共時性が強調されるアイデンティティにとっては、些末な問題に過ぎないのである。


    ■「ケルト」はナショナルな空間を内破する


     サイバースペースにおける「ケルト」は、「コモンズ」として共有される風景であり、資源である。それに基づく流動的なアイデンティティは、ナショナルな固定化を拒み、新たな時空間と、近代と異なるアイデンティティのあり方を告げているのである。
  • 熊原 康博, 中田 高, 近藤 久雄, 安藤 聖子
    p. 69
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
     戦後直後に撮影された広島県東部神辺平野の大縮尺空中写真を判読したところ,沖積低地に条里制に由来する格子状の小道と,それに斜交する畔,道,水路が連なるシャープな線構造が認められた.この線構造は,従来から認められている福山市西方の山地に発達する長者ヶ原(ちょうじゃがはら)断層の延長線上にあたり,両者の走向が一致することから,線構造はこの断層の一部ではないかと予想した.
     そこで,線構造の成因を地質学的に解明するため,線構造を横切るトレンチを掘削し,その壁面を観察した.その結果,トレンチ壁面から細粒な河川性堆積物を切断する明瞭な断層面を見いだした.
     本発表では,神辺平野に発達する長者ヶ原断層の地表トレース・変位様式及びトレンチ掘削調査の結果を報告し,本断層が歴史時代に活動した可能性について予察的に議論する.なお,長者ヶ原断層は,『新編日本の活断層』では確実度II,活動度B級,長さ8kmの右横ずれ断層とされるが,本断層の詳しい現地調査はこれまで行われていない.


    地表トレースと変位様式
     芦田川下流の神辺平野で発見した長者ヶ原断層の地表トレースは,N45-60゜E走向を持ち,平野中央部で左ステップしている.芦田川と支流付近では地表トレースが認められず,河川の堆積・浸食作用によって埋没・消滅したと考えられる.平野北縁の道上地区から北では約N30゜E走向となり,道上地区から約1km北で地表トレースは認識できなくなる.神辺平野での断層長は約6kmで,長者原断層全体では長さ約16kmとなる.
     本断層の変位様式は,平野南部の山地で系統的な右へ屈曲する河谷群が認められ,平野内では不明瞭ながら旧河道の右ずれ屈曲が認められることから,右横ずれが卓越する.垂直変位は,神辺平野では北側上がり,長者ヶ原より南部では,逆向き低断層崖の存在から南側上がりである.このパターンは,右横ずれ断層の縦ずれ変位モデル(中田・後藤,1999)で示される一括して活動する断層にあてはまる.


    トレンチ掘削調査
     トレンチ掘削調査は,神辺平野内の福山市駅家町石神地区の水田で行った.トレンチの規模は長さ8m,幅2m,深さ1.5m程度である.トレンチ壁面からは,主に砂-シルトからなる河川性堆積層が露出し,これらの堆積層を切断する明瞭な断層面(走向N53゜E,傾斜70゜N)が現れた.断層面はトレンチ底から耕作土下端まで達し,断層面を覆う地層は耕作土のみである.断層面に沿っては,礫が再配列しているのが観察される.トレンチ壁面下部の有機質シルト層(バルク)の14C年代を,広島大学地理学教室で測定したところ,約3,000年前の地層であることが明らかになり,少なくとも3,000年前以降に断層運動があったことは確実である.


    最新活動時期
     長者ヶ原断層の変位地形は保存がよく,条里制が発達する沖積面に認められることから,本断層の最新活動は,歴史時代かそれに近い時代に活動したことが推定される.
     神辺町教育委員会によると,断層から約2km離れた神辺平野東部の備後国分寺跡で,弥生時代から江戸時代までの遺物が累重する地層から,中世の層を貫いて江戸時代前期の層に覆われる噴砂跡が認められている.これは,中世から江戸時代前期にこの地域で強い震動が生じたことを示している.


    今後の課題
     長者原断層の走向延長上には,断層線が不明瞭な約5kmの区間を挟んで,異なる活断層が岡山県南西部に発達しており(中田・今泉編,2002),両断層の走向や変位様式も一致する.両断層が同じ断層帯を構成するのかどうか,詳細な写真判読やトレンチ掘削調査を実施して今後確かめる必要がある.
     また,トレンチ壁面上部の地層の14C年代測定をおこない,最新活動時期の下限を明らかにした上で,歴史・考古資料の検討とともに,本断層を震源とする大地震がいつこの地域で発生したのか特定する必要がある.
  • 岡山県備前市を例として
    内田 和子
    p. 70
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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     岡山県備前市において2003年8月に起きたため池の決壊について、その要因と洪水の特色について考察する。決壊の要因は次の3点にまとめられる。第1は、台風10号に先立つ局地的な集中豪雨である。特に、8月8日午前4_-_5時には、現地で84mmの未曾有の雨量を記録した。台風の接近以前の豪雨に対応ができなかった上に、池の設計基準を上回る雨量であった。第2は、約290年前に築造された長谷下池の老朽化である。同池はこれまでに大規模な改修の記録がない。そして、越流方式による余水吐と斜樋という旧式な構造が増水時の水位操作を不可能にした。第3は、ため池の集水域の開発によるため池への流入量と流入時間の変化である。集水域における主要な開発としては、ろう石の採掘、山陽新幹線の建設工事、山陽自動車道の建設工事があげられる。これらの開発によって、ため池への流入量は減少したが、降雨時には流入量の増加と流入時間の短縮現象が見られるようになった。集中豪雨によって、この傾向はいっそう顕著になったと推測される。次に、決壊による洪水の特色について記す。決壊による直接的な被害は耕地の浸水であって、建物等の大きな被害はなかった。長谷下池の直下流は狭小な谷であり、ここに粒径の大きな土砂の大部分が堆積した。谷の出口には、長谷下池の排水河川である長谷川が半径300m程度の扇状地を形成している。この扇状地は旧河道の形態から、3つの区域に区分されるが、浸水は上流部の区域にとどまった。扇状地に浸水後、洪水流はいったん長谷川に戻り、大谷川には合流しないで、長谷川の旧河道を比較的速い速度で進んでいった。以上から、筆者が既に指摘しているように、ため池の決壊による洪水は排水河川の地形に規定されることが本事例によっても確認された。
  • 中田 高, 隈元 崇
    p. 71
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    はじめに 日本では,「日本の活断層」(活断層研究会編,1980)の刊行によって,「活断層の発見は終わった」と言われて久しい.しかしながら,その後の調査研究によって新たな活断層が発見されたり,活断層とされたものが否定されたりした事例は枚挙にいとまがない.また,「日本の活断層」では活断層の位置精度も,20万分1(印刷物上では約30万分1)であり,地図上での線幅1mmが数百メートルとなり,土地利用と活断層との位置関係を検討するにはあまりにスケールが小さく,実用的な活断層図としては機能しなかった.
     近年,大縮尺空中写真の判読によって,国土地理院の「都市圏活断層図」,「逆断層アトラス」(池田ほか,2002)や「活断層詳細デジタルマップ」(中田・今泉編,2002)が刊行され,詳細な活断層情報が整備されつつある.

    活断層位置情報の特徴
     「都市圏活断層図」や「活断層詳細デジタルマップ」では縮尺は25000分の1となり,活断層の位置の情報はその精度を格段に向上してきた.
     さらに,活断層の幾何学的形態から活断層上の破壊開始点の推定(中田ほか,1996)や一括活動範囲の推定(中田・後藤,1996)が可能となった.また,これらの断層形態に留意した活断層の再判読によって,新たな活断層の発見や活断層と震源断層の関係などが明らかになりつつある.
     活断層の位置は,トレンチ掘削調査によって地形学的に推定された多くの活断層が確認されたことから,その精度は極めて高いと言える.したがって,土地利用に関連して活断層を特定しようとする場合,その位置を数メートルオーダーで特定できる信頼性を持つものが多いと言える.また,活断層位置情報のデジタル化が行われるようになり,GIS上で関連情報との組み合わせによる解析が可能となった.

    詳細位置情報の活用例 デジタル化された活断層詳細位置情報の活用例として,学校(本論では,学校とは小・中・高校,高専,短大,大学と養護学校を含む)との位置関係を調査した(中田・隈元,2003).ここでは,「活断層詳細デジタルマップ」(中田・今泉編,2002)を基に,GISソフトウェアArcViewと国土地理院発行の数値地図25000(地図画像),および数値地図25000(地名・公共施設)を用いて作業を行った.
     この結果,全国で43360の学校施設のうち実に1005校が活断層線から200m以内に位置すると判定された.これは,約40校のうち1校という高い割合で,活断層に近接して学校が立地しているという驚くべき実態を示している.
     570校余りが活断層に極めて近い50m以内の場所に位置し,そのうち活断層直上に位置するものは200校を超えている.これは,全国の学校のうち200校に一つが活断層上に位置しているという驚くべき結果を示すこととなった.極めて大雑把な議論をすれば,小学生から大学生までの就学人口の約200分の1にあたる10万人もの児童・生徒が,潜在的な危険がある教育施設で勉学していることになる.このような事実は,多くの国民は気づいていない.

    活断層の認識と「活断層法」 活断層の詳細な位置情報を防災に活かすためには,日本でもカリフォルニア州のように「活断層法」の導入が有効であると考え,機会ある毎に必要性を訴えてきた(中田,1992,1998)が,反応は必ずしも芳しくない.
      
  • 中田 高, 隈元 崇, 熊原 康博
    p. 72
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
     演者らは,活断層の平面形態や縦ずれ変位パターンをもとに推定する方法(中田ほか:1998,中田・後藤,1998)に基づいて,日本列島の活断層の破壊開始点や破壊伝播方向を検討するとともに,一括活動型活断層モデルによる活断層の見直しを進めている.
     活断層の分岐形状と縦ずれ変位分布から推定される一括活動型活断層モデルは,右横ずれ断層の場合第1図のようになる.
    佐藤・中田(2002)は,このような断層の例として島根半島に発達する鹿島断層を取り上げ,その形態的特徴を明らかにした.これまで確認された活断層や地震断層の中には,断層モデルに一致しないものが少なくないが,これは空中写真判読の際に平面形態の特徴に余り留意することなく判読作業を行ったことによるものと考えられるものもある.本稿では,中国地方の活断層の空中写真再判読によって発見された活断層とその意義について報告する.

    1943年鳥取地震と活断層の関係
     1943年鳥取地震(M7.4)では,長さ約14kmの地震断層が活断層である鹿野断層・吉岡断層に沿って出現した.これらの活断層は右横ずれ断層で,西に向かって分岐する形態を示し,震央は南側隆起を示す吉岡断層の東端に位置した.地震被害は鳥取市を中心とする広い範囲に及び,地震規模に比較して地震断層が短い特徴があった.空中写真再判読によって,鳥取市の東に新たな活断層が発見された(高田他,2003).この断層は,北側隆起の右横ずれ変位を示し,鳥取地震の際に活動した活断層と一対となって右横ずれ断層の典型的な一括活動型活断層をなすと考えられ,地震学的に推定された長さ33kmの震源断層とほぼ一致する.

    活断層地震モデルに基づく活断層の発見
     福山市西部に発達する北東ム南西走向の長者ヶ原断層は,「日本の活断層」では確実度_II_の活断層であったが,再判読によって確実度_I_の右横ずれ活断層であることが明らかとなった.この断層は,南西に向かって分岐し,南側隆起の変位が卓越するものである.
     一方,この断層の北東の岡山県南東部には,約10kmの間隔をおいて同じ走向の右横ずれのある吉井断層が発見された.この断層は,北側隆起が卓越する縦ずれ変位パターンから,長者ヶ原断層と一対となる断層であると推定された.
     このため,長者ヶ原断層と吉井断層との間にある神辺平野に,両者を結ぶ断層が存在すると予測し,米軍撮影の大縮尺空中写真の再判読を行ったところ,神辺平野の条理地形面を横切る北東ム南西方向の雁行配列を示す活断層と推定される数本のリニアメントが発見された.これらのリニアメントは,神辺平野の南西部から雁行状に北東に延び,吉井断層に連続するものと考えられる.このリニアメントの一つを横切るトレンチ掘削調査の結果,水田土壌下の全ての沖積層を変位させる断層が確認された.
     したがって,長者ヶ原断層と吉井断層は一括活動型活断層をなすと考えられる.

    おわりに
     将来の地震規模を予測する場合,断層分岐や縦ずれ変位パターンをもとに一括活動範囲を推定する方法が有効であることがわかった.このように一括活動型活断層は,地震に伴って震源断層の全てが地表に出現しない場合も地下では活動すると推定され,地震規模の予測にとって重要な意味を持つと考えられる.
     さらに,活断層の平面形と縦ずれ変位パターンの特徴は,空中写真判読による新たな活断層の発見に大きな手がかりを与えるものであると言える.
  • 亜熱帯前線帯、可降水量、アジアモンスーン}%
    佐藤 尚毅, 高橋 正明
    p. 73
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    \Section{I\hspace{1em}は じ め に}

    梅雨前線帯は北半球における亜熱帯前線帯として知られ、
    前線を挟む気団の差異は、気温というよりはむしろ混合比や相当温位に
    よって認識される。
    梅雨前線帯のほかに、南太平洋収束帯(SPCZ)や南太平洋収束帯(SACZ)も
    亜熱帯前線帯のひとつと考えられている。
    しかし、上に3つに挙げた前線帯のうち、
    梅雨前線帯だけは他と比べていくつかの点で異なっている。
    例えば、SPCZやSACZは赤道にかなり近い緯度にある対流活動域から
    直接南東に伸びているように見えるが、
    梅雨前線帯はSPCZやSACZとくらべてかなり高緯度に位置している。
    また、梅雨前線帯は盛夏期には高緯度側に北上して不明瞭になる。
    本研究では、以上の課題を認識したうえで、
    西部北太平洋域での降水帯に関して、
    特に盛夏期に限定して観測データの解析する。

  •  --- ArcGISによる解析事例
    頼 理沙, 佐藤 浩
    p. 74
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    国土地理院の数値地図データは、国土の基幹をなすIT情報において重要な位置を占めている。これら数値データに基づいた様々な活用が各方面から期待されている。本研究では、セルベースの数値地形モデル(ラスタ型地理情報データ)に基づいた地形的特徴の抽出手法を開発している。内容としては、1)曲面計算及び3D-CG手法を加味した自動抽出手法を試みた。2)国土地理院撮影の空中写真による手動で抽出した地形特徴量と本手法による自動抽出の結果を比較し、検証した。同時に、これら解析結果を代表的GISソフトであるArcGISにリンクする方法を提案した。3)機能が特化したGISソフトウェアでは対応できない処理について、自作プログラムによるカスタマイズ化を行い、抽出手法の効率化を図った。
  • 遠藤 伸彦, 門田 勤, 松本 淳, 大畑 哲夫, 安成 哲三
    p. 75
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1.はじめに

     地球温暖化に伴い水循環が活発となり豪雨が増加するという仮説がある。モンゴルは、周知の通りユーラシア大陸内部の乾燥地域に位置し、夏季に降水のその多くがもたらされる。モンゴルにおいても、近年豪雨の頻度が増加しているのかどうかを明らかにすることを目的として、夏季の降水特性について調査を行った。またモンゴルに隣接する中国およびシベリアにおける夏季の降水特性との比較検討も行った。

    2.データおよび解析方法

     本研究で使用したデータは、National Agency for Meteorology, Hydrology and Environment Monitoring, Ministry of Nature and the Environment of Mongolia から提供された25地点の月降水量データおよび日降水量データである。また、データの品質チェックの際、参考のために Global Historical Climatology Network Ver.2 および NCAR DSS579.0 に含まれているモンゴルの地点月降水量データも使用した。モンゴルより提供された降水量データは、地点によっては1950年代から存在するが、本研究では多くの地点で共通してデータが存在する1960年から1999年の40年間を研究対象期間として選択した。また、多数の地点で日降水量データの品質が悪い1986年は解析から除外した。線形トレンドは一次回帰により求め、その統計的有意性はノンパラメトリックな Kendall’s τ test によって検討した。なお、本研究では夏季を6月から8月の三ヶ月間として定義した。

    3.結果

     モンゴルの長期平均夏季総降水量は北部・北東部では約250mmである。夏季総降水量は西乃至南へゆくほど減少し、100mmを下回る地域も存在する。長期平均の夏季降水日数は、夏季総降水量が150mm以上の地域ではおよそ40日以上である。夏季総降水量の少ないモンゴル南部の二地点と南西部の一地点では、長期平均降水日数は20日以下である。夏季の平均的な降水強度を、夏季総降水量を夏季降水日数で除したもので定義する。モンゴル北東部・北部では夏季平均降水強度は5mmであり、西部ではより小さな平均降水強度である。

     次にそれぞれの要素について線形トレンドについて見てみる。夏季総降水量はハンガイ山地の東側の地域では減少傾向で、それ以外の地域では増加傾向である。しかし、統計学的に有意な変化は増加傾向が3地点、減少傾向が1地点だけであり、モンゴル全体としては夏季総降水量の長期変化は小さい。Groisman et al. (1999) は、シベリアで夏季総降水量が減少傾向であることを指摘しており、 Endo & Yasunari (2004) は、中国東北地区・内モンゴルにおいて夏季総降水量が減少傾向である一方、中国西北地区では増加傾向であることを報告している。これらの結果からユーラシア大陸の北東部では全般的に夏季の降水量が減少傾向であると言える。
    夏季降水日数はシベリアと中国東北部・内モンゴル地区では減少傾向であり、中国西北地区では増加傾向であるが、モンゴルのほとんどの地点で降水日数は増加傾向であり、11地点では統計的に有意な増加を示していた。この降水日数の増加傾向が、モンゴル中部の5地点と東部の1地点における夏季平均降水強度の統計学的な有意な減少トレンドをもたらしている。モンゴルの多くの地点では夏季平均降水強度は弱くなる傾向であるが、中国・シベリアでは夏季平均降水強度は強くなる傾向である。これらの結果からモンゴルにおける夏季の降水特性の変化は隣接するシベリアや中国とは異なるものであることが明らかとなった。モンゴルにおける降水特性の長期変化が他の地域と異なるメカニズムの解明は今後の課題である。
  • 谷 謙二
    p. 76
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1.はじめに

     1930年の東京市への通勤・通学圏は,鎌倉,浦和など一部の飛地的な地域を除き,ほぼ現在の東京都区部に限定されていた.しかし1955年には既に主要な鉄道沿線では50km圏以遠まで東京都区部の5_から_15%通勤圏に組み込まれていた.本研究の目的は,この間における東京の通勤圏の拡大の要因を関係する制度に着目して考察することである.

    2.戦時統制
     1939年の地代家賃統制令により,借家の供給が減少する一方で,東京での軍需工場の増加および職業紹介事業の国営化による労働市場の全国統合により,流入者が増加した.その結果借家の空き家率が低下し,職場の近くに借家を見つけることは困難となり,長距離通勤者が増加した.その対応として,住宅営団が設立されたり,自治体による住宅交換の斡旋などが行われた.

    3.復興期
     戦災により多くの人々が疎開し,東京の人口は大幅に減少した.東京などの大都市では食料・住宅が不足していたため,連合国軍最高司令部の指令により,いわゆるポツダム勅令として1946年3月8日に都会地転入抑制緊急措置令が公布・施行された.この勅令は,東京都区部などの指定された都市への転入者を国民生活の再興のため必須の業務に従事する者などに限定するものであった.1948年1月1日からは都会地転入抑制法となり,同年12月31日まで効力を有した.
     同時に地代家賃統制令は継続され,借家の供給は進まなかった.1941年の厚生省調査によれば,東京の専用住宅に占める借家戸数は74.8%を占めており,借家居住が中心であった.しかし,戦後の東京都区部で建設された住宅は74.0%が持家で,借家は19.6%にすぎなかった(昭和24年東京都統計書).
     これらの結果,疎開者が東京に復帰することは容易でなく,東京に通勤可能な地域に広く分散し,長距離通勤を行うようになった.1930年から47年にかけて,周辺部から都区部への通勤者は飛躍的に増加し(図1),隣接県だけでなく,栃木県や山梨県などから通勤する者も現れた.

    4.通勤手当の普及
     遠距離通勤化に伴い,通勤費が増大したが,住居費が統制により抑制され,同時に通勤手当が普及したことが,この問題を克服した.通勤手当は大正期に既に存在していたが,1939年の第一次賃金統制令において,統制の対象から通勤手当が外されるなどして,家族手当,住居手当等の諸手当とともに普及が促進されたと考えられる.1952年の「給与構成調査結果報告」のうち「給与制度に関する調査結果報告」によると,61.8%の企業で通勤手当の制度が設けられていた.

    5.大都市圏における戦中・復興期の持つ意味
     戦中_から_復興期にかけては,その後の高度成長期の郊外化に寄与する重要な基盤が形成された.住宅政策は持家中心へと変化し,通勤手当の普及により通勤費の金銭面での考慮が不要となったことから,幅広い層が郊外の戸建持家で生活するようになった.その結果,現在では高級住宅地と見なされるような戦前に形成された郊外住宅地の外側に,「中流」の人々が住む広大な郊外が形成された.
  • デリー大都市圏グルガオンにおける労働者の実態調査から
    岡橋 秀典
    p. 77
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1. はじめに
    1991年の経済自由化以降、インドでは外国資本の進出が活発化し、工業化の新たな展開がみられる。このような工業化の評価は、長く失業問題に悩まされてきたこの国の経緯からすると、生産面にとどまらず、雇用面からも行われる必要がある。特に問題となるのは、工業化がいかなる労働市場を創出し、それが雇用問題の緩和にどのように結びついているかであろう。この課題に対して、本発表ではマクロな統計データに頼らず、特定地域において工場労働者や企業に対する聞き取り調査を行う方法により接近する。対象とした地域は、工業化の顕著なデリー南郊のハリヤーナー州グルガオン県であり、そこでの工場労働者の存在形態および企業の労働力構造の調査を通じて、経済自由化後の工業労働市場の特徴を明らかにすることを目的とする。
    2.工場労働者の存在形態_--_聞き取り調査による実態
     自動二輪車メーカーH社のグルガオン工場に近接する地区を中心として、約60人の工場労働者に対して個別訪問による聞き取り調査を実施した(2003年12月)。その結果明らかになった点は以下のとおりである。対象とした工場労働者は自動二輪メーカーH社とそのサプライヤー企業群に勤務するものが圧倒的に多い。その雇用形態は常用工(permanent worker)と臨時工(casual worker)からなるが、圧倒的に後者が多く、両者の間には、雇用の継続性はもちろんのこと、賃金面を中心に雇用条件に大きな格差がある。H社の場合は常用工が月額2万ルピーを超えるのに対し、臨時工はその5分の1の4000ルピー前後に留まる(1ルピー=約2.5円)。またサプライヤーの場合は、常用工の賃金が低くなる分、両者間の賃金格差は小さいが、臨時工の賃金は月額3000ルピー前後にまで落ちる。採用形態にも大きな違いがある。常用工の場合はフォーマルな採用ルートによる者が多いのに対し、臨時工の場合は強い流出圧力のもとでグルガオンに移動してきた若年層が、兄弟、友人、同郷者などのインフォーマルなルートによって就職に至ったものが多い。工業化が急速に進むグルガオンでは、就職先を求めて数多くの若年層がチェーンマイグレーションの形で集まり、臨時工労働力の大きなプールを形成していると考えられる。
    3.自動二輪車メーカーH社の労働力構造
    次に、労働者を雇用する企業の側から考察する。ここでは調査対象労働者が数多く就業する自動二輪車メーカーH社に焦点を当てる。H社は1990年代後半に入って自動二輪車の生産が急拡大し、それにあわせて従業員を急増させてきた。1996年度に2526人であった工場従業者数が2001年度には6100人になり、5年間に2倍以上になるという急速な伸びを経験した。しかし、重要なことはこの間に臨時工の比率も20_%_から40_%_近くにまで上昇したことで、従業員の増加の中心は臨時工に移りつつある。それは従来、雑務的な補助業務に限定されていた臨時工が生産ライン従事者として位置づけられるようになったことを示唆する。この臨時工増大の理由として、企業側は景気変動への対応や賃金の圧縮をあげている。確かに解雇が難しいインドの労働法の下では、生産の変動に合わせてフレキシブルに労働力を調整するには臨時工の採用が有効な手段であろう。しかし、それ以上に経済自由化後に強まってきたグローバルな競争が企業に生産費の削減を強く志向させ、労働費削減の手段として臨時工を重視させている面も見逃せない。さらに臨時工の場合は労働組合がないため、組合対策という側面も想定できよう。こうした臨時工を拡大する動きは同業他社でもみられる。
    4.結び
     インドでは経済成長にともない工業生産が拡大しており、自動二輪車のような成長部門では特に雇用の拡大が著しい。しかし、本研究の事例のように、それが安定した「組織部門」労働者の拡大につながるのでなく不安定な労働者を増大させる面があることも事実である。このような労働市場再編の動きをより深く理解するは、労働法などのインド国内の事情だけでなく経済のグローバルなコンテキストをふまえた検討が重要であろう。
  • 石川 由紀, 大和田 道雄
    p. 78
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    日本列島を中心とする東アジアには,梅雨期と秋雨期の2つの雨季がみられる。梅雨期に関する研究は数多くあるが,一方の秋雨期に関する研究は依然として少ないと思われる。このような中で,Matsumoto(1988)や高橋(2003)は,秋雨期の大気下層における循環場の特徴を明らかにした。しかし,東アジアモンスーンの季節進行の場としての秋雨期の一般的な特徴や,大気上層の場の特徴に関しては,いまだ明らかになっていない点も多いと思われる。一方,地球温暖化が気候にどのような影響を与えるか,という観点から,SSTの影響が最も顕著に現れると推測される亜熱帯高圧帯面積の経年変動を調べた結果,特に秋季において,その面積がClimate sift以降に顕著に拡大する傾向を示すことがわかった(大和田・石川,2002)。また秋季は,他の暖候季に比較して北太平洋上の上空に亜熱帯高圧帯のセルが形成される確率が高く,大気大循環に与える影響の大きさから,その役割が重要視されているものの一つでもある(Trenberth et al.,2000)。
    そこで,本研究は,特に秋季に豪雨が発生した場合の帯状流のトラフと亜熱帯高圧帯の役割に着目して,大気大循環と秋季の東アジアモンスーンとの関わりについて考察し,地球温暖化と局地気候現象とのつながりを理解する上での基礎知識の積み重ねを目的とするものである。
    資料は,NCEP/NCARの再解析Dailyデータを使用した。帯状流のトラフに関しては,200hPa面において,2000年9月に発生した豪雨(東海豪雨)のトラフの位置(33N,120E)を基準にして,同じ緯度・経度にトラフが位置する日を1960_から_2001年の6・7・8・9月において選出した。その結果は165例である。次に,これらの165例を対象にトラフの発達の度合いを角度で表現することを試みた。すなわちトラフを挟んで西側の角度をα,東側の角度をβとし,トラフが発達していればβが大きな値を示す。
    トラフの角度は,6_から_9月のどの月においてもαとβの間に相関関係はみられなかった。また,6・9月は,αもβも40度以下に比較的まとまっているが,7・8月は特にβの方にばらつきが大きいことがわかった。これは,200hPa面において北太平洋上に現れる亜熱帯高圧帯の位置の変動に関係する。さらに,9月におけるトラフの角度と,西日本における降雨の有無の関係を調べたところ明瞭な相関関係はみられなかったが,βが極端に大きい場合には降雨はみられなかった。また,豪雨の発生には,200hPa面の北太平洋上に形成される亜熱帯高圧帯の存在と,それによって形成される帯状流リッジ部分にみられる大気中層から下層の北太平洋高気圧の張り出し,また,300_から_500hPa面の大気中層に寒帯前線ジェット気流の南への張り出しがあることが重要であると推測される。
  • 根田 克彦
    p. 79
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    本研究では、1996年のノッティンガムシャー基本計画と、1997年のノッティンガム市ローカルプランにより、イングランド、ノッティンガム市における小売業の計画政策の概要を紹介し、さらに、タウンセンター、ディストリクトセンターおよびローカルセンターから核事例を取り上げ、その実態を紹介するものである。
    ノッティンガムシャー基本計画によるとノ ッティンガムシャー・カウンティの小売商業地は3階層に区分され、ノッティンガム市の中心市街地は最高位の地域センターとして位置づけられている。
    ノッティンガム市ローカルプランによると、ノッティンガム市の小売商業地は、ノッティンガムの中心市街地であるシティセンター、4地区のディストリクトセンター、多数のローカルセンターの3階層に区分される。
  • 宮内 久光, 下里 潤
    p. 80
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
     本研究では沖縄県の架橋島を事例に,戦後の人口変動を島の産業構造との関連から集落レベル考察するとともに,架橋後に島へ転入した転入者に焦点を当て,彼らの属性や転入形態,転入後の行動など,その存在形態を明らかにすることを研究目的とする。その際,島内の集落間で差違がみられるのか,もし差違が生じるなら,どのような要因がそこに働いているかも検討する。
     研究対象地域は沖縄県勝連町浜比嘉島である。浜比嘉島は1997年に浜比嘉大橋が完成することにより,平安座島を経由して沖縄島と結ばれた。これにより,浜比嘉島は都市への通勤が可能な架橋島となり,沖縄島中南部の地域労働市場に直接組み込まれることになった。このほか,島内には性格が異なる浜,比嘉,兼久という3集落が立地している。
     研究方法は,まず,1950年代後半以降の浜比嘉島の人口変動を,国勢調査結果を用いて世帯や人口の増減状況から時期区分をする。次に,期間ごとに人口動向を概観するとともに,各集落を比較・検討し,その変動の要因を産業構造などから明らかにする。最後に,架橋後の転入者の属性や就業形態を明らかにするため,聞き取り調査を行い,それにより得た結果を用いて考察する。浜比嘉島における聞き取り調査では,島内の全世帯177中142世帯から回答が得られた(回答率80.2%)。
     研究結果は,次のようにまとめられる。
     1950年代に米軍基地向けの蔬菜供給地の指定を受けた浜比嘉島は,園芸組合を結成して,スイカ,ピーマンなどを米軍に出荷した。しかし,1960年代に入り,米軍からの需要が減少すると,経営規模が零細で,サトウキビ農業を行っていない浜比嘉島の農業は危機に直面する。農業が衰退すると,農民層の多くは,米軍基地建設などで労働需要が盛んな沖縄島中部の地域労働市場に吸収されていった。
     1960年から80年までは,島の人口は5年ごとに約20%程度も減少する激しい人口流出を経験した。特に,比嘉集落では,農業以外の生業が無かったこと,戦前から移民が盛んであったため,家を存続させなければならないという伝統的な規範が比較的弱かったことなど,経済的,心理的要因から,世帯ごと挙家離島する形態がとられた。これに対して,浜集落と兼久集落では,漁業就業者の存在が人口維持の役割を担った。1980年以降は激しい人口流出も緩和されたが,集落間の人口減少率の差は続いた。浜集落では1970年代後半から,若い漁業者たちが結束して,モズク養殖事業に取り組んだ。1980年ころには事業も軌道に乗り,大きな利益を上げることができるようになる。漁業所得の増大が漁業の持続性を経済的に保証し,若い後継者の参入を可能とした。
     1997年の浜比嘉大橋完成により,沖縄島と道路で結ばれた島には,島外からUターンを中心とする転入者が相次いだ。架橋後5年間で,島の約1/4の世帯で転入があった。浜比嘉島は,沖縄島中南部の地域労働市場に直接組み込まれる都市通勤可能架橋島であるため,人口面の架橋効果は大きい。
     転入世帯への聞き取り調査によると,浜集落と比嘉集落が対照的であった。すなわち,浜集落が青壮年層を中心に,妻や子供を同伴した家族でのUターンが多かったのに対して,比嘉集落では,壮年から高齢者層が夫婦であるいは単身で転入するケースが多かった。転入者の職業を比較しても,浜集落では,漁業や飲食店経営など集落内部での雇用が多いのに対して,比嘉集落では,前住地での職場を変更せずに,島からの通勤という形態をとる世帯が多かった。架橋前から浜比嘉島に居住する世帯は,すでに若年層や農民層が流出しつくしているため,通勤形態をとる世帯は少ない。
     集落間における転入世帯の属性や転入形態の違いは,家屋形態,ひいては集落景観にも違いをもたらした。浜集落では,転入者に加えて漁業者も新築家屋を建設し,近代的な集落景観が出現したのに対して,比嘉集落では,夫婦あるいは単身の転入者が多いこと,漁業者がいないことから,家屋の変更は増改築程度にとどまっている。
  • 安達 常将
    p. 81
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
     本発表は,今まであまり注目されてこなかった「深夜バス」に焦点を当てたものである.社会経済的視点からバスを分析した地理学的研究には,従来から過疎地域のバスや高速バスを扱った研究があり,最近ではコミュニティバスに関する研究も増えている.しかし,大都市圏郊外の路線バスを対象とした研究は比較的少なく,特に本発表が対象とした「深夜バス」に関するものはほとんど存在しないといえる.

     ここでは「深夜バス」という語を,深夜路線バスと深夜急行バスを合わせたものと定義する.前者は,23時以降に郊外の主要駅と住宅地を結ぶ運賃倍額のバスで,鉄道からの乗り換え客が利用の大半を占める.後者は,終電後に都心のターミナル駅と郊外を結ぶバスで,終電に乗れなかった人達が輸送の対象となる.したがって,深夜において一定以上の交通需要が発生する区間で運行される点で両者は共通するものの,バスとしての性格には相違が見られる.この点に注意しつつ,「深夜バス」の発達過程を追い,深夜における交通需要の変化とその社会背景を明らかにしていきたい.

     対象地域は「深夜バス」が最も発達している南関東1都3県とした.国土交通省関東運輸局に「深夜バス」運行事業者を問い合わせの上,各事業者に対し,各系統の起終点・キロ程・ダイヤ・運行開始年月日・利用者層に関するアンケートを行った.さらに,一部の事業者に対しては聞き取りも実施した.その結果,以下のことが明らかとなった.

     実質的な「深夜バス」の誕生は,1971年に東武が運行を開始した上尾駅から西上尾第一団地までの路線である.ここには行政からの強い要請があった.23時以降の運賃倍額徴収制度もこのとき設けられたものである.大規模住宅団地が郊外で造営され,通勤が長距離化する一方で,深夜における郊外駅からの公共交通の確保が課題となっていたことが背景にある.

     本格的に「深夜バス」が発達するのは,1980年代後半からである.これは社会の夜型化を反映するものと推測され,バブル期に系統数が急増した.ピークの1989年には,最多の44系統が新設されるとともに,深夜急行バスが初めて登場した.バブル期は,深夜における郊外からの公共交通だけでなく,郊外への公共交通も不足していたのである.

     しかし,バブル崩壊に伴い,「深夜バス」も縮小に転じる.深夜急行バスでは路線の統合や廃止が相次ぎ,深夜路線バスでは運行本数の減少や終車時刻の繰上げが行われた.バブル崩壊以降の1990年代を通し,深夜急行バスの新設はほとんどなく,深夜路線バスも開設ペースが鈍化し,東京都心から近距離の補完的な開設が目立った.

     再びこの状況が変化するのは2000年以降である.2003年に開設された深夜路線バスの系統数は20に達し,バブル期以来の数字を記録した.つまり,現在再び「深夜バス」に対する需要が高まっていることを指摘できる.運行事業者の話によると,「深夜バス」は,残業帰りの足としての安価な交通機関として人気があり,長引く不景気が「深夜バス」の発達を助長している.バブル期に比べ深夜時間帯における全体の交通需要は少ないものの,安価な交通機関としてシェアを拡大していることが,近年の発達につながっていると考えることができる.

     本発表は,主にマクロな視点に立ったものであったが,「深夜バス」の発達過程を明らかにする上で,今後はミクロな視点に立った分析も必要であろう.
     
  • -浜松市におけるブラジル人のエスニック・ビジネス利用状況をもとに-
    片岡  博美
    p. 82
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究目的および研究方法
     エスニック・ビジネスは、概して小規模なものが多い。にも関わらず、外国人労働者や移民の受入国における適応過程の中で果たす役割により、きわめて特徴的かつ重要性を帯びた企業活動となっている。しかしながら、先行研究では、企業論的あるいは移住過程論的視点から経営者側の研究に留まるものが多く、もう一方の主体である消費者側の視点にはあまり触れられていない。近年、エスニシティの地理学的研究が進展しているが、エスニック・ビジネスをはじめとする受入国で重要な役割を果たす特定の場所に注目した研究も今後蓄積される必要がある。そしてまた、地域における実証研究で終わりがちなエスニシティの諸事例を、背景要因となる国際移動という大きな枠組みの中に位置づけ、総合的に捉えていく意義も大きい。
     そこで、本研究では、エスニック・ビジネスへの移民セクターの主体的諸要因からのアプローチとして、その利用状況に注目する。そして、利用者側からみたエスニック・ビジネスの性質を、「財・サービスの提供場所」、「社会的機能を持つ場所」、「文化的機能を持つ場所」という3つの視点から提示する。合わせて、これら諸機能発生のメカニズムを、背景要因であるブラジル人の移動形態をふまえて論ずる。それとともに、複雑な移動形態を辿るブラジル人の母国アイデンティティとその多様性をエスニック・ビジネスという場所へのアンビヴァレントな視点を通じて分析・解明することを目的とする。
     研究対象地域は静岡県浜松市とし、研究方法は、市内に居住するブラジル人350名に対するアンケート調査及び聞き取り調査ほかによるものとする。
    2.ブラジル人の利用状況にみるエスニック・ビジネスの機能
    (1)財・サービスの提供場所
     エスニック・ビジネスは、とりわけ非エスニック財を中心に、受入国の言語能力の低い者や滞在期間が短い者に対し、財・サービスを提供する場所として主要な機能を持つ。また、受入国の言語能力が高い者や長期滞在者に対しても、エスニックな選好の強い財・サービスを提供する場所であり、母国文化に触れる場所、そして日本製品が合わない者に財・サービスを提供する場所として重要な機能を持つ。
    (2)社会的機能・文化的機能を持つ場所
     エスニック・ビジネスを財・サービスの提供という機能からみる限り、最寄品を中心に日本人店との使い分けが多く行われており、利用頻度は高いとは言えない。しかしながら、エスニック・ビジネスに対する必要性の認識という点から見ると、日本語能力の高さや滞在期間の長さにもかかわらず、必要性は依然として高い。ブラジル人は、買物や飲食以外の目的でもエスニック・ビジネスを利用しており、これら必要性の認識の高さは、エスニック・ビジネスという場所の持つ情報提供、ネットワークの構築、援助機能、受入国との接点といった社会的機能や、母国文化の保持・発信、母国との紐帯、アイデンティティの保持・育成といった文化的機能に起因している。
    3.ブラジル人の移動形態と受入先地域における「特別な場所-エスニック・ビジネス」
    (1)受入地域における諸機能発生のメカニズム
     「市場媒介型」の移動形態下では、地縁・血縁による移住形態と比較した場合、同胞ネットワークや相互扶助機能の希薄化が指摘される。今回のブラジル人の移動でも当初、職業斡旋業者が受入国への適応支援等様々な機能を担っていた。その後、エスニック・ビジネスが発展し、同胞ネットワークや相互扶助機能の補完的役割を果たすようになった。また、ブラジル人の「還流型移動」の増加によっても、母国との紐帯の維持や母国文化の保持といった文化的機能の必要性が増大し、エスニック・ビジネスの持つ文化的機能が一層の高まりをみせた。
    (2)「特別な場所-エスニック・ビジネス」に対するアンビヴァレントな視点
     エスニック・ビジネス事業所は、その社会的機能・文化的機能から、ブラジル人にとり「特別な場所」となるが、必ずしも、ブラジル人全てがエスニック・ビジネスを必要としているわけではない。中でも日系人の「帰還型移動」に伴う母国アイデンティティの温度差や多様性は、利用行動にもみることができる。また、一個人の内部でも「特別な場所」に対する肯定的・批判的な視点は時折交錯する。ブラジル人にとりエスニック・ビジネスは、時として、日本における母国やエスニック集団の位置付けがネガティブに表出される場所ともなりうる。
  • 羽鳥 仁美, 田中 靖
    p. 83
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
     岩野谷丘陵は主に,新第三紀に堆積した海成層起源の堆積岩からなる.北から順に礫岩,砂岩,泥岩が整合で重なり,礫岩分布域の北部では陸成起源の火山岩屑層が不整合で覆っている.走向はN60°Wで,南西ではほぼ東西方向となっており,ゆるい角度で北に傾斜する.南西から北東にかけて地層年代が新しくなっているため,全体的には北東に高く南西に低い地形を呈している.丘陵内では適従谷が発達し,主谷や支谷の谷線は地層の走向方向に延長して延びている谷が目立っている.このように岩野谷丘陵の地形は,地質構造の影響を強く受けている.しかし,地質条件によって地形が具体的にどのような違いを示すかということについては,明確になっていない.
     本研究ではまず,2,500分の1都市計画図を使用し,丘陵全体に亘って分水界線と水系線を描いた.次に,谷壁斜面に発達する谷になりきっていない凹地状の平滑斜面(0次谷)の分布を示した.こうして,この地域に発達する代表的な水系パターンをいくつか区分した(図1).そして水系パターン区分をもとに,岩野谷丘陵内の地域区分を行った(図2).この結果をもとに,地形と地質の関係について考察する.

    結果とまとめ
     この研究により,岩野谷丘陵では地質によって,どのような水系パターンが卓越するのかについて明らかにすることができた.またこの地域では,礫岩の分布する地域で最も谷密度が高いといえる.
     今回は,地質条件によって水系パターンが違う理由の解明までは至らなかった.今後は水系パターンや0次谷の分布などの地形様相を,具体的に定量化することを含め,さらに詳しい地形分析を行う予定である.

  • 中村 圭三
    p. 84
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    著者は、ベトナムのメコンデルタにて、1995年8月、1996年8月および1998年3月に生活用水の水質およびその利用に関する実態調査を実施した。その結果、雨季の雨水の水質は、EC, 全硬度、 NH3-N、Fe, Na+, Cl-などの濃度が極めて低く、浅井戸(深さ5m以下)、深井戸(深さ70m以上)と比較して、問題にならないほどの良質であることが明らかとなった(中村・立澤:1997)。
     そこで、雨水を水質的・衛生的に良好な状態で採水・保存し、飲料水に供することを目的として、2001年7月より敬愛大学環境情報研究所にて観測を開始した。
     本稿では、採水方法の違いによる雨水の水質の比較について報告する。

    2.観測方法
    敬愛大学環境情報研究所において、蓋が自動開閉する小笠原計器製作所製自動雨水採水器(US-300、以後自動開閉式採水器と称す)、および屋根から降水を採水する場合と同様の条件にするために蓋をなくし、ポリプロピレン製ロートを常に露出した状態で降水を採水できる装置(以後露出式採水器と称す)により、それぞれ、降水を1_から_5mmまでおよび1_から_10mmまでを1mmごとに分割して、100mlずつ採水した。自動開閉式採水器では、一降水ごとにロートおよび採水ビンを洗浄したが、露出式採水器では、屋根に当たるロートは洗浄せず、採水ビンのみを洗浄した。

    3. 観測結果および考察
     自動開閉式採水器で採水したサンプルでは、初期降水ほど酸性が強く、次第に酸性が弱まる酸性雨の特徴を示している。それに対して、露出式採水器で採水したサンプルでは、逆に初期降水(1mm)の酸性が最も弱く、3mmまでは次第に強まるという一般的傾向が見られる。露出式採水器では、降雨時にはロートの表面に付着した乾性沈着物およびその他の地上から舞い上げられた物質等が、降水によって洗い流され、サンプルビン内に流れ込むことになる。特に最初の1mm目のサンプルビンには、これらの物質が高濃度で供給される。このことは、露出式採水器と自動開閉式採水器で採水したサンプルの差から顕著に認められる。例えば、2000年7月から2001年6月までの1年間の観測結果によると、ECのそれぞれの差は、冬に49.09μS/cm、春には41.71μS/cmにもおよんでいる。さらに、各成分について見ていくと、NaSUP+/SUP、ClSUP-/SUP、MgSUP2+/SUPなどの海洋起源の成分濃度は、海洋の波浪が高くなる秋季に最大値を示す。
     一方、陸上からおもに供給されるNHSUB4/SUBSUP+/SUP、CaSUP2+/SUPなどの濃度は、乾燥した強風の吹く冬季に他の季節と比べて突出して高い値(他の季節の2倍程度)を示す。特に冬季には、pHが高く酸性度が低かったが、その原因は、これらのNHSUB4/SUBSUP+/SUP、CaSU2+/SUPによって酸性イオンが中和され、酸性度が低下したものと理解される。
    また、酸性のイオン成分であるNOSUB3/SUBSUP-/SUP、SOSUB4/SUBSUP2-/SUP の濃度は、露出式採水器、自動開閉式採水器ともに春季・夏季に高い傾向を示す。これは、この時期には日照時間が長く、人間活動に伴う酸性物質の大気中への放出量が多いことに起因するものと考えられる。ただし、SOSUB4/SUBSUP2-/SUP の濃度は、露出式採水器・自動開閉式採水器による採水の両者間における季節的な差は、比較的小さい。
     これらの露出式採水器および自動開閉式採水器による採水の両者間における水質の差は、成分や季節によって差はあるものの、数mm目で解消されることが明らかになった。
  • 黒田 圭介, 黒木 貴一
    p. 85
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    I.はじめに
     北野平野(図1)は、筑紫平野の北東部を占める山地に囲まれた平野で中央構造線の西端に位置している。沈降地域のため段丘の発達が悪く、さらに年代指標となるテフラが不明瞭で、各段丘の詳細な区分、分布、構成層の特徴、離水年代は十分研究されていない。現在、有明海研究グループ(1969)と下山ほか(1994)がAso-4火砕流堆積物を不整合に覆う礫層からなる段丘の存在を指摘したにとどまる。そこで本研究では北野平野に関し、Aso-4火砕流堆積以降の地形形成過程を検討した。
    II.研究方法
     1)1/2万空中写真判読及び現地調査により段丘を中心に地形面区分を行い、その分布を明らかにした。2)地形構成層を観察し、地形面の離水年代を検討した。3)ボーリングデータから地質縦断面図と地層境界の標高分布図を作成し、北野平野の地下構造と地形との関係を明らかにした。4)段丘構成層の堆積物の粒度分析を行い粒度組成などの特徴からその堆積過程を検討した。5)1)から4)により北野平野の地形形成過程をまとめた。
    III.地形面とその構成層
    1)段丘面は、高い順に甲条面、甘木I面、甘木II面に区分できた(図1)。甘木II面は甘木I面より急傾斜で、沖積面と交差し地下へ埋没する。甲条面は、後2者よりも緩傾斜で、甘木I面分布域の末端に断片的にある。
    2)甲条面の構成層は風化した軽石と安山岩質の弱_から未風化礫が主体で、マトリックスにはAso-4起源の角閃石が極めて多い。上流の亜円礫質層から下流の砂質層まで層相変化が著しいが、いずれも水平成層している。段丘構成層上は最大層厚1.2mのレスが被覆するため、北部九州のレスの堆積速度とAso-4火砕流の堆積年代1)から、甲条面は約9万年前_から約4万5千年前に離水したと推定される。甘木I面の構成層は未風化変成岩の亜円礫が主体で、マトリックスに角閃石を含まない。離水年代はレスの最大層厚が約1.5mなので約5万6千年前と推定される。甘木II面の構成層は甘木I面と同じである。表層にはレスを確認できないが沖積面との交差関係から最終氷期最盛期の約2万年前の離水と考えられる。
    3)地質はN値や層相記載事項などを参考にして、上位より沖積層、上位礫層、Aso-4(二次堆積物も含む)、下位礫層、Aso-3、基盤岩を識別できる。地形区分図と地質縦断面図を対比すると、上位礫層は甘木_I_面と甘木II面のAso-4は甲条面の構成層であると判断できる。地層境界の標高分布図から、下位礫層は埋没する段丘の構成層であると判断できる。
    4)夜明峡谷付近での甲条面構成層の粒度組成は、構成層上部ほど礫分が減りシルト以下分が多くなることから、甲条面を構成するAso-4火砕流堆積以降の土石流は、堆積物の排出力が徐々に低下したものと思われる。
    IV.地形形成過程(まとめにかえて)
    1) 約9万年前にAso-4火砕流が北野平野に到来し、周辺山地も含め当時の地形面はすべてAso-4に覆われた。
    2) Aso-4は堆積直後から侵食され流出し始める。北野平野には、筑後川のより上流および南北の山地から流れ出す河川から流出した堆積物が大量に堆積し、平坦面を形成した。その後、約4万5千年前までには完全に離水し甲条面となった。
    3)甲条面形成後は、より低い侵食基準面に従って、上流では三郡山地から流出する河川から上位礫層が多くもたらされ甲条面を覆い、下流では刻まれた谷に上位礫層が蓄積し、広大な扇状地を形成した。この結果、甲条面の一部は扇端では残丘状に取り残された。この扇状地群は約5万6千年前に離水し甘木I面となった。
    4)甘木I面形成後は、さらに低い侵食基準面に従う地形形成が進行した。この時期には、周辺山地から対象地域内への礫の排出量が少なく、主に、侵食により地形面形成が進行し、甘木II面となった。甘木II面の離水後、約2万年前から沖積層の堆積が進行し、沖積低地が形成された。
    甲条面は明らかに甘木I面の上位にあるので、再度レスの層厚を確認し離水年代を絞り込む必要がある。以上の地形形成過程の議論では南部の水縄断層系やテクトニクスを考慮に入れた議論はしていない。これらについては今後検討が必要である。
    参考文献 1)大場忠道(1991):酸素同位体比層序からみた阿蘇4テフラおよび阿多テフラ.月刊地球,13,224-227. 2)有明海研究グループ(1969):有明地方の第四系.地団研専報,15,p.411-427.3)下山正一・松本直久・湯村弘志・竹村恵二・岩尾雄四郎・三浦哲彦・陶野郁雄(1994):有明海北岸低地の第四系.九州大学理学部研究報告地球惑星科学,第18巻,第2号,p.103-129.
  • 宇根 寛
    p. 86
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1. 地震災害と土地条件
    地震によって引き起こされる災害は、1)地震動による建物の倒壊、構造物の破壊等の直接被害2)地震動に伴う地変(液状化、斜面崩壊、地すべり等)による被害3)地殻変動に伴う地表面の変形(地震断層の出現や隆起、沈降等)による被害4)津波による被害5)地震動や地変等による二次的被害(火災、ライフラインの破壊、堤防や天然ダムの決壊による洪水等)、に分けて考えることができる。このうち、1)と2)については、局所的な地盤条件との強い相関があることは、これまでたびたび指摘されてきた。一般に、地盤条件は、土地の自然的な成り立ちの違いを反映するものであり、地形分類により土地の成り立ちを明らかにすることにより、地震動に伴う地震災害のパターンをある程度予測することができる。また、4)津波被害に関しても、地形分類は、津波の遡上路や浸水、湛水範囲を予測するための情報を提供する。
    国土地理院においては、著しい被害をもたらした地震に関して、災害と土地の自然的条件、特に地形との関係についての調査を行い、地震被害と地形に密接な関係があることを明らかにしてきた。例えば;
    1)1944年東南海地震
    木造家屋の倒壊率の分布(大庭,1957)と地形・地盤との関連が検討された。その結果、1)被害が低地に限られ、台地・丘陵地では全壊家屋がほとんどないこと2)低地の中でも、海岸近くの砂州・砂丘の発達する地域や、大規模な扇状地では全壊率は比較的小さいこと3)中小河川の台地・丘陵地に囲まれる内陸部の低地の全壊率が著しく高いことなどが明らかになった。
    2)1964年新潟地震
    この地震では、液状化による被害が注目されたが、地震後に国土地理院が作成した「1万分の1被災状況と土地条件」図では、地割れ、噴砂、土地のふくれ上がりや落ち込みなどの地変が、旧河道や後背低地に集中し、自然堤防・砂州の被害が少ないことが示された。
    3)1978年宮城県沖地震
    土地条件図では、盛土地、切土地などの人工地形も分類表示されている。1978年の宮城県沖地震では、丘陵地域の盛土地の被害が注目された。国土地理院では、地震後の調査により、盛土層の厚さや盛土前の地形などが被害率と関わっていること、盛土と切土にまたがる家屋の被害が大きいことを明らかにした。
    4)1983年日本海中部地震
    国土地理院では、能代地区の土地条件と被害との関係を調査した。これによると、砂丘間低地、後背低地、旧河道、砂丘と後背低地の境界付近で被害率が高かったことが明らかになった。
    5)1995年兵庫県南部地震
    激しい地震動に襲われた地域では、地形の種別に関わらず被害が著しかったが、地域によっては被害と微地形との間にある程度の関係が認められた。すなわち、緩扇状地、低位段丘の端部及び浅い谷で建物の倒壊が多く、天井川沿いの微高地や急傾斜の扇状地では比較的被害が少なかった。丘陵地では建物の倒壊は少ないが、ため池の埋め立てや切土・盛土での被害が多かった。また、低地や埋め立て地では抜け上がりや液状化の被害が多いが、家屋の倒壊は少なかった。
    2. ハザードマップ基礎情報整備への展開
    国土地理院が行っている土地条件調査は、地形分類を中心にして土地の自然的条件を面的に明らかにし、それを土地条件図として提供することを目的とした調査である。土地条件調査は、地震被害軽減のためのハザードマップの整備のための有効な情報を提供する。特に、詳細な地形分類の結果を、地域の特性を踏まえて適切に解釈することにより、地点ごとの地震被害のパターンを想定した、より高度なハザードマップ整備につなげることができると考える。
    土地条件図のもつ情報の多重性を活かし、また、被害予測、被害軽減のシミュレーションを行う際の詳細な数値情報を提供するためには、土地条件図をデジタルデータとして提供し、GISを用いた表示、分析を可能にすることが重要である。また、多くの地域でハザードマップの整備が急がれていることから、必要な地域の調査をできるだけ短期間で行う必要がある。
    このため、現在、国土地理院では、1)防災行政にとって必要な情報を、2)利用しやすい形態で、3)できるだけ短期間に整備するために必要な調査内容とするため、「ハザードマップ基礎情報としての土地条件図のあり方に関する検討」を行っている。さらに、ハザードマップ基礎情報を、都市圏活断層情報や空中写真画像とともに、電子国土の構成要素として提供し、広範な利用に資するための準備を進めている。
  • 伊東 正顕
    p. 87
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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     アフリカ大陸南西部に位置するナミビアは、全土が乾燥気候である。なかでも特に、沙漠気候に属する大西洋岸は乾燥が強く、海岸沿いにはナミブ沙漠が広がっている。ナミブ沙漠中央部には枯れ川のクイセブ川が流れ、その下流域にはクイセブデルタが形成されている。ここには、現地語(ナマ語)で!Naraと呼ばれるウリ科の草本植物、ナラAcanthosicyos horridusが群生している。
     クイセブ川流域に暮らすトップナールは、この地域に生育するナラを採集しては、食事や現金収入源として利用してきた(Seely 1973)。彼らはヤギの牧畜などの生業を営みながら、特にナラという植物に強く依存した生活を営んできたが、近年ではナラの生育が悪化し、その結果採集量が減少するという問題が起こってきている(Shilomboleni 1998)。
     しかしながら、いかなる原因によってナラの生育が悪化しているのか、またナラの採集量の減少が、トップナールの生活にどのような影響を及ぼしているのかについては十分明らかにされていない。
     そこで本研究では、トップナールの生活とナラ植生との関係を明らかにしたうえで、ナラの生育悪化が人々に与える影響およびその原因を究明することを目的とする。まずトップナールによるナラの利用について具体的に示し、さらに、ナラの採集量と人々の生活の変化に着目し、ナラの生育悪化の原因につながった社会的・生態的背景について分析していく。最後に、トップナールを取り巻く現時点での問題点と今後の展望についても検討する。
     トップナールは、ウォルビスベイの約500_km_北にあるセスフォンテイン地域に暮らすトップナールの一部が移動し、14世紀の初頭にクイセブ川の流域に定住したと記録され、当時からナラの採集をおこなっていた(Eynden, Vernemmen & Damme 1992)。
     トップナールにとって、ナラは採集期にはほとんど唯一の食料となる。また、ナラの果実(ナラメロン)から取れる種子(バターナッツ)を売ることで現金を得ることができ、ナラは数少ない現金収入源のひとつでもある。実際、彼らの年間収入のうち43%もの収入がナラの種子を売ることによって得た収入であり(Shilomboleni, 1998)、ナラからの収入が現金を手に入れる唯一の手段である人々は、採集者全体の40%にものぼる。
     ナラの生態が悪化した理由として、最も大きな原因と考えられるのが、洪水防止堤防の建設である。クイセブ川下流にあるウォルビスベイの町を洪水の被害から守るために、1961年に、それまでローイバンク付近で二手に分流していた地点に堤防を作り、町へ流れる方の支流(旧支流)を止めた。その結果、旧支流域に広がっていたナラの群生地(ナラフィールド)の水分条件が悪化した。従来、洪水によってナラの古い個体が取り払われ、新たに発芽するという天然更新がおこなわれていた。しかし堤防建設後、旧支流で洪水がなくなったことによって天然更新が生じなくなり、水分供給量が減少し、それがナラの生育不良につながっていると考えられる。
     また、ナラは成長過程で自らの株の周辺に飛砂を溜めて小高いマウンドを形成するが、そのマウンドを洪水が洗い流す作用もあった。しかし洪水による浸食がなくなり、飛砂の堆積でマウンドが成長し、さらに近年の地下水位の低下も影響してナラが地下水を吸い上げることが困難になり、植物体への水分ストレスが生じたことも関係しているだろう。
     GTRC(Gobabeb Training and Research Center)では、ナラフィールドにおけるナラの生育改善の取り組みとして、フォグスクリーンを利用した水分供給実験をおこなっている。実用化にはいくつかの課題が存在するものの、水資源の少ないこの地域において、この取り組みはナラの生育を改善するには最も良い方法のひとつであると考えられる。
     なお、本研究は、文部科学省科学研究費補助金・基盤研究A(1)(研究代表者:水野一晴)「アフリカ半乾燥地域における環境変動と人間活動に関する研究」の一環として行われている。
  • 大塚 俊幸
    p. 88
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    _I_ 研究目的
    モータリゼーションの進展に伴い、中心市街地では都市機能が空洞化し、人口の高齢化が進行している。中心市街地が「まち」として再生するためには、人が住むことが重要である。人が住み、生活することにより、それに付随する諸機能が立地し、「まち」が形成されていく。
    中心市街地に居住する高齢者は、転居したくてもできない移動弱者だけではない。中心市街地の生活利便性を積極的に評価し、住み続けている元気高齢者も存在する。本研究では、中心市街地に居住する元気高齢者を対象に、その日常生活行動と居住環境をミクロな視点から明らかにするとともに、高齢者の居住経歴や定住要因の分析を通して中心市街地の居住空間としての可能性について考察した。

    _II_ 対象地域
    中規模都市の中心市街地が、人々が生活できる場所として成り立つかどうかという観点から、愛知県下第2位の人口規模を有し、行政が都心居住の促進に対して積極的に取り組んでいる豊橋市を対象都市として選定した。なお、本研究で対象とする中心市街地は、「豊橋市中心市街地活性化基本計画」(2000)において設定された約230haの区域である。

    _III_ 調査方法
    「豊橋市都心居住促進計画」(2002)の策定に際して実施された、中心市街地に居住する高齢者を対象としたアンケート調査結果(サンプル数295、回収率59.0%)、ならびに既存の統計資料等を用いて分析した。また、高齢者の日常生活行動や中心市街地に住み続けている理由について、ミクロな点から明らかにするため、中心市街地に居住する高齢者(4名)へのインタビュー調査を実施した。

    _IV_ 結果と考察
    (1)高齢者の居住環境と日常生活行動
    商業施設や公共施設などの都市機能の郊外化により、中心市街地の空洞化が進んでいる。しかし中心市街地には、まだまだ歩いて行ける範囲に商業施設や病院が存在しており、自動車を自由に利用できない移動に制約のある高齢者にとっては、中心市街地は暮らしやすい居住空間であることが明らかになった。実際、中心市街地に居住する元気高齢者は、「買物」を日常的な外出行動の中心に置いており、徒歩圏内で日常生活のほとんどが完結していることが明らかになった。
    (2)高齢者の居住経歴と定住要因
    父親や夫が商売を始めるために、周辺地域から中心都市豊橋の都心に出てきたことが、中心市街地居住のきっかけとなった。そして住宅、家族、職業、住環境にかかわるさまざまな要因が、中心市街地での高齢者の住み続けを規定していることが明らかになった。具体的には、以下のとおりである。
    _丸1_土地所有や持家の存在、貸店舗による家賃収入、併設店舗での商店経営が中心市街地に住み続けることを決定づけている。つまり、中心市街地の戸建持家は、その立地条件から単なる居住のためのスペースを提供する消費財としてだけでなく、生産財や生きがい実現の場としても機能している。
    _丸2_親、子供、兄弟姉妹といった家族の血縁的つながりが、居住地移動の際の強いプル要因となって作用している。
    _丸3_中心市街地は鉄道駅に近く、市外への通勤を容易にするとともに、その内部や周辺には多くの就業の場が存在している。このことが、中心市街地での定住を支えている。また、定年という人生の大きな節目が、終の棲家を選択する一つの契機になっている。
    _丸4_中心市街地の居住環境は、人によっては住み続けるためのプル要因となることもあれば、郊外への住替えを促すプッシュ要因となることもある。これには、これまでの居住経験が関係しているものと考えられ、年齢や職業観の差異により個人レベルで異なる。

    以上の点から、中心市街地は高齢者の居住空間として適した条件を備えているといえる。しかし、持続的発展が可能な中心市街地への再生という点からは、多様な世代の人々が混住する空間として、中心市街地の居住促進策を推進していくことが必要であろう。
  • 横山 智, 田中 耕司, ポムタボン ソムブンミー
    p. 89
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    ■はじめに
     1990年代以降,国際的な森林保護運動の高まりを受け,ラオスでも,焼畑の拡大による森林減少の対策を迫られることになった.そしてラオス政府は,1996年から森林を用途別に分類する森林区分を導入し,加えて農山村地域の農民に土地と森林を分配することによって,定着農業を促進させ,焼畑を安定化する「土地・森林分配事業(以下,土地分配と略記)」を開始した.

     一般的に焼畑は,毎年の耕地を集落全体で決定し,集落内の任意小集団を単位にして耕作されるが,土地分配が実施された村落では,個々の世帯に分配された小区画の農地で,世帯を単位とした定着農業が行われることになった.その結果,2001年の農林省統計によると、焼畑面積は土地分配が開始された1996年と比較して約38%減少したとされている.

     そこで本研究では,土地分配が実施された村落を事例に,土地分配後の農業的土地利用を明らかにし,土地・森林分配事業と焼畑安定化の関係について考察することを目的とした.


    ■調査村落および研究方法
     焼畑での陸稲栽培が主要経済活動である北部農山村地域で,土地分配が実施された村落を抽出し,その中から1999年に土地分配が実施されたルアンパバーン県ルアンパバーン郡ナーサオ村と2002年に実施されたウドムサイ県サイ郡コンケーン村の2村を調査村落として取り上げた.ナーサオ村は,ラオ人村落,そしてコンケーン村は,カム人村落で,両村落共に道路沿いに立地している.特に,ナーサオ村は北部最大の都市であるルアンパバーンから10kmの位置にあり,市場への近接性は非常に高い.

     現地では,郡事務所から入手した土地分配資料に基づいて,全世帯へ聞き取りを実施し,GPSを用いた測量,および分配された農地の視察によって土地利用を調査した.


    ■結果および考察
     ナーサオ村では,土地分配後に陸稲よりも土地生産性が高く,かつ3年連作が可能なハトムギが作付けされた.ハトムギは,ルアンパバーンの仲買人と買取契約が結ばれており,最低価格が保証されている.しかし,ハトムギは焼畑耕地で栽培されているため,焼畑農法そのものは存続している.土地の権利が個々の世帯に帰属する点と,陸稲からハトムギに作物が変化した点が土地分配以前と比べた大きな変化といえる.

     コンケーン村でも,これまでの稲作モノカルチュアから,土地分配によって商品作物への転作が見られるようになった.しかし,焼畑(陸稲),そして焼畑休閑地のような従来の土地利用も残存していた(図).また,行政側では同村内の高地に住居を構えるモックメオ集落の世帯に対して,焼畑陸稲作を中止させるために,低地道路沿いの土地しか分配しなかった.よって,2004年中にモックメオ集落は低地へ移住を強いられることになった.

     コンケーン村で見られた土地利用は,土地分配を実施しても,焼畑農業から定着農業への移行は容易でないことを示している.また,土地分配によってモックメオ集落の事例でみられたような半強制的な集落移転も伴うことが明らかになった.

     ナーサオ村のように,大きな市場と仲買人が存在する地域は,商品作物の導入が容易である.しかし,コンケーン村のような商品作物市場が未発達の地域では,たとえ農地を分配しても,生活基盤を維持するためには,自給用の陸稲を栽培する焼畑を存続させる必要がある.焼畑での陸稲栽培が主要経済活動となっている農山村地域で,焼畑安定化を実現するためには,土地分配のような政策以外に,導入される代替作物の市場と仲買機能の開拓など,種々の対策を講じなければならないと考えられる.


     本研究は,(独)国際協力機構(JICA)が実施する「ラオス経済政策協力 フェーズ2 農業農村部会」の調査成果の一部である.
  • 藤岡 悠一郎
    p. 90
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
     ナミビア北中部の半乾燥気候下に居住する農牧民オヴァンボは、生活の上で樹木を多用途・多量に用いる。本地域には半落葉高木であるマメ科ジャケツイバラ亜科のモパネ(Colophospermum mopane)が優占する植生帯が広がり、オヴァンボの建材や燃料として利用されてきた。彼らの居住地は、北に隣接するアンゴラ共和国から季節性の洪水が押し寄せる洪水域であり、近年では人口の増加によって、周辺部への住民移動が起きている。こうしたオヴァンボの居住域では現在、様々な要因による「砂漠化」現象が大きな問題となり、その原因のひとつとして、人々の樹木利用が挙げられている。
     従来の研究では、モパネの収奪的な利用が強調され、その結果として「砂漠化」現象が起きていることが指摘されてきた。しかし、自然要因や社会・経済的な変化に伴う人々の樹木利用の変化が植生動態にいかに作用しているか十分に検討されてはこなかった。そこで本発表では、人々の樹木利用と植生の相互的な変化に注目し、樹木利用と「砂漠化」現象との関係を明らかにすることを目的とする。
     調査地の住民による樹木利用には2度の大きな変化があった。オヴァンボは16-17世紀にかけて、現在のナミビア北部からアンゴラ南部に移住してきたと考えられており、その当時は水の便のために人々は洪水域に居住し、その周辺の樹木を利用していたと推察される。
     最初の変化は洪水域の樹木の減少によって、その周辺部へ伐採地が拡大したことであり、その結果として周辺部のモパネは減少した。
     2度目の変化は、1970-80年代にかけて、周辺部から再び洪水域へと利用の中心が移行するものである。その背景には洪水域から周辺部への住民の移動による居住地の拡大や、周辺部の樹木の減少、政府の伐採を禁止する法律の施行などがある。しかし、洪水域には既に高木の樹木はほとんど残されていなかった。そこで彼らのとった主な対応は次の2つである。
     一つはセメントや市販の材の購入である。しかし、貧困下にある多くの世帯では建材や燃料の全てを購入するのは難しく、一部の裕福な世帯を除いては利用の一部を購入に頼る程度である。
     もう一方の対応は洪水域に自生するヤシ(Hyphaene petersiana)の葉柄を利用するものである。この方法は、ヤシの利用部位が葉柄といういわゆる樹木の「利子」に相当する部分であるため、ヤシの個体数を減少させることのない比較的持続性の高いものである。このようなヤシの利用が可能となった背景には、果樹として重要であったヤシを従生態的に管理することによって、ヤシを中心とした「ヤシ植生」が形成されてきたためである。
     すなわち本地域における人々の樹木利用は一方的に収奪的なものではなく、樹木の管理によって植生形成にも結びついている。そして、その植生を建材・燃料として利用するという変化によって、植生攪乱が緩和される傾向が見出され、樹木を基盤とした人々の物質文化を維持することも可能となっている。
    (本研究は、文部科学省科学研究費補助金・基盤研究A(1)(研究代表者:水野一晴)「アフリカ半乾燥地域における環境変動と人間活動に関する研究」の 一環として行われている。)
  • 山縣 耕太郎, 伊東 正顕, 水野 一晴
    p. 91
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    アフリカ大陸南西部大西洋岸に位置するナミブ砂漠は,東をグレートエスカープメントと呼ばれる急崖地形で内陸の高地と限られた南北約2000km,幅40_から_120kmの広がりを持つ極めて乾燥した砂漠地帯である.クイセブ川は,ナミブ砂漠を横切る主要な河川の一つであり,最下流部にクイセブデルタと呼ばれる広い堆積域を形成している.
    ナミビアでは,他のアフリカ半乾燥地域と同様に砂漠化が深刻な問題になっている.クイセブ川流域においても,河川沿いの緑地帯の枯死や,ナラ植生の衰退などの現象が報告されている(水野,2003;伊東,2004).このような砂漠化の進行は,流域の地形にも影響を及ぼしている可能性が考えられる.本研究では,1960年代から現在までのクイセブ川流域における水文環境変化と,クイセブデルタにおける地形変化との関係について検討を行う.
    クイセブ川は,十分に降水があった年にのみ流水が生じる一時河川である.この河川によって南方から移動してくる砂丘砂が下流へ運搬されるため,クイセブ川の南側は砂砂漠,北側は岩石砂漠となっている.クイセブ川の源流は,ナミビアの首都ウィンドフック西方のコマス高地にあり,上流部は,グレートエスカープメントを深く刻む峡谷の中を流れ,中下流域は,ナミブ砂漠に広く発達する高位段丘(山縣・水野,2003)を刻む浅い谷の中を流れている.さらに大西洋岸から約25kmの位置にあるローイバンクより下流では,広い堆積平野(クイセブデルタ)を形成している.
    クイセブ川は,極めて乾燥したナミブ砂漠の中にありながら,中下流域の河道沿いには比較的浅所に伏流水が存在するため,緑地帯が形成されている.しかし,クイセブデルタに入ると地下水面が低下するためか,高木は見られなくなる.このため,中下流域の流路周辺で,森林に覆われているため空中写真によって地形を判読することが困難である.一方,クイセブデルタでは,地形や植生の変化をよく観察できる.そこで,クイセブデルタ地域について空中写真および衛星写真をもちいて,地形の経年的な変化を検討した.また,2001年から2003年にかけて現地における観察を行った.使用した写真は,1965年に撮影されたCORONA衛星写真と,1977年,1997年撮影の空中写真である.CORONA衛星写真は,読み込み解像度3200dpiのスキャナーを用いてポジフィルムからデジタル化して使用した.
    クイセブ川は,ローイバンク付近で二手に分流して,北側の支流は,大西洋に面した港湾都市であるウォルビスベイにのびている.この支流は,ウォルビスベイへの洪水被害を防ぐために,1961年に堤防によって封鎖された.これ以来,ウォルビスベイ側の河床には砂丘が成長し続けている.1965年には平坦であった河床に,1975年には小マウンドが点在するようになり,1997年には小規模な線状砂丘に発達している.2003年の観察では,比高10m以上の無植生の砂丘群が,かつての河床を埋めていた.今後クイセブ川左岸に発達するような大規模な線状砂丘に発達していく可能性も考えられる.
    また,1976年以降洪水発生頻度が減少しているため,本流側でも各所で砂丘の成長が見られる.洪水の減少理由としては,上流域に建設されている水源ダムの増加が考えられる.1972年当時に152であった源ダムの数は,1994年時点で361になっている.都市部の人口増加に伴う水需要の増大から,今後もダム数は増加していくものと考えられる.
    地下水についても,クイセブ川下流部の観測点において地下水位が低下していることが報告されている.1998年と2000年の大雨で,地下水位はいったん持ち直したが,ダムの増加に伴い,今後も低下していく傾向が続く可能性は高い.
    このような砂丘の発達,地下水位の低下に伴って,デルタ地域周辺の植生も変化している.洪水によって更新されたばかりの河床と,更新後時間がたった河床との比較から,砂丘の発達初期には植生が重要な役割を果たしていること,砂丘の発達に伴って植生が変化していくことが確認された.ナラ植生が衰退している理由も,洪水による地形の更新が行われず,砂丘が成長し続けているためであろう.また,地下水位の低下に伴って,ローイバンクより上流の緑地帯が衰亡していく可能性も高い.
  • 中道 圭一
    p. 92
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    _I_.はじめに
     森林には,様々な植物群落が存在するが,気温・水・風・日射量・土壌など,多くの環境要因に対応した植生を持っている.なかでも山地や丘陵地では,斜面の方位,地形などによって地表面での水や熱の配分が変わり,局地的に環境が変化し,植生が変わり,土壌も変わることが知られている(ex.吉良,1983).そこで,山地や丘陵地の植生を明らかにするには,斜面の方位と斜面型の分類を行い,それに対応した植生調査が必要である.
    _II_.研究地域概要と研究目的
    瀬戸市南東部「海上の森」は,総面積約540ha,植生の約3分の2がコナラやアカマツなどの二次林で,その他はスギやヒノキの人工林が占める.多様性がある生態系を持ち,名古屋大都市圏で有数の里山である.航空写真判読から,戦中まで海上の森の樹木は,燃料として一様に伐採(丸刈り)され,森林は人間活動の影響を受けていたことがわかるが,その後,約50年間は石油・ガス燃料の普及に伴ってほとんど人為的影響が及んでいない.よって現在みられる森林は,自然の遷移に任された二次林である.
     しかし,海上の森の植生は砂礫層地域と花崗岩地域で,明瞭に異なっている.砂礫層地域はモチツツジ‐アカマツ群集に属し,樹木の密度が低く,生育が不良な森林である.それに対して,花崗岩地域の植生は非常に豊かで,ケナザサ‐コナラ群集に属する生育の良い森林が広がっている.海上の森は,比較的狭い範囲で二次的遷移のスタートが同時であるのにも関わらず,現存植生に大きな違いが生じた点で重要であり,地質要因が植生の配置構造になんらかの作用をしている事が確認できるフィールドである.これらを踏まえて,海上の森の里山二次林について植生を定量的にあらわし,〔地形_-_地質_-_植生〕の関係性を明らかにすることを目的とした.
    _III_.調査方法
     上記の2つの地質で,田村(1996)に従い,南向きの斜面を上部,中間,下部の3つに分類し,北向きの斜面からも1つ選定し,10m×10mの方形区を設定した.次に設定した計8方形区で毎木調査を行ない,種構成,胸高直径と樹高,材積などを明らかにした.また,ボーリングステッキを用いて土壌層を調査した.
    _IV_.結果
     花崗岩地域は,全斜面型の高木層と南斜面の亜高木層・低木層の種構成に大きな変化はなかったが,北斜面の亜高木層・低木層は,特に常緑樹が多かった.また,全体に高木層と亜高木層の樹高に大きなギャップが見られた.一方,砂礫層地域では,上部斜面において高木層の優占種はアカマツだが,下部斜面に向ってアカマツとコナラの混合林へと変化していった.北斜面は,下部斜面と同様に混合林であった.全体に亜高木層・低木層は,人為的影響を受けた所に生育する種や,乾燥に強い種が見られた.各階層の生長量に差はなく,低木層から高木層まで連続的な生長分布を示した.また,花崗岩地域全体と砂礫層地域全体の材積を比較すると,花崗岩地域は,砂礫層地域の約3倍であり,最も生長のよい花崗岩上部の方形区と最も生長の悪い砂礫層上部の方形区を比較すると約8倍もの差があった.花崗岩地域の材積の大部分は,コナラ・アベマキが占めるが,砂礫層地域の大半は,アカマツが占めていた.花崗岩地域の北斜面は,南斜面に比べて生長が悪く,砂礫層地域の北斜面は,上部斜面に比べて生長が良くなっていた.
    _V_.考察
     同一の気候下で遷移のスタートが同時であっても,約50年間で地形・地質要因の違いにより,植生の生長や種構成に違いが現われることが明らかとなった.それらの原因は,水分・土壌・日照条件などを反映していると考えられる.花崗岩地域の土壌は,岩石の風化により多大な植物有用元素が供給され,土壌層も厚いために保水力が高く,日射量の多い南斜面においては生長が非常に良くなる.北斜面では日射量が少ないので陰樹の生長が卓越する.一方,砂礫層地域の土壌は,チャート主体である為に風化されにくく,植物有用元素の供給が乏しい.その上,土壌中の空隙が多いので,降雨は素早く排水してしまい,土壌は常に乾燥状態であるので,樹木の生長は不良で環境耐性の強い種が多くなる.降雨は,上部斜面から下部斜面に向かって排水するので,上部斜面の土壌ほど水分量は少なく,薄くなることが,樹木の生長や遷移を緩やかにしている.
  • 千葉 晃
    p. 93
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1.目的
     気候学・気象学辞典(1985)によると、日最低気温とは「24時間内にもっとも低い気温」と定義され、「晴れた日は日の出前後に出現する」と言われている。
     日最低気温の出現時刻を場合分けをせずに単純に集計すると、日界に近接した時間帯にその出現頻度が大きくなり、辞典の内容とは矛盾している。晴天日のみを抽出したいが、雲量データがないので他の方法を使用するしかない。
     また1時間値よりも詳細な検討を期待して10分値を使用すると、情報量こそは単純に6倍となるが時刻特定を行おうとするといくつかの問題点が介在してくる。そこで本報告では、アメダス10分値を使用して最低気温の出現時刻の特定を行う場合、その問題点と手法について、北海道内の地点を一事例として試案を提示する。
    2.資料
     解析資料は、気象庁提供のアメダス観測日報10分値(1999・2000・2000年の3冬期の1月と2月、計179日)とした。1979年以降のアメダス1時間値により日本低極を記録している(気象庁WEB・千葉,2000による)北海道旭川市江丹別の事例を用いた。
     アメダス江丹別は、旭川市江丹別町にある地点で、「江丹別そば」で有名な地区である。石狩川水系の江丹別川流域の小盆地で、谷は南北に走る。放射冷却の発生しやすい地形となっており、気象官署の旭川と比較した報告なども存在するので比較検討に適した地点と判断した。
    3.方法と問題点
     従来のように日界を午前0時とし24時間全てを解析対象とすると、当日日中の寒気流入などで午後に日最低気温が記録されるケースを拾ってしまう。晴天日の最低気温の出現時刻を特定するという意味があるので、午前0時10分から午前9時までに絞り、この区間を解析対象とした。
     また、前夜半からの放射冷却が順調に進行したとしても、暖気流入などにより放射冷却が鈍化し最低気温が午前0時10分に記録されるケースもある。このような日界の影響による最低気温の抽出を極力避けたいので、場の統一も不可欠と考えた。さらに、擾乱や日変化の小さい曇天日を事例に含まないことが重要となる。しかしながら、各アメダス地点では雲量計測はなされていないので、179例の中で最低気温が低い事例を36例(20%)を抽出し、雲量が少なく放射冷却が進んだ日と見なした。抽出例からモデルケースとして、気温の低い方から5番目までの事例を示す。
     さて、次にアメダスの分解能は0.1℃であるがその誤差は±0.25℃ある。気温最低値とその2位の値が0.2_から_0.3℃以内でかつ、両者に時間的な隔たりがあれば、2位のデータも軽視すべきではない。逆に最低値のみで議論するのは危険である。従って、当日朝の低い方から1位から6位までのデータも含め統計をとることにした。この抽出方法を使用すると、日界付近の事例は抽出されにくくなる。
    4.この方法による結果
     上記の手法で抽出した結果、アメダス江丹別では午前6時30分の15例を最大に6時から7時20分まで7時10分まで9事例以上を記録し、日の出時刻(旭川7時4分_から_6時10分)とほぼ対応していることが明らかになった。
  • 鈴木 亮治, 野上 道男
    p. 94
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1. 研究の目的と概要

     扇状地の勾配と、その扇状地を形成する河川の流量や上流の地形・地質とは、相関があるはずである。河川流量との関係では、流量が多くなればなるほど運搬力は大きくなり緩やかな扇状地が形成されることが期待される。また流域の地形と地質によって、河川に供給される砂礫の量や粒径が変わり、それによって河川の勾配が影響を受けると考えられる。

     本研究では、DEMによる地形計測によって扇頂付近における流域面積を求め、最寄りの流量観測所の比流量を用いて、扇状地河川の流量を推定する。またDEMによって確定した流域について、卓越する地質をもとめ、種々の地形特性値を集計した。これらの流域特性データと扇状地勾配との相関について分析し、考察を行った。



    2. 使用データと処理方法

     扇状地勾配は斉藤(1988など)のデータを用い、扇頂の位置や流域面積は斉藤のデータを元に1km解像度流域面積図上で測定した。河川流量は、地形形成作用との高い相関を期待してその頻度と強度を考慮しつつ、1980年から1999年までの20年間の流量年表で、それぞれの流量観測所における20年間のデータのうち3番目に大きい年間最大比流量を用いて、算出した。この値は7年に1回くらい起こる洪水流量に相当する。

     上流山地の地形の険しさを示す平均斜面傾斜、流域起伏数、最頻勾配等は50m-DEMから計算した。上流卓越地質は数値地質図(旧地質調査所、250m-解像度)を使用し、これらの解像度をすべて1kmに変換・統一した上で使用した。

     1km-流域面積図上で扇頂の位置を確認し、流路を逆にたどるプログラムを用いて流域を確定し、流域ラベル図を作成した。各流域は定性的特性として、水文気候区と卓越地質(区分)をもつ。地質区分は、堆積岩、付加体・深成岩・変成岩、第三紀火山岩、第四紀火山岩とした(旧地質調査所ラスタ型地質データ)。流域の水文気候区は野上(1990)の結果を参考に、積雪融雪型と台風梅雨型に大きく分けた。

     上流卓越地質は数値地質図を流域ラベル図でマスク集計し、それぞれの流域で最も広く分布している地質区分とした。地形特性は50m-DEMで計測したものを、1kmメッシュごとに、平均値・最頻値などによって集約し、さらに流域ごとの値を平均値で求めた。



    3. 結果

     扇状地の勾配、流量、流域面積、流域の種々の地形特性などは定量的データとして得られる。流域面積、河川流量、上流山地の平均斜面傾斜、流域起伏数、最頻勾配などを説明変数とし、扇状地の勾配を被説明変数とする分析を行った。分析はそれぞれ気候水文と卓越地質の組み合わせごとに行った。散布図、回帰曲線の傾き・誤差など回帰分析の統計量を用いて、扇状地の勾配とそれを支配する因子に関する分析結果を報告する。



    4. 文献

    斉藤享治(1988)『日本の扇状地』古今書院,280ページ.

    野上道男(1990):暖かさの指数と流域蒸発散量 _-_気候値メッシュデータによる解析_-_.地学雑誌,99,682-694.
  • _-_沼津市の事例_-_
    高島 淳史
    p. 95
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1.はじめに
    1998年に中心市街地活性化法が制定され、自治体では中心市街地活性化基本計画が作成され、それに基づき市街地の整備改善と商業等の活性化とを両輪とするさまざまな事業が実施されている。しかし、いまだ有効な対策がなされないため、中心市街地の衰退は治まっていない。とくに地方都市においてはその傾向が著しい。
    本発表では、地方都市における中心市街地活性化基本計画から、全国的な中心市街地活性化の動向を把握する。また、中心市街地活性化対策の事例として沼津市を取り上げ、補助金対象である中心市街地活性化対策事業を検討し、経営者意識との関連性から活性化への問題点を明らかにする。
    2.全国の中心市街地活性化基本計画について
     2003年10月1日現在、583市区町村で中心市街地活性化基本計画(以下、基本計画とする)が提出されている。
    都道府県別の基本計画提出割合を見ると、全ての都道府県において提出割合が50%に達していない。市区町村別の提出割合を見ると、山間部で未提出が多く、市部では大都市を除いてほとんどの地域で50%以上の提出割合である。
     計画面積と市区町村の人口との関係を見ると、県庁所在地や人口の多い都市において計画面積が広く、人口との相関が大きいことが分かる。
     基本計画の人口規模別計画項目の割合を見ると、どの人口規模の自治体でもハード事業が中心である。これは、基本計画の提出が実質的には補助金確保のためとなっていることが影響していると考えられる。
    3.沼津市の中心市街地活性化対策
     沼津市は、2000年4月に225番目として基本計画を提出しており、計画面積は163ha とほぼ平均値といえる。2001年3月には、商工会議所を母体とした「TMOぬまづ」を設立し、本格的な対策が始まっている。2003年度における市の補助金対象である中心市街地活性化対策事業は、チャレンジショップ設置運営事業など20項目以上にのぼっている。まちづくりイベント事業や美しい街並みづくり事業など商店街や市民団体主導による事業も多く含まれ、活性化に向けた市民意識の向上も見られる。しかし、図の総会・役員会の出席率で見られるような商店街内での意識の温度差もあり、意識改革を進め、商店主らの足並みを揃えることが重要と考えられる。
    4.結果
    沼津市では、活性化対策の成果を上げている事例も見られるが、その多くは行政によるハード事業などを契機とし、市民主導によるソフト事業を進めることで効果を上げている。しかし、現在では多くの商店街において内部の連携の欠如および商店街が別々に活動しており、中心市街地全体の活性化という視点で活動がなされていないところに問題がある。
  • 梶田 真
    p. 96
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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    1.はじめに
     今回の平成の大合併の動きを加速させたのは紛れもなく、合併しない小人口町村に対する「ムチ」の導入、特に地方交付税政策の転換にあった。当時の各種自治体調査の結果が示すように、合併に対して最も懐疑的な姿勢を取っていた小人口町村に対して1998年以降、国は国勢調査人口4000人未満の市町村を狙い打ちにした地方交付税の削減策を実施した。以後、小人口町村の財政状況は急激に悪化し、2002年からはじまった小人口町村に対する地方交付税削減策の第二段、さらに小泉政権の「骨太の改革」の中で地方交付税改革を含む「三位一体の改革」が打ち出され、もはや抗せざる動きとして小人口町村を市町村合併の検討へと突き動かしていった。1998年以降の動きは、全国町村会が「小規模町村バッシング」と呼ぶほどに激しい、矢継ぎ早の施策展開であった。合併特例法による特例措置の適用期間の期限が2005年3月末に設定され、市町村合併に向けた事務的手続におおよそ1年程度の時間を要すると考えられているため現在、数多くの小人口町村は市町村合併そしてその枠組に関する意志決定に迫られている。報告者は主として財政問題の観点から、小人口町村の市町村合併政策等に関する認識の把握を目的としてアンケート調査を実施した。

    2. 調査の概要
     本アンケート調査は2003年11月に郵送法によって実施した(回答期限12月20日)。調査対象は2000年国勢調査人口において人口が4,000人未満の全国504町村のうち、2003年11月までに合併によって消滅した15町村を除く489町村であり、回答者として各町村の財政担当の係長(もしくはこれに準じる人)を指定した。回答町村数は373、回収率は76.3_%_に達した。以下に示すように、各町村にとって極めて微妙な質問を設けているため、町村名の公表は行わないことを条件としており、また電話等による回答依頼 は行っていない。

    3. 調査結果の概要
     2003年11_から_12月現在において「合併が決定している」町村と「独立町村の維持が決定している」町村は共に9.1_%_である。残る町村のうち、「協議会を設け合併の方向で進んでいる」町村が56.8_%_、「協議会を設けているが事態は流動的で合併しない可能性もある」とした町村が18.5_%_であった(この他、無効回答や協議会を設けない形での検討を行っている等の理由により無回答としたものなどが6.5_%_ある)。
     調査対象町村が「このままでは財政的にやっていけない」という認識を示すようになったのは2000年から2001年にかけてのことであり(2000年:21.7_%_、2001年32.4_%_)、法定および任意の合併協議会が2002年に入って急増した事実と一致する。
     「貴町村の属する都道府県の合併に対する働きかけは他都道府県に比べてどのようなものだったのか」 という項目(1. 積極的 ←→ 5. 消極的)について、回答町村数が10以上あった13道県の平均値を見てみると広島県(1.167)、山梨県(1.364)を筆頭に、合併に積極的なスタンスをとった県と長野県(4.379)、北海道(3.767)、高知(3.667)という、合併に消極的なスタンスをとった3道県とに二極化している。
     合併積極県ではいち早く小人口町村を交えた市町村合併が成立・決定しており、合併市町村に対する「優遇策の実施見込み」についても高い期待を寄せていることから、都道府県のコミットメントが小人口町村の意志決定に有為な影響を与えていることが伺える。逆に合併消極県では「地方交付税削減策がなければどうしたか」という設問に対して「合併の検討はしなかった」と回答した町村の比率が平均を上回り(特に北海道では6割以上)、そもそも地理的条件や歴史的経緯から合併が困難な都道府県であったものと考えられる。

    この他、発表時間の許す範囲でアンケート調査で得られた特徴的な知見を紹介していきたい。
  • 中川 聡史
    p. 97
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    1985年のプラザ合意後,タイでは外国からの直接投資の急増に起因する著しい経済成長が生じている。1997年のアジア通貨危機で脆弱さも露呈したが,海外市場向けの生産を強化することなどによって景気は回復し,現在に至っている。こうした経済成長のなかで,首都バンコクはますます発展するとともに,バンコクに近い地域でもバンコクからの人口郊外化,工場の進出などにともなって人口が増加し,経済成長も著しい。本報告では,タイにおける近年の投資の空間的分布と人口移動の関係を,必要とされる労働力の性比,移動者の性比に注目して検討することにより,グローバル化がタイの社会に及ぼしつつある影響について考察する。
    タイにおける投資に関しては,タイ政府の投資委員会(Board of Investment, BOI)が大きな役割を果たしている。投資委員会は,1954年の産業奨励法制定を機に設立された首相府直属の政府機関であり,投資奨励政策の企画立案,奨励案件の審査・監督をおこなう。タイで経済活動をおこなう多くのタイおよび外国の企業が投資委員会に案件を申請し,奨励証書の発給を経て事業を開始することによって各種の優遇措置(機械・設備の輸入関税,法人所得税などの減免)を受けている。地方への工業分散政策の一環として,BOIは国土を首都のバンコクを中心とした3つのゾーンに区分し,バンコクから遠いゾーンに立地する製造拠点(工場)ほど手厚い優遇措置を与えるという施策が1987年より実施されている。タイの76県のうち,ゾーン1にはバンコク都,および周辺5県が含まれ,ゾーン2には,それらを取り巻く11県とプーケット県の計12県が含まれ,残りの58県がゾーン3に含まれる。
    ここでは投資の地域分布の推移を,タイ投資委員会の認可案件に関するデータベース を用いて検討する。投資委員会を介して実施されるのは,主に製造業の投資であり,金融・保険業や総合商社などの経済活動は通常ここに含まれないが,グローバル化のひとつの典型例である製造業の国際分業の進展に関しては,投資委員会のデータをもとに状況をかなりの程度正確に読み取ることができるであろう。図をみると,投資委員会の立地分散政策がある程度の効果を上げていることが読み取れる。すなわち,1986年以降,バンコク都および周辺5県よりも,ゾーン2やゾーン3の地域で多くの投資プロジェクトが実施されている。業種別にみると,バンコク都ではサービス業と軽工業が多く,周辺5県では軽工業と電気機械工業が多い 。一方,ゾーン2では一般・輸送機械工業が卓越している。これは,シャム湾で開発された天然ガスを利用する東部臨海地域(ラヨーン県およびチョンブリ県)における重化学工業への投資が本格化したこと,バンコク港を補完・代替するレムチャバン商業港 と周辺の工業団地建設などに大規模な投資がなされたこと による。また,1990年代以降はアメリカや日本の自動車企業がラヨーン県,チョンブリ県などに主に輸出を念頭においた大規模工場を建設し,関連産業を含め,自動車関連産業の東部臨海地域への集積が近年著しい 。一方ゾーン3では農業・食品工業と軽工業が多い。
    バンコクと周辺5県で卓越する軽工業や電気機械工業は女性労働力を好む傾向が強く,またバンコク都に多い非製造業も女性労働力の構成比が高い。これらの地域への人口移動をみると女子の流入が男子に卓越する。一方,ゾーン2は自動車関連産業とその他の重化学工業の立地が近年急速に進んでいる。これらの業種は女性よりも男性を選好し,結果的にゾーン2地域には男子人口の転入が卓越し,性比が上昇している。業種別にみた投資の空間的分布の偏りは男女別労働力需要に影響を及ぼし,それに呼応する男女の選択的な人口移動が観察される。なお,報告当日は,男女別の人口移動に関するより詳細な分析結果を紹介する予定である。

    関連文献:
    中川聡史「グローバル化にともなうバンコク大都市地域における人口移動と人口構造の変化」国民経済雑誌188-2,2003,79-99頁。
  • 生井 貞行
    p. 98
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    地球温暖化の影響によって海面下に沈むといわれている南太平洋に浮かぶ島、ツバルの現状について報告する。ツバルは、北はキリバス共和国、南はフィジー共和国の間に位置し、南緯5度_から_11度、東経176度_から_180度の間の太平洋に点在する9つの環礁と珊瑚礁からなる国である。国土面積は世界で四番目に小さく(26k_m2_)、人口は二番目に少ない(11,146人、ともに2002年センサス)。モーターボートをチャーターしてフナフティ環礁を廻った。海の色は群青色、黒潮である。島は緑に満ちあふれ,海岸線まで熱帯の樹木は生い繁っていた。しかし,丸っきり景観の異なった島がある。樹木は見えず,表土の流出した白い石灰岩の塊の島である。ツバルは12月から2月にかけて大潮をむかえる。
    海面は3mほど上昇する。島の一部では海水が湧水したり、潮を被ってしまう所がみられる。ツバルの緑の消えてしまった島を見て愕然然とした。       
     フナフティの高校生約60名を対象にアンケート調査を行った。それによると半数以上がツバルに地球温暖化の影響が見られると指摘する。そのなかには,島は海中に沈んでいるという悲痛な答えもみられる。そして地球温暖化防止会議を知っているのは半数,さらにアメリカが会議から離脱したことについては多数が理解できないと不満を抱いている。また,なぜか日本がCO2を世界で一番多く排出していると考えている。「島が沈んだらどうしますか」という「酷」な質問に関しては,多くが移住を希望している。  日本へのメッセージを書いてもらった。日本に救いを求める声が多くみられた。家が海水を被るとか、低地と海に近い道路に最も影響が見られるなど、温暖化の影響を具体的に指摘したものやツバルは20年程で沈んでしまうなどの声もある。また温暖化の原因となっているものとして工業化をあげ、日本にモーターバイクや車などの生産を止めてほしいという意見もみられる。また堤防をつくり、そばに木を植えてほしいとか、海面上昇を防ぐものを送ってほしいという具体的な要望もある。どのメッセージにもツバルが直面している環境問題についての深刻な思いが込められている。高校生たちが自らの進路について夢のある未来を思い描いているのは世界共通である。しかし、国土が海に沈んでいくかもしれないという現実的な問題を前にして、ツバルの高校生たちがいかに自らの夢を抱いた将来設計 を描いていくのか、心、重い。島内をレンタバイクで廻
    ってみた。高潮対策のために高床式に建設された家や建築中の家が随所にみられた。しかし,すべての人が家を建替えられる資金を持っているわけではない。環境破壊における被害は,まず資金のない経済的に弱い立場の人々に及ぶ。聞き取りをする私にある人は涙を浮かべて「私が生まれ育ったこの国が沈むはずがない」と語った。調査をすすめていくうちに重い気持ちになった。「国は沈むかもしれない」という思いを抱きつつ日々生活することの重苦しさをいかに拭い払えるか。それはツバルの問題ではなく,先進国日本に提起された課題でもあるのだろう。
  • 原 美登里
    p. 99
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
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     原(1999)は大都市圏の都市機能の一部である都市用水事業と下水道事業に視点を置き,都市の拡大により引き起こされた流域変更について考察するために,神奈川県,愛知県,香川県の事例を分析した.その際には,都市用水事業と下水道事業の展開を歴史的に調査し,都市用水の流域変更システムと,その結果生じた流域外へ移動する水量を「取る・使う・捨てる」の流れに沿って整理した.また,地理情報システムを駆使して,時間・空間の両次元でのデータ分析を行った.その結果,流域変更は,取水・排水域の双方の水環境に大きな負荷を与えることが明らかになった(原,1998).
     埼玉県では,利根川と荒川が都市用水供給のために水路で結ばれ,利根川水系から取水された水が各家庭から下水道を経て,荒川水系へと排水されているという流域変更が行われている.
     そこで,本研究では埼玉県の上下水道を中心とした人為的な水循環構造の一端を担う流域変更と,それにともなう水環境への影響を明らかにするために,埼玉県の上下水道の変遷・埼玉県の上下水道にともなう人為的な水の移動システムおよび水量・流域変更されている水量の分析を行っている.今回は埼玉県の上下水道の変遷について発表する.
    これらのデータはすべてデータベース化を行い,図化についてはGISを用いて行った.
     埼玉県の水道事業はもともと簡易水道により給水されていた地域がほとんどであった.1924年に秩父市おいて初めて上水道による給水が開始され,1930年に深谷市,1931年に児玉町,1932年に飯能市,1937年に浦和市・大宮市・与野市から成る県南水道企業団と所沢市に敷設された.1950年代には次々と給水が開始され,1970年代にはほとんどの市町村で上水道が敷設された(澤田,1997).埼玉県水道用水供給事業(県水)は,1968年に人口増にともなう給水量の増加や,地盤沈下抑制のための地下水取水規制に対応するために,県南水道企業団・川口市・戸田市・蕨市・鳩ヶ谷市により安定した水量を供給するために始められた.その後,給水区域を拡大していき,広域第一水道では対応しきれなくなり,1978年に広域第二水道における通水が開始された.これらは1991年に統合され,2000年には74事業体(78市町村)に用水を供給している.県営水道の水源はすべて表流水であり,荒川・江戸川・利根川より取水され,ブレンドして各水道事業体へ供給されている.
    埼玉県の下水道事業は1931年に川越市で事業着手されたのを皮切りに,1939年に川口市,1950年に行田市をはじめ,久喜市,大宮市,秩父市と整備され,浦和市での着手は1955年であった.埼玉県では県民の飲み水である荒川の汚濁対策と周辺地域の生活環境の改善を図るため,1967年に県内初の流域下水道である荒川左岸流域下水道を敷設した.その後,2000年度まで順次事業着手が行われている.
    給水人口は総人口の増加傾向と連動しており,1965年度では約186万人であったのが,2000年度では約690万人とおよそ4倍になっている.水道普及率も年々上昇しており,1970年度以前は全国平均を下回っていたが,それ以降2000年度までは平均を上回り,100%に近い値で推移している.
    下水道普及率も年々上昇しており,1985年度までは全国平均を下回っていたが,1987年度以降は平均を上回っている.しかし,2000年度においても68%と約3割がいまだ敷設されていない状況である.
    上水道における給水量は1995年度までは増加傾向にあり,その後横這い状態である.
    上水道における給水量の水源別分析を行った.1960年度の給水量の90%を地下水が占めていた.1970年度の地下水の割合は73%で,その後年々占める割合は減少している.
     埼玉県の水道事業は簡易水道から上水道事業に転換され,さらに水源も地下水から用水供給事業への変換が顕著に行われていることが明らかになった.これは水の輸送が行われ,流域変更が起こっていることを示唆している.
     今後水道供給事業体ごとの上下水道の変遷と,水移動量の分布などを明らかにした上で,埼玉県の流域変更による水環境への影響を明らかにするつもりである.
  • 中村 有作
    p. 100
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/29
    会議録・要旨集 フリー
    奄美群島を含む琉球列島の基幹産業であったサトウキビ栽培と製糖業は、1963年の糖類資源輸入自由化以降、サトウキビの政府買い取り価格の据え置きなどで大きな打撃を受けた。その中で、産業の新たな方向性を模索するが求められ、その取り組みで地元と自治体など公共機関が果たす役割が大きいと考えられる。本研究では、町政による農業振興策を軸にサトウキビ中心農業から輸送野菜と切花を中心とした園芸農業への転換に成功した沖永良部島和泊町を事例に、農家の農業振興政策の受容とそれによる担い手層の変化を通して行政主導の政策の住民への意義を検討する。
    1953年の日本復帰以降、政府の糖類資源自給強化政策により奄美振興事業を利用してサトウキビ作付拡大が行われたが、輸入自由化以降の買い取り価格据置でその転換に迫られた。そのため、町が中心となり各種農業振興の施策が行われた。輸送野菜は、1971年に園芸振興組合を町主導で組織したことに始まり、これまでバレイショ、インゲンなどが導入されてきた。切花の拡大に当たっては、町政が直接先導し、種苗改良や栽培指導を担う町立実験農場、出荷・販路開拓を担う組合として花き流通センターが設置された。
    このような農業振興の施策が、農家にどのように受容されたかを主に作物の選択過程から明らかにする。
    1.スプレーギク(以下、キク)・ソリダゴの切花を中心とする農家は、労働力をみてみると経営主の年齢が30歳代_から_40歳代が中心で、50歳代の場合も後継者がいる。現在の経営主になってから実験農場の指導を受けながら切花を始めた。採用理由は、ユリのように球根を作る必要がなく、挿木で種苗を作れ、1年目より出荷が可能であるなど栽培が簡易であったことと、露地栽培が可能であり、ハウスを建設する必要がなかったためである。
    2.ユリ系切花を中心とする農家の経営主年齢は50歳代で、現経営主になってからユリ球根の価格暴落により余剰球
    根を利用して切花を始めた。農地面積はキク中心の農家と比較して広く、自家用球根栽培の露地とハウス用地の両方を確保でき、かつ設備投資などの資金的にもゆとりのあった者が参入した。切花中心農家はいずれも経営主の年齢が若く、家計事情などから高収益化を迫られたことが導入の背景にあった。
    3.輸送野菜栽培は、バレイショが中心であり、若年労働力を保有する農家と、高齢者のみの農家のそれぞれが存在する。前者は、離農者からの借地や、町内の先覚的農家が開発し、普及所により広まった機械化により、規模拡大が可能ことで効率化を図るため単作かし、8ha以上の大規模作付を行ない、大量生産を志向する。また高齢者農家も機械化によって夫婦2人のみの労働力でも経営を維持していけることからバレイショを選択した。150a程度でサトウキビとの複合経営を行っている。1980年代前半に栽培の始まったインゲンなどのハウス野菜は、その多くが切花に移行し、現在は島内で10戸程度に減少した。
    4.肉用牛を中心とする農家は、60歳代後半以上の高齢農家であり、採用理由は労働力配分のためであるが、バレイショ栽培が不可能な東シナ海側の地域で卓越する。
    5.サトウキビ中心を中心とする農家は、製糖工場の社員など、兼業先の会社の要請により栽培を行っている。
    和泊町の事例で特徴的であったのは、単一の種類の作物を導入することに留まらず、継続的に複数の園芸作物を導入し、地域の事情にあった栽培方法を独自で開発することにあった。これは、様々な属性を持つ農家へ対して多様な選択肢を提示することになった。切花は高収益化が必要とされる若年層農家の要求を満たした。特にキクやソリダゴは、それまで農地面積や資金面で不利な農家や新規就農者が切花へ参入することを可能にした。これを支えたのは実験農場の技術開発と指導であった。また、バレイショの導入と機械化は、若年労働力を保有する農家においては規模拡大と集中・効率化による高収益化を可能にすると共に、高齢者農家が農業を継続できる要因となった。また、バレイショの事例のように、農家からのボトムアップを重視し、それを広めることも行ってきたことも注目される。このように、行政による継続的な技術革新とそれへの住民の関与、それによって提示される多様な選択肢が輸送園芸へ転換と継続性の面で重要であることが明らかとなった。
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