日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の144件中101~144を表示しています
  • 前田 陽次郎
    セッションID: 604
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     岩手県岩手郡葛巻町は、古くからの酪農地帯である。地形は急峻で土地条件には恵まれていないが、1970年代後半から行われた北上山系開発事業を契機に、草地が開かれ、酪農の大規模化が進んだ。
     この事業は、育成・採草・搾乳の各事業を別の機関が行う機能分担方式を中心に計画された。町内の酪農家は、新たに創設された葛巻町畜産開発公社に育成牛を預託することで搾乳に専念することができる。
     実際には現金支出をおさえるため預託する農家は少なく、当初計画のような草地型の酪農は形成されなかったが、購入飼料を利用した大規模化の道を進み、全国でも有数の集約的酪農地帯になった。 
  • 商品化する日本の農村空間に関する調査 (1)
    田林 明, 淡野 寧彦, 横山 貴史, 吉田 国光
    セッションID: 605
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    1.はしがき
     日本の農村は1990年代に大きく変化した。その1つの重要な側面として、これまで基本的に農業生産の場としてみなされてきた農村が、農業生産のみならず、余暇や癒し、文化的・教育的価値、環境保全などの機能をもつ場として捉えられることが多くなったことがあげられる。現代の農村空間は、生産空間という性格が相対的に低下し、消費空間という性格が強くなっている。これを「農村空間の商品化」とみなすことができる(Ilbery and Bowler, 1998)。農村空間の商品化にかかわる活動のなかには様々なものが含まれるが、最も視覚に訴え、目立つのがレクリエーションと観光である(Wood, 2005)。この報告は、既存の観光地が、農村空間の商品化、すなわち農村資源を活用することで、発展する可能性を、栃木県那須地域で検討する。ここで取り上げる那須地域とは、栃木県北部の那須高原、塩原温泉、そしてその中間に位置する那須扇状地を含む範囲である。
    2.塩原温泉と那須高原における観光地域の変遷
     古くから地元の湯治場として知られていた塩原温泉であるが、明治期に入って国道6号線や東北本線の開通によって、関東一円からの長期滞在者を集める湯治場として栄えるようになった。夏目漱石や尾崎紅葉などの文筆家が滞在し、小説や紀行文で塩原温泉を取り上げることでその知名度はさらに向上した。第2次世界大戦後には、湯治場から温泉観光地に移行し、その性格は基本的に現在まで続いている。しかし、バブル経済崩壊以降、観光客数が減少し、しかも日帰り客の増加によって宿泊施設の利用が減少するという傾向がでてきた。これに対して、足湯や立ち寄り湯を設置したり、温泉公園を建設するといった試みのほか、史跡や碑文の整備、ハイキングコースの設定、そして農産物の直売所や観光農園の開設など、地域資源を活用した観光地の活性化が試みられている。  他方、那須高原も那須湯本を中心とした湯治場・温泉観光地として発展してきたが、1925年の那須御用邸の建設以降、別荘地として注目されるようになり、1960年代からの高度経済成長によってさらに別荘地開発は加熱化した。この時期にはまた、ペンションがつくられ、各種の美術館や那須ハイランドパークのような外部資本による観光施設や南ヶ丘牧場のように地元農民による観光開発も進んだ。那須高原は、温泉客や別荘客、美術館見学者、牧場観光客、サファリーパークやハイランドパークなどの利用者、登山客などを引きつける複合的な観光地として発展した。しかし、ここでもバブル経済の崩壊や那須水害などを契機に、観光各が減少傾向にある。それに対して、観光農園や体験牧場、そして道の駅での農産物の直売など、農業と観光を結びつける試みが行われている。
    3.那須扇状地における農村資源を活用した観光の発展
     塩原温泉と那須高原の中間に広がる広大な那須扇状地の大部分は、明治期以降、那須疎水などの開削により新たに開拓された。農林水産省と地方自治体の共同事業として全国で実施さている「田園空間整備事業」の一環として、2000年から2006年まで「那須野が原田園空間博物館」が整備された。これは、那須疎水や蟇沼用水などによる農地開拓、明治の元勲や地元有志による農場開発など、農業的な地域資産や地域の個性を生かして、那須野が原で新たな文化を創造し、それを外部に発信しようとするものである。これは元来観光開発という性格をもっていなかった事業であるが、観光のために活用できる大きな可能性を秘めている。
    4.農村空間の商品化による観光地域発展の可能性
     塩原温泉や那須高原など既存の観光地では、ハイキングコースの整備や体験農園や農産物直売所、地元の食材を提供するレストランの設置など、いわゆる農村空間の商品化による観光開発が現在の停滞した観光地の状況から脱却する方策として考えられている。このような農村空間の商品化とも言える試みは、従来からの個々の観光地の観光活動を多様化するとともに、活動に面的な広がりを与えることができる。さらには、その中間に位置する那須扇状地全体を田園空間博物館とする事業によって、個々の観光地が結合され、広域的・複合的な新たな観光地が形成され、それが那須地域全体の一層の観光発展に結びつく可能性がある。
    文献
    安達曜理・高山宗之・酒川 準(2006):那須扇状地とその周辺地域における広域観光エリア形成の可能性. 自然とくらし, 13, 1-24. 井口 梓・田林 明・トム=ワルデチュック(2008):石垣イチゴ地域にみる農村空間の商品化-静岡県増地区を事例として-. 新地理, 55(印刷中).
  • 商品化する日本の農村空間に関する調査報告(2)
    菊地 俊夫
    セッションID: 606
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    研究目的
     横浜市青葉区寺家地区を事例にして、大都市近郊におけるルーラリティの商品化のシステムとその持続性を明らかにする。横浜市青葉区寺家町は、市域の最北端、鶴見川の上流部に位置し、丘陵の尾根で東京都町田市三輪町と、鶴見川を挟んで川崎市麻生区早野と境界を接している。寺家町の人口と世帯数は、それぞれ322と135である(2006年現在)。

    分析フレームワーク
     ルーラリティ(農村らしさ・農村性)は農村地域の生態的基盤(自然的環境・土地・水域・動植物相)と経済的基盤(農業・農業的土地利用)、および社会的基盤(農村コミュニティ)の有機的な相互関係によってつくられる。したがって、それらの結びつきをシステムとして捉え、農村空間の商品化は1つの基盤の変化のみ生じるのでなく、1つの基盤の変化が全体のシステムに及び、全体のシステムとして生じると考える。

    生態的基盤
     寺家地区は多摩丘陵のほぼ中央部に位置し、標高70~60mの丘陵地と、その丘陵が浸食されてつくられた標高25m前後の沖積低地とからなる。丘陵地はコナラやクヌギの混交樹林で覆われ、かつては人々の生活や経済活動と密接に関わっていた。丘陵地以外の土地は、鶴見川沿いの氾濫平野と小さな谷戸からなり、それらは水田や畑、果樹園に利用された。近年では丘陵地の住宅開発が進み、寺家町のルーラリティは失われつつある。

    農村空間の商品化
    高度経済成長以降、都市開発の拡大や農業就業者の減少により、近郊農業の持続は難しくなってきた。また、水田とともに農村景観を形成してきた里山も化学肥料の普及やエネルギー革命により利用されなくなり、アズマネザサが茂り荒廃化した。このような状況を改善するため、地域の特徴を活かした地域活性化の方法が模索され、農村空間の商品化が3つの柱に基づいて実施された。すなわち、1)美しい田園景観を保全しながら,土地,人を含めた農村資源の活用を図る。2)観光農業の推進などで農業の第三次産業を促し、農家の生活安定と地域での就業機会の増大に努め、地域の活性化を図る。3)新住民,学童等が,自然,農業,ルーラリティを体験することにより、健康で心豊かな人づくりに役立てるとともに、農村部と都市部との相互理解を深める。寺家地区における農村空間の商品化は1981年に農林水産省の自然活用型農村地域構造改善事業(神奈川県・緑の里整備事業)として支えられ、1984年に設立された寺家ふるさと村体験農業振興組合を担い手に進められた。結果として、寺家地区は農村における生態的基盤と経済的基盤、および社会的基盤を相互に関連させて、ルーラルツーリズム空間として持続している。
  • 商品化する日本の農村空間に関する調査報告(3)
    小原 規宏
    セッションID: 607
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    _I_ はじめに  近年,ルーラルツーリズムや都市農村交流は,特に地方の農村部における活性化の手段として定着してきた.関東農政局が2001年に都市住民に行った「趣味としての農作物作りへの意向」アンケートでは,「現在作っている」と回答した人が15.7%,「作ってみたい」と回答した人が60.7%となり,都市住民の多くが少なからず農村や農業へ関心を寄せていることが明らかとなった.加えて,定年後の第二の人生を送る上で趣味として農作業を挙げる都市住民も多く,団塊世代の定年はますますルーラルツーリズムや都市農村交流に対するまなざしを強めるだろう.そのような中でルーラルツーリズムや都市農村交流に関する農業・農村地理学的研究も蓄積している.しかし,その多くはルーラルツーリズムや都市農村交流のゲストとなる都市住民の量的なデータ分析が中心で,ルーラルツーリズムや交流が農村や農村空間に何をもたらすのかという質的なデータ分析は少ない.そこで本研究は,ルーラルツーリズムの先進地として近年注目を集めている茨城県笠間市における滞在型市民農園を事例に,ルーラルツーリズムがもたらす農村空間の質的変容を分析した. _II_ 笠間市におけるルーラルツーリズムの発展  笠間市は、茨城県の中央部に位置し,首都圏からは約100kmの距離にある.県庁所在地である水戸市と隣接しており,2006年3月に旧笠間市,旧友部町,旧岩間町が合併し,笠間市となった.市を南北に分断するように水戸線が走り,市の北側では,古くから笠間稲荷神社や笠間焼を中心とした観光産業が盛んであった.一方,南側では,古くから農業が主産業であったが,1980年代以降,その土地生産性の低さから農業生産基盤が弱体化し、農地の荒廃が深刻化した.その対応策として,1994年以降,旧笠間市南部の本戸地区において都市住民向けの滞在型市民農園の建設が本格化した.そして,2001年4月に面積約4ha,関東発の滞在型市民農園がオープンした.滞在型市民農園は,北関東自動車道笠間インターチェンジから約8kmに立地し,「農芸と陶芸のハーモニー」をテーマに「農」のもつ多面的機能と笠間の歴史・芸術・文化との融合を図り笠間型のライフスタイルを楽しむことを提案している.50区画(37_m2_の簡易宿泊施設と100_m2_の菜園、芝生)の滞在型市民農園に加えて日帰り市民農園が50区画(1区画30_m2_)用意されており,計100組の利用者の受け入れが可能となっている.滞在型市民農園に隣接してクラブハウスや堆肥場,農機具倉庫,農作物販売所,そば処がある.利用期間は,滞在型,日帰り型ともに4月から翌年3月までとなっており,利用者の希望により最長5年間の更新が可能である.利用料金は,滞在型市民農園が年額40万円(光熱水費等は別途負担),日帰り市民農園が年額1万円である.  2007年の利用状況は,滞在型市民農園が50区画中50区画,日帰り型市民農園が50区画中44区画の利用となっている.利用者の内訳をみると,滞在型市民農園は東京,神奈川,千葉,埼玉からの利用者が多くなっている.担当者によると,開設当初4,5年は1.5倍前後であった抽選倍率が,ここ2年で急激に上昇したという.運営費用については,2006年予算では歳入が2,120万円,歳出が1,720万円となった.滞在型市民農園の宿泊施設の建設にかかった費用は1棟当たりおよそ1,000万円で,利用料金以外の堆肥生産費や維持管理費などは施設側が負担しており,事業の主目的は経済的な収益よりもルーラルツーリズムによる笠間市の活性化であるという. _III_.笠間市におけるルーラリティの商品化と農村再編  2007年11月に行った滞在型市民農園利用者へのアンケート調査によると,利用者の7割が提供される様々な講習会や体験イベントへ参加している。市民農園では,「懐かしさを誘う田舎体験」をキーワードに「無農薬農業体験」や「りんごの栽培体験」,「味噌作り体験」,「こんにゃく作り体験」,「ジャム作り体験」などが提供されており,利用者の多くが「田舎体験」を主としたルーラリティを消費している.また,利用者の6割が市民農園の農業とともに,窯業体験にも参加している.  笠間市では,滞在型市民農園利用者によるルーラリティの消費が進むにつれ,地元住民にも変化がみられるようなった.市民農園周辺では,体験イベントなどを通じて積極的に都市住民と交流したり,市民農園に隣接した農産物直売所へ農産物を出荷する農家が現れたり,窯業体験に参加する市民農園利用者に窯業指導する陶芸家が現れ始めた.このように笠間市では,滞在型市民農園を核としたルーラルツーリズムの進展にともなって,都市住民と地元住民との交流が活発化し,さらにその土地生産性の低さから1980年代以降,荒廃し続けた市南部の農村が再び脚光を浴びることとなった.
  • 商品化する日本の農村空間に関する調査報告(4)
    張 貴民
    セッションID: 608
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     愛媛県宇和海沿岸はリアス海岸が発達し、豊かな水産資源に恵まれたところである。また、佐田岬半島から宿毛湾沿岸まで段畑が広く分布している。江戸時代から、ここは天と地と海のはざまに生きる、相互補完的半漁半農の地域である。
    1.段畑における農業経営の変化
     宇和海沿岸の段畑は山頂まで分布していた。段畑は漁村の食糧自給のために造成されたものである。段畑の主な作物は夏に旱魃に強い甘藷で、冬に麦が栽培され、自給的作物として漁民の暮らしを支えてきた。段畑の商品作物として江戸時代から明治年間にかけて櫨が栽培され、宇和海沿岸は愛媛県下で最も重要な産地であった。明治中期以降、櫨に代わって桑が栽培され、県内随一の養蚕産地になったが、戦時中の緊急食糧増産のため換金作物であった桑から甘藷と麦の栽培への転換を余儀なくされた。
     戦後も食糧確保のために食糧作物の栽培が続いたが、昭和30年代になると、商品作物として柑橘栽培が宇和海沿岸北部から南部へと順次に導入され、栽培面積も著しく増加した。しかし、高度成長期以降、柑橘栽培に適した宇和海沿岸の北部は耕地面積が増加させたが、南部は段畑の耕作放棄が見立つようになった。宇和海での真珠母貝養殖、そしてハマチ養殖などの養殖漁業が段畑耕作より生産性が高いこと、高度成長期における労働力の都会への流失は、段畑の荒廃に拍車をかけた。
     しかし、農産物を生産する役割が小さくなった段畑は、そこから見下ろす青い宇和海とともに、重要な農業遺産である。そのなか、遊子水荷浦段畑(8.3ha)が重要文化的景観として選ばれた。養殖業の不振も一因であり、休耕地の復旧の動きもある。現在、段畑は早掘りバレイショを栽培しながら、NPO法人段畑を守ろう会による「ふる里だんだんまつり」など様々なイベントが展開され、ツーリズム空間として変貌しつつある。
    2.沿岸漁業の変化
     一方、宇和海は日本有数のイワシ漁場であった。昭和30年代のイワシ不漁をきっかけに、宇和海沿岸の漁村は、昭和30年代に真珠母貝養殖、そして昭和40年代にハマチ養殖を主体とした、付加価値の高い養殖漁業へと経営をシフトした。宇和海沿岸には、リアス式海岸の波静かな入り江が生簀養殖に適していること、宇和海で稚魚が取れること、地元まき網業者から新鮮な餌料を供給できること、漁場が汚染されていないといった好条件が備えたため、発展の草創期に全国生産量の1割を占めるようになった。のちに真珠養殖不況による真珠母貝養殖からハマチ養殖への転換もあり、絶頂期の1980年には全国生産量の28%まで占めるようになった。
     また、真珠養殖については昭和37年に母貝養殖業から真珠養殖業へ許可され、地元漁民による真珠生産が始まった。昭和40年中期の真珠価格の下落の影響を受けたが、宇和海の零細規模の業者は不況に耐え抜けた。宇和海は母貝の主要な供給地であった。昭和52年に愛媛県は三重県を抜いて全国一の真珠生産県となった。平成17年の調査によれば、愛媛の真珠生産量が9,128kgで、全国の31.6%を占めている。宇和海での養殖業はその中心的役割を果たしている。
    3.農産物の生産空間から人の交流空間へ
     宇和海沿岸半農半漁地域は過酷な自然環境を巧みに利用してきた。漁主農副から農主漁副へ、そして漁主農副、更に漁業の中でも漁船漁業から魚類養殖や真珠養殖へと商品価値の高い経営へ幾度も転換してきた。現在、観光農園、民家レストラン、農家民宿、漁家民宿などを試み、農村空間の新しい価値を生み出そうとしている。
  • 植村 円香
    セッションID: 609
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    東京都利島村における椿生産 Camellia Production in Toshima Village, Tokyo 植村円香(東京大・院) Madoka UEMURA(Graduate Student, Univ.ofTokyo) キーワード:縁辺地域、高齢者、ライフコース、利島村、椿 Keyword: Peripheral Region, Elderly People, Life-Course, Toshima Village, Camellia 1.研究目的と調査方法 日本の縁辺地域では、高度経済成長期以降、農業従事者や若年層の人口流出が続き、深刻な過疎問題に直面している。農業に関しては、営農者の高齢化による衰退が続く中で、農業法人の設立や集落営農など、農家と市町村、JAなどが一体となった政策的な農業再編が図られているが、実質的な成果は上がっているとはいえない。 本発表で取り上げる東京都利島村は、多くの縁辺地域と同様に、農業や建設業、公務・サービス業などを基盤としている。この利島村で注目すべき点は、高齢者の就業率であり、全国平均22.2%に対し、利島村では60.0%となっている。農業従事者の平均年齢は70歳前後であり、そのほとんどは全国一位の生産量を誇る椿生産に従事している。本発表では、縁辺地域において高齢者が地域農業を支える担い手となった要因とメカニズムについて、ライフコース分析の視点から検討する。調査方法としては、31人の農業従事者にインタビューを行い、世帯内の椿生産の位置づけを把握するために、椿生産のみ行っている世帯を生産維持世帯、他の農家の椿を受託して生産を行っている世帯を生産拡大世帯、椿を他の農家に委託した世帯を生産撤退世帯に類型化して、分析を進めた。 2.利島村における椿生産 利島村は、急傾斜地がほとんどを占め、海浜より宮塚山の山頂に近くまで階段状の椿林に覆われていたため、稲作は行われず、戦後直後まで換金性の高い椿が家族全員で行われていた。しかし、近年は、高齢者が椿生産を担う傾向にある。 椿生産の特徴として2点指摘できる。第1に、実を拾う作業が9月から3月にかけて長期間行われることである。収穫時期が長いため、出荷を急ぐ必要がなく、生産者の体調や都合に合わせて作業を行うことができる。このように椿生産は労働投入が粗放的であるために、高齢者でも生産が可能になっている。第2に、椿生産は腐りにくい性格を持っている。利島の年間定期船就航率は50%前後であるが、1月から3月にかけては20%前後となる。そのため、農作物を安定的に出荷することは困難である。しかし、椿は短期間で腐ることがないため、欠航が続いても出荷に大きな影響がでない。 3.農業継続 椿生産者が経営形態を変化させた要因として_丸1_産業構造の変化による家族内分業の変化、_丸2_機械による労働力の省力化、_丸3_高齢化による病気や死亡をあげることができる。 ライフコース分析をもとに、各生産世帯とライフイベントの関連性を整理すると、利島村の椿生産者は、次のように生産形態を変化させてきていると考えられる。親世代に定年退職や加齢による病気・怪我などのライフイベントが生じると、子世代によって生産維持世帯へ移行する。このとき、親世代から子世代夫婦に引き継がれるわけではない。産業構造の変化を背景として、夫は椿生産を従事することなく、それは主に嫁に引き継がれる。このように世帯内の椿生産者の減少は、機械化によって補われてきた。その後、夫が定年退職すると、椿のほかに明日葉・サクユリ栽培などの農作物を多角的に栽培するようになるため、生産維持世帯から生産拡大世帯と移行し、生産が多角化する。しかし、家族の介護や椿生産者自身の高齢化で、生産の多角化が限界となり椿以外の作物が断念される。この時期には、親戚の椿生産者の高齢化・怪我などで椿生産を受託し、生産が拡大する。この場合、椿生産者自身が高齢化しても生産の拡大が可能であったのは、草刈機の導入による作業の効率化や自動車・モノラックなどの運搬技術の向上によるところが大きい。しかし、最終的には、椿生産者自身がさらに加齢すると、家族の介護に加え、自身の病気や怪我などにより椿生産が断念され、生産撤退世帯へ移行する。詳細については当日報告する。
  • 新潟県十日町市松代地区を事例として
    佐藤 創太
    セッションID: 610
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    1.はじめに
     1950年代後半から始まった高度経済成長によって、日本は一躍先進工業国の仲間入りを果たした。一方で、第二次・第三次産業の大都市への一極集中は、都市地域と中山間地域との地域格差を表面化させた。さらに、減反政策や、農産物の輸入自由化などの政策の影響によって、中山間地域では基幹産業である農業が著しく衰退した。その結果、中山間地域では、若年人口を中心とした人口の減少が進み、地域社会や地域経済の衰退、人口の高齢化が一層進展した。しかしながら、近年、中山間地域が保有する多面的機能が注目され、今後の日本の持続的発展のために、中山間地域の立て直しが求められている。そのような中で、中山間地域が抱えている諸問題とその背景を分析する事には意義があると考えている。
     本研究では、新潟県十日町市松代地区を事例として、中山間地域が過疎に至った要因と背景、過疎の現状、過疎の抑制の可能性について明らかにする。その中で、過疎の進行が著しい限界集落に着目し、研究対象地域において2つの限界集落を事例として取り上げ、その形成過程と再生の可能性について考察する。
    2.研究対象地域
     新潟県十日町市松代地区(旧東頸城郡松代町)は、1965年に県内で最も早く過疎地域の指定を受けた市町村の一つである。しかしながら、近年においても新潟県内の他の市町村と比べて、1)人口の減少が激しい、2)高齢化率が高い、3)財政力指数が低いという現状にあり、過疎状態が継続し、過疎が顕著に現れている地域である。
    3.松代地区における社会経済構造の推移
     松代地区では1960年以降、人口・世帯数が減少し続け、高齢人口が増加し若年人口が減少し続けている。また、1960年時には、農業が基幹産業となっていたが、農業就業人口、農家数、経営耕地面積は年々減少している。一方、農業に代わる代替産業は特に発達していない。そのため、人口の流出や高齢化に伴って農業が衰退し、農業の衰退がそのまま産業の衰退となって、さらなる人口の流出を生むという悪循環が生じている。
    4.限界集落の形成過程と過疎の抑制の可能性
     松代地区では、地区の中心部である松代集落に人口、各種公共機関が集中しており中心性が高い。一方で、主要道路から外れた山間部や中心から遠方にある集落では、人口が少ない小規模な集落が多く、公共施設の立地も見られない。また、このような山間部の集落では限界集落になっている所も多く、松代地区全体では35集落中16集落が限界集落となっている。
     研究対象集落には、共に限界集落でありながら過疎の進行が異なる「清水」、「峠」という2集落を選定した。清水集落は、松代地区内において人口減少率(1960~2000)が第1位、世帯数減少率(1960~2000)が第2位となっている。また、農家数、農業就業人口、経営耕地面積の減少率や高齢化率も松代地区平均を大きく上回っており、松代地区内で最も過疎が進んでいる集落である。清水集落では、産業の中心であった農業の衰退、出稼ぎへの依存、学校の廃校、急斜面地が多い地形など複数の悪条件が冬期の豪雪と結びつく事でさらに悪化し、急激に過疎が進行した事が明らかになった。
     一方、峠集落は、人口、世帯数、農家数、農業就業人口等が減少しながらも、経営耕地面積は1970~2000年までの30年間を通して横ばいを保っており、2000年現在、経営耕地面積が松代地区内で最大となっている。また、1973年には、新潟県下初の急傾斜地における圃場整備が行われるなど、農業に対して積極的な取り組みがみられる集落でもある。本研究では、峠集落において農業が積極的且つ持続的に行われてきた背景を明らかにすると共に、峠集落の事例から過疎の抑制の可能性について考察を行う。
  • 河本 大地
    セッションID: 611
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     本発表の目的は、「地域多様性レッドデータブック」の作成について提案し、よりよい内容にすべく議論を喚起することである。  「地域多様性」という語は、地理関連学会連合が、細分化されている地理学の核となる概念として提唱したものである。2006年3月にはさいたま市内で「地域多様性と共生社会―世界の持続的発展のために―」と題するシンポジウムも開催され、地域主義の展開と地誌研究、地域資産としての文化的景観、地域の多様性と生態系にかんする講演が行われた。しかし残念ながら、「地域多様性」という語の使用頻度が、その後に地理学内外において大いに高まったとは言いがたい現状にある。  そのような中、今回あえて「地域多様性」という語を用いたのは、それがグローバルからローカルまでのさまざまなスケールで再編成され、場合によっては消滅の危機にさらされているからにほかならない。消滅の危機にある地域および分野を的確に把握し、一般への理解を広める方策を考えたい。
  • 神田 竜也
    セッションID: 612
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     本報告の目的は、棚田固有の灌漑システムとそれを有する水利組織に着目し、制度の特質と水管理の動向を考察することである。対象地域の山間棚田の卓越地―岡山県久米南町北庄は、用水源の多くをため池に依存し、地域固有の水利が今もなお機能している。北庄中部水利組合では、水番制度のもとで棚田の水管理が行われている。集水域の限られた当地域は、いかに水が重要であったかをうかがわせるものである。このような組織的な管理のもとでなされてきた棚田の水利システムは、たいへん意義深く、貴重な今日的価値を見出すことができるだろう。同時に、現在の水利組織の性格は、表面的には総会、賦課システムのように共同体的性格を特徴づける厳格性のなかにあって、水管理は各田土(灌漑区域)の方針のもとで柔軟に対応され、必ずしも平等的性格を帯びたものでない。今後は、離農による水利組合員の減少、水番制度の中止が懸念され、さらにはため池への災害対策にも注意を払わねばならないだろう。
  • 吉田 国光
    セッションID: 613
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    1.研究課題
     山間集落における中山間地域直接支払制度などの地域振興政策は,全国画一的に実施される傾向にある.それらの諸政策は「ふるさと」や「原風景」をキーワードに,稲作を中心に据えた助成金の運用と地域振興である.稲作が経済活動に占める割合の高い地域においては,「棚田百選」に選定されることなどにより,棚田自体に経済的価値が付加され,稲作を機軸とした生業が経済活動として機能している.棚田に関する既往の研究成果では,稲作が経済活動として機能している地域を対象として,「棚田百選」等を利用した多様な取り組みについて,詳細な報告がなされている.
     一方で,現実には荒廃する「棚田百選」を有する地域も存在する.稲作の発展・維持が,山間集落における生計の維持に結びついておらず,経済活動に占める稲作の割合は低い.そのために棚田における稲作の維持が,経済活動として機能していない.このような地域において棚田の存立基盤を考察するためには,稲作の分析のみでは不十分であり,稲作を他の生業との複合的な関わりから考察する必要がある.そこで本研究では,一部が荒廃する「棚田百選」を有する山間集落において,生業形態が変化を追い,棚田における稲作がいかなる役割を果たし,いかにして稲作が継続されているのかを明らかにする.
     まず対象地域に居住する世帯の,第2次世界大戦前から現在にかけての生業の変遷についての聞き取り調査を行う.さらに,統計資料や村誌等の資料から聞き取り内容を補完する.次に,聞き取り内容から,機械化などの外的要因によりいかに生業の変化が起きたのかを明らかにする.そして,農外就業と農業労働力における男女差,作付体系などの側面に着目しながら,それぞれの世帯の生業がいかに変化したのかを分析する.

    2.中条村の農業的特性
     研究対象地域は,長野県上水内郡中条村大西地区とする.中条村は虫倉山の南麓に位置し,村内の大部分は傾斜地である.集落はわずかな平坦地や比較的傾斜の緩やかな部分に位置している.集落周辺には多くの棚田がみられ,大西,栃倉,田沢沖の3地区は「棚田百選」に選定されている.かつては大小麦や大小豆,養蚕,楮,麻,タバコ,梅などの栽培が,農業経営の中心となっていた.現在,中条村における稲作は継続され,棚田は比較的維持されているが,畑地については3つの梅団地を除いて,多くが作付放棄されている.耕作放棄地が目立っている.また,人口は減少傾向にあり,2005年現在の老齢人口比率も44.6%となり,過疎化と高齢化が進行している.

    3.大西地区における生業の変化
     大西地区の百選に選定されている棚田は,1847年(弘化4)の「善光寺地震」の地すべりで集落が埋没したところに,近代以降に造成された.大西地区では近世より畑作が卓越し,農業生産の中心は大小麦や大小豆におかれていた.その他に楮や畳糸にまで加工した麻を,虫倉山北麓の鬼無里村や戸隠村へ供給していた.さらに,蕎麦,粟,黍,稗,豌豆が自給用に栽培されていた.稲作の農業生産に割合は,1873年(明治6)においても11%にとどまり自給的性格が強かった.商品作物としては,生産量全体の約8割を占める大小麦と大小豆で重要であった.タバコと養蚕は近世より行われていたが,農業経営に占める割合は明治期以降に増大した.また,出稼ぎが行われていたが,恒常的農外就業はほとんどなかった.
     このような生業形態は,1950年代まで継続した.1960年代に入ると全国的に農業の機械化が進展した.対象地域においては,機械を使用できない傾斜度の大きい畑地から作付放棄が進んだ.一方,稲作は自給用として生産が継続され,棚田の放棄は進まなかった.その結果,農業経営における稲作への比重が相対的に増した.畑作の生産縮小は,主たる収入源を農外就業へと移行させた.就業先は長野市内の土木・建設業などであり,それにはおもに男性が従事した.そのために,農業経営における女性労働力の重要性が相対的に高まった.世帯内における農業労働力は絶対的に減少し,耕作可能な面積も減少した.経営規模縮小により,農業専業による生計の維持が困難になった.そのために後継者は就農せず,就職のために都市部へ移住し,対象地域では高齢化が進行した.
     対象地域において,耕作放棄地化と高齢化が進行するなかで,棚田の耕作放棄地率は畑地と比べて低い.この要因は,自家消費のために稲作を継続させているためである.この自給的小規模経営が,対象地域における棚田を存立させる基盤となっている.このことから,山間集落における稲作の存立基盤は,平地とは異なり,近年,軽視されがちな自給的小規模稲作経営にあるといえる.
  • 黍原 智美, 牧田 肇
    セッションID: 614
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    青森県西目屋村の目屋マタギや鯵ヶ沢町赤石川流域の赤石マタギに代表されるように、白神山地周辺の集落では伝統的に自然資源を利用した生活が営まれてきた。マタギだけでなく、山村の住民のすべてが集落の周辺に存在する自然資源を利用し生活してきたが、利用の実態には地域的な相違点と共通点がある。
    本研究の目的は、1970年頃まで白神山地の山村住民によって代々行われてきた伝統的な自然資源を利用した生業を明らかにし、下の5地域間に見られる相違点と共通点を見出すことである。
    調査地域は白神山地を囲むように、青森県西目屋村砂子瀬(すなこせ)、青森県鯵ヶ沢町一ッ森(ひとつもり)・大然(おおじかり)、青森県旧深浦町地区松原(まつばら)、青森県旧岩崎町地区松神(まつかみ)、秋田県八峰町旧峰浜村地区岩子(いわご)・大岱(おおだい)の5地点である。
    聞き取りは自然資源をその集落の中で一番よく利用していると思われるマタギ(元マタギ)や狩猟を生業としてきた方々に対象を絞って行った。砂子瀬は工藤光治氏(1942年生まれ)から、一ッ森・大然は吉川隆氏(1950年生まれ)から、松原は前田秀夫氏(1937年生まれ)から、松神は板谷正勝氏(1941年生まれ)から、岩子・大岱は塚本清氏(1934年生まれ)から聞き取りを行った。
    農業、狩猟、製炭業、薪材の伐採、漁労、採取の6項目の生業について調査した。
    自然資源の利用は、砂子瀬と松原と一ッ森・大然では、自給的な色彩が濃く、岩子・大岱では、企業的な色彩が濃く、松神は沿岸漁業の生業に占める割合が大きいという大きな違いが見られた。
    砂子瀬では、農地が少なかった為に、焼畑が行われた。砂子瀬、松原、一ッ森・大然の3集落ではマタギが伝統的な狩猟を行っていたが、松神と岩子・大岱ではマタギの活動はなかった。
    岩子・大岱で特に企業的に行われていたのは畜産で、肉牛の放牧が行われていた。さらに山菜は現在でも重要な換金資源であり、昔からもっぱら売ることを目的に採取していた。
    松神では、集落が海沿いにあり、昔はニシン漁が、現在ではハタハタ漁など、海面漁業に対する依存が大きい。代々続くマタギではなく、秋田県から炭焼きに来た人々に狩猟の方法を習った。
    一年サイクルで生業を見ていくと、薪の伐採以外の生業はどの集落でもほとんど同じ時期に行っていた。松神ではこれにハタハタ漁や海藻の採取が加わった。このように、すべての集落で季節毎に生業があり、季節毎に自然資源を巧みに利用してきたことがわかった。
     山からの自然資源利用だけでなく、川からの自然資源として魚の利用、川を利用した木流しなど、川とも密接な関わりを持っていたことが分かった。さらに松神では、それに海からの自然資源が加わり、それが大きな役割を占めていた。
    ゼンマイの縄張りや1本残し、伝統的な狩猟儀礼などから、自然資源の枯渇をさけ、持続的な利用ができるような手段を取っていることが明らかである。マタギの山の神への感謝や畏怖という精神もそれに繋がっている。
    調査をさせて頂いた方々の自然資源利用に関する知識はきわめて豊富であるが、今後、その知識を持つ人々は少なくなるであろう。これを後世に残すことはきわめて重要である。
  • ―魚野川流域の事例―
    森本 洋一, 小寺 浩二, 中山 祐介, 森木 良太
    セッションID: P701
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    河川流域の水環境特性を知ることは、流域管理や流域保全を行う上で重要であり、そのためには流域の水質や水文特性を理解しなければならない。「河川流域の水環境データベース」に係わる研究は、「流域地誌」や「水文誌」に代わるものとして日本各地で行われてきたが、今回は特別豪雪地帯を流れる魚野川流域を取り上げ、水質調査やアメダスデータを用いて流域の水文特性の概要を明らかにし、データベースの構築を試みた。
  • 森木 良太, 小寺 浩二
    セッションID: P702
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     新河岸川は江戸時代から舟運が盛んであり、流域には舟問屋が建ち並んでいた。東上線開通後は水上交通が衰退しつつあったが、流域には水田が広がり、現在でも河川との関わりは深い。一方、支流上流部や河川から離れた地域においては、江戸時代から茶や芋の生産が盛んである。畑作中心の地域では、本川や流域下流部とは異なり、河川への関わりはあまりない。本研究では流域全体の小学校の校歌を調べ、自然景観との関わりの地域差を明らかにする。  小学校は、川越市、ふじみ野市、富士見市、志木市、朝霞市、新座市、和光市、所沢市、狭山市、入間市の公開分の校歌を使用した。  新河岸川流域について歌われている小学校は108校中28校であった。富士見市、朝霞市、新座市の小学校で多く歌われていることがわかった。一方、同じ流域であっても、所沢市、狭山市ではあまり歌われていない。新河岸川流域は、戦後のベットタウン化により新設された小学校が多いが、昭和以降に新設された小学校ほど流域の表現が歌詞に出てこない傾向があった。  新河岸川流域の歌詞が存在する小学校の多くが、明治時代からあった小学校だということがわかった。ただし、歴史のある小学校でも新河岸川流域の表現が歌詞に出てこない小学校はあった。流域で最も歴史のある小学校は川越や志木、所沢にあり、いずれも明治初期に開校しているが、いずれも新河岸川流域が歌われていない。川越で最も古い中央小学校では、歌詞には入間川の表現が使われ、新河岸川の表現が出てこなかった。
  • 高橋 咲保, 工藤 美沙子, 吉木 岳哉
    セッションID: P703
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    1.研究の背景と目的  春子谷地湿原では、2000年に滝沢村による湿原保全基礎調査が実施されている(滝沢村 2000 『春子谷地湿原保全基礎調査 調査報告書』)。とくに、湿原東部については、近年の湿地林の拡大・湿原域の縮小が指摘されているため、詳しい調査が行われている。この調査では、成長錐により計測した樹齢と胸高幹周との関係に基づいて湿地林の拡大時期を推定したうえで、湿原に隣接する放牧場の造成が湿地林拡大の原因になったと結論づけている。  しかし、滝沢村(2000)では、胸高幹周の計測の際に樹種を同定していない。現地で観察したところ、この湿地林は主にハンノキとヤチダモの2種類からなる。そのため、幹周から樹齢を推定するには樹種を分けて調査すべきであろう。本研究は、胸高直径と樹齢との関係を明らかにし、湿地林の形成時期と遷移過程を詳細に検討するための基礎データを集めることを目的とする。これによって得られた成果に基づく湿地林の拡大過程については、工藤・高橋・吉木(2008; 本要旨集)にて報告する。 2.調査方法  標本採取は2006年から2008年にかけて行った。湿原東部の湿地林では、冬季の強風や積雪によって根元から倒れたり、幹が折れて枯死したりした樹木が多く見られる。それらのうち、樹種が同定できたものについて、胸高直径を測定した。同時に、個々の樹木個体の生長過程についても確認できるように、高さごとに年輪を円盤状に採取した。   3.結果  湿地林構成樹木のうち、とくに優勢なハンノキとヤチダモについて、ともに17本の標本を得た。 1)ハンノキ (図1)   同じ樹齢でも胸高直径に大きな違いが見られ、相関は良くない。しかし、標本採取地点を湿地林中心域と湿原側縁辺部に分けると、それぞれの中での相関は高くなる。 2)ヤチダモ (図2) 胸高直径10 cm以下の標本では、胸高直径と樹齢の関係に良好な相関がみられる。胸高直径10 cm以上については標本数が少なく、これまでのところ、胸高直径と樹齢の関係について近似式を得るには至っていない。 4.考察 1)ハンノキ  湿地林中心域と湿原側縁辺部で胸高直径と樹齢の関係が異なる。湿地林中心域では生長速度の個体差が小さいのに対して、湿原側縁辺部では同じ直径であっても樹齢が10年以上違うこともあり、個体差が大きい(たとえば直径約4 cmで16~32年)。現地で湿地林中心域と湿原側縁辺部のハンノキを観察すると、湿地林中心域では真直ぐに生長しているハンノキが多いのに対して、縁辺部では根元が捻じ曲がっていたり、同一株から多数の萌芽が見られたりする。このような形状が示唆するハンノキの生長にとって厳しい環境が、胸高直径と樹齢との間の個体差として現れていると考えられる。 2)ヤチダモ  得られた17本の標本のうち、胸高直径の大きな2本以外のデータは胸高直径と樹齢の関係が高い相関を示している。今回得た標本は胸高直径10 cm以下のものが多く、大きいものは直径20~25 cmの2本だけである。湿地林内には胸高直径が大きなヤチダモも多く生育しているが、倒木が少ないため、これまでのところ直径から樹齢を推定できるだけの近似式を得るに至っていない。
  • 福岡 義隆
    セッションID: P704
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    慣習的な気温の年較差は、月平均気温で定義されている。すなわち、平均気温の月最高と月最低の差で表している。 しかし筆者は、この慣習的定義は気温の実際の年較差を表していないと考える。実際の最適気温はもっと低く、最高気温はもっと高いので、実際に体感する気温の年較差は、慣習的な気温の年較差よりもさらに大きい。 そこで筆者は、その慣習的年較差(X)の代わりに、より現実的な気温年較差(Y)を提唱したい。 Yは日最高最低気温の月平均値の年最高最低の差である。これだと統計解析の結果、Y=1.3701Xとなり、新しくより現実な気温年較差は、気候区によりばらつきはあるものの、従来の年較差よりも1.3ないし1.4倍であることがわかった。 ここで用いた気候データは、世界各地の観測値に基づいているものである。 この新しい定義は、地球温暖化時代に適した表現であると考えている。 また、地球温暖化によってこの気温の年較差が気候区ごとにどのように差が出ているのかについても検証したい。
  • 瀬戸 芳一
    セッションID: P705
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    1. はじめに
     これまでにも,関東地方の海陸風に関する調査は多く行われている.藤部・浅井(1979)により示された,関東全域に及ぶいわゆる大規模海風に関しては,鉛直観測の結果などから,中部山岳域に発達する熱的低気圧に吹き込む流れや谷風,海風が組み合わさって形成されていることが示されている.それぞれの風系の特徴を明らかにするためには,鉛直構造に注目する必要があると考えられるが,鉛直観測はその期間,間隔ともに制約が多く,定量的な把握が難しいことが問題である.
     そこで本研究では,複数の継続的な地上観測データを用い,観測点周囲の土地利用状況から推定した地表面粗度によって,観測高度の違いによる風速への影響の補正を行う.これにより,観測データから直接は求めにくい,大気の鉛直運動の指標となる収束・発散量などを求め,海陸風をはじめとする局地風系の鉛直構造について,定量的に把握していくことを目的とする.

    2. 資料と方法
     継続的な地上観測データとして,気象庁によるアメダス観測資料に加えて,海上保安庁により提供されている灯台での観測資料などを用いる.これらの観測データは,風の観測高度が異なるため,その影響の補正が必要である.
     大気境界層内の風速の高度による変化の割合は,地表面の凹凸(粗度)に依存し,大気安定度が中立に近いとき,その風速分布は対数則で表される(近藤,1999).また,ある観測点における風向別の粗度は,観測点周囲の土地利用状況から推定することができる(桑形・近藤,1990).そこで,国土交通省により提供されている,約100mメッシュの土地利用データ「国土数値情報(土地利用細分メッシュデータ)」を利用して地表面粗度を推定し,風速の補正を行う.

    3. 粗度の推定
     土地利用種をそれぞれの地表面状態の特徴により分類し,各風向に対して観測点から中心角45度,観測高度の100倍の半径(最大2.5km)を持つ扇形を考え,GISを用いて各カテゴリーの占める面積を算出した.その比率から,実験式により粗度を推定する.
     先行研究で用いられた1976年の土地利用データは,今回使用する1997年のデータよりも土地利用の区分が細かいため,1997年のものと同じ区分に再分類し,土地利用種ごとの総面積に応じて実験式の係数を変更した.
     推定された粗度値の信頼性を検討するため,観測所の移転などがないアメダス74地点について,桑形・近藤(1990)で示された粗度との比較を行った.その結果,1976年の再分類前のデータで0.88,再分類後で0.78の相関係数が得られた.誤差が生じる要因として,再分類後の粗度の最大値が小さくなることや,面積の算出方法の違いも考えられる.
     今回推定したデータどうしで再分類の前後を比較すると相関係数は0.91となり,風速の補正に用いる限りでは,実験式の変更による推定誤差の影響は小さいと判断した.
     16方位別に1997年のデータを用いて粗度を推定した結果,海沿いの観測点では0.1cmと小さいのに対し,市街地に位置する観測点では,80cmから120cm程度と粗度が大きい傾向が見られた.

    4. 風速の補正
     灯台の観測点などでは,地表面から風速計までの高さをそのまま観測高度とすることが,適切でないことも考えられる.そこで,数値地図50mメッシュ(標高)データ(国土地理院発行)を利用し,粗度と同様に,風向別に観測点周囲の平均標高を求め,観測点の標高との差から,観測高度の補正についても検討を行った.
     算出された地表面粗度と観測高度を用い,2004年7月の観測データ(30分間隔)について,対数則に基づく風速の補正式(近藤,1999)により,統一高度50mの風速を推定した.
     近接した観測点では,補正した風速がほぼ同じになることが期待される.そこで,灯台地点とアメダス地点が約3km以内にある3地点について,風速の比較を行った.
     補正を全く行わない場合には,灯台の観測点のほうがアメダス地点より風速が大きく,風速差が1.5m/s以内の事例が約41%であるのに対し,3m/s以上となる事例が約36%あった.
     粗度による補正を行うと,風速差1.5m/s以内の事例は約50%に増加し,3m/s以上の事例が約21%に減少した.加えて,高度補正を行った場合,全ての風向について行うと,風速差1.5m/s以内の事例は約44%,3m/s以上の事例が約23%と,風速差が大きくなってしまうが,灯台地点のZ0=0.1cmの風向にのみ行った場合,風速差1.5m/s以内の事例が約53%,3m/s以上の事例は約18%まで減少し,観測点間の風速差が最も小さくなった.
     高度の補正は,全ての風向について行ったほうが良いわけではなく,一部の地点・風向について考慮したほうが良い補正結果が得られる場合があることがわかった.
  • 田上 善夫
    セッションID: P706
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    _I_ はじめに
     近年世界のワイン生産に顕著な変化がみられるが,とくに南北の地域間に異なる変化がある。2006年には,スペインで第1回ワインと気候変動に関する国際会議が開かれた。一方同年にラトビアで開かれた第1回北方のブドウ栽培国際会議には,エストニア,フィンランド,デンマーク,ノルウェー,スウェーデンなど,従来のワイン非生産国を中心とした参加があった。本年(2008年)にも,それぞれの第2回会議が開催,また予定されている。 
     両者における主要テーマは,気候変動のワイン生産に対する影響であるが,地中海周辺では高温障害への対応などが生じ,バルト海周辺では新たに商業的ワイン生産が開始されるなど,きわめて対照的である。栽培されるブドウ品種の生育期間の適温により,地球温暖化は欧州の南北間に異なる問題が生じた。
     ワイン生産には,古代や中世にも大きな変化が知られており,それらは気候変動の代替資料とされてきたが,近年の北方では,旧生産地が復活するのみならず,歴史的にワイン生産が知られていない地域まで拡大している。本研究では,こうしたワイン生産の変化について実態を明らかにし,その気候変動との関わりについて検討する。
    _II_ 欧州北部でのブドウ園の動向
     北方では冷涼な気候のために,リンゴなどの果物やベリー類,また輸入したブドウからワインが作られていたが,商業的にブドウ栽培を行うようになった。近年生産が開始されたブドウ園は,ラインやモーゼルなどの伝統的なワイン産地より,はるかに北方に位置する(図1)。 
     バルト三国にも,かつてブドウ栽培が行われていた地域があった。ラトビアのTalsi地方のSabileでは,1989年に再開された。エストニアのサーレマー(Saaremaa)では,古くから家庭でブドウを栽培していたが,小さなブドウ園がLümandaで2004年から,Pöideでは2006年から始められた。
     北欧では従来,ワインは生産されなかったが,新たなブドウ栽培が始められている。デンマーク,ユトランド半島のドン(Dons)では,ワインが商業生産され2001年産のものから販売されている。スウェーデンでは,現在50ないし100のブドウ園があり,推計12.5haの商業的なブドウ園がある。南部のÖland島でもワインが生産され,その北のゴットランド島では2002年より生産が開始された。さらに北にあるストックホルム西方のBlackstabyでは,2.5haのブドウ園から,2001年からアイスワインなどが作られている。
    _III_ 気温偏差分布の変化
     ブドウ栽培には温度条件が深くかかわるため,耐冷性のズィルヴァーナーからミュラー・トゥールガウなどの品種が生み出されてきた。従来の栽培地域では,こうした耐冷性品種からシュペート・ブルグンダーなど,より高温に適する品種への変化がみられる。ブドウ栽培の北方への展開も含めて,温暖化を背景にしていると考えられる。ブドウ生産と気候変動とのかかわりについて検討する。
     Delaware大学で公開している,0.5度間隔の月平均気温データを用いる。期間は1900~2006年,範囲は西経10.25°~東経27.75°×北緯36.25°~61.75°とする。ブドウ栽培には生育の初期に暖かいことが重要とされるが,収穫量との相関は9月と5月でとくに高くなる。9月平均気温を,1901~1950年の平均値からの偏差で示す(図2)。
     欧州では,2003年は記録的な猛暑であったが,9月には2006年や1999年の方が高温であった。昇温の中心は,ドイツ北部からスカンジナビア半島南部にある。一方1996年や2001年は低温であったが,降温の中心は南欧にあって,北欧では必ずしも低くない。すなわち北方ではおよそ安定した高温状態となっており,このことがブドウ栽培の促進の要因とみることができる。
    _IV_ おわりに
     北欧での高温状態は1979年以降に明瞭となるが,ブドウ園は1970年代より復活の兆しが現れ,1990年代に増加するとともに,2000年代には新たな地域にも出現するようになった。これらの規模はきわめて小さく,伝統的なワイン産地と同列に論じることはできないが,北欧での近年の顕著な昇温が,大きな要因であると考えられる。ブドウ栽培は気温への依存性が高く,気候変動の影響が現れやすいが,他の農作物や植生においても長期的には変動の影響が現れると考えられる。
  • 日下 博幸, 木村 富士男, 川口 純
    セッションID: P707
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    ヤマセは、夏季に北日本の太平洋側に吹く低温・湿潤な風である。ヤマセは、オホーツク海高気圧を起源とする総観規模の特徴をもつ一方で、局地風としての一面をも持つ。冷夏の年が減少傾向にある現代でも、ヤマセはほぼ毎年見られる。いったんヤマセが吹走すると、数日~十数日間吹走することが多い。ヤマセは下層雲を伴うことが多く、ヤマセの期間中は日照不足に陥るため、昔から農業に対するヤマセの情報は必要不可欠であった。 オホーツク海高気圧の研究と共に、オホーツク海高気圧下の海洋や海上の下層雲の研究が行われている。しかし、オホーツク海高気圧下には、常に冷たい海水が存在するとは限らず、気温と水温の差が大きいときほどオホーツク気圧が観測されやすいということもない(力石,1995)。また、ヤマセの霧の発生は夜間に多く、霧が発生する前に雲低高度の低い層雲が現れ(遠峰ら,1988;阿部ら,1989;Tomine et al.,1991)、カリフォルニア沖の海霧や層雲と共通点がいくつか見つかっている(児玉,1995)。しかし、ヤマセ卓越時の霧の発生条件については、ある程度の推測を含んでおり、海洋や下層雲との関係については明確には分かっていない。 衛星観測が整備されると、衛星データを使って雲や温度などのデータを取り出すことが可能になった。川村(1995)では、NOAAやGEOSATなどの衛星を利用し、雲・地表面温度・積算水蒸気量・日平均地球表面放射・海上風などのデータを得ており、AMeDASなどの地上観測の結果と矛盾しない。 1990年代に入ると、モデルの研究が活発化し、ヤマセにおける研究でもモデル研究が盛んに行われている。永田(1995)では、総観規模のヤマセを良く捉え、その後のメソスケールにおけるヤマセについても、良い結果を得ているといえる。しかし、前田ら(2005)において、2003年の冷夏の数値予報の結果を示しているが、十分な結果が得られていない。 これらの研究に対して、内陸部に達しているヤマセに特化した研究例は少ない。ヤマセは、北日本の太平洋沿岸に襲来することはよく知られているが、内陸部まで達する経路があることは、それほど知られていない。特に盆地地形が多い東北地方では、ヤマセが内陸部まで達する現象がよく見られる。NOAA/ AVHRRや、TERRA/AQUA MODISなどの衛星画像からも、下層雲を見ることで、東北地方内陸部まで達している様子を確認することができる。ヤマセは必ずしも下層雲を伴っているわけではないので、AMeDASデータから低温域を見る必要がある。仙台湾から流入するパターンが多く、北上盆地・福島盆地・山形盆地などへ、ヤマセが入り込む。本研究の研究対象地域として北上盆地に注目した。北上盆地は南北に細長い盆地で、ヤマセが北上高地を越えないとすると、盆地内ではChanneling効果によりコリオリ力がキャンセルされ、空気が淀んだ状態になる。そのような場では、気圧傾度のみによって風が吹く(Whiteman et al.,1993)。ヤマセが吹走するとき、多くの場合は日本の北東側にオホーツク海高気圧があって、総観規模での気圧傾度は北から南になっている。総観規模の気圧傾度が関係するとなれば、北上盆地では北風が吹くはずである。しかし、実際には北上盆地では、南風が吹いている。 谷の中を吹く風としては、日本では冬季における伊那谷の例が有名である。伊那谷は谷が深いので、谷に沿って風は吹き、風は山を越えない(Kuwagata et al.,1994)。また、木村(1991)では、北上盆地北端に位置する盛岡での冬季の季節風の変化にも触れており、風速が弱いうちは地形に沿って風が吹くが、風速が強くなると山から風が超えてくる。奥羽山脈の地形障壁としての効果に限界があるとされる。これらの研究は冬季の季節風のものであるが、ヤマセの場合は風速が弱く、地形に沿って風が吹くことが予想される。しかし、夏季のヤマセ卓越時に盆地内の風の性質を研究した例は少ない。
  • 田畑 弾
    セッションID: P708
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    水稲生産を行う上で、育苗時の強風に対する防災施設である防風ネットの分布、地形・水利条件を、4~5月の地上風系、とくに強風時の地上風系との対比を行うことで、屋敷林による災害認知の把握より精度の高い、強風に対する災害認知の把握を定量的に行うことを目的とした。農業施設としては、特に、富山平野南部に広がる防風ネットを持った育苗ハウスを主体とした。
  • 日下 博幸, 足立 幸穂, 木村 富士男, 原 政之
    セッションID: P709
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    はじめに、領域気候モデルRAMSとWRFを用いて、2006年現在の都市気候の再現計算を行った。アメダスデータとの比較検証の結果、RAMS、WRFともに都市の気候を良好に再現できることがわかった。次に、全球気候モデルによって計算された地球温暖化予測結果を境界条件に用いて、2070年頃の都市気候予測計算を行った。関東平野全域平均で8月の月平均気温が約3度上昇するが、関東平野の内陸部と海岸部で上昇量に違いが見られた。この違いは太平洋高気圧の張り出しの変化に起因すると思われる。
  • 谷口 圭輔, 遠藤 徳孝, 関口 秀雄
    セッションID: P710
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     砂丘の形態は,フィールドに存在する移動可能な砂の量および風の流向変動量に依存して変化する(Wasson and Hyde, 1983).フィールド上に移動可能な砂が少なく,一部基盤が露出している,いわゆる貧砂状況においては,流れの一方向性の強さに応じて異なる種類の孤立砂丘が形成される.代表的な孤立砂丘としては,三日月型のクレスト(峰)を持つバルハン砂丘・直線的で長いクレストが特徴のセイフ(縦列)砂丘などがある.また,一般的ではないが,火星表面で初めて存在を指摘された涙型砂丘(円型のドーム状の地形に,一本の短い突部が存在する)も孤立砂丘の一種である.発達する孤立砂丘の形態は,流向変動量によって異なることが観測されている.バルハン砂丘は一方向性の強い流れ環境で見られ,セイフ砂丘は斜めに交差する二方向流の下で形成されることがTsoar (1983) で報告されている.涙型砂丘に関しても,数値シミュレーションにより,100° 程度のごく狭い範囲の角度変動量を持つ二方向流により形成が可能であることが示されている(Parteli and Herrman, 2007).
     本研究では,水槽実験の手法を用いて,なす角の異なる流向変動の下で,孤立地形の発達を観測し,二方向流の角度変動量の違いによる発達する地形の種類の変化を明らかにすることを目的とした.また変形の全過程を観察できるという水槽実験の利点を活かし,上記の地形発達の違いをもたらす変形プロセスについても考察を行った.
     0°~180° まで,15° 刻みで異なる角度変動量を持つ二方向流下で孤立砂丘地形の発達を調べる水槽実験を行い,なす角の増加とともに「バルハン地形」・「ドーム状地形」・「セイフ地形」・「反転型地形」の4種類の地形発達を見出した.同時に,それぞれの形成される角度変動量の範囲を明らかにした.バルハン地形は30° 以下の小さな流向変動量の場合に見られ,セイフ地形は 90°~ 135° の範囲の角度変動量を持つ二方向流によって形成された.両者の中間(なす角 45°~ 75° ) の条件の下では,ドーム状地形が形成され,なす角 150° 以上の試行では流れに直交する直線的なクレストを持つ反転型地形が発達した.ドーム状地形のうち,セイフ地形の境界付近の角度変動量(75°)の試行では,涙型砂丘のようにごく短い突部を持つ地形が発達した.
     クレストラインの変形プロセスには,共有タイプ・反転タイプ・独立タイプの3パターンがあり,上記の4種類の地形はこれらの組み合わせにより形成されることが分った.共有タイプは,流向変動の前後で同一のクレストラインが存在し続けるパターンで,角度変動量が小さい場合に見られる.一方,反転タイプでは,既存のクレストラインの位置を起点に逆向きのスリップフェイスが形成される.独立タイプは,流向変動時に既存のクレストラインの位置とは関係なく新規のクレストラインが形成されるパターンである.バルハン地形は共有タイプのプロセスによって,ドーム状地形は独立タイプのプロセスによって,反転型地形は反転タイプのプロセスによって形成された.セイフ型地形は,反転タイプ・独立タイプの変形が同時に起きることにより形成される.
     以上,二方向流の角度変動量は,クレストラインの変形プロセスの違いを引き起こし,発達する地形の種類を変化させていることが分かった.
    文献
    Parteli, E. J. R., and Herrmann, H. J. 2007. Saltation transport on Mars. Physical Review Letters 98 (19) : 198001
    Tsoar, H. 1983. Dynamic Processes Acting On A Longitudinal (Seif) Sand Dune. Sedimentology 30(4) : 567-578
    Wasson, R. J. and Hyde, R. 1983. Factors determining desert dune type. Nature 304 : 337-339
  • 小山 拓志, 天井澤 暁裕, 増沢 武弘
    セッションID: P711
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    1,はじめに これまで南アルプスでの気象観測は,赤石岳や間ノ岳周辺において,地温の通年観測がおこなわれた程度で,それほど多くはない(たとえば,松岡1991a;Matsuoka,1994,1996,1998).本研究では,周氷河性平滑斜面が広範囲に分布しているにも関わらず,気象観測がおこなわれていない南アルプス南部,大聖寺平および丸山周辺において観測点を設け,気温・地温の観測をおこなった. 2,観測方法と観測点 気温観測は,地上約150 cmのフード(塩化ビニル製)内に設置したサーミスター温度センサーと,データロガー(温度ロガー3633:日置電機製)を用いて60分間隔でおこなった.その結果,1日24回の測定値に基づき日平均気温,日最高気温,日最低気温を算出した(表1,2).地温観測は,気温観測に用いた物と同様のセンサーとデータロガーを使用し,地表の表面角礫層(2 cm深)から100cm深までの数地点に埋設した(観測は60分間隔). 大聖寺平の観測点標高は2810 mで,気温観測の期間は2006年9月7日~2007年9月22日である.丸山の観測点標高は3020 mで,気温および地温(2,5,10,20,50,100 cm深)を観測した(2006年の地温観測は,観測機材の不都合により,2,5,50 cm深のみ観測).気温の観測期間は,2006年9月7日~2007年8月28日,地温の観測期間は,2005年8月7日~2006年8月7日,2006年9月7日~2007年8月28日である. 3,観測結果と考察 大聖寺平および丸山における気温変化の状況(表1,2)  大聖寺平の観測点において,9月と10月の測定値に異常値が見られたため,両月の月平均気温は丸山の観測点で得られた測定値から推定し,その値を基に年平均気温を求めた. y = 1.0065x + 1.5157 その結果,1年間の平均気温は大聖寺平で0.3℃,丸山で-1.2℃であった.両地点ともに最暖月は8月(大聖寺平:12.5℃,丸山:11.3℃),最寒月は1月(大聖寺平:-11.7℃,丸山:-12.2℃)であり,年較差はそれぞれ24.2℃と23.5℃であった. なお,大聖寺平と丸山の月平均気温の相関係数(R2)は0.99で あり,きわめて高い相関が認められる(図1). 凍結・融解日は,春季(4月~6月)と秋季(9月~11月)に顕著な出現日数が記録された.しかし,土壌の融解が進行する4月~6月を見ると,丸山で35日出現しているのに対し,大聖寺平では23日に留まり,丸山で凍結・融解日が9日出現した6月には,大聖寺平では凍結・融解日が出現していない. 丸山における地温変化の状況 2,5,10 cm深においては日平均地温に顕著な変動が見られるが,50 cm深ではその変動が小さくなる.100 cm深ではさらに地温変動が小さくなり,融解期においては0℃あるいは0℃にきわめて近い状態のままで推移する期間がある. 丸山の観測点では,日周期での凍結・融解は,5月上旬と10月中旬を中心に生じる.しかし顕著な凍結・融解が認められるのは2 cm~10 cm深においてであり,50 cm以深ではその頻度は大きく低下する.50 cm以深では大半の地温日変化幅が0℃を挟んで±0.3℃程度であり,日較差がほとんど生じていない.また,2 cm~10 cm深での凍結・融解期間が一ヶ月半から二ヶ月前後に及ぶのに対して,50 cm以深では凍結開始時期あるいは融解開始時期の数日程度である.したがって,日周期の凍結・融解は土壌のごく表層付近で卓越するだけであり,50 cm以深ではむしろ年周期で凍結・融解が生じていると考えられる.
  • 阿子島 功
    セッションID: P712
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
     中国漢代の辺境地域であり農・牧境界領域における考古遺跡の立地特性を明らかにする目的で,縮尺精度の異なるいくつかの地形分類図を作成して、遺跡分布図の基図とし、また遺跡分布図と重ね合わせることによって遺跡の立地を検討した。
     この地域は,地形はモンコ゛ル高原,大青山脈,河套地域黄河氾濫原,オルドス沙地,黄土高原(低丘陵・台地),大同盆地などの盆地群からなり,年間降水量が200_mm~500mmと多様な自然条件からなり,漢代辺境地域として農牧が混在・指交する地域であった。城郭や墳墓の遺跡を主に対象とした分布調査に同行し,それらの立地条件を観察した。文献記述と古景観とを対応させて考察することを意図した地形分類図を作成した。
     今回の地形分類図の作成手法100m格子標高ファイル(USGS SRTM3)を用いて発生させた等高線間隔10m・20mの地形図を基に、傾斜・起伏によって次の5区分を行い,くくり線を手作業で記入し,色分けとした; (1)高原のなかの小起伏波状面, (2) 高原のなかの谷底面, (3) 大起伏・急傾斜地、(4) 盆地のなかの台地・扇状地(一部にオルドスの沙地を含む。 沙地を付加記号扱い(4’)とすべきか),(5) 盆地のなかの氾濫原低地
        地形分類にあたっては、人工衛星画像、ロシア作成の1:100,000地形図等の植生・土地利用・地割などを参考とした。 ロシア製1:100,000地形図を基図として描いた地形分類図と比較したところ,面的精度は変わらず、むしろ扇状地面と氾濫原面との区分にあたっては傾斜の違いを読み易いなどの利点もあることがわかった。
    縮尺1:200,000~1:500,000程度の出力図によって、等高線間隔20m地形図は谷筋の抽出表現に適しているため交通路との検討に用いることができ、同じく等高線間隔10m地形図は微地形の表現に適しているため、遺跡立地との検討に用いることができた。これらの手法はDEMの利用によって可能になった。
    [地形分類図の先行資料]  従来の地形分類図は、高等学校教学参考用中国自然地理図集(地図出版社1984)および鼠疫与環境図集(科学出版社2000)にある。今回の地形区分に関して、前者(原図縮尺 1:9,000,000)では、沖積平原、洪積平原、侵蝕性黄土丘陵(梁・嶺)、砂丘におおわれた平原などの区分、後者(原図縮尺 1:12,000,000)では沖積平原と台地、洪積平原と台地、侵蝕平原と台地、付加記号として沙漠、ゴビ(弋壁)がある。今回提示する地形分類図の区分の原則は基本的には従来の分類図と変わらないけれども、図上の図示精度が異なり、先行資料は概念図の表現である。今回提示する地形分類図は個別遺跡の立地を論ずることができる。
     [地形分類図から想定・判読される土地条件] 前記の5区分ごとに次のような土地利用上の特徴を予想できる。
    (1)(2) 高原面は、乾いた高原面とやや水分条件のよい谷底面とに分けられ、それぞれ草の生育が異なること。耕作地は谷底面ではなく、乾いた高原面(故城内でも)で行われるが、その耕作は非永続的であろう。
    (3)大起伏・急傾斜地は、露岩斜面で、北向き斜面にのみ植生が偏在している。半乾燥地の特徴である非対称植生分布は,外モンコ゛ルでは400-mmで,この地域では降水量500+mm程度で現れる。
    (4) オルドスの台地・小起伏丘陵地は、沙地と草原とが混在している。この部分がもともと林地であったかは疑問である。大地の開析谷斜面・谷底面に植生があることから、狭い谷底面は可耕地といえる。 黄河両岸の黄土台地は、傾斜地で天水による(旱田)梯田耕作が行われている。年間降水量400mm程度であり、日陰斜面のみに貧弱な林地ができている地域である。
    (5) 黄河沿いの河谷平原と山西の盆地群では、(新旧)扇状地面と河川氾濫原面に区分される。扇状地面は本来は草地もしくは林地であろう。 河川氾濫原面は、水分条件がよいことから草地・耕地のいずれにもなる。
     本報告は科研費(基盤(C)による「漢代北方境界領域における地域動態の研究(代表者国立歴史民俗博物館 上野祥史)」の一部であり,現地調査は宋建忠(山西省考古研),王銀田(曁南大)と共同,上野祥史と大川裕子が漢代城郭・交通路の集成図作成を行い,上野が現地調査,遺物集成にもとづいて城郭と墓葬について,大川(学習院大 日本学術振興会特別研究員)が史料より漢代普北地域の県・防衛線・交通路を,杉本憲司(仏教大)が史料より地勢に応じた郡県規模について考察した。
  • 吉田 明弘, 吉木 岳哉
    セッションID: P713
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    _I_.はじめに
    従来,完新世は安定した温暖な気候環境と考えられていた.近年,グリーランドのアイスコアの酸素同位体や西アフリカ沖の海洋コアのアルケノン古水温は,8,500年前の急激な氷河・氷床の融氷に伴う海洋の熱塩エネルギーの停止とそれによる寒冷化を記録していた(例えば,Kim et al., 2008).このような完新世における気候変動を日本で復元することは,地球規模の気候変動のメカニズムを解明する上で重要であると考えられる.
    古気候の復元には,年輪やアルケノン,酸素同位体比などの代替指標を用いて定量的な気温・水温が用いられている.従来,花粉分析は過去の植生および気候を示す代替指標として多くの地球科学研究で用いられてきた.しかし,古気候の復元は主に相対的なものにとどまっていた.近年,Nakagawa et al. (2004,2003, 2005, 2006,2008など)はベストモダンアナログ法を用いて水月湖や琵琶湖の堆積物の花粉組成から定量的な気候の復元を行った.これらの研究は,堆積盆において1本のボーリングコアの花粉組成に基づく気候復元である.そのため,その復元結果の代表性を高めるためには,同堆積盆での複数の気候復元結果を比較する必要があろう.
    岩手県春子谷地湿原は,吉田・吉木(2008)により約13,000年間の連続的な湿原堆積物が堆積していることが認められている.また,この湿原からは複数本のボーリングコア試料が採取されており,かつそれらのコア試料には対比可能な複数のテフラが挟在している.そこで,本研究は岩手県春子谷地湿原における複数本のボーリングコアの花粉組成に基づき定量的な気候復元を行う.また,これらの復元結果を比較検討する.

    _II_.試料と方法
     岩手県春子谷地湿原は岩手山南東麓の標高は約460m,面積約14.7haの中間湿原である.試料は,吉田・吉木(2008)で手動式シンウォール型サンプラーを用いて採取された5本のオールコアを使用した.湿原堆積物は約5~6mの分解の悪い泥炭からなり,その中に複数枚のテフラ層が挟まる.テフラは,下位より秋田駒柳沢テフラ(13,450-13,310cal yrs BP),秋田駒堀切テフラ(9,890-9,590cal yrs BP),十和田aテフラ(AD 915年),岩手刈谷スコリア(AD 1,686年)である.コアBでは8試料のAMS法により14C年代測定値が得られており,これらをIntCal04の較正曲線に基づいて較正年代を算出した.またこれらの年代から堆積速度を求め,年代モデルを作成した.
    花粉分析の試料は5本のコアについて約10cm毎に5mm幅で試料を採取した.花粉化石の同定は,吉田・吉木(2008)にしたがって,ハンノキ属を除く高木花粉を300粒以上を同定した.
    気候復元にはベストモダンアナログ法に基づくPolygon1.5(Nakagawa et al., 2002)を用いた.また,Nakagawa et al.(2002)およびGotanda et al.(2002)によりまとめられた表層花粉・気象値のデータベースを使用した.なお,春子谷地湿原の花粉分析結果ではハンノキ属が非常に多く検出されるため,気候復元にはこの分類群を除いた31分類群で行った.算出した気候パラメーターは,年平均気温,年間降水量,最暖月の平均気温,最寒月の平均気温,冬季(10月~3月)の降水量,夏季(4月~9月)の降水量である.

    _III_.気候復元
     以下では,吉田・吉木(2008)で花粉組成が報告されたコアBから復元された春子谷地湿原周辺の古気候(年平均気温)について述べる.
    晩氷期の13.6cal kaには3.4℃であった気温は,12.6cal kaには9.0℃まで上昇する.12.0cal ka には5℃まで減少する.この気温の減少は,Younger Dryas期の寒冷化に相当するものと考えられる.その後,気温は急激に上昇し,10.1cal ka には10.3℃となる.後氷期になると,気温は約10℃前後で安定的な変動をする.その中でも,とく8.7~8.2cal kaにかけて,9.5~8.8℃と比較的気温が低い時期がある.西アフリカにおける海洋コアのアルケノン古水温の復元結果は,8.5cal kaに急激な海水温の低下を記録している(Kim et al., 2008).すなわち,大西洋の気候振動は,極東域の日本の気候に影響を与えたと推測される.2.7cal ka以降は,10℃と冷涼な時期が続く.その中で1.2cal kaは10.5℃と温暖であり,170cal yrs BPは6.6℃と極めて低い.時間的分解能の問題はあるが,1.2cal kaは中世温暖期に,170cal yrs BPは江戸時代の寒冷期に対応する可能性がある.今後,他の時間分解能の高い代替指標との比較検討も必要であろう.
  • 岡本 透, 早田 勉
    セッションID: P714
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
     本報告では、北上山地ではほとんど報告されていなかった中期更新世に降灰したと考えられるテフラを北上山地北東部の安家カルストで確認し、その岩石記載的特性と火山ガラスの主成分化学組成について述べる。岩手県久慈市山根地区に分布する安家石灰岩に発達するカルスト台地上の平坦面(白樺平面:標高400~550m)の縁辺部の露頭で試料を採取した。テフラとローム質土層からなる層厚約6mの土層からなる露頭は、不整合を挟み上部層と下部層に分けられる。上部層には、地表から2mの深さに厚さ約3~6cmの淡灰色の細粒ガラス質火山灰Toyaが認められる。Toyaの約1.5m下位に不整合が認められる。下部層の基底は安家石灰岩とその風化層からなり、それらの凹みを覆うように厚さ20~30cmの黄橙色の軽石層(山根テフラ(YT)と仮称する)が堆積する。YTは層厚約1.5mのローム質土層に覆われる。
     YTに多く含まれる発泡した無色透明の繊維束状の軽石型火山ガラスは直線的な線状構造を持ち、長径5mmを越えるものも多く、非常に特徴的である。重鉱物組成は角閃石の含有率が高く、角閃石型のテフラの組成を持つ。低屈折率の火山ガラスの主成分化学組成は、SiO2含有量が高く、若干K2Oに富むという特徴を示す。現段階においては、YTの特徴に似たテフラは知られていない。しかし、三陸沿岸北部の下閉伊郡普代村鳥居付近に分布する更新世中期の海成段丘の被覆層中に、YTの岩相に似た層厚20cmの黄橙色粗粒軽石層が認められている。この軽石層は、繊維束状の軽石型火山ガラス(屈折率n=1.493-1.496)を多く含むため、YTに相当する可能性が高い。
     北上山地北東部の安家カルストのカルスト台地上に分布する平坦面やドリーネは地形的に安定しており、周辺の山地と比較して風成堆積物の保存が良いため、山間部におけるテフラの分布調査に適していると考えられる。今後、安家カルストを含めた周辺地域においてYTの分布調査および分析が進展すれば、YTは三陸沿岸の高位海成段丘の編年に対して有効な指標となる可能性が高い。
  • 山中 玲, 青木 賢人
    セッションID: P715
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    近年,日本の多くの海岸において,砂浜が減少し,海岸線が後退する海岸侵食が問題視されている。これまで,海岸侵食に関する研究は数多くなされているが,海岸侵食の経年変化を取り扱っていても断片的で調査期間が短いということ,問題解決策のための侵食対策工法について重視していること,汀線変化を載せているものはあるが,場所を把握しづらいということが挙げられる。
    そこで,本研究では加越沿岸全域について明治時代から現在までを調査期間とし,海岸に構造物が建つ前,つまり人為的な要因があまり無い時代から海岸線の変化を経年的に把握することを目的とし分析を行った。

    2.研究対象地域
    石川県羽咋市滝町滝崎~福井県坂井市三国町黒目福井新港までの加越海岸を対象地域とした。この海岸は,先行研究において全国的に見ても顕著な海岸侵食が発生している地域であり,調査期間内にダム建設,砂利採取,護岸工事など人の手が加えられている。また,加越海岸は1つの漂砂系であり,海流により南から北へ運ばれる沿岸漂砂,波により北から南へ運ばれる沿岸漂砂,波の往来による岸沖漂砂がある。それに加えて河川(主に手取川)からの土砂流入がある。砂の移動について考察するには漂砂系全体を把握する必要があるが,先行研究では加越海岸の一部のみしかなされていない。

      3.解析方法
    研究対象地域全域の1909年測量2万分の1地形図・5万分の1地形図,1947年・1968年・1974年・1989年・2002年に撮影された空中写真をテジタル化し,GISにより簡易的に幾何補正し,それらを重ね合わせた。次に幾何補正をした地形図・空中写真から読み取ることができる海岸線を年代ごとにトレースし,トレースした海岸線を1000m区間に分割し,各年代間の変化量を求めた。

    4.結果
    これらの作業により,研究対象地域全域の海岸線の変化を地形図上で表すこと,各年代間の面積変化量(_m2_)を計測した上で,海岸線の変化量(m)を計算すること,更に海岸線の変化量を時空間のメッシュ図にし,経年変化を表すことができた(図1)。その結果、研究対象地域全体では,1909年~1947年において,1年間当たりの海岸線の変化量は0.10m/年の後退,1947年~1968年では0.09m/年の後退、1968年~1974年は更に後退し,0.39m/年の後退であった。しかし,1974年~1989年には前進に転じ,0.23m/年の前進,1984年~2002年には0.02m/年で前進している結果になった。また,個別の地域でも海岸線の変化は顕著に表れており,千里浜海岸では1909年~1947年の間に約70m後退した。
  • ―新潟県,五十嵐川と刈谷田川の河成段丘―
    上條 孝徳, 鈴木 毅彦
    セッションID: P716
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    1.はじめに
     新潟県中越地方は地殻変動の激しい地域であり,地殻変動履歴を持つ多くの活褶曲や断層地形が見られる.記憶に新しい新潟県中越地震もこの影響によるものである.地殻変動を示す指標として隆起量が求められている.海成段丘面の旧汀線高度は,離水時の海面高度と離水後現在までの隆起量との和である(米倉 ほか 編,2001)ことから,海成段丘の発達する沿岸で隆起量は求めやすい.一方内陸部の隆起量は,地形面が形成された年代や形成当時の高度が不確かなことが多い(吉山・柳田,1995)などの問題があり解明されていない点が多い.しかし吉山・柳田(1995)により同一気候下において形成された2つの河成段丘面(MIS2とMIS6に形成された段丘面)の比高を用いて内陸部の隆起量を求める事ができるTT法が提案された.調査対象地域である信濃川水系の五十嵐川・刈谷田川は河成段丘が発達しており,隆起量を基に広域的な地殻変動を論ずることが可能であると考える.
    2.地域概要と問題点
     越後平野東縁には新発田―小出(構造)線(山下,1970)がある.これを境に東西の地形は丘陵から山地へと大きく変化する.またこの構造線は断層運動や褶曲構造など中越地方の活構造に大きな影響を与えていると考えられ,新潟県中越地震の震源もこれに起因すると言われている(産業技術総合研究所 活断層研究所センター HPより).五十嵐川の支流守門川はほぼ新発田―小出構造線上に位置している.新発田―小出構造線沿いの北部には五頭山地や月岡断層,南部には六日町盆地西縁断層などがあり,構造線付近の地域で第四紀の隆起や沈降の様相を知る必要がある.新発田―小出構造線沿いの北部地域や南部地域においては活断層の活動様式,変位量などが論じられているが,構造線中部地域である五十嵐川・刈谷田川付近での隆起量を用いた議論は未だ少ない.従って両河川の河成段丘を用いた隆起量の推定は重要であると言える.
     対象河川は河成段丘の発達が良く,8面の河成段丘が認識できる.両河川は信濃川の支流の中でも特に河成段丘地形が顕著に発達し,内藤(1975)や小林ほか(2002)などにより段丘面区分や地形発達史,地殻変動が論じられてきた.本研究の目的は吉山・柳田(1995)によるTT法を用いて内陸部の隆起量から中越地方の広域的な地殻変動様式を考察する事にある.隆起量が求められると地殻変動を論じる材料となる.そのためには各段丘の形成年代を精査する必要がある.段丘の形成年代決定にはテフラ層を用いるのが有効だが,当地域のテフラ層については不明な点が多く,特に中位段丘高位のものから高位段丘において段丘の離水年代が明確に示されてはいない.小林ほか(2002)は五十嵐川・刈谷田川両河川に計10面の段丘面を認識している.また広域火山灰から,具体的な年代を明言していないものの編年がされている.段丘面区分は刈谷田川においてはほぼ全ての段丘面が先行研究によって示されているが,五十嵐川上流部や五十嵐川支流の守門川の詳細な段丘面区分は行われていない.本研究ではそれらも扱っている.
    3.結果と今後の展開
     五十嵐川上流及び守門川は段丘面の連続性から発表者の区分で言うL-2面に相当する.L-2面は五十嵐川中流部において浅間草津火山灰がのることが報告(小林ほか,2002)されているため,MIS2に離水したと考えられる.しかし上流部においては段丘礫層が1-2mと薄く段丘化の進行が遅れた事が示唆される.また小林ほか(2002)にはm-1面のフラッドローム直上にカミングトン閃石のテフラが存在する事が報告され,MIS6指標火山灰である飯縄上樽(c)火山灰のものではないかと発表者は推測している.以後詳細な現地調査にてこれらを明らかにしていく.
  • 小坂 英輝, 立石 良, 三輪 敦志, 鎌滝 孝信, 今泉 俊文
    セッションID: P717
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     筆者らは,北上低地西縁断層帯において,地下深部から地表に至る活断層の地下構造と形成過程の解明を目的とし,地形地質調査を行っている。その中で,花巻断層周辺部の現在工事中の切土法面において,低地内の前縁断層のほか,前縁断層および山地縁の境界断層に関連する褶曲構造を観察することができた。以下,その結果を報告する。  切土法面は,岩手県花巻市鍋倉下堰田に位置する。切土法面周辺の花巻断層の変動地形は,山地縁に推定されるが,位置を明確には特定できない。前縁断層の露頭は,山地縁の崖より200m低地側に位置する。  前縁断層露頭の地質は,後期鮮新世~更新世三ツ沢川層およびL1面段丘堆積物である。三ツ沢川層は,シルト岩および亜炭からなり,L1面段丘堆積物は,下位より砂礫およびシルトからなる。L1面構成層のC14年代とL1面を覆うKPの噴出年代により,L1面の離水年代は約20kaと推定される(渡辺,1991)。断層は,L1面およびL1面構成層に2m以上の上下変位を与え,現在の表土に覆われる(図1)。  本調査地の模式地形地質断面図を図2に示す。断層は,前述した前縁断層(F3),中新世湯本層が三ツ沢川層の上に衝上する断層(F2)のほか,三ツ川沢層の地質構造により推定される断層(F1)が認められる。断層に関連する褶曲構造は,F1推定断層の先端部で,山地側が急傾斜となる非対称な向斜構造,F2断層の上盤側で,前翼が急傾斜となるキンク褶曲構造,F3断層の上盤側で, 30m程度山側に向斜構造が認められる。断層運動の時期は,段丘堆積物を切る前縁断層(F3)で新しく,三ツ沢川層を切る山地縁の境界断層(F2)で古い。前縁断層(F3)のデタッチメントの深度は,面積バランス法によると(段丘堆積物砂礫層上面を変位基準としたとき;増加面積84.4m2,短縮量3.3m),地表から25m付近に求められる。  前縁断層のデタッチメントは,断層の断面位置からF1推定断層へ連続すると推定される。この断層の地下構造と,断層の活動時期が前縁断層で新しいことから,断層運動は,山地縁の境界断層から前縁断層へ前進したと推定される。  今後,山地縁の境界断層についてもバランス断面法により地下構造と形成過程の検討を行う。
  • 八幡 啓, 山崎 晴雄
    セッションID: P718
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    1.はじめに
     地震動による建物被害と地形・地質との間には密接な関係があることは多くの研究で明らかにされている.しかしその多くは地域区分により建物被害の大きい地域が軟弱地盤地域に当てはまることを確認するにとどまっている.地形・地質学的観点から建物ごとの被害差に注目し,より局所的な要因について言及した研究はない.よって現在の地震動予測が防災に実質的に役立っているとは言い難い.地震によりどこがどのように揺れ,どのような建物がどのような被害を受けるのかを把握する必要がある.
    2.研究手法
     本研究では2007年能登半島地震,新潟県中越沖地震および2008年岩手・宮城内陸地震の直後において,比較的狭い調査範囲での全棟の建物被害調査を行った.これにより地震動の距離減衰などの影響を排除し,地域的な地形・地質条件との関係を議論することを可能にした.被害程度の記載に際しては調査員の主観を極力排除できるよう,独自の基準で複数の客観的項目を設定した.この調査項目に基づき,被害程度を重い順にA~Fに分類した.また建物の属性(用途,階層,屋根の形状,建築年代など)も考慮に入れた.地形・地質条件は,空中写真判読による微地形分類図,既存のボーリングデータ,常時微動観測などにより推定した.これらのデータをGISにより重ねあわせてマッピングし,建物被害の傾向と要因を探った.
    3.各地震における調査概要と結果
    3.1.能登半島地震
     調査範囲は震度6強を観測した輪島市門前町走出地区周辺の約0.3km2である.空中写真判読により崩壊地,扇状地(急傾斜),扇状地(緩傾斜),山間谷底,谷底平野(高位),谷底平野(低位),山地の7つに分類できる.総建物数は576棟で,A13棟,B11棟,C45棟,D40棟,E156棟,F311棟となった.建物のほとんどが扇状地(緩傾斜)上に立地している.鬼屋川の左岸で被害が大きく,家屋被害が局所的な地形・地質条件の影響を受けている可能性を示唆している.
    3.2.中越沖地震
     調査範囲は古くからの柏崎市街地のうち沖積面と砂丘の境界部にあたる約0.15km2である(震度6強を観測).総建物数は499棟となった(A17 棟,B7棟,C32棟,D36 棟E239棟,F168棟).そのうち一戸建て住家は279棟である.その被害分布には偏りが見られる.調査範囲の西側で被害が大きく,その中でも被害の大きい建物はある程度固まって存在している.一戸建て住家278棟のみを見た場合には砂丘と沖積層の地形面境界付近以北において被害が大きい.また瓦葺の建物305棟のうち瓦の崩落が確認されたのは7棟に過ぎず,一方基礎に被害が見られたのは499棟中197棟に上った.ほとんどの建物で瓦の崩落が見られた能登半島地震とでは被害の特徴が明らかに違う.このように建物被害が増大した要因として砂丘斜面における側方流動が考えられる.
    3.3.岩手・宮城内陸地震
     調査範囲は震度6強を観測した岩手県奥州市衣川区古戸地区周辺の約0.2km2である.北股川,南股川が衣川(北上川支流)に合流する付近の左岸に位置する.地形は山麓緩斜面,I~IV段丘,段丘内谷底,山間谷底の7つに分類することができる.総建物数は173棟である.被害程度はA~C0棟,D1棟,E22棟,F130棟と,75%が無被害であった.前述の2つの地震と比べ被害が軽微である.

     当日はその他詳細な被害の傾向・要因について発表する.
  • 守屋 則孝, 須貝 俊彦
    セッションID: P719
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    2008年6月14日に岩手県内陸部を震央とする最大震度6強(M7.2、深さ約8km)の岩手・宮城内陸地震が発生した。被災地周辺では土砂災害が多数発生しており、中でも荒砥沢ダム上流で発生した地すべりは長さ約1000m、幅約700m、最大の深さ約150m、移動土砂量約70000000㎥と、山体崩壊を含めても国内では今世紀最大規模のものであった。筆者は6月21日、22日に宮城県栗原市北西部の花山湖、栗駒ダム周辺、岩手県一関市西部で調査を行い、その結果、調査を行った地域では節理の発達した溶結凝灰岩などで構成された比較的急傾斜な斜面での崩壊が多いという傾向が見られた。また、現在は国土地理院で公開されている地震発生翌日(6月15日)に撮影された空中写真を判読中であるが、地すべり地形や崖の位置と崩壊地の位置がよく対応しているという傾向も見られている。今後も現地調査や空中写真判読を継続していく予定であるため、最終的な結果については当日のポスターにて発表したいと考えている。空中写真判読については、上記の地震発生翌日のものだけでなく1987年、1948 年に撮影されたものについても判読を行い、その地形変化を時系列で確認したいと考えている。
  • 今泉 俊文, 石山 達也, 大槻 憲四郎, 中村 教博, 越谷 信, 堤 浩之, 杉戸 信彦, 廣内 大助, 丸島 直史, 三輪 敦志
    セッションID: P720
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    【はじめに】  2008年6月14日に発生した岩手・宮城内陸地震(Mj 7.2)の震源域である岩手県一関市および宮城県栗原市において,地表地震断層の有無を確かめるために,地震発生直後から何日かに分けて地表調査を実施した.その結果,地変は,震源付近で大きなすべりが求められた領域に対応するように,真打川左岸にあたる一関市餅転(もちころばし)付近から,磐井川両岸の同市本寺付近を通過し,同市落合南方付近までの南北約10 kmの区間,大局的にみて餅転-細倉構造線(片山・梅沢,1958)に沿って出現したとみられる(図1,2).
  • 八木 浩司, 佐藤 剛, 山崎 孝成
    セッションID: P721
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    2008年6月14日に発生した岩手―宮城内陸地震は,栗駒山から流れ出る一迫川,二迫川,三迫川,磐井川および胆沢川上流部に多くの地すべり,斜面崩壊を引き起こした.筆者らは,地震後に撮影されたアジア航測撮影の1/1万カラー空中写真判読を実施し,マスムーブメントのタイプごとに1/2.5万地形図上に斜面災害分布図を作成した.今回発生したマスムーブメントはいずれも,移動速度からみれば高速すべり・崩壊であるが,形態から深層地すべり,崩壊性地すべり,浅層崩壊および土石流に区分された.深層地すべりは,荒砥沢ダム上流域に発生した大規模なものが知られているが,発生数は少ない.今回発生したマスムーブメントの大半は,栗駒山中腹に分布する火砕流堆積面を切る谷壁斜面沿いの崩壊性地すべり,浅層崩壊である.とりわけ一迫川流域で集中した分布が認められる.それらは遷急線下部を冠頂部として発生し,垂直に近い溶結凝灰岩・溶岩部ではトップルから崩落したものもあろうがここでは崩壊に一括した.土石流は駒ノ湯温泉を押し流したドゾウ沢沿いのものや産安川上流のものの規模が大きい(八木ほか,2008).しかし,耕英地区の火砕流堆積面を浅く開析する谷の勾配の緩やかな谷底で集中して発生している.  上述したマスムーブメントの分布から崩壊,崩壊性地すべりは火砕流堆積物がなす急傾斜の谷壁斜面上部に集中している.これは傾斜の急な斜面上部で加速度が大きくなったことを意味している.一方,深層地すべりや,緩い勾配の谷底で土石流が耕英を中心に発生していることは,ここで斜面下部や谷底部で大きな剪断力が長時間継続して発生したことを示している.いずれにせよ2004年中越地震や2005年パキスタン北部地震において斜面災害が起震断層直近あるいは上盤側に集中して発生したこと(八木ほか,2006;八木・千木良,2006)を勘案すれば,少なくとも栗駒山南東側山麓は起震断層直近の上盤側に位置していたものと考えられる
  • 山形県の学校アンケート調査より
    村山 良之, 八木 浩司
    セッションID: P722
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     阪神・淡路大震災以降,防災教育の必要性がとくに指摘されるようになり,様々な取り組みがなされている。本発表は,山形県内の学校へのアンケート調査から,学校における防災教育の現状を分析し,学校における防災教育の課題を明らかにする。そしてそれをふまえた学校における防災教育実践のあり方について検討する。  ここで対象とする山形県は,1964年新潟地震,1967年羽越豪雨災害等の経験はあるものの,立て続けに地震災害を経験している新潟県と宮城県に隣接しながら,近年は大きな自然災害の経験に乏しい。 山形県の学校における防災教育の実態調査  2008年1月,山形県内の小中高校の防災担当者に対して,防災(および一部学校安全)教育に関するアンケート調査を実施した。市町村・県教委経由,または直接郵送で配布,回収は全て直接郵送による。国立・私立小中学校および各種分校は対象としない。他に校種不明の回収が18校あるが,分析から除いた。調査期間は1月中であるが,3月まで返送があった。 防災教育の現状と課題  アンケートでは,防災教育を便宜上「避難訓練等」と「それ以外(教科教育や特別活動等)」に分けて質問した。ここでは,後者のみの結果について,校種別のクロス集計をもとに検討する。  まず,教科教育や特別活動等での防災教育は,小学校ではそのほとんどで実施しているのに対して,中学校ではその割合が下がり,高校では半数以下となる。小学校では,特別活動で行っているものがほとんどで,副読本を用いたり学外講師による指導が多くを占める。中高では,学外講師による指導の他,応急処置の指導もなされている。ただし,それらに要する時間数をみると,小中高とも,約2/3は3時間以内であり,ごくわずかに10時間を超えて実施している学校があるにすぎない(小中高,各6,1,1校)。  教科教育や特別活動等で防災教育を実施していない理由としては,小中高ともに時間が取れないことが挙げられている。このことは,防災教育を実施するにあたっての(全般的)課題としても幅広く指摘されている。次いで,教職員の研修がない/少ないこと,適切な教材がないことが,校種による差を孕みつつも多く指摘されている。 学校における防災教育の充実に向けて  以上の結果は,発表者らが仙台市内の小中高校で実施した同様のアンケート調査ともかなり共通する。しかし,宮城県沖地震が切迫する仙台市に比べて,防災教育そのものへの関心が低い傾向は否定できない。たとえば,防災教育において「特に課題はない」とする割合は,山形県の方がずっと大きい。ただし全体としては,防災教育が必要との認識はあるものの,時間が取れないことや教職員の研修不足・教材不備のためにできないでいるという傾向が捉えられた。  リスクコミュニケーションの考え方をふまえた防災ワークショップの実施が近年広がりつつあり,その効果も期待されるが,その実施時間の確保,そのマニュアル整備や教職員の研修等が求められる。そのための仕組みづくりを含めて,取り組むべき課題が(改めて)明らかになった。
  • 茗荷 傑
    セッションID: P723
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    はじめに

    茗荷・渡邊(2008)では有田郡広川町と函館市椴法華地区の事例から両者を比較しつつ災害と土地機能の回復について考察した。土地の機能とは土地の有用性である。そして有用性は有為転変するという特徴を持つ。全滅に近い状態となった土地のその後の過程がその地域の持つポテンシャルを推し量る便となるのではないかと考えられる。今回は絶海の孤島である青ヶ島のたどった状況から考察していきたい。

    青ヶ島事情

    八丈島から60km、都心から360km離れた青ヶ島は古来流刑地として知られ、東京最後の秘境と呼ばれる絶海の火山島である。本土から青ヶ島への直行便は無く八丈島からの連絡となる。八丈島までは東京から12時間の船旅、あるいは航空便を利用する。青ヶ島に入る方法は2つある。八丈島からの連絡船「還住丸」(111t、所要3時間、1日1往復)か、または八丈島からのヘリコミューター(所要20分・1日1往復)を利用する。しかし環住丸は欠航率5割とも6割とも言われ、安定した便とは言いがたい。一方ヘリは9人乗りで重量物を搭載する余裕があまり無い。さらに周囲を絶壁に囲まれた青ヶ島には港が無い。桟橋が外海に直接に突き出ているだけである。したがって外海のうねりの影響をまともに受け、接岸が極めて困難である。(写真)少しでも海が荒れると欠航になる理由がここにある。桟橋を目の前に見ながら接岸する事ができず、八丈島に戻ることも珍しいことではない。
    島には産業がなく物資のほとんどを島外に頼っているため、島の生活はしばしば天候に左右されているのである。

    青ヶ島の災難

    天明3年3月10日(1783年4月11日)この島の運命を変えることになる大爆発が起こった。池の沢より噴火し、その噴火口は直径300mを越す巨大なものであったともいわれている。ここから50年にわたる青ヶ島の苦難の歴史が始まった。
    天明3年2月24日、突然の地鳴りとともに島の北端、神子の浦の断崖が崩壊を始めた。このときおびただしい量の赤砂が吹き上がり島中に降り注いだと言われる。
    同年3月9日未明より地震が8回起こり、池の沢に噴火口が出来てそこから火石が噴出した。当時池の沢は温泉があり14名が湯治に来ていたが、たちまち焼死したと言う。
    このときの噴火の様子は八丈島からも観測され、記録が残されている。それによると、困窮する青ヶ島の島民を少しでも八丈島に移すよう便宜を図ったとの記述があり、すでに天明3年の噴火で島民の八丈島脱出が始まっていたことがうかがえる。
    家屋は大半が焼失し農地は荒れ放題、更に池の沢は青ヶ島の水源であったためいよいよ生活は困窮し、飢饉が発生しつつあった。 天明5年3月10日(1785年4月18日)、再び未曾有の噴火が始まり青ヶ島は完全に息の根を止められた。
    同年4月27日、八丈島からの救助船が青ヶ島の船着場である御子の浦に到着したが、驚いたことに島民全部を収容するにはとても足りない3艘の小舟だけであった。舟に乗り込めなかった130~140名の島民の最期は悲惨なもので、その多くは飢えで体力を消耗した老人と幼児であったと言う。彼らは救助船に取りすがって乗船を懇願したが、舟縁にかけた腕を鉈で切断され、頭を割られ海に沈んで行った。
    なぜ八丈島は充分な数の救助船を派遣しなかったのか記録は残っていないが、八丈島も慢性的に食糧事情が悪く、青ヶ島島民を全て引き受ける余力がなかったためではないかと思われる。
    こうして青ヶ島は島の3分の2が焼き尽くされ無人島となった。 以後還往と称える帰島までの半世紀は生き残った者にも言語を絶する苦難の道程であったと伝えられる。その後青ヶ島に噴火は発生していない。

    このように青ヶ島はきわめて生活に困難な環境である。
    しかし逆に言えば青ヶ島の唯一のメリットといえばその孤立性にある。つまり外部からの人口の流入が少なく、島民全員が顔見知りで家族同然というわけなのである。
    青ヶ島は無人化の後、半世紀の時を経ても住民が帰島して復興の過程を進むことになり、現在に至っている。この島の復興を可能にした要因は何なのか、多様な項目にわたって青が島全体の環境を俯瞰できるよう、文献や現地調査等に基づき考察する。
  • 長尾 朋子
    セッションID: P724
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    現在も機能する、日本最古の大規模治水施設である山梨県信玄堤と、世界最古の河川施設の1つである中国四川省都江堰には、多くの共通する伝統的治水技術と、災害と共生せざるをえなかった地域住民の努力が反映した災害文化が見られる。現在の河川工法と地域住民の災害文化と融合し、持続可能な社会構築に向けた一事例として、本研究を行った。
  • 酸性河川流域での農業水利に着目して
    中村 俊一
    セッションID: P725
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     岩手県八幡平には,大正3年から昭和47年まで硫黄鉱山である松尾鉱山が操業していた.昭和30年代には,松尾鉱山は「東洋一の硫黄鉱山」と呼ばれ,日本の硫黄の約3分の1を生産するほどの繁栄を誇っていた.しかし,その繁栄と引き換えに,硫黄鉱床と水,酸素が反応し,坑道内から強酸性の坑廃水が半永久的に排出されるという負の遺産を残した.それにより,下流の赤川流域だけでなく,合流後の北上川にまで被害を及ぼしていた.
     しかし,このような環境下においても,赤川流域では昔から稲作が続けられ,現在でも水田地帯が形成されている.これには,何らかの水利用の工夫があると考えた.そこで本研究では,赤川と周辺の松川流域における水環境を主に農業水利に着目しながら調査し,赤川が地域に与えた影響と,それに地元住民がどう対応してきたのかを明らかにした.
     その結果,赤川における水質の変化に対する稲作への影響を明らかにできた.それにともない,赤川からの灌漑用水を使用していた水田で,他の河川に水源を求める切り替え水路工事が行われた.昭和27年にすべての赤川用水田において切り替え水路工事が完了し,それ以降赤川の水は全く利用されることが無くなった.地元住民が鉱山側に交渉を続けてきた成果である.切り替え水路完成後は,主に松川の水を利用しながら水路網が発達してきた.
     このように,この地域の農業水路網は赤川の強酸性化と地形条件を背景として,現在の水路網が形成された.また,切り替え水路建設の迅速な対応と赤川用水を徹底的に利用しなかったことで,被害を最小限に抑えることができたといえる.
  • -長野県飯山市の事例から-
    中山 絵美子
    セッションID: P726
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに  身の丈にあまる積雪がある地域では、どのように雪に対処しているのだろうか。長野県飯山市において、市街地では流雪溝を設置しているが、郊外では除雪機と併せて融雪池“タネ”を活用している家庭がある。“タネ”とよばれる池は、農具や野菜の洗浄用、観賞魚の養殖用、防火用など、多様に使用され、さらに冬季には“冬ダネ”も併設して除雪用に利用されている。“冬ダネ”は、秋の農作業が一段落すると、家の周りに掘って作られ、春の農作業始めには埋め戻される、深さ30cmほどの池である(第1図)。現在では、“タネ”をコンクリート張りにし、冬になる度に“冬ダネ”を設ける家庭は減少しているが、“タネ”そのものは除雪機の補助的な役割として、現在でも消雪に活用されている。 “タネ”の機能とシステム  多雪環境のもとに暮すには、とりわけ屋根雪の処理が重要である。第2図は飯山市小字柄山(からやま)の、“タネ”を活用していない家屋周辺の積雪深変化の様子を示したものである。家屋の周りに雪が堆積すると、採光量が減り、また、屋根上の雪と地面の積雪がつながってしまうと、融雪時の沈降力で庇が破損するなど、家屋に被害のでる恐れがある。また、屋根から落下した雪は硬く締まり、それらを移送させる事は困難を極める。このため、“タネ”は、日当たりの悪い家の北側や、屋根からの雪がちょうど落下する位置、出入り口付近などに、施設されている。 “タネ”の水は、滞っていると融雪能力が低下するため、取り入れ口に落差を設けたり、取水口に障害物を置いたりするなどして、取り入れた水を発散させ、水を「動」の状態にするための工夫が凝らされている。 各家庭には、集落共同の用水から“タネ”に水を引き入れる。頚城丘陵沿い南向き斜面に位置する小字顔戸(ごうと)の事例では、丘陵中に湧出する清水を3箇所から集落に取り入れ、集落内を標高の高いところから低いところへ枝分かれさせ、82世帯の家屋に対する大小144個の“タネ”に通水している。 本報告では、日常の除雪作業において、限られた時間で効率良く消雪を行うために、“タネ”を活用している事例について、参与観察の結果をまじえて紹介し、多雪環境への人々の対応に関して考察する。 本研究は(財)なべくら高原森の家の協力を得て調査を行った。
  • -松山平野と別府湾沿岸地域を事例として-
    堤 純
    セッションID: P727
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    本報告は松山平野と別府湾沿岸域を対象に,明治期から現代に至る約100年間の土地利用変化を分析した。ジオレファレンスした明治期と最新の地形図から土地利用ポリゴンを作成し,それらを100m間隔(松山平野)あるいは250_m_間隔(別府湾沿岸域)のポイントフィーチャーとオーバーレイすることにより,土地利用データのメッシュサンプリングを行った。
    本稿で分析の基本としたのは,松山市役所から入手した1997年の土地利用データである。このデータは航空写真から作成したポリゴンデータであった。しかし,この種のデータの質は元データの解像度に大きく規定されるため,スキャニングによる読み取りデータをそのまま分析に採用するにはいくつか問題がある。また,比較対象とする他年次のデータの作成方法との整合性も考慮して,以下のようなサンプリング方法を採用した。
    ArcGISを用いて,松山平野周辺の国土数値情報の3次メッシュ(約1km×1kmグリッド)内をさらに東西・南北方向にそれぞれ10等分した「1/10細分区画」ポリゴン(約100m×100mグリッド)を作成し,ArcGIS9に付属のスクリプトを用いて各1/10細分区画ポリゴンの中心点からなるポイントシェープファイル(以下,100mグリッドポイント)を作成した。1997年のポリゴンの土地利用データと,100mグリッドポイントをGISの空間結合機能を用いてオーバーレイした。この方法により1997年の土地利用情報をもった100mグリッドポイントが作成できた。これらのデータは約100m間隔にほぼ等間隔に並ぶ規則的な点で土地利用をサンプリングするようなイメージである。元データの作成時の読み取りエラー等の問題も,こうしたサンプリング方法を採用することで克服できる。
    比較対象となる1905(明治38)年頃,1928(昭和3)年頃,1970(昭和45)年頃の土地利用データについては,各年次の1/25,000地形図を用意し,それらを大型スキャナで読み取った電子データ(tiff画像)に対して緯度経度座標を付与し,ArcGIS9上で表示できるようにした。各年次とも,画面上に表示した地形図をもとに,マウスを用いた手入力で土地利用のポリゴンを作成した。作成したポリゴン土地利用データと100mグリッドポイントを空間結合させ,それぞれの年次の土地利用データ(各年次の100mグリッドポイント)を作成した。
    別府湾岸地域については,対象地域が広範囲に及ぶため,サンプリングを行なうグリッドの間隔を250mとした。分析の基本となる旧版地形図や現在の地形図のジオレファレンスについては,松山平野の場合とほぼ同様の方法によりデータを作成した。
    これらの結果,都市化の進展と農地の減少,森林面積の減少など,社会的・経済的視点からみた環境変遷の特徴が明らかとなった。
  • 1990年代中葉と2000年代中葉の土地利用から
    荒木 一視
    セッションID: P728
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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    1.背景と目的  近年のインドの経済成長は多くが指摘するところであり,デリーやバンガロール,ムンバイなどの大都市では中産階級の台頭など,豊かな生活スタイルが注目されている。その一方で成長する都市に対して,インドの農村部は停滞しているというイメージで,あるいは都市と農村間の経済格差の拡大という文脈で語られることが多い。マスメディアの多くにおいてもそのような論調が大勢を占めている。しかしながら,両者を断絶したものとして二項対立的にとらえるだけではなく,都市の経済成長の影響が農村・農業に与えた影響をきちんと把握する必要があるのではないか。また,インドの都市サイドからの情報発信が多いことと比較して,農村からの情報発信は極めて少ないというのが現実でもある。このような問題意識にたち,本報告では地方のインド農村の実態を,農業的な土地利用の変化に重心をおきながら示すことを試みる。 2. 対象村と資料  対象とする農村はインド,マッディヤ・プラデーシュ(MP)州インドール市郊外の農村,チラカーン村である。インドでは一般的に村ごとにまとめられた土地台帳が整備されている。この土地台帳には村単位に一筆ごとの面積,所有者名,作物名,休閑地かどうかなどの情報が記載されている。またこの情報は「パトワリ」と呼ばれる管理官によって,毎年の雨季作,乾季作ごとに情報が書き加えられている。今般1990年代中葉と2000年代中葉の2時点の土地台帳データを入手することができた。この土地台帳のデータをもとに,現地で農民に対しておこなった聞き取り調査の結果を踏まえて,1990年代後半以降に起こったインドの地方農村の農業変化の状況を検討したい。なお,1990年代中葉のデータは1991年の「新経済政策」による経済自由化政策が動き出してから,あまり間もない時期のものであり,その後10年を経過した2000年代中葉のデータとの比較は,経済成長下におけるインド農村・農業の変化を検討する上では,妥当なものであると判断した。 3. 結果と考察  大枠での雨季作の大豆と乾季作の小麦という農業的土地利用の基本形は10年を経ても大きく変わってはいない。そうした中で,指摘できるのは野菜の作付けが増えていることである。カリフラワーやジャガイモ,タマネギ,ニンニクなどが目立った品目である。その面積は大豆や小麦に比べて多くはないが,野菜栽培は集約的な性格を持ち,面積の割には多くの労働力を必要とする。村での聞き取りでは,大豆と野菜の間では,単位面積当たりの労働力には数倍から十倍以上の開きが確認された。こうしたことから,近年増加傾向にある野菜栽培はなお全体に占める割合は大きいわけではないものの,労働者雇用を通じて村内経済に与える影響は少なくないと考えられる。
  • 乾 睦子, 北原 翔, 竹内 渉, 赤羽 和樹
    セッションID: P729
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    日本列島はユーラシア大陸と北米、太平洋、そしてフィリピン海プレートがぶつかりあう沈み込み帯に位置し、世界有数の地震・火山大国である。この複雑な地質のため、狭い列島の中に多種多様な石材が産出してきた。全国に建築石材産地が点在し、建造物の内外装仕上げ材として用いられたことのある美しい石材も多かった。しかし、日本では、建築石材といえば欧米の文化のように感じられ、国内産の石材に関してはあまり認知されていない。開口部の少ない石造建造物が日本の気候に不向きだということも原因のひとつであろう。ほとんどの産地が小規模で資源量が豊富とは言えない中、すでに採掘されなくなった石材も多く、過去に石材を産出していたという記憶さえも失われつつある地域があるのが現状である。国土の自然環境を保全するには、国土を知る必要がある。資源量が少ないからこそ、日本の石材資源に関する知識を記録にとどめておくことが必要ではないかと考える。さらに、石材は大変耐久性が高いため再利用・リサイクルが推進されるべき素材であるが、それを推し進めるためには、技術開発にしても、実施にしても、業界の意識の高まりが欠かせない。石材に関する正確な知識はこのための啓蒙活動にも有用であると思われる。本研究は、日本列島各地の風土を形成してきた石材リソースの全体像を把握することを目的として、まずは建築外装材として多く用いられる花崗岩と、同じく内装材に用いられる石灰岩・大理石とを対象として、国内の主な産地とそれらが適用された建築物の調査を実施したものである。
    具体的には、まず文献から全国の花崗岩および大理石の石材産地をリストアップした。文献としては、庭石、墓石等の用途毎の断片的な資料や、その石材が利用された有名建築物の解説書、各地域の地質・地誌に関する解説書などを参考とした。次に、主要な産地の過去と現在の石材産出状況や、石材の利用用途などを、自治体、石材組合や業者、地域の博物館や研究機関等へのヒアリングにより調査した。花崗岩の大規模な産地は、瀬戸内海沿岸部の領家帯周辺に多く、白亜紀から古第三紀の貫入花崗岩が多く分布する地域と一致していた。墓石としての需要が多いが、現在でも、建材として採石されている産地もあった。石灰岩の産地は、山口県など国内で数箇所ある著名な石灰岩地帯にある産地と、それ以外の小規模な産地とに大別された。大規模な産地は礁成石灰岩の台地であることが多く、産出量がまだあるとしても、セメント産業など工業材料としてしか採掘されていないことがほとんどであった。その他の用途としては土産品用程度などであった。小規模な産地は、地質学的には、付加体中にレンズ状に産する石灰岩体が採掘されていたケースが多く、現在ではほとんど採掘されていない、あるいは採掘地点が特定できない産地もあった。
    次に、上で調査した石材の外観的特徴(色彩、模様、質感)を、実際に内外装として利用されている建造物等の調査により観察・記載した。花崗岩については、東京都心部に明治・大正時代に建造された公共あるいは公共性の高い商用建築物の外装を調査することができたほか、各産地からサンプルを提供していただくことができた。結晶粒径の大小、カリ長石による桜色味の有無、の他、ムラの有無、表面仕上の種類など様々に異なる印象の外観を呈していた。竣工後数十年を経た時期に、窓枠等の大規模改修に合わせて外壁の清掃を行った建物がいくつかあったが、花崗岩を厚いブロック状に加工した石積造(構造上は別として)の外壁の場合、雨等による汚れ以外の問題はほとんど発生していないことが分かった。石灰岩については、現在石材としての産出がほとんどないが、多種の国産石灰岩を内装材として用いた国会議事堂の内装で現物を調査することができた。色の多様さに加えて、角礫様、脈様、化石によるものなど様々なテクスチャーがあり、バラエティ豊富であった。この調査の結果えられた、保全が必要な岩石資源知識を、日本列島石材リソースマップとしてまとめた。今後は、対象石材を増やすのと並行して、石材産地や周辺地域の風土への理解を深め、石材資源に関する知識の継承・保全に役立てたいと考えている。
  • 藤井 紘司
    セッションID: P730
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
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     近代という言説空間は、特殊な生業形態をして前近代的な生活様式の残存としてとらえるきらいがあった。狩猟採集に依拠する山の民などの描かれ方は、その最たるものである。本発表では、これらの前近代の痕跡として定位されてきた生業伝承の事例、いわゆる「海を越える出作り」をとりあげる。
     琉球弧のもっとも南に位置する八重山諸島では、「低い島」から「高い島」へ耕作地を求めて通耕してきた歴史がある。従来、この海を越える営みは、旧慣租税制度である人頭税〔1637~1902〕によるものとされてきた。人頭税とは、首里王府が八重山諸島などの先島諸島に課してきた租税制度であり、納税の対象は、米や粟などであった。そのため、水稲耕作のできない「低い島」では、やむをえずマラリアの猖獗する「高い島」へと通耕してきたという歴史解釈が成り立ってきた。これらの歴史解釈を支えてきた叙述には、我如古樂一郎の「八重山島風土病調査書」(明治25年発行)、笹森儀助の『南嶋探検』(明治27年発行)などの明治期の調査記録があげられる。これら文献は後に頻繁に引用され、その出作り像は歴史解釈のなかに固定化されてきた。その結果、人頭税廃止以降の出作りは旧慣時代の暮らしを遡及的に想起させるものとして語られ、とくに注目をあびることなく看過されてきた。しかし、沖縄の本土復帰前後に消滅したこの海を越える出作りは、旧慣制度の撤廃を分岐点に、ただただ衰退の過程にあったのだろうか。
     これらの研究背景を踏まえ、本研究は、1903(明治36)年の新税法施行以降、つまり近代期における海を越える出作りの変遷、その消長をあきらかにすることを目的とした。研究に際して、地租改正後も出作りを続けていた「低い島」、そして、明治30年代の行政文書「喜宝院蒐集館文書」を有する沖縄県八重山郡竹富島をおもな調査対象地としている。出作り先となる「高い島 (西表島)」への通耕経験を跡付ける資料としては、竹富町役場の所有する地籍図と土地台帳を用いた。地籍図とは、租税徴収の根拠となる土地台帳の付図である。また、土地台帳は「地目」、「反別反」、「登記年月日」、「所有質取主氏名」などを記した帳簿である。これらの資料を活用し、一筆ごとに土地の所有権者住所を大字によって分類し、地籍図に色分けをした。これを1903(明治36)年時を基点として1926(大正15)年時、1955(昭和30)年時と比較している。以上のように各水稲耕作地の所有権の側面からその変遷をとらえ、また、喜宝院蒐集館文書の分析、および聞き書きによる民俗学的調査をおこなった。
     これらの調査によって、出作りの興隆期は近代期にあったことを明らかにした。これらの現象は、A) “技術的な進歩” a-1) 海を往来する船舶の変化(刳舟から大型帆船、焼玉船へ)、a-2) 大正年間における蓬莱種の導入、B) “新税法の施行” b-1) 換金作物としての米、b-2) 地価に対する課税、また、C) “西表島東部村落の衰退”などを背景としている。技術、制度、地域構造の変容のなか放擲された耕作地を出作り地へと組み替えることにより、明治年間以降著しく増加の傾向にあった竹富島の過剰人口は吸収されていったのである。従来、海を越える出作りは、先島諸島の負ってきた苦渋の歴史(人頭税史)の一部として記憶化されてきた。そのため、近代期における出作りは、歴史的な痕跡としてとらえられてきた。しかし、本研究結果は、その歴史的な不連続性を示唆している。これにより、あらためて近代における出作りは、旧慣税制による残滓としてではなく、出作りの形式を活用した適応形態としてとらえることができる。「高い島」と「低い島」を結ぶその海上の道はいかなる道であったか。本研究は出作り像に関する先行的言説に一石を投ずるものである。
  • 小学校安心安全マップを事例に
    野中 健一, 柳原 望
    セッションID: P731
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は、地図表現にイラスト技法を取り入れることによって、地域環境や情報に親しみやすく馴染むベースとしての地図を作り、読図者に対してわかりやすく、かつ共感をもたらすインターフェイスの手法を作り上げることを目的としている。
    事例研究として、小学校区における地域住民と生徒が活用できる安心安全マップを作成し、その効果を検証した。
    小学校区の子どもの通学、遊びにおいて地域の安全情報は重要な課題になっており、一つの手法として各地で安心安全マップの作成が盛んになっている。地域の安全情報をいかに収集するか、わかりやすく示すか、そしてその情報をどうしたら効果的に共有できるかという点について、実践をともなった議論が重要な課題となっている。
    事例では、校区内の保護者に集まってもらい討論することにより、情報を収集したが、討論の場を設けたこと自体が、参加者にとって情報共有や横のつながりの構築といった点で有意義なものとなった。また、いくつかの異なる視点からの情報によって、地域の特徴や地域の大人および子どもが必要とする情報を明確にすることができた。 地図化にあたっては、生活行動範囲における道路や基準軸になる河川などを描き、生活になじんだランドマークを具体的イラストで記した。これによって安心安全マップが親しみやすく受け入れられ、位置や情報の把握と地図によるコミュニケーションが活発化することを目指した。 さらに作成した地図によって地域情報が明確になり討論が深まるとともに地図を通じて地域への共通理解が促進されることが期待される
    ●地図の作製のポイント ・PTA作成の手描き地図を参照し、基本的な構成や情報を用い、その一般化をはかった。 ・校区内で異なる特徴を持つ地区に居住する保護者に協力を求め、地域の環境や情報について討論の場を持ち、その結果を地図に反映させた。 ・地図の情報がだれにでもわかりやすく受け止められることに主眼をおいた。 ・地域の特徴が表現でき、場所や位置関係がわかりやすく把握できることを目指した。 ・安心安全情報が的確に示され、注意を喚起できるアイコンの形を追求した。 ・汎用性をもち、情報の更新や共有を容易にするため、市販コンピュータソフトを用いて描画を行った。作成した図形はすべてベクトルデータとすることにより、任意に拡大縮小することを可能とした。 ・地名・施設名は一般的に通称が使用されているものは親しみやすさと理解を優先して通称と正式名を併記した。 ・校区を中心とし、その周辺でも遊びなどで出かける機会の多い場所は記した。 ・坂や起伏の多い事例地区ならではの注意喚起ができるよう、地図表現を工夫した。 ・親子で対話しながら個別家庭に即した地図にアレンジできる様式を提案した。
  • 南雲 直子, 久保 純子, 須貝 俊彦
    セッションID: P732
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
     カンボジアでは近年,古代遺跡に関わる調査が,考古学及び建築学分野を中心に進展しつつある.しかし,フランス統治時代から進められてきた遺跡に関する研究成果の多くは,漢文史料や碑文史料から構成された歴史観に基づいたものであり,より実証的な資料によって古代社会の構造を明らかにすることが求められている.本研究は,カンボジア中央部におけるプレアンコール(Pre-Angkor)期の都市遺跡について,地理学及び地形学の手法を使って遺跡周辺の地理的環境及び,7世紀当時の都市構造について明らかにすることを目的とし,現在までに得られた知見について報告を行う.
     調査対象地域は,プレアンコール(Pre-Angkor)期の真臘(Chenla)の都城イーシャナプラ(Isanapura) に比定されているコンポントム州サンボー・プレイ・クック遺跡とその周辺である.この遺跡周辺にはヒンズー教祠堂のほか,水路や参道,溜め池や水田跡と考えられる多くの土木痕跡が残されている.
     本研究では,空中写真判読によって遺跡周辺の地形分類図を作成したほか,溜め池や水路といった人工の土木痕跡の分布を示し,その貯水量を推定した.また,現地にてハンドオーガーや検土杖を使用して採取した表層試料の観察と分析(粒度分析,鉱物分析)を行い,遺跡周辺の地形環境を考察した.
     地形分類図によれば,イーシャナプラ周辺の地形は台地面と氾濫原面に大きく分けられ,イーシャナプラの南側には,セン川(Stung Sen)の氾濫原が広がり,旧河道も確認出来る. 台地面は高度により_I_面と_II_面に分けられ,都城区は台地I 面と台地II面に,寺院区は台地I面上に立地している.台地を構成する堆積物は熱帯地域によくみられる酸化物質が付着した石英や長石からなる砂で構成され,土壌はほとんど確認出来ない.氾濫原上には東西方向に伸びる参道のほか,土手で囲まれた溜め池や運河状の遺構が見られるが,多くの溜め池跡や水路跡と見られる遺構は,都城区とその周辺,O Krou Ke川沿いの低地に集中している.
     Groslier(1958)によれば,アンコール期には発達した水路網と貯水施設によって農業が飛躍的に発展し,人口が増加したとされている.この「水利都市論」には近年批判的な意見が多いものの,遺跡周辺の土木痕跡から王都イーシャナプラが保持していた国力の推定が可能であると考えられる.
     プレアンコール期に先立つ扶南の都,アンコールボレイ遺跡では水路が発達し,外洋世界との繋がりが強かった. イーシャナプラでは周辺で耕作活動が行なわれた可能性を示し,かつ他地域とのつながり示唆する水路や土木痕跡が見られることは,それらの過渡期にあったことを示唆するのかもしれない.
  • 江口 誠一, 岡田 直紀, Somkid Siripatanadilok, Teera Veenin
    セッションID: P733
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    タイの熱帯季節林は,全森林面積の3分の2を占め,国内のみならず東南アジアの植生を考える上で重要である.しかし,その過去の変遷については,ほとんど明らかにされていない.従来の研究では,考古学・人類学的視点によって,湖沼堆積物中の花粉化石を中心に扱われてきた.よって,花粉の飛散が及ぶ広い地域全域を対象とせざるを得なかった.それらは様々な場所を起源とする,花粉化石が混在したダイヤグラムをもって概観するにとどまり,植生変遷史として考察されてこなかった.現況より,生態学的検討を加えるには,古植生の分布まで検討する必要があり,地点あたりの復原域が小さい,植物珪酸体分析はそれに適している.また窪地に限らず,平坦地の堆積物を直接分析できることから,台地上でも現地性の高い復原が可能である.本研究では,熱帯季節林の中でも,火入れなど人為の影響が強い落葉フタバガキ林を中心に,隣接する林分下の,表層を含めた地層中の植物珪酸体化石群から,現生群落内の母植物を対象にその変遷を明らかにすることを試みた.
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