日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の280件中1~50を表示しています
  • 氷見山 清子
    セッションID: 101
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに
     2004年10月、新潟県中越地震が発生した。長岡市山古志地区(旧山古志村)はこの地震で、壊滅的な被害を受けた。新潟県中越地震は、山古志地区の土地利用に大きな変化を与えたと考えられる。そこで、山古志地区の土地利用変化と震災との関わりを明らかにするため、2万5千分1地形図を基に過去約40年間の土地利用を復原した。本発表では、まず2万5千分1地形図を用いた土地利用の復原方法と1960年代後半以降の山古志地区の土地利用変化について示す。そして土地利用変化の要因として考えられる耕作放棄や震災が土地利用変化にどのような影響を与えたのかを述べる。
    2.研究の方法
     本研究では、1966年、1999年、2003年、2006年の2万5千分1地形図を基に、PhotoshopとArc GIS用いて土地利用を復原した。さらに土地利用変化の要因を探るため、人口や農林業センサスなどの統計データとの比較や、新潟県中越地震による斜面崩壊地などの画像データと土地利用図の重ね合わせを行なった。さらに山古志地区の新潟県中越地震による土地利用変化に対する理解を深めるため、1998年に豪雨で被災した亀田郷土地改良区の過去10年間の土地利用変化をデータベース化し、災害と土地利用変化の関係を山古志地区の場合と比較した。各年代の土地利用の特徴と土地利用変化の分析を通して,調査対象期間を第1期(1966年-1999年)、第2期(1999年―2003年)、第3期(2003年―2006年)に分けた。分析の結果、山古志地区では第2期、第3期の土地利用変化が第1期と比べて大きいことが判明した。変化が大きい第2期、第3期の土地利用変化とその要因は以下の通りである。
    3.第2期の土地利用変化
     第2期の土地利用変化の特徴は農業的土地利用が減少したことである。山古志地区の農業的土地利用は大部分が田である。そのため、米の生産調整をきっかけに田から養鯉池への転換が進んだこと、耕作放棄により田が荒地に変化したことが農業的土地利用全体の減少につながったと考えられる。森林も農業的土地利用と同様に減少しているが、これは地すべりに起因する荒地化によるものではないかと考えられる。都市的土地利用の面積は、人口の減少に伴い集落が縮小しているにもかかわらず、道路面積が増加したため全体的に増加している。以上のように第2期の山古志地区の土地利用変化は、米の生産調整、耕作放棄、人口減少と農業の後継者不足、公共工事など社会的な要因によるものであると判断できる。
    4.第3期の土地利用変化
     第3期の土地利用変化の特徴は、2004年10月23日に発生した新潟県中越地震の影響を受けたことである。地震で発生した斜面崩壊や河道閉塞により、全ての土地利用が機能不全に陥った。中でも道路は壊滅的な被害を受け、山古志地区の外に避難した住民が農業活動を続けられなくなった。その結果,急激な農業的土地利用の減少と荒地の増加が生じた。森林の荒地への変化は、比較的傾斜が急なところでみられるので、斜面崩壊が主な要因であると考えられる。ただし、森林の変化は第2期と比べ著しく大きいとは言えない。水面は、地震による芋川の河道閉塞のためその面積が増加したものの、養鯉池が崩壊するなどして減少した水面も多く、全体としては減少した。このように荒地化した土地利用が多かったため荒地の面積は第2期以上に増加した。以上のとおり、第3期の土地利用変化は、新潟県中越地震の影響を強く反映していることが明らかになった。
    5.まとめと展望
     第3期は、第2期の土地利用変化に地震という新たな要因が加わったことにより、第2期以上に土地利用が変化した。それは、増加傾向から減少に転じた水面や、第2期の変化に拍車をかける結果となった荒地と農業的土地利用からみることができる。しかし、地震により破壊された土地利用も復旧・復興事業により元の状態に戻りつつあるので、この第3期の土地利用変化は一時的なものであると考えられる。
     2007年の山古志地区の土地利用は、復旧・復興の進度によって地域的な差はあるものの、多くの水田で稲作が再開されるなど、新潟県中越地震直前に近い状態になったといえる。今後、山古志地区の土地利用がどのように変化するのか注目したい。
  • 高崎 章裕
    セッションID: 102
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     近年,環境への関心が高まり,河川の清掃活動や植林活動などがNPO団体や市民ボランティアによって,全国各地で行われている.地域を越えた住民や市民団体のネットワークの形成は,環境問題を考える上で重要な役割を果たすものと考えられる.
     そこで本研究では,熊本県球磨川流域において環境保全を行っている「球磨川水系ネットワーク」の活動,中でも「球磨川源流水リレー」を取り上げ,人々がどのように流域圏のネットワークを築き発展させてきたのか,そしてそのネットワークを通して,地域や球磨川に対する参加者の意識がどのように変化してきたのかについて明らかにすることを目的とする.
     熊本県球磨川流域には17の自治体が含まれ,流域内人口は約14万,流域面積は1,880km2におよぶ.当該地域にはいまだに決着が付いていない川辺川ダムの建設問題が残されており,球磨川流域の住民は古くから環境問題と向き合ってきた.そして1996年,球磨川の変化に気づいた住民たちが「球磨川水系ネットワーク」を立ち上げた.現在は39団体で組織され,流域内の植林活動,一斉清掃,水質調査などを実施し、また共同イベントとして「球磨川源流水リレー」を毎年開催している.
     「球磨川源流水リレー」とは,竹筒に汲んだ球磨川,川辺川の源流水を人の手だけでつなぎ,約170kmの距離を隔てた八代海まで運ぶイベントである.イベントが始まった1996年の参加者は約50名に過ぎなかったが,ビラ配りなどの地道な宣伝を通して学校や地域に情報を発信し続けてきたことで認知度が高まり,現在では約700名もの流域住民が参加するイベントへと成長した.参加者層は,地域住民や地元の小中高校生をはじめ,カヌー・ラフティングクラブ,漁協組合,そして自治体職員まで非常に幅広い.
     そして「球磨川源流水リレー」は,2005年から,不知火海に注ぐ約20河川の源流水を運ぶ「環・不知火海源流水リレー」へと規模が拡大された.「源流水をリレーする」という行為は,人と人,地域と地域を繋ぐ象徴的行為である.参加者たちは,実際に球磨川に接することで現状に気づき,球磨川からの恩恵や自然への感謝の気持ちが芽生え始める.そして、彼らの中には“My River”という考え方を持つものさえ出てきた.「球磨川源流水リレー」の参加者たちは,活動を通して球磨川という特定の自然に対する意識が変化したと捉えることができる.
     本発表では,自然の意味,すなわち場所の意味が,どのように変化し,形成されていったのかについても報告をしたい.
  • 齋藤 暖生, 山口 健介, 氏橋 亮介
    セッションID: 103
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.問題意識
     過疎化の進む農山村地域住民のみで自然資源管理を担うのは困難である。近年、森林ボランティア活動の展開に見られるように、非農山村地域住民の森林管理参加への意欲が高まっており、また、企業のCSR活動に代表されるように、非農山村地域住民が自然資源管理の一端を担う社会的責任がますます認識されるようになっている。このように、自然資源に近接して居住する者だけでなく、日常的には自然資源と疎遠な者とが協働を指向することが、自然資源管理の今日的な特徴であり、課題となっている。

    2.研究の視点と方法
     本稿のテーマ―複数の利害関係者の協働(co-management)―に接近するために、複数の行為者たちが取り結ぶ関係に着目する。この視点は、高田保馬やグラノベター等、社会学で論じられてきた紐帯論にその源流を持ち、地理学の分野でも小栗の山村・漁村共同体に関する先行研究がある。
     グラノベター(1974)によれば、紐帯はコンタクトの回数によって、強い紐帯と弱い紐帯に分類される。経験的に、弱い紐帯は、コンタクトの頻度が高い「強い紐帯」で結ばれる小集団を結ぶことが知られる。そこで、弱い紐帯を担保することが、コンタクトの低いアクターによる森林の共同管理の必要条件となる。以上より、森林管理に関する弱い紐帯の成立条件の導出を本事例分析の主眼とした。2007年4月以降、長岡京市を数度訪問し、行政職員、地域代表者にたいして聞き取り調査を行った。

    3.森林ボランティア活動の紐帯に着目した分析
     長岡京市は京都市の南西に隣接し、本来、近郊農村としての性格を有する地域である。宅地化、工業地化の進んだ現在も、市域の4割を占める山林(西山と呼ばれる)沿いには、寺社を中心とした集落が存在するなど、伝統的なコミュニティが強く残っている。また、ここでは多くの成員が、伝統的に私有林を所有している。その一方で、都市圏に近いことも影響して、他の利害関係者が頻繁に関与してきた地域でもある。近年の森林ボランティアの介入はその一例である。
     森林を巡っては、伝統的なコミュニティの成員と森林ボランティアの間で便益の相違がある。一方で、コミュニティの成員にとって森林は生産は行えないが管理せねばならない「負債」に類するものとして捉えられている。他方で、ボランティア活動者にとっては、環境保全実践、自己実現、やレクリエーションの場として捉えられている(山本編2003)。ボランティアがなされることは各主体にとって望ましい。しかし、森林管理に対する動機が異なるために、社会全体としてもっとも望ましい形でボランティアがなされるとは限らない。
     しかし、西山の森林ボランティアでは各主体がおおむね満足している。その理由の一つとして、市職員および市長が、主体間の調整を行ってきたことがあげられる。例えば、地権者に対するボランティアの情報公示を通して、地権者のボランティアへの信頼を担保すること、などである。このように本事例では、仲介者としての行政の役割こそが、地権者およびボランティア双方の紐帯を保ち、全体として弱い紐帯が形成される要因となっている。

    4.仮説の導出と今後の課題
     以上の分析より、複数の利害関係者の協働の成功条件として、仮説「強い紐帯により結ばれた小集団(本事例では伝統的なコミュニティ)が第3者(本事例では市職員および市長)の仲介により他の小集団(本事例では森林ボランティア)と弱い紐帯を形成すること」が導出された。今後事例の歴史性に配慮して本研究で導出された仮説を検証したい。

    5.文献
    山本編(2003)『森林ボランティア論』日本林業調査会
    小栗宏(1983)『日本の村落構造』大明堂
    グラノベター(1974:1998)『転職―ネットワークとキャリアの研究―』渡辺深(訳)ミネルヴァ書房
  • 有馬 貴之
    セッションID: 104
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. はじめに
     地理学の観光研究において、ある一定の場所または空間内における観光客の移動パターンについて考察したものは少ない(ピアス 2001:174-180)。本研究は、アンケートとGPS端末を利用した調査を行い、ミクロな観光行動の性質について考察したものである。なお、今回は、ミクロな観光行動の中でも、特に移動パターンについて発表する。

    2. 動物園の分類
     本研究では、調査の利便性、協力の有無などから都市観光の1施設である動物園を研究対象とした。動物園は、その経営体と開園時期、および立地や歴史性などから、大きく都市型動物園と郊外型動物園に分類することができる。本発表は、都市型動物園の事例である恩賜上野動物園(以下上野動物園)における調査とその結果を発表する。なお、有馬(2007)において、郊外型動物園の事例である多摩動物公園における調査結果をすでに発表している。

    3. 調査方法
     本研究において行った調査は、上野動物園において無作為に抽出した来園者に対して行ったアンケート調査とGPS端末を利用した調査である(第1表)。GPSのデータは使用できるデータのみ利用し、補正を行った上で、GISによって解析した(第1図)。

    4. 上野動物園の事例
     調査の結果、上野動物園においては、多摩動物公園に比べ、移動パターンが複雑であった。その要因は、狭い敷地に各動物展示が密集していることによるところが大きい。
     また、多摩動物公園においては確認された、最も見たい動物展示の位置が、移動パターンに影響するという現象はみられなかった。これは先述した敷地や動物展示の配置の側面に加え、上野動物園の来園者に初回の来園者が多いため、園内の空間認識が乏しいという来園者の側面によるものといえる。
     多摩動物公園に比べ、上野動物園における敷地の傾斜はあまりない。しかし、来園者の移動パターンを考察すると、多摩動物公園の来園者よりも、上野動物園の来園者のほうが、地形や敷地の形状に大きく影響された移動パターンをとっていた。
     また、上野動物園においては、動物園本来のアトラクションである動物展示には左右されない移動ルートが存在していた。このことから、上野動物園は、動物園本来の役割である動物観覧以外の目的でも、人々に利用されているといえる。
  • 小島 大輔
    セッションID: 105
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1 問題の所在および研究目的
     日本人の海外旅行の進展に伴い,日本の旅行会社による拠点の国外進出も続いた.それは,現地の旅行業は,日本人の海外旅行の発展に伴う日本の旅行業のグローバルな展開という視点のみでは把握できないからである.日本の旅行会社に加えて,現地で成立した旅行会社も,日本の旅行会社の進出の前後共に,現地の業務において重要な役割を有している.従って,国際観光において,ツーリストとアトラクションの媒介部門である現地の旅行業全体が,どのように成立・変化し,維持されていくのかという視角で分析を加えることが有用であると考えられる.
     本研究では,カナダにおける現地の日本人向け旅行会社の活動を取り上げ,既存の研究で十分に論じられなかった旅行業の展開に着目する.そして,日本人のカナダ旅行の変遷とともに現地の旅行会社がどのようにして成立し,またどのような活動の展開を行い存続してきたのかを明らかにすることを目的とする.
    2 日本人のカナダ旅行の変遷
     初期(1945-1970年代初頭)では,カナダを主な目的地とした旅行商品化は行われていなかった.日本の旅行関係者への大々的なセールスが行われ,カナダ旅行のマーケティング・セールスの会が結成された.この時期,カナダ旅行は東西に分断され,西部はアメリカ西海岸と東部は東海岸と組み合わされた旅行商品が生産されていた.
     発展期(1970年代半ば-1980年代初頭)には,日本メディアの影響によって日本人のカナダ旅行ブームが2度生じた.日本人旅行者の増大に伴い,組織化によって集団のスケールを活かした交渉が可能になり,日本人旅行者への対応の改善が図られた.また,カナダ西部と東部を組み合わせたカナダ・ツアーが各旅行会社により編成され,アメリカから独立した目的地として成立し始めた.
     強化期(1980年代-1990年代前半),カナダ・ツアーの大量化および低価格化が進展した.一方,カナダ国内において新たに3地域の目的地が旅行商品として開発され,現地旅行業の業務の季節差の是正が行われた.また,日本人向け旅行会社の組織が結成され,増加した日本人旅行者への交渉力の強化を図った.
     安定期(1990年代半ば-現在)になると,日本の旅行会社の現地法人によってホスピタリティの向上を目的とした組織が構成された.一方,春期の需要促進にも注力されている.
    3 バンクーバーにおける日本人向け旅行会社
     カナダにおいて日本に関係のある旅行会社は,戦前にカナダに移住した日本人移民が,日系移民の里帰り客を主な顧客として起業したものが嚆矢である.1980年代後半から1990年代前半にかけて,それらの会社から分社・独立が相次ぎ,多くの旅行会社が成立した.一方,この時期,日本の旅行会社のカナダ進出が続き,バンクーバーに本社を置き,支店・営業所をトロントおよびバンフを中心に展開させた.
     現地業務については,当初はアメリカにある自社の支店に業務を委託していた.しかし,カナダ来訪者の増加に伴い,カナダへ自社の現地法人を設立すると,自社への業務委託が中心となった.すなわち,取扱量の増加に伴い,その業務は自社のカナダ進出により業務を内部化・現地化させ,商品・サービスの管理を行うようになった.
    4 現地旅行会社の季節差の是正戦略
     現地の旅行会社は,需要の季節差と共に生じる業務の季節差について,その雇用を季節的に変動させることによって対応している.
     また,カナダへの旅行商品供給には夏期に集中するという大きな季節差があったが,強化期の新しい旅行商品の開発によってその季節差は縮小された.すなわち,現地の旅行業の取り扱う旅行商品において季節差の是正が試みられた結果,カナダにおける日本人のツーリスト空間の拡大が生じたといえる.
  • 落合 康浩
    セッションID: 106
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     「クラインガルテン(Kleingarten)」は元来,ドイツを中心にみられる都市内の小規模な賃貸農園であり,都市に暮らす庭を持てない人々がレクリエーションとして園芸を楽しめるよう,都市の中に造られた緑地空間である。一方,わが国では,近年「市民農園」のことをクラインガルテンの名で呼ぶ例が多くみられるようになってきている。とりわけ,グリーンツーリズムを推進する上で農村地域と都市住民との交流拠点とするため,滞在施設を附属するこうした農園を建設する事業が増えている。そこで今回の報告では,笠間市における宿泊施設付き市民農園を事例として,その運営システムと利用の実態について紹介しながら,農村地域の活性化に果たすクラインガルテンの役割について考える。

    2.笠間クラインガルテンの概要
     笠間クラインガルテンは旧笠間の市街地から約5km南の本戸地区にある。全体の規模は約4haで,敷地の中には1区画300m2の宿泊施設付き市民農園が50区画あるほか,1区画30m2の日帰り農園50区画やクラブハウス,農産物直売所,そば処などが併設されている。この施設は,農村資源活用農業構造改善事業ほかの補助を受け,総事業費8億3千万円をかけて平成14年に完成している。当初,事業主体の市が行っていた管理運営は,現在,指定管理者制度によりJA茨城中央に委託している。
     宿泊施設付き市民農園の使用料は,1区画年間40万円であり,光熱費や居住地との往復交通費などは別途必要なため利用にかかる費用負担は大きい。また,年4回ある共同作業への参加が求められ,菜園では有機栽培,無農薬栽培を実践しなければならないなどの制約もある。しかしながら開設初年度から50区画が全て利用者で埋まっており,契約を更新して継続利用する人も多いため,毎年,新たに借りられる人が限られほどの人気である。

    3.宿泊施設付き市民農園利用者の実態
     2007年度における施設利用者(代表者)50名の居住地は,東京都が22,千葉県10,神奈川県9,埼玉県7,茨城県2であり,利用者すべてが都市の住民である。
    利用者に対して実施したアンケート調査(2007年5月実施,有効回答50)によれば,60代が7割ほどを占め,年配者が多い。また,全回答者の6割近くはすでに退職した人々で,第二の人生を楽しむための手段としてこの施設を利用している人の多いことがわかる。回答者には,ここを利用する以前から農業・園芸について何らかの経験をしている人が6割程度おり,もとから農業に強い興味をもっていたことがうかがえる。
     大半の回答者は週1回程度ここを訪れており,主として週末を利用し1~2泊程度滞在することが多い。なお,ここに訪れる際はほとんどの人が自動車を利用している。利用年数では2年~7年と更新を繰り返している人も多く,40名中39名までが次年度以降も施設の継続利用を希望している。菜園での作業については,半数以上が「非常に楽しい」と回答しており,また,宿泊を楽しみにしているとした回答者も多い。

    4.笠間クラインガルテンの役割
     この施設は農業に関心のある都市住民によって,非常に愛着を持って利用されている施設である。大都市圏からのアクセスが良く,緑豊かな環境にも恵まれるという立地の好条件から,利用頻度は高く,継続利用する人も多い。また,宿泊することで家族や知人との団らんを楽しめる上,ここを拠点にすれば周辺地域への観光の可能性も広がるなどの利点もあり,利用者の満足度は高い。かつての施設利用者の中には,笠間市に移り住むなどして農業をしながら新たな生活を始めた人もおり,この施設は都市住民に地元の良さや農業の魅力を伝える役割を果たしているともいえる。
     一方,施設の立地する笠間市本戸地区への影響も大きい。地元住民は施設で開催されるイベントに参加することも多く,そこから施設利用者との交流の輪が広がり,今では自らの農地を農業体験の出来る場として提供したり,施設利用者との契約栽培を行う農家もある。また,施設に付属する直売所では地元産品の販売が出来るため,そこに出荷する目的で作物を栽培する農家は多い。さらにはそれらに刺激を受け,有機農業や農業経営の転換をはかる農家も出てきている。
     このように笠間クラインガルテンは,都市住民と地元農家との交流を促して地域農業の活性化をはかるために貢献しており,その意味ではグリーンツーリズの実践という設立の主旨にかなっているといえよう。
  • 新井 貴之
    セッションID: 107
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. はじめに
     わが国では1960年代以降進行しているモータリゼーションに対応すべく、道路交通において様々な整備がなされてきた。その整備の中心は道路交通の「流れ」を重視するものであった。近年、余暇活動の拡大による長距離ドライブや女性や高齢者のドライバーの増加に伴い、従来の「流れ」の整備に加え、道路交通における「たまり」の空間の必要性が増し、より一層求められるようになった。その道路交通における「たまり」の場の必要性に応え整備されたものに、道の駅がある。
    2. 道の駅の概要
     道の駅は、1993年に建設省(現国土交通省)による第11次道路整備5箇年計画の施策のひとつとして誕生した事業により作られた施設であり、車利用者に対する休憩施設の需要に応えるとともに地域活性化の手段となることを目的としている。積極的な整備により、2008年現在全国各地に868か所あるが、その近接性ゆえの競合問題や、施設規模の格差問題等の課題も多く、全ての道の駅が地域活性化に結びついているとは言い難いのが現状である。
    3. 房総半島南部の道の駅
     房総半島南部には4自治体に10か所の道の駅が立地している。中でも、2006年に7町村が合併して誕生した南房総市には7か所の道の駅があり、極めて道の駅が密集している地域となっている。
     道の駅は登録以前から施設が供用されていた例が多く、10か所中7か所がそれに該当する。つまり、7か所の道の駅では何かしらの既存の施設を道の駅として登録していることになる。既存の施設には物産販売所、美術館、公園等があり、これらの施設を多少改修し道の駅にすることで、施設を新設するよりも比較的小額の資金で道の駅を整備することが可能になる。
     施設内容は道の駅によって様々であり、充実した物産販売所をもつ道の駅は、観光客のみならず地元住民にも利用され賑わっている。また、花摘み園や動植物園などの観光施設をもつ道の駅は、遠方からの来場者も多い。多種多様な施設がみられるのは、既存の施設の機能をそのまま引き継いでいるからである。
     管理運営者においても、形態により活動に差が見られる。第3セクターと民間企業が管理運営する道の駅では、イベント企画等を行い活動的であったのに対し、自治体と公益法人が管理する道の駅においてはあまり活動を行っていない。
     道の駅が地域社会にもたらす影響のひとつに雇用の場の形成が挙げられる。従業員数は道の駅の規模と大体比例しており、2名の施設から、約100名の施設がある。この人数の中にはパート雇用も含まれているが、過疎の進行する房総半島南部では、非常に大きな雇用の場であるといえる。約70名が雇用されている「富楽里とみやま」においては、富山地区(旧富山町)の就労者人口の2.21%の人数を直接雇用していることになる。二次的な雇用人数を入れるとさらに割合が高くなることは明らかであり、道の駅が雇用の確保で地域社会に貢献していることがわかる。
     房総半島南部の道の駅は特に近接しているため競合は避けられない問題だが、房総半島南部の全ての道の駅と地域を総括的に案内し、観光による地域の連携を図りやすくするシステム「南房総ランドスケープ」を構築し、行政を超えて地域活性化を図る試みも行われている。
    4. まとめ
     房総半島南部の道の駅は、既存の施設を道の駅として登録した例が多く、そのため施設内容も多種多様である。管理運営者により活動に差が見られることも明らかになった。また、雇用の場となっているほか、広域での地域振興活動も行っており、地域社会に活力を生むひとつの手段として貢献しているといえる。
  • 水谷 千亜紀, 丸山 美沙子, 小島 大輔, 山崎 恭子, 長坂 幸俊, ヴィスタ ブランドン マナロ, 松井 圭介
    セッションID: 108
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     歴史的町並みは,現在,様々な主体により地域の文化遺産として保存・活用する試みが全国各地で取り組まれている.一方,歴史的町並みの保存運動が生じていない地域では,歴史的建造物の保存・取壊しに関する意思決定は,一般の建造物と同様に所有者に委ねられている.このような地域において,歴史的建造物の補修・保存・利用または取壊しにはどのような要因があるのか,さらに,それらはどのように作用して所有者の意思決定に働くのかを読み解く必要がある.
     本稿では,茨城県下館地区における歴史的建造物を対象として,町並み形成の歴史的な経緯および現存する蔵造りの建造物を中心とする歴史的建造物の分布の分析に加え,保存運動の生じていない地域における蔵の保存・取壊しをめぐる所有者の意思決定に与える要因に着目して考察を行った.
    II 下館地区における景観形成とその特徴
     城下町として成立した下館地区は,江戸時代半ばより商業で繁栄し,明治・大正期には外来綿・洋糸の販売,木綿足袋底の生産により産業資本が蓄積された.鉄道交通の結節点となり中心地機能を高め,街道沿いには蔵造りの商家が立ち並んだ.
     江戸末期・明治初期に多くの蔵が建造され,店舗および商品倉庫として利用された.高い商業機能を有する大町地区では,高度経済成長期になると店舗の更新,駐車場設置などが進み,多くの見世蔵が取壊された.他方,大町地区よりも比較的早く商業機能が低下した金井町地区では,蔵造りの町並みが断続的に残存している.
    III 蔵の分布およびその保存・取壊しの要因
     蔵の補修・保存に対して助成制度がない筑西市では,蔵の存廃に関する意思決定は基本的に所有者にある.意思決定がなされる際の契機となりうる社会・経済的要因として,業種転換,駐車場の確保,住居の更新,老朽化,補修費用などが挙げられる.また,必要な建材が入手困難なこと,技術者が限られることから,補修が困難になりつつあることも指摘された.
     一方,直接的な契機ではないが意思決定に作用する要因として,所有者の蔵に対する意識が確認された.蔵の価値の認識,蔵への愛着がある所有者は,多額の費用を要する場合でも,蔵の維持を進んで行っている.また,蔵の本来的な機能はすでに失われているものの,代々受け継がれてきた「家」の象徴としての意味が投影されている事例も見られた.さらに,景観の一体性があることが,蔵への愛着と結びついている場合もある.それに対し,蔵に対する特別な意識がない場合,蔵の手入れは必要最低限にとどめ,現状維持もしくは将来的な取壊しを念頭においている.
    IV 下館地区の蔵をめぐる周囲の状況
     歴史的町並みの価値の発見には,それを評価し,普及する媒介者の存在が重要とされる.蔵の保存に関して,第三者が積極的にかかわったのが,「下館・時の会」である.当会の活動は,様々な地域住民の共感を得て,現在は「時の蔵」の保存として結実している.当会はこの他にも蔵を利用した地域の魅力発信を行うなど着実な成果を挙げている.
     茨城県県西地域には,桜川市真壁地区や結城市結城地区など,積極的に歴史的景観を活かしたまちづくりを進める自治体がみられる.2006年より「県西蔵のまちネットワーク事業」が開始され,この地域に現存する蔵の価値を発掘・再確認し,地域活性化に結びつける試みがなされている.
    V おわりに
     下館地区の蔵の存廃に対する意思決定を,「保存」と「取壊し」,および「積極的」と「消極的」の4類型の組み合わせでみた場合,積極的保存型は,蔵のシンボル的価値を認識し,用途転換を図りながら,蔵の現代的な利用を模索している所有者である.これに対し積極的取壊し型は,本来的な機能を終えた蔵に代わり,時宜に応じた土地利用種目に転用する所有者が該当する.両者を対極とし,中間に消極的保存型と消極的取壊し型がある.2つは共に現状維持志向であるが,老朽化により耐用性に問題が生じたとき,やむを得ず取壊しを選択する(した)のが後者であり,前者は対応未定のものである.
     蔵の保存という視点で考えるならば,所有者の意思決定には,直接的に作用する社会・経済的要因と共に,所有者の利用の意識や蔵に対する価値観が重要な要因として指摘される.こうした建造物が面的に保存され地域の景観として統一的に保全されていくためには,個人(家)の所有物としての蔵を,地域の文化遺産としての歴史的建造物と読み替えていくシステムを構築することが必要である.
  • 鈴木 晃志郎, 鈴木 玉緒, 鈴木 広
    セッションID: 109
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

    1.概要
     歴史・文化景観の保護・保全を考えるとき必ず問題となるのが,保護・保全と開発・利用の価値観の対立である。本発表では,港湾架橋道路案をめぐり,賛成派と反対派との間で四半世紀にわたって軋轢の続く福山市鞆町をとりあげる。
     彼らはそれぞれいかなるロジックと戦略を用い,外部社会からの影響といかに相互作用しながら,自らのめざす「あるべき鞆町像」へ地域住民や世論を導こうとしているのか。賛成・反対双方の住民運動を率いる三名のリーダーへの聞き取り調査と,各種資料を併用し,住民運動のプロセスとメカニズムに焦点を当てて鞆の浦港湾架橋問題を捉え直すことをめざす。
    2.架橋問題の沿革
     対象地は,古来から潮待ち港として瀬戸内の海運拠点であり,近世までは城下町でもあった。しかし城下町特有の狭小な道路構造から,いまだ車の離合も困難なほど交通事情が劣悪である。下水道は現在もなお普及率がゼロであり,住民は半ば自腹で浄化槽の設置を強いられたり,救急・消防サービスの遅延を強いられている。この問題を解消すべく,自治体が1983年に提示したのが,港を横切る架橋道路の建設計画であった。これを契機に人口わずか5000人余の集落は,町並みの歴史的価値を最大限尊重し現状のまま保存するか,それとも住民の生活の利便性を確保すべく海上に架橋し景観を改変するかの2つの立場に分かれ,今日を迎えている。
    3.架橋問題の展開
     架橋問題をめぐり全国的にも有名になったため,先行研究も少なからずある。しかし,この問題が本格的に学界で論じられるようになったのは,意外にもここ数年であった。嚆矢となったのが,日大理工学部のI教授らによる遺構発掘調査と,東大都市デザイン研のN教授らにより数度にわたり行われた建築景観調査である。これらは反対派の運動に「歴史・文化遺産としての鞆」を守るという学術的な名分を与え,その後の運動展開に大きな影響を及ぼした。近年,架橋反対派は「鞆を世界遺産に」というスローガンのもと,イコモス(国際記念物遺跡会議=ユネスコの諮問機関)までも巻き込んで急速な規模拡大を見せつつある。
    4.アクターとしての有識者
     先行研究ではほぼ例外なく,大多数の民意に反し,自治体や地場企業などの権力者層が,公共事業や観光開発目的で強引に事業を推進しているかの如き説明図式が用いられる。しかし数度にわたる現地調査や文書資料の分析を通じて,地元ではむしろ賛成の考えを持つ人が大勢を占めているらしいことが分かってきた(例:信頼性は充分でないものの,中國新聞の電話調査では,地元の架橋賛成派は8割を超えた)。
     住民運動のリーダー格にあたる人物や地元有力者への聞き取り調査の結果,架橋に対する賛成・反対とは別に,重伝建指定による古民家再生などを通じまちなみ再生をめざす運動があり,それが架橋問題に対する態度に複雑な影を落としている様子が分かってきた。鞆の架橋問題が学界を巻き込む2000年を境に,それまで架橋反対の立場で中心的な役割を担っていた人物Aは古民家再生へ軸足を移し,別の人物Bが架橋反対派の住民側のリーダー的存在となっていた。外部有識者による権威強化によって,架橋反対の立場を合理化しようとするBと,鞆の人文・社会景観ではなく,建築・土木景観に関心を持つ工学系の研究者との思惑が一致することにより,外部有識者は,鞆の住民運動のアクターとして新たに参入したのである。
    5.住民運動にみるウチ・ソト意識
     これまでほとんど唯一,鞆の住民運動に焦点をあてた片桐(2000)は,反対の声が表面化しない理由に,“ヨソ者軽視・年長者尊重”という,伝統社会特有の気風を挙げた。この気風は賛成派の運動に大きく影響する。住民の意見のみを重視する彼ら賛成派は,多数派でありながら意識調査を一度もおこなわぬ一方,二度にわたり全町民対象の署名活動を実施し,数多く自治体への陳情をおこなった。また,外部有識者が鞆を価値づけるようになったのと歩みを合わせるかのようにA氏は身を引き,古民家再生へと関心を移している。古民家再生は賛成派のリーダー的存在C氏も長く取り組んできたものであり,かくて2007年にA氏のシンポジウムの開催場所は,Cの再生・運営する古民家となるのであった。過去,鞆のハード面のみに関心を持つ工学系の研究者ばかりに関心を向けられ,誰一人受益者であり受苦者である住民の意向を確かめなかった背景には,これら複雑な人間関係のメカニズムが関わっていた。
     景観保全は重要であるが,外部居住者の立場で,住民に不利益を押しつけてまでそれを望むのは暴力的との誹りを免れないのも確かである。今後は,早急に住民への科学的な意識調査を行い,その結果にも謙虚に耳を傾ける必要があるのではなかろうか。
  • 山本 健太
    セッションID: 110
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     1990年代後半以降,先進国の大都市経済の牽引者として文化産業が期待され,注目を集めてきた.文化産業は大都市集積と国際分業を特徴とする.当該産業の分業先地における産業構造についての研究は十分とはいえない.本研究は文化産業のひとつであるアニメーション産業を取り上げる.今回は海外との分業下に発展してきた中国,特に上海に立地する制作企業を対象とする.上海には多くの制作企業が立地し,産業構造を示すに適した都市である.
     2006年10月および2007年8月に上海を中心として調査をした.上海に立地する企業6社のほか,上海にある産業団地1組織,業界団体2組織,無錫市,杭州市に立地する企業各1社および産業団地各1組織を対象として聞き取り調査をした.加えて,上海の企業3社に所属する労働者を対象としてアンケート調査を実施し,48人から回答を得た.本発表では調査結果の一部を報告するとともに,中国におけるアニメーション制作企業の立地要因について企業間取引,労働者の側面から考察を試みる.
     産業概要)中国アニメーション産業は1980年代以降,日本およびアメリカの下請け産業として発展してきた.現在,国内市場が急速に発展する一方で,主要な市場は海外下請け生産である.
     中国におけるアニメーション制作企業の立地は北京,上海,広州周辺に集中している.地方都市においては,誘致政策,優遇政策が採られている.無錫および杭州に立地する企業は立地理由に政府による政策の存在を挙げた.
     上海市内における企業の立地をみる.企業の立地は市内中心部に分布する.特に内環内西部に多い.この地域にはA社をはじめ大手制作企業が多く立地し,スピンオフや仕事を求めた小さな制作企業が集まった.A社に立地場所を選択した理由を尋ねたところ,近隣に映画撮影所があり初期の設備投資を解消できたためであるという.上海市郊外に立地する企業について立地場所選択の理由を尋ねたところ,海外主要顧客との取引のために空港からのアクセスを重視したという.
     企業間取引)A社を除く全ての企業で海外取引が売上額の70%以上を占めていた.海外企業と取引をする理由については,国内市場の制度が十分でないこと,海外市場においては利益が得られることを挙げた.また,取引の際に重視する事柄については,支払いに対する信頼および中国国内での商品化権の獲得を挙げた.支払いに対する信頼は,企業規模により判断するもの,支払いシステムにより判断するもの,継続的な取引により判断するものがみられた.中国国内での商品化権の獲得を重視するのは,中国では制作企業がアニメーションの制作者のほか,国内配布者としても振る舞うためである.
     労働者)国内市場向け製品の生産に特化するA社,国内および海外との取引のあるC社,日本との取引に特化したF社について,労働者に対してアンケート調査をした.基本属性について,平均月収は上海市平均よりも高い.雇用形態ではA,C社の場合,合同制が最多である.一方でF社の場合,アルバイトが過半を占める.また,いずれの企業も地方出身者が少なくない.労働者採用に当たっては,いずれの企業も技術力を重視する.A,C社の場合,全国を対象に労働者の募集をする.F社の場合,全国規模での募集はせず,先輩労働者が同郷の後輩を呼び寄せる.技術習得機会をみると,F社労働者は先輩による指導が最も多い.労働者が上海で仕事を継続する理由について尋ねたところ,上海が魅力的な都市であることが挙げられた.
     以上のように,中国においては地方分散を促す政策的動きのある一方,上海を志向する動きも存在する.国内を主たる市場とするのは大手企業に限られる.一部の制作企業は大手企業との近接性,海外顧客とのアクセス,上海に形成される高い技術を持った労働市場を求めて上海を志向する.
  • 佐藤 英人
    セッションID: 111
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     本報告の目的は,東京大都市圏で行われたオフィス移転の特性を分析し,オフィス移転におけるフィルタリングプロセスの適用可能性を検討することである.
     すでに報告者は,横浜みなとみらい21地区を事例として,大規模オフィス開発事業に伴うオフィス移転を,従来,住居移動で議論されてきたフィルタリングプロセスに適用させて分析した.その結果,最新鋭のオフィスビルが供給されると,テナント企業は資本金規模の順に従って上方変動する,いわば玉突きのような連鎖移動を行うことが明らかとなった.さらに,この連鎖移動はオフィスビル内のテナント企業を選別格下げして,横浜市内のオフィスビル全体の水準を選別格上げする可能性を指摘した.しかし,以上の分析は,研究対象地域を横浜みなとみらい21地区に限定しているため,一例報告の域を脱し得ない.
     そこで本報告では,研究対象地域を東京大都市圏全域(東京都,神奈川県,埼玉県,千葉県)に拡張して,オフィス移転の特性を分析し,オフィス移転におけるフィルタリングプロセスの適用可能性を検討する.
  • シュルンツェ ロルフ
    セッションID: 112
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

     本研究では、外資系企業の埋め込み戦略は立地の国際化の程度によって異なる、という仮説を検証する。第一の仮説は、知識移転を目的としている企業は組織マネジメントにおいて本国方式を適用し、R&Dマネジメントはグローバル化、あるいは国際化の進んでいるビジネス環境への立地を好む、というものである。第二の仮説は、独自の研究結果を出すことを目的としている企業は組織についても経営の方式についても現地、つまり日本に強く適応させ、日本人スタッフを配置することでR&D組織を現地のビジネス環境に埋め込もうという戦略を好む、というものである。
     東洋経済の外資系企業総覧(2004)による在日外資系企業3383社のデータを地域データベースと統合してビジネス立地の国際化の程度を求めた。外資系企業の中枢管理機能を表す変数を用いて、階層的クラスター分析を行い、完全連結法、あるいは最遠隣法を適用した。カウントデータを使ったため、距離測定法にはカイ二乗値を用いた。その結果、国際化の程度が異なる3つのビジネス環境に分類することができた。その3つとは、グローバルビジネス環境、国際的ビジネス環境、ローカルビジネス環境である。次の段階として、この分類を外資系企業の組織マネジメント志向およびR&Dマネジメント志向と対比させた。この分析には、2004年1月から同年4月、日本にR&D組織を持つ外資系製造企業185社を対象に行ったR&Dのダイナミクスに関するアンケート調査の結果を用いた。45%、84社から回答が得られ、そのうち有効な38社のデータを本分析に用いた。
     埋め込まれている外資系企業は経営に関して本国方式の適用と日本方式への適応のバランスをとりながら日本のビジネス環境のコンテクストに順応していると考えられる。日本人を配置することで経営組織と研究を現地化する戦略をとり、埋め込みに成功している外資系企業が多い。日本人は日本スタイルの方式を適用し、組織を埋め込んで、研究も日本のスタイルで行う。経営方式と立地コンテクストのミスマッチも見られた。国際化の進んでいない、あるいはまったく日本文化的なビジネス環境において本国親会社の経営方式を適用したり、国際的なビジネス環境に立地しながらも日本の方式を適応したりしている場合である。このような外資系企業はあまり埋め込まれていない。よく埋め込まれている外資系企業は、国際的なビジネス環境において、組織マネジメントとR&Dマネジメントに関して本国の方式と日本の方式を混合して適用している。国際化の進んだ東京のビジネス環境の優位性を持って、本国の経営方式を採用しているケースは実際、とてもまれであった。
     結果から、日本ではジオセントリック R&Dマネジメントはほとんどないと考えられる。日本でR&D活動をしている外資系企業の多くは、ローカルビジネス環境に埋め込まれるために組織方式も経営方式も日本に強く順応させる埋め込み戦略をとっている。外資系企業は経営と研究を日本人に委任しているケースが多いが、そのため本国親会社との間の知識移転は難しいといわれている。本国の方式を適用したり、本国からスタッフを派遣したりすることで異文化シナジーを創造するのに成功している在日外資系企業はわずかである。ビジネス環境コンテクストと組織マネジメントあるいはR&Dマネジメントの方式のミスマッチは、多くの外資系企業にとってR&D活動を日本に埋め込むのは困難であることを示唆している。よく埋め込まれている企業は異文化シナジーの創造を目指しており、ハイブリッドR&Dマネジャーを好む。結果から、外資系企業は立地条件ごとの適切な経営的適応について学ばなければならないことがわかる。今後、異文化R&Dマネジメントを通した文化的シナジー創造のモデルについて検証するには、経営的および科学的知識を創造し、また移転することができるような埋め込み戦略の詳細を調査するケーススタディが必要である。
  • 丸山 美沙子
    セッションID: 113
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     1990年代以降,国内製造業は国際競争下に晒されるようになり,危機的状況におかれた中小零細企業の対応策が模索されるようになった.多くの研究によって,産業集積地域の優位性が再認識されてきたが,企業間が連関を形成し補完関係を成すための具体的方法を示した研究は少ない.
     大都市産業地に関しては,かねてより「産業地域社会」や「仲間取引」などの存在が指摘されており,それが集積地域の優位性の源泉であるといわれてきた.これを受け丸山(2007)では,東京都板橋区を事例に中小企業の新規取引連関の形成過程を調査し,かつて地域内に存在した協力会や中小企業グループ,現在までの取引連関が,新たな取引連関の形成に作用していることを示した.しかしながら,近年まで大企業が存在し,ピラミッド型の生産体系が形成されていた板橋区は,地方産業地域に近い状況にあるといえる.これに対し,多数の研究が行われてきた東京城南地域では,地域の大企業が1970年代後半に区外移転しており,優位性をもたらす要因が異なることが予想される.
     そこで本報告では,東京城南地域の核心地である東京都大田区を事例として,当地域に立地している企業がどのような補完関係を形成しているのか,また,その関係がいかなる要因によって形成されているのかを明らかにすることを目的とする.
    2.大田区の工業集積
     大田区は明治期までのり養殖と麦わら細工の盛んな地域であったが,1923年,関東大震災後の帝都復興計画により,大森地域が工業地域に指定され,都市部にあった工場が多く流入した.昭和期,相次ぐ戦争により,軍需工業地域として飛躍的に発展を遂げた.1962年,のり養殖が廃業し,広い干場跡地に多くの工場が立地することとなったが,1970年代後半以降,大規模企業が区外へ移転し,中小企業は業種展開を迫られる.さらに,2度のオイルショックを受け,中小企業は一社依存型を脱却し,特定の加工分野へ特化するという形態を取った.1985年以降はNC機械の積極的な導入など,多種少量・短納期・高精度を特徴する地域として知られている.近年の工場数の減少は激しく,一時は9000以上あった工場数は,現在4000社を下回っていると見られ,高齢化・後継者問題などから,企業数の減少は今後も続くと予想されている.
    3.中小零細企業間の補完関係とその形成過程
     取引連関の範囲を見ると,受注先が全国に広がっているのに対し,外注先は区内連関が多くを占めている.中小企業のなかでも,比較的大きいとされる15人以上規模の企業の形成する連関がかつての大企業の役割を果たし,区内連関が維持されている.しかし,このような企業のうち一部では,生産コストの問題から外注先として地方企業を積極的に選択しているというケースも見られた.
     中小零細企業にとっては,営業が難しい点と,短納期が要求されるという点から,近距離の企業との連携が重要になる.地域内のつながりが強い要因の一つとして,大田区に多数ある工業会など各種団体の存在が考えられるが,企業数の減少に伴い,現在の活動は活発ではない.また,対象企業においては,そのような団体に所属している企業が少なく,これまでの受注先・外注先との関係の中で,新たな取引相手を探していくという行動が多く見られた.
     一方,大田区産業振興協会が果たす役割は大きい.特に新規外注先との取引は,大田区の紹介によって始まっている事例が多く,近年大田区に寄せられる外注先紹介の問い合わせ件数は増加傾向にある.
     近距離に立地する企業間であっても,取引を始める際は知人の紹介をうける場合が多い.このことは,信用ある人からの紹介を受けない限り,新たな企業との取引を始めることは難しいことを示しており,「紹介してくれる相手との関係性が良好である(=個人間の信頼関係がある)」という要素が,集積の利益に大きく関わっていることを示している.
    【参考文献】
    丸山美沙子2007.大都市機械工業地域における新規取引連関の形成過程-東京都板橋区の中小企業を事例として-.地理学評論80:121-137.
  • 神奈川県南足柄市を事例として
    外枦保 大介
    セッションID: 114
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     2000年代に入り,日本の製造業は新たな局面を迎えている.競争力の源泉として,イノベーションの促進や研究開発能力に対して従来以上の注目が集まっている.このため,近年の企業の事業再構築は,単なる生産拠点の転換だけにとどまらず,研究開発拠点をも含めた大掛かりなものになりつつある.中核企業の動向が地域に強い影響を及ぼす企業城下町では,企業の生産体制の変化によってこれまでも変化を遂げてきたが,このような製造業の環境変化によって企業城下町もまた新たな状況へと変化しつつある.
     そこで本発表では,生産拠点・研究開発拠点ともに再構築が進展している,富士フイルム株式会社(以下,富士フイルム)の企業城下町,神奈川県南足柄市を事例として,中核企業の事業再構築とその地域的影響の実態を解明する.地域的影響では,南足柄市において富士フイルムの事業再構築の影響を強く受けたと考えられる,下請企業,地方自治体,従業員という3つの主体について検討した.

    2.南足柄市における富士フイルムの事業再構築
     2000年代に,富士フイルムは,不振に陥った写真感光材料事業のリストラを推進してきた.南足柄市にある神奈川工場足柄サイト(以下,足柄サイト)は,創業以来,写真用フィルムや印画紙などの写真感光材料の主力生産拠点であったため,大幅なリストラに迫られた.当工場では人員削減策として,社員の早期退職を進めるとともに,写真感光材料の製造ラインのうち一部の製造工程を子会社に移管した.
     一方で,富士フイルムは,写真フィルム事業で培われた精密薄膜を塗布する技術を応用し,事業構造の転換を推し進め,「第二の創業」を目指している.その筆頭に上げられるのが,TACフィルムをはじめとする液晶部材である.1990年代後半以降,静岡県吉田町(吉田北工場)や熊本県菊陽町(熊本工場)などにおいて液晶用フィルムの量産化が開始された.さらに,TACフィルムの新工場が足柄サイト内に建設されており,2008年に稼動を開始する.製造ラインの増設が続く熊本工場では量産機能を担う一方で,足柄サイトの製造ラインでは,高付加価値な製品の開発が計画されている.
     もう一つの南足柄市周辺における富士フイルムの最近の動きとして,研究所の新設がある.2006年,神奈川県開成町に研究開発の戦略拠点として「富士フイルム先進コア研究所」が新設された.
     このように南足柄市(および開成町)の拠点は,従来,主力事業である写真感光材料の生産を担うという意味で企業の核であったが,現在では高付加価値な製品を創出する生産・研究開発拠点という意味で企業の核となっている.

    3.事業再構築の地域的影響
    (1)下請企業
     写真感光材料の製造工程は,富士フイルム内において完結するため,自動車や電機産業のような下請構造は見られないが,構内外注業務に従事する企業を中心に下請企業が足柄サイト周辺に集積している.
     下請企業は,富士フイルムの事業再構築の影響を強く受けており,労働集約的な工程に多く関わってきた企業ほどその影響は大きい.研究開発能力の向上や富士フイルム以外の企業との取引の構築など依存脱却の取組を早い段階で進めた企業は,事業再構築の影響を可能な限り小さく留める事ができた.
    (2)地方自治体
     南足柄市は,1990年代まで富士フイルムからの税収が莫大であったため,財政状況は極めて良好であった.しかし,2005年の法人市民税が最盛期の5分の1にまで減少するなど富士フイルムの事業再構築の影響を強く受けている.このため,新たな税収確保の取組みとして,2006年3月に「足柄産業集積ビレッジ構想」が策定され,大型の投資をひきつけるための政策整備が進んでいる.
    (3)従業員
     事業再構築によって,写真感光材料製造ラインの子会社移管など労働集約的な雇用が削減された.一方,新研究所の新設に伴い研究員数が増加し,南足柄市内に独身寮が新設されている.
  • 愛媛県新居浜市を事例として
    森嶋 俊行
    セッションID: 115
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     1970年代以降,先進工業国において産業構造の大転換が進む中,にわかに注目を浴びるようになったのが産業遺産である.これは,古い工場や鉱山跡地など建造物や土木構造物,機械類,これらに関連する社会活動のために使用された場所などを指す概念で,脱鉱工業化の進んだ欧米各都市において,脱鉱工業化後の「まちづくり」や,主にヘリテージツーリズムに活用することによる地域振興のために活用されている.
     日本においても,1990年代以降,政府及び地方自治体がしばしば「産業遺産」という用語を取り上げ始めるようになり,現在では「産業遺産の保存と活用」を政策の柱に掲げる地方自治体も存在する.
     この産業遺産は,文化財の一種とみなすこともでき,国,地方自治体,そして,地域住民はこれをアイデンティティのよりどころの一つと考え,保存運動や観光化の流れの中で様々な価値付けを行おうとする.この中にあって,産業遺産がその他の文化財に比べて持つ大きな特徴は,「近代」との深いつながり,そして,上に述べた主体に加え,「企業」と言う主体が,そのあり方に深く関わってくる点である.
     今後,先進国工業の再編が進み,経済の中で第三次産業の比率が高まるにつれ,企業と地域,特に地域住民の関係はより多様化し,企業の地域への関わり方についての議論はより深められるべきものであると考える.本稿では,産業遺産のあり方が,地方自治体と住民,企業の産業遺産に対する考え方によって規定されることを示し,これらの関係について論じたい.
    2.研究対象事例
     本稿の研究事例,愛媛県新居浜市はかつての別子銅山が位置した鉱山都市である.江戸時代に「旧別子」と呼ばれる山間部にはじまった別子銅山は採掘が進むとともに,1973年の閉山に至るまで,何度かより標高の低い地区に採鉱中心地を移動させ,これに付随して鉱山町も移転していった.
     1990年代以降,新居浜市は産業遺産を用いた地域振興策を試みる.その中心は,20世紀前半に採鉱本部のあった地に新たに建てられたレクリエーション施設である.かつて鉱山を経営してきたグループ企業は,これに一部出資し,また土地を貸与しているものの,経営に関わることはない.
     さらに標高の高い江戸時代の採鉱中心地は既に無人の地区となっている.新居浜市は産業遺産を巡るルートにこれらの廃墟を組み込む一方,かつての経営者はここに植林事業を行い,自然に帰そうとしている.
     海に近い平野部にも「産業遺産」とよばれる物件は存在し,新居浜市とかつての経営者は博物館を運営している.一方で,市街地の中にあるこれらの物件の中には,社宅や工場など,現在に至るまで利用されている物件も多く,これらを活用したいと考える市と現在の利用を鑑みてこれを産業遺産とみなさないかつての経営者の間に,産業遺産に対する考え方の齟齬が見られる.
    3.おわりに
     今後,近代を再評価する,と言う試みがますます盛んになるとともに,産業遺産への関心はさらに高まると考えられる.この時,現実に産業遺産を所有し,経済的な活動を行っている企業の考え方は,産業遺産の保存と活用を行う上で,その方向性を巡る重要な要因となるであろう.産業遺産の保存と活用の動きは政府,地方自治体と住民,企業の関係を与える上で重要な視角を与えることになると考える.
  • 中澤 高志, 阿部 誠, 石井 まこと
    セッションID: 116
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

    1.研究の目的
     本報告の主な目的は,高校卒業後ただちに就職という進路を取る若者がもはや少数派となった現状において,専門高校卒業生が地域労働市場においてどのような位置づけにあり,彼/彼女らがどのような職業キャリアを形成しているのかを明らかにすることである.
     雇用形態が多様化し,労働市場が流動化する中で,近年「エンプロイアビリティ(Employability)」という概念が注目されるようになった.厚生労働省は,エンプロイアビリティを「労働市場における能力評価,能力開発目標の基準となる実践的な就業能力」と定義し,その中核をなす労働者個人の能力については,A:職務遂行に必要となる特定の知識・技能などの顕在的なもの,B:協調性,積極性等、職務遂行に当たり,各個人が保持している思考特性や行動特性に係るもの,C:動機,人柄,性格,信念,価値観等の潜在的な個人的属性に関するもの,から構成されるとしている.
     本報告では専門高校を卒業した若者の職業経験をふまえ,今日の専門高校における教育が生徒のエンプロイアビリティ向上にどのような形で貢献しているのかについても議論したい.
    2.調査概要と対象地域
     報告者らは,現役の教諭から卒業生を紹介してもらい,大分県立J工業高校を卒業した20歳代の男性10人と,大分県立K商業高校を卒業した20歳代の女性10人に対して1時間30分~2時間30分程度のインタビュー調査を行った.
     J工業高校は大分県北部の中津市郊外に立地する.中津市では1970年代後半から自動車部品メーカーの進出が見られたが,2004年12月に完成車メーカーが組立工場の操業を開始したことにより,自動車関連産業の雇用がいちだんと大きな位置を占めるようになった.K商業高校が立地する大分市では,新産業都市の指定以降,工業化が進んだが,就業者数に占める製造業の割合は低下している.大分市は人口47万人を擁する県庁所在都市であるため,一定の中枢管理機能や商業集積が存在し,高卒の女性は主に事務職や販売職に就いている.
    3.職業経験とエンプロイアビリティ
     J工業高校卒業生のうち,卒業後ずっと同じ仕事を続けている者は3人であった.この3人は,仕事の中で順調に職業能力を身につけ,仕事にもやりがいを感じており,現職の継続を希望している.完成車メーカーで組立に従事している者は4人おり,いずれも正規雇用であるが,3人は中途採用であり,うち2人は高卒の時点で正規雇用の職が決まっていなかった.逆に高卒と同時に完成車メーカーに採用されたものの,現在はアルバイトをしている者が1人いた.J工業高校は初職への定着率が大分県内の高校一般に比べて高い方であるというが,それでもかなりの労働移動が認められる.完成車メーカーの進出は,地元での就業を希望する者にとって雇用の受け皿となっている.しかし仕事の満足度は受け持つ工程やラインによって異なっており,それが勤続に対する考え方にも影響を与えている.
     溶接や三角法など,具体的な内容を挙げて,工業高校での学習内容が役に立ったと述べた者もいたが,工業高校での学習内容は直接的には役に立っていないという意見が多かった.一方工業高校で学んだ結果として,彼らが製造業の職に就くことを半ば自明視していることが伺えた.つまり工業高校の教育は,先に述べたエンプロイアビリティのAの部分を高めることよりも,むしろBあるいはCの部分に当たる,工場で働く心構えを持った労働力を地域労働市場に供給することに貢献しているといえる.
     K商業高校卒業生は,すでに結婚によって退職した者を含め,全員が高卒時に就職した企業に勤め続けていた.就職先は地元の中小企業が中心であり,初任給は10万円台の前半が普通である.彼女たちは,商業高校への進学を選んだ時点で,高卒後の進路を就職と決めており,地元で事務職や販売職に就くことを想定していた.職場において専門的な職業訓練を受ける機会に恵まれた者を除き,結婚後は退職して子育てに専念することを希望している.
     商業高校では簿記などの資格の取得が大きな学習目標となるが,そうした資格が現在の仕事に直接役立つことは少ない.しかし商業の科目を通じて,職場で使われる言葉や会社内での資金の流れがある程度分かっていたので,職場に入ったときのとまどいが少なかったという意見が共通して聞かれた.工業高校と同様に,商業高校も知識や技能よりもむしろ意識的な面で地域労働市場の要求に合致する労働力を供給する役割を担っていると言える.
  • 社会ネットワーク分析を用いた関係構造の把握
    與倉 豊
    セッションID: 117
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     現在,ネットワークを鍵概念として,産業集積へのアプローチを試みる研究の蓄積が,欧米のみならず我が国においても進んでいる.産業集積地域における成長やイノベーションの源泉として,数多の研究者がネットワークを欠かせない概念として採用しており,学際的な研究の進展も図られつつある.
     本研究では,近年,飛躍的な発展が遂げられている「社会ネットワーク分析」を用いて,産業集積地域における取引関係の構造的側面にアプローチを試みる.社会ネットワーク分析を用いた組織間関係の実証研究では,これまでのネットワークの定性的な記述を超えて,アクター間の関係性を計量的に分析・測定でき,さらにグラフィカルにそれらを表現することが可能となる.従来のネットワークの議論が二者(ダイアド)関係の量的・質的検討が中心となっているなかで,社会ネットワーク分析のようなネットワーク構造全体からの検討は,示唆に富んでいるところが多い.

    II 分析データ
     大規模ネットワークの分析データを作成する際に,経済産業省が2006年2月に実施した「工業集積内の企業行動の実態に関するアンケート調査」を利用している.同調査表では,我が国の「ものづくり」を支える金型製造、鋳鍛造などの基盤的技術を有する企業の集積である「A集積地域」25地域内に立地する対象事業所のうち,605社(発送数5,257社,回収率11.5%)からの回答結果が得られている.本研究では各事業所の取引先上位5社が記名された調査表結果を利用し,それらを電子データ化している.そして,集積地域ごとにネットワーク指標の算出と取引関係の視角化を行い,産業集積地域における取引メカニズムの解明を試みている.

    III 分析手法
     本研究では企業間に取引関係が有る場合に,紐帯(リンク)が存在すると考える. そして,ネットワーク統計分析ツールであるUCINETを用いて,ネットワークの基礎的統計指標を算出し,さらに取引関係ネットワークの構造をPajekによって可視化させている(図1).それによって,複雑・多様な産業集積地域の類型化を行っていく.
     また,既存の社会ネットワーク分析を用いた研究では,どのようにアクターが空間的に立地するか,その空間的次元について正確に分析がなされてこなかったといえる.そこで,本研究では取引ネットワーク構造および取引関係において中心的な機能を有する「ハブ」を地図にプロットすることによって(図2),集積内・外との関係性を集積地域ごとに比較検討する.
  • アクターネットワーク理論の視点から
    中村 努
    セッションID: 118
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I.はじめに
     従来の情報通信技術(ICT)に関する研究では、ICTを利用して顧客を囲い込む企業の論理が議論された。地理学では、大企業が先行してICTを利用したことを背景として、ICTの導入による企業行動の変化を通じた空間的影響が検証されてきた。特に、企業間の情報ネットワーク化が進展するにしたがって、持続的な競争優位を獲得するためのICTの有効性と空間的インパクトの関係が論じられてきた。
     しかし、情報システムのもつ技術的特徴やその優位性を理解すると同時に、企業が顧客との取引を拡大するうえで、ICTを利用する顧客の行動論理や、その背景となる制度的変化を踏まえた考察が必要である。そこで本発表では、事例分析の際の理論的枠組みとして、社会と技術を等価に取り扱い、関係論的な見方を提供するアクターネットワーク理論(ANT)を適用することによって、ICTと社会関係との相互作用とネットワークの空間スケールが定義される方法を明らかにしたい。
     本研究では、医薬品卸がICTを活用して、病院から保険薬局に医薬品の販売先を移行した取組みのメカニズムを、病院、地域薬剤師会、医薬品卸の行動論理に注目して検証する。

    II.医薬分業体制の構築過程
     国は医薬分業を推進することによって、医薬品の過剰投与や医療費の高騰を抑制しようとしている。一方、医薬分業を開始するにあたって、特定の地域における取組みが求められるのは、大規模な病院が処方せんを発行した場合である。規模の大きい病院は、多数の患者に多種類の医薬品を記載した処方せんを発行するため、院外の保険薬局は、従来扱わなかった医薬品を扱う必要が生じる。しかし、個々の保険薬局は経営規模が小さいため、新たに処方される特殊な医薬品を在庫するためのコストが経営の重荷になった。
     川崎市では、1997年に聖マリアンナ医科大学病院が全診療科において医薬分業を実施した。川崎市では、保険薬局に共通した課題を解決するため、北部の4区薬剤師会が医薬品卸と利害調整する役割を担った。地域薬剤師会は、医薬品卸から保険薬局にとって有利な配送条件を引き出して、保険薬局への医薬品の販売体制を保障した。一方、医薬品卸A社は、医薬分業を薬局との取引拡大の機会と捉えて、薬剤師会の要望に応えるため、自社開発の携帯型発注端末を組み込んだ小分け医薬品の配送体制を構築した。こうしたA社の取組みによって、保険薬局は当日服用する医薬品を即座に発注できるようになった。

    III.各主体の行動論理
     病院は医薬品供給体制の再構築のきっかけとなる意思決定を行っているが、医薬分業を円滑に進めるため、勉強会を開催する場を提供するとともに、自らも処方内容を保険薬局に伝達する役割を果たした。
     地域薬剤師会は会員薬局の利害団体として活動し、会員薬局も自らが所属する薬剤師会に利害を代表する役割を求めた。外来患者の受療圏が川崎市北部で完結すると想定した4区薬剤師会の役員は、A社との交渉を通じて、同地域の小分け配送体制を確約させることで、保険薬局に有利な配送条件を保険薬局に提供した。
     一方、医薬分業のビジネスモデルを構築したかったA社は、同事業を医薬分業における情報システムの有効性を検証する機会と捉えて、コストがかかっても支援する意義を見出していた。
     このように、医薬分業を実現しようとした病院の方針をきっかけとして、短期的な環境激変が予想される場合、薬局間の競争は回避され、医薬品の安定供給に向けて、特定の地域における協調行動が展開される。
     ICTが受容される地域スケールは、ICTを利用する薬局の利害を代表する地域薬剤師会の意思によるところが大きい。地域薬剤師会は複数の医薬品卸を競わせることで有利な配送条件を引き出そうとした。一方、医薬品卸は他社との競争に勝つため、地域薬剤師会の管轄範囲における配送体制を遵守する必要があった。このことから、ICTが受容される地域のスケールは、より大きなパワーを有する地域薬剤師会の意思によって定義されている。ANTを適用した結果、ICTの受容過程の背後には、空間スケールの定義をめぐる複雑な権力関係が影響する一方、ICTは新たな供給体制の安定性を獲得するためのアクターとなっていた。
  • Józsefváros区Magdolna街の事例
    加賀美 雅弘, コヴァーチュ ゾルターン
    セッションID: 201
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     1990年代以降,ハンガリーの首都ブダペストにおいては,都市の再生事業が活発化している。これは,行政や経済の中心地としての都市整備を念頭に置いたものであるが,その一方で,市内に多くのロマが集住する地区があり,その生活環境の改善と彼らの社会経済的地位の向上も大きな課題にあげられている。この発表では,ハンガリーの首都ブダペストの特定地区にロマが集住することと,体制の転換とともに激変しつつある都市構造とのかかわりを,特に都市再開発事業に注目して考察する。
     ブダペスト市街地における居住者の社会経済的水準や生活環境には著しい格差がみられる。とりわけ19世紀後半から20世紀初頭に市街地化した地区には,暖房やトイレなど基本的インフラの整備が遅れ,住宅の傷みが激しくファサードが劣化した住宅が多く,所得が少なく,失業者や年金生活者が集住する傾向がみられる。
     Józsefváros区にもそうした住宅が多くみられ,早急な改修が求められているが,ここにはロマが集住していることから,彼らの生活環境の整備も大きな課題になっており,住宅の改修事業を推進するために,ブダペスト市とJózsefváros区の出資によって設立された再開発会社Rév8が主導となって事業の立案と実施がなされている。
     会社の事業は大きく二つに分けられる。(1)老朽化が激しく,生活環境がきわめて悪い建物をすべて撤去して土地を新しい投資家に販売する。これは事業全体の財源を確保するために不可欠であり,これによって大規模な取り壊しが行われ,まったく新しい市街地が建設される。(2)土地の売却によって得られた資金を用いて他の再開発事業を実施する。これは19世紀の住宅を段階的に改修するものであり,居住者は入れ替わらず,住宅所有者も変更しない。
     具体的な事業としてMagdolna地区のプロジェクトをみてみよう。この事業地区はJózsefváros区の中央部に位置する約34ha,人口は12,068人(2001年)の区域である。都心からわずか2kmほどの位置にありながら,市内でも屈指の貧困地区とされている。1919年までに建てられた建物が地区全体の建物の88%を占めていた。しかも,そのほとんどは建てられた当時の施設や間取りのままであり,改修がなされてこなかったために老朽化が著しい劣悪な居住環境になっている。安い賃貸料を求めて居住する低所得者層が長期にわたって居住してきた。
     これらの住宅のほとんどは,社会主義時代には他の地区の住宅と同様,国の管理下におかれていた。それが政治改革とともに区に移管されたが,老朽化が激しい住宅の買い手はつかず,依然として区が所有している。賃貸料は安価なままに据え置かれている。
     居住環境には大きな問題がある。住宅密度が高く,低所得者層が中心で,教育水準が低い。対象となっている住宅の住民はほぼ100%ロマが占めている。他の地区の住民との接触が少なく,衛生や安全の問題を抱えた地区として,再開発が望まれている。
     しかしその一方で,住民の居住暦が比較的長く,土地の住民としての意識を比較的強く持っている点を考慮せねばならない。住民同士のつながりもあり,一定のコミュニティを構築している。現存の建物を撤去する再開発事業を実施してしまうと,新設住宅には低所得のロマは入居することができず,コミュニティは崩壊してしまう。当該地区からロマを追い出し,地区の生活環境を高めることはできるが,ロマ自身の生活改善にはつながらず,ロマ問題の解決にならない。
     そこで建物の撤去を行わず,住民の転居を伴わない改修事業が企画されている。改修事業は居住者の要望のできるだけ救い上げ,住民が居住したままで住宅の整備がはかられようとしている。また公共空間の設営も重視され,たとえば既存の広場の緑地化,散歩道や広場の造成など住民が利用しやすい空間へと整備が進められている。コミュニティセンターの構築も重要な作業課題であり,地域コミュニティの強化や地区の安全・防犯に向けた情報交換の促進,企業集団の形成などが期待されている。
     ロマが居住する点を考慮した事業も展開されている。学校教育を十分に受けていない住民が多く,失業率がきわめて高いことから,幼稚園や小学校を整備し,読み書きや計算など基本的な授業プログラムの実施が計画されている。また成人向けの再教育プログラムも構想に加えられている。
  • 小林 浩二
    セッションID: 202
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     1990年以降、東ヨーロッパは、体制転換に伴う市場経済への転換、その後のEU加盟によってまさに”トランスフォーメーション”と呼ぶにふさわしい大きな変化を遂げている。このトランスフォーメーション期における東ヨーロッパの特色は何だろうか。最も大きな特色のひとつは、大都市が著しく発展したことである。もちろん、スロヴァキアの首都、ブラティスラヴァも例外ではない。この要因として、とくに、ブラティスラヴァがスロヴァキアの首都になったこと、また、東西ヨーロッパを結ぶ拠点都市(gateway city)となったことをあげることができる。 まさに、ブラティスラヴァは、東ヨーロッパ経済圏の一部、しかも東ヨーロッパの核になりつつある(Dostal and Hampl)。しかしその一方で、ブラティスラヴァには問題も顕在化してきた。
     東ヨーロッパの特色のひとつは、社会階層による所得格差の拡大、それに伴う地域格差の拡大が進んでいることであるが、ブラテスラヴァでも同様である。その典型が、ブラティスラヴァ周辺部における新たな高級住宅地の形成である。
     本発表では、1990年以降のブラティスラヴァの変化を捉えるとともに、新たな高級住宅地の形成についてその実態を明らかにしたい。併せて、ブラティスラヴァのかかえる問題についても若干言及してみることにしたい。
    2.ブラティスラヴァの変化
     1980年代終わりのブラティスラアヴァは、つぎの4点に特色づけられた。1)都市の中心部は、機能的にもかつ形態的にみても未発達だった。2)都市の周辺部には、社会主義時代に建設された住宅集落が広範囲に立地していた。3)都市の中心部に近接して、大きな面積を占める工業地区が立地していた。4)周辺部には農地及び林地が広範に分布していた。
     1990年以降、ブラティスラアヴァは著しく変化したが、コレツKorecは、その変化をつぎの6点にまとめている。1)都市中心部で商業化が、また、都市中心部周辺で土地利用のより集約的な利用が進行した。2)都市化域内に立地していた工場地区などの生産地区が活性化した。3)かつての住宅団地内に様々なビジネス活動が展開するようになった。4)高級住宅が建設されるようになった。5)ハイパーマーケット(大型のスーパーマーケット)、スーパーマーケット、専門卸売店、大型のショッピングセンター・サービスセンターが建設されるようになった。6)都市域の主要道路沿いの地区がより集約的に利用されるようになった(Korec 2004)。コレツの言及ならびに最近のブラティスラヴァの発展を加味すると、今日のブラティスラヴァの特色は、つぎの4点に要約することができよう。1)ビ ジネス、金融、サービス、小売り・卸売り施設の集積(とくに中心部)2)新たな商業中心地の形成 3)新たな機能地区(行政・経済・文化・住宅などの複合機能を有する地区)の形成 4)新たな住宅地区(とりわけ高級住宅地区)の形成。
    3.新たな高級住宅地区の形成
     高級住宅地区は、ブラティスラヴァ周辺部に飛地的に建設されつつある。その代表として、北部のツァホルスカー・ビストリツァZahorska Bystrica、北西部のリムバハLimbach、南部のルソヴツェRusovceをあげることができる。これらの高級住宅地区は、つぎのような特色を有している。1)ブラティスラヴァの中心部からほぼ10~20 km圏内の旧集落に近接した丘陵地(林地)に建設されている。2)広い敷地を有し、戸建て住宅が多い。3)居住者は、ブラテスラヴァから転居してきた人が多い。新たな高級住宅地区の形成は、地域を活性化させる一方で、つぎに述べるような問題も惹起させている。
    4.ブラテスラヴァの光と影
     1990年以降、ブラティスラヴァは、中心部を中心としたビジネス、金融、サービス、小売り・卸売り施設の集積を初めとして、新たな商業中心地、機能地区、住宅地区の形成が進み、著しく発展してきた。こうして、従来のモノトーンな都市景観は一変し、多彩で魅力的になった。
     しかしその一方で、問題も顕在化してきた。高級住宅地区の形成に代表されるように、ブラティスラヴァの周辺部では、住宅の建設ラッシュが続いている。ブラテスラヴァでは、社会主義時代に周辺部に住宅が多く建設されたことに加えて、市域がドナウ川によって南北に分断されており、両者を結ぶ交通は橋梁を利用せざるを得ない。こうした事情が重なって、ブラテスラヴァの交通渋滞は深刻になっている。交通事故も増加してきた。また、インフラの整備が急激な都市化に追いつけず、居住環境が悪化しているといった問題-たとえば、水供給、下水処理、道路の整備が十分でない-も顕在化してきた。さらに、高級住宅地区の形成が、貧富の拡大、それに伴う地域格差の拡大を物語るものであることにも注目しなければならないだろう。
  • 川田 力
    セッションID: 203
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     1980年代後半の東ヨーロッパ諸国の政治改革、1995年のオーストリアのEU加盟、2004年のEUの東方拡大は、かつての東西ヨーロッパの境界に近接するオーストリア最大の都市であるウィーン市に様々な影響をもたらした。とくにEUの拡大による中央ヨーロッパ地域の再編は国際的な都市間競争や都市間連携を促進する方向に展開しつつあり、こうしたなかで、ウィーン市は中央ヨーロッパ地域の中核的地位を維持・獲得するために都市開発や都市再生プロジェクトを積 極的に展開している。
     また、上述の社会情勢の変容はウィーン市の人口動態にも変化をもたらした。1980年代前半に12万人前後で推移していたウィーン市の外国人人口は1990年代前半にはほぼ倍増し、2005年には30万人を超えた。この過程で、公的な住宅政策の対象外となる外国人の居住地分離が進展し、ウィーン市の内部市区を取り囲むギュルテル(Guertel)と呼ばれる環状道路の付近の1900年代初頭に建設された労働者向け集合住宅が密集している地区などで外国人居住者の割合が高くなっている。こうした地区では、建物自体や設備が老朽化しているばかりでなく、部屋が狭小かつバスルームがなくトイレも共用の物件となっているなど居住環境が劣悪なため改修・改築が不可避な集合住宅が多く、さまざまな都市再生プロジェクトの対象地域となっている。しかし、上述のようにこれらの地区ではエスニック集団によるコミュニティが形成されていることが多く、事業実施にあたってそれらのエスニック集団への配慮が必要となる。
     本研究の目的は、ウィーン市のブルンネン地区を例に、ウィーン市の都市再生プロジェクトの動向を確認するとともに、プロジェクトへの住民参加とその過程におけるエスニック集団の関与の実態を明らかにすることである。
     ブルンネン地区はギュルテルの外側に隣接する16区(Ottakring)の東端に位置する。当該地区には東西方向には3路線の路面電車が、南北方向には地下鉄6号線が走っており交通の利便性が高い。また、地区の中心を南北に貫くブルンネン通り(Brunnengasse)は週日は食料品や衣料品などを扱う市がたつ商業地区となっている。当該地区は1984年に老朽化した建築物が多いことから再開発地区に指定されたが、90年代に入るとスラム化傾向が確認される地区として1996年からのEUの補助金を受ける都市再生プロジェクトURBAN Wienの重点整備対象地区の一部に組み込まれた。2001年からはURBAN Wienの後継プロジェクトとして、ウィーン市が指定したURBAN Plusプロジェクトのなかで住民参加型の地区再生計画が検討・立案された。
     再生計画立案においては公共空間の有効活用、建築物の更新、市場の整備などが重点課題とされた。計画案は、ウィーン市・16区・ブルンネン地区の3段階で平行して検討されたが、ブルンネン地区ではエスニック集団を基盤とする非公式な商業者組織およびその代表者が一定の役割を果たした。また、広報紙の配布・郵送等を通じて非公式な参加を促進するためにブルンネン地区ネットワークが組織され情報公開が図られた。
     当初のプロジェクト立案から住民参加による地区再生計画の立案まではスムーズに進展したが、計画の実現に際しては現実的課題が残された。また、商業者組織を通じてエスニック集団の参加がなされたものの、深刻な問題を抱えている外国人居住者の参加はあまりみられず、行政当局および地区ネットワークのより積極的な広報活動が求められる。
  • ドルトムント市の事例
    山本 健兒
    セッションID: 204
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     1999年以降,ドイツで実施されている「社会的都市プログラム」の意義を明らかにした山本(2007)で,具体的事例に即した研究の必要性に言及しておいた.この報告は,ドルトムント市を事例として,グローバリゼーションとともにドイツで進行してきたとされる都市内の社会的空間的分極化の実態を明らかにすることを目的とする.この作業は,それを克服するために実施されている「社会的都市プログラム」を理解するための前提作業である.ドルトムント市を調査対象地として選んだのは,その政策が積極的に推進されてきているからである.
     表1が示すように,ドルトムント市の国籍別民族集団間の空間的セグリゲーションは,グローバリゼーションの進展にもかかわらず長期的にみて低下した.同市統計局の資料をもとに計算したところ,「社会的都市プログラム」が推進されているノルトシュタットの外国人比率はすでに1987年に32%強に達していたし,これは市平均の3.6倍だった.しかし1995年には市平均の3.3強倍に,2005年には3.3弱倍に微減している.空間的セグリゲーションの伝統的測定手法によれば,ドイツ人と外国人との間の空間的分極化は和らぐ傾向にあったことになる.
     ではなぜ,社会的空間的分極化が進行したとする認識が生まれたのだろうか.その理由の一つは,特定街区の人口に占める不利な状況下にある住民の比率が高まったからである.ノルトシュタットの外国人比率は1995年に41%を超えており,2005年もほぼその水準にある.しかもStadt Dortmund (2007, 29)によれば,ドイツに帰化した人を含めた移民の背景を持つ住民比率は57.5%に達しており,市平均22.9%の2.5倍である.このような分かりやすい具体的数値が,社会的分極化の激化という認識につながるものと思われる.
     ちなみに,人口に占める失業者や社会的扶助受給者の比率をみると,ノルトシュタットはドルトムント市全体の平均に比べて2倍前後の高い比率を示しており,このような都市区はほかにない(表2).しかも,市の平均的比率に対するノルトシュタットの比率の乖離度は,失業者数でも社会的扶助受給者数でも,2000年頃に比べて2004年に若干高まった.
  • ミュンヘンを事例に
    伊藤 徹哉
    セッションID: 205
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I. 研究目的・研究方法
     都市再生政策は,日本でも1990年代以降に注目されつつあり,欧米の事例が多くの分野で紹介されている。しかし,政策実施に伴う空間変容の実態は必ずしも十分に検討されてはいない。
     本研究は,都市再生政策が早期から実施されているドイツのミュンヘンを事例として,都市再生政策の展開過程を整理し,都市空間の形態的・社会的変化という視点から1980年から2000年までの都市再生の実態を明らかにすることを通し,都市再生政策が空間再編において果たす役割を議論することを目的とする。
     都市再生政策に関する分析では,ミュンヘン市都市計画建築局 Referat für Stadtplanung und Bauordnung(以下,都市計画局)の報告書と同市統計局の『統計年鑑』を利用し,また,2003年5月に著者が実施した都市計画局での政策内容に関する聞き取り結果を補足的に用いる。建築物の形態的特徴に関しては,都市計画局が管理する1980年末と2000年末の建築物現況データ,住民属性に関しては同市統計局が管理する1995年末と2000年末のデータ,また,2003年11月に実施した景観観察の結果を利用する。

    II. 都市再生政策の展開過程
     第2次世界大戦後のミュンヘンにおける社会動向および建築環境の変化を概説し,さらに2000年までの整備過程を明らかにする。当市では,インナーエリアの衰退,良質で安価な住宅の不足などを背景としながら,住宅供給を目的とする間接的な対策の一つとして都市再生政策が導入され,既成市街地の面的改良事業として都市更新事業が整備された。2000年までに個別の既存住宅の改良を促進するための施策が実施されたほか,土地利用に関する規制緩和や税制優遇が行われ,それらを通じて積極的な公共用地の払い下げと開発が郊外を中心に進められるとともに,都心周辺でも中央駅に至る鉄道跡地など社会的休閑地での開発が実施されている。

    III. 形態的・社会経済的側面からみた都市再生
     建築物の形態的側面からみると,都市再生の進展には都市内での地域差が存在しており,都心2~4km圏,中でも東西の都市更新事業の実施区域や都市政策上の重点開発地域である中央駅周辺といった都心周辺において都市再生が活発である。市全体では建築物の延床面積が20年間で大幅に拡大しており,その大部分は郊外での中=低層の住宅,また都心周辺における中=高層の住宅およびオフィスの増加によるものであった。
     建築物の滅失と建築件数を指標とした都市再生の更新度に基づき,既成市街地である都心2~4km圏での空間変容をみると,都市再生が活発である更新度「中・高」は住宅地としての性格を強く維持しているものの,更新度「低」はオフィスへと転換しつつあり,特定地域において業務機能が拡大している。中でも都心2~4km圏に位置する東西の都市更新事業の実施区域や,都市政策上の重点開発地域である中央駅周辺といった都心周辺では都市再生が活発であり,特定地区ではオフィスなどの業務機能が拡大している。特定区域での都市再生の活発さは,公的事業による直接的な開発行為を契機とした,未利用地や低密度利用地における民間投資による開発を反映している。  社会的側面の都市再生では,建物更新が活発である都心周辺の更新度の「中・高」の地域では,ドイツ人人口は維持または増加しており,社会・経済活動の中心である18歳~64歳までの生産年齢人口の割合も高く,社会的再生産が進展している。

    IV. おわりに
     形態的側面での都市再生は,都心2~4km圏の都心周辺において活発であり,とくに公的事業である都市更新事業の事業区域を含み,またそれと隣接する地区において顕著である。こうした形態的変容が著しい地域では,ドイツ人比率が高く,転入人口も継続的に存在するため生産年齢人口が維持されているなど社会的変容も進展している。このように都市再生政策の実施に伴い,事業による直接的な影響として居住地としての魅力が回復するだけでなく,都心周辺という有利な立地条件の下で,オフィスビルなどの開発地として可能性が向上している。社会的な再生産,未利用地や低密度利用地の高度化といった地域経済の再生が,都市再生事業という政策的判断に伴って特定地域で進展しており,選択的な都市再生が進行している。
  • 遠藤 幸子
    セッションID: 206
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     ドイツにおいては、都市が港湾開発を主導してきたが、近年では、連邦、連邦州、都市、企業の力関係によって港湾開発や港湾の発展が決定される状況がみられるようになった。ハンブルク、クックスハーフェン、ニーダーザクセン州を調査対象として分析した。
  • ラインラント・プァルツ州を例として
    山本 充
    セッションID: 207
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     本研究は、ドイツにおける農村の質的変化の実態とその農村地域に与えるプラスの影響を、「ルーラル・ジェントリフィケーション」として把握することを試みた。ドイツ農村においては、郊外化、農村地域への移住が多様なかたちで進展しているが、都市域への近接性が高く、かつ魅力的な農村景観が存在する地域において、都市域からの移住がホワイトカラー層を中心として生じている。彼らの存在が、農村地域における財・サービスの提供の質・量の維持につながっていると同時に、彼らが、「まちづくり」などに積極的に関わることで、農村行政にも影響を与えていることが明らかとなった。
  • その1.パナデス地方の原産地呼称にみる領域設定の論理
    齊藤 由香
    セッションID: 208
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    地理的呼称制度による領域的管理
     近年のワイン市場においては大衆的なテーブルワインの消費量が減りつつある一方で、原産地呼称(DO)つきの良質ワインの消費量が着実に伸びている。消費者の間で特定地域原産の農産物や食料品に対する需要が高まるなか、製品の地理的起源を示し、品質保証を行う地理的呼称制度は、ワイン生産国スペインにおける産地の発展に大きく貢献してきた。
     原産地呼称とは、単に製品がどこでつくられたのかを示すのではなく、その品質や特性が生産地域の地理的環境に由来することを証明するものである。それゆえに、領域的な管理を伴うところに原産地呼称の大きな特徴がある。つまり、生産地域を画定し、その内部における生産活動に諸々の条件を与えることで、品質の維持と向上を実現していく法的枠組なのである。したがって、原産地呼称の認定によってその内部に取り込まれた生産者は、一定の品質保証、産地ブランドの創出といった販売戦略上の利益を得る一方で、原料調達や加工を行う上で様々な制約を受けることにもなる。
     本報告では、こうした原産地呼称のもつ領域性に着目し、その認定に伴う領域設定が生産者に対していかなる利益や制約を与えるのか、これに生産者がどのように対応をしているのかを明らかにする。今回取り上げるカタルーニャ自治州パナデス地方のワイン産業は、「パナデス」、「カバ」、「カタルーニャ」の3つの異なる原産地呼称の管理下にある(図参照)。3つの原産地呼称を比較することで、成立の背景、領域設定の基準、規制の内容、産地イメージにどのような違いがみられるのか、そしてパナデス地方の生産者がこうした差異をいかに利用し、自らの戦略に取り込んでいるかを考察するのが、本報告の目的である。

    3つの原産地呼称の成立と領域設定
     原産地呼称本来の概念に従うならば、その地理的領域は製品に独特でかつ一定の特徴を与えるような地理的条件に基づいて画定されるべきである。ところが、パナデス地方にある3つのDOのうち、これに沿ったかたちで領域が設定されたのは1960年に創設されたDOパナデスの場合のみであった。
     スペイン産発泡性ワインの原産地呼称DOカバの場合、生産地域はいわば後付けのようなものである。「地下倉」の意味を持つカバとは、元来シャンパーニュ製法によって製造される発泡性ワインの総称で、スペイン国内のどの場所でつくられようと「カバ」と呼ばれていた。ところが1986年DOカバが成立すると、この伝統的製法に基づいて製造を行ってきた場所は、生産地域として画定されることになった。
     2001年に誕生した広域産地DOカタルーニャは、もとよりカタルーニャ自治州内で操業するワイン生産者の原料調達に柔軟性を与えるという目的で設立された。このため、その生産地域は自治州内に展開する既存の9つのDOすべてを包括するかたちで設定された。このように、原産地呼称の領域設定プロセスは産地によって様々である。

    3つの原産地呼称に対する生産者の戦略
     パナデス地方のワイン生産者は、自らの戦略に合わせて産地イメージや規制内容の異なる3つのDOを巧みに使い分けている。広域市場での大量販売を重視する大手・中規模企業は、柔軟な原料調達を可能にしかつ市場で認知されやすいDOカタルーニャを積極的に利用している。それに対して、小規模ながらも高品質なワイン生産を手がけ、自社ブランドが強力な販売力をもつ企業にとって、原産地呼称はしばしば販売促進手段というより、むしろ事業展開に対する足かせになっている。
  • その2.カタルーニャの大規模生産者による重層的な事業展開
    竹中 克行
    セッションID: 209
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    EUの地理的呼称制度の基本的特徴
     EUの地理的呼称制度では,域内産ワインは特定地域産良質ワインとテーブルワインに大別され,さらにスペインでは,前者に4つ,後者に2つのサブカテゴリがある(図参照).この制度の下では,生産地や生産方法に関する規定があり,一定品質の保証と商品への豊富な情報記載が認められる特定地域産良質ワインと,規制がほとんどない反面,特定の品質や風味を約束する仕組みがないテーブルワインは,生産者にとって,生産・販売の両面で対照的な意味をもつ.
     特定地域ワインの呼称の中心である原産地呼称(DO)が12産地認定されているカタルーニャ自治州は,スペインでも小規模DOが密集する地域である.カタルーニャに広がる歴史的なワイン生産地域の中に多数のDOを設けたことは,繊細な個性に訴える主として中小の腕利き生産者にとって,産地に対する市場認知度の向上や品質に関する信頼感の醸成を通じて,商品の付加価値と販売力を高める意味をもった.しかし,その反面,従来からの生産地域が小規模なDOに切り分けられたため,広域的な事業展開を行う大手生産者は,原料調達や生産の面でしばしば強い制約を受けることにもなった.

    地理的呼称制度の下における大規模生産者の戦略
     本報告では,DO認定を核とする地理的呼称制度の整備を前に,大規模生産者がいかなる戦略で対応しているのかについて,トレス社,ロケタ・グループ,ウニオ協同組合の3つの事例を通じて検討する.これら生産者の中心事業は大きく異なっており,そのことが地理的呼称制度の下での製品戦略にも強く影響している.
     トレス社は,スティルワイン(非発泡性ワイン)部門におけるカタルーニャの老舗企業である.地元パナデスがカバ生産に特化した結果,黒ブドウの調達に窮した同社は,タラゴナ県を中心とするカタルーニャ西南部の広い地域に黒ブドウを求めるようになった.しかし,DO認定による生産地域の分割が進むなかで,そうした原料調達システムの維持と商品イメージの確保をいかに両立させるかが課題となった.
     カタルーニャ内陸部を拠点とするロケタ・グループは,テーブルワイン事業で飛躍的な成長を遂げたが,市場の高級志向化といった環境変化の下で,商品多様化の必要に迫られた.結果として同社は,自社醸造による良質ワイン生産を始める一方で,テーブルワイン部門の資産を発展的に継承することを選んだ.そこでは,従来からのテーブルワインやDOワインに加えて,地域指定テーブルワインや広域産地のDOカタルーニャなどの枠組みも活用する,複合的な戦略が展開されている.
     タラゴナ県下の協同組合が生産販売体制強化のために結成した二次組合,ウニオ協同組合は,個別組合が醸造した原酒のブレンド・熟成を一手に引き受けてきた.しかし,同県における相次ぐ新規DOの発足は,同組合の事業地域を多くのDOに分割する結果となり,それに見合った生産システムの再構築が必要となった.ウニオは,いくつかのDOから歴史的特権を承認される一方で,DOカタルーニャの活用や加工販売業者としての事業を組み合わせることで,活路を見出している.

    現代のワイン産業における大規模生産者の役割
     地理的呼称制度の下で多くの産地が一種のブランドと化している現在のスペインワイン産業にあって,大手生産者は,しばしば場所との結び付きが弱く,個性の乏しい製品を生んでいるという否定的なイメージで語られる.しかし,製品開発・販売力が不足している地域の資源を有効活用し,品質維持とコスト抑制の両立を実現しているそれら生産者が果たしている役割は,中小の作り手が活躍するワイン産業にあっても過小評価できない.

    [文献]
    齊藤由香(2004):「スペインにおけるワイン醸造業の発展過程とその地域的差異」『地学雑誌』113-1:62-86.
    Saito, Y. and Takenaka, K. (2004): "Development of Wine Industry in Spain: Three Pioneer Regions in Commercial Wine Production", Geographical Review of Japan, 77-5: 241-261.
  • 松本 栄次, 山本 正三, 犬井 正
    セッションID: 301
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     かつては粗放的牧畜地域にすぎなかったブラジル内陸のサバナ地帯(カンポセラード)は、1975年に始まったセラード拠点開発計画(POLOCENTRO)と日伯農業開発協力事業による品種改良などの成果として、世界的な熱帯大豆産地に変貌した。本報告では、ブラジルにおける熱帯産大豆栽培地域の環境条件を検討する。また、大豆栽培地の拡大によるアマゾン熱帯雨林の消失について地理学的視点から考察する。
     2005年現在のブラジルにおける大豆栽培面積率(大豆栽培面積/市町村の面積)の分布(伝統的温帯産大豆栽培地である南部地方3州を除く)は付図の通りである。熱帯産大豆栽培地は、全般的には、乾季3~5カ月、乾湿指数(吉良)が6~10の熱帯サバナ気候の地域に分布している。そのような地域のおもな植生としては、セラードと呼ばれるサバナあるいは落葉~半落葉の熱帯季節林が卓越する。
     熱帯産大豆栽培地の分布にはいくつかの集中域が認められる。すなわち、温帯産大豆栽培地の延長とみなせるサンパウロ州南部を除くと、1:マトグロッソ州中部、2:同州南東部、3:ゴイアス州南部、4:マトグロッソドスール州南部、5:ミナスジェライス州南西部~サンパウロ州北部などである。その中心をなす市町村では栽培面積率が40%を越している。このほか、6:ブラジリア周辺、7:バイア州西部、8:ピアウイ州南部などに準集中域があり、9:パラ州東部と10:同州西部(サンタレン周辺)および11:ロライマ州などに萌芽的栽培地が散在する。上述の9~11を除く栽培集中域の分布は、熱帯産大豆栽培が本格化した1990年ごろとほとんど変化しておらず、かなり安定したパターンである。
     このような顕著な集中域の成立には地形条件が大きく影響していると考えられる。薄利多売型商品である大豆の栽培には、機械化による大量生産が可能な平坦な土地が必要である。上記1~5や7,8などの集中域は古生代~中生代の堆積岩地域に形成された台地(シャパーダ Chapada)やケスタの背面に展開している。先カンブリア時代の岩石からなる小起伏丘陵地に集中域は見られない。
     この中にあって、1:マトグロッソ州中部は多くの点で異質である。同州中部から北部にかけては、熱帯林(常緑~落葉季節林)とサバナの漸移地帯で、これらがモザイク状に分布し、散点的な常緑熱帯林は南緯13度付近まで見られる。他の地域では、サバナの新たな伐採や牧場の転換によって大豆栽培地が拡大しつつあるのに対し、ここの一部では熱帯林の伐採による栽培地造成が進行している。
     現在のところ、アマゾン熱帯林地帯の中軸部に向かう大豆栽培前線はパラ州の南部および東部州境付近にある。これがクイアバ・サンタレン道路やアマゾン横断道路を突破口に漸進してアマゾンの森林を蝕むことが危惧されている。しかし、上記の自然基盤から考えると、比較的起伏の激しいパラ州の両道路沿線に大豆栽培集中域が形成される可能性は小さい。むしろ、前記10:サンタレン周辺のようにアマゾン森林地帯の核心部に適地を求めて飛び地的に展開する可能性が高い。
  • CRE(California Rice Exchange)を事例として
    鈴木 貴裕
    セッションID: 302
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     米国の稲作面積のほとんどが長粒種であり中粒種・短粒種が約3割弱である。米国では、稲作農家が生産した米を米生産者による協同組合組織所有の精米所で精米・保管し民間の精米会社・輸出商社に卸すシステムが主流であった。しかし、カリフォルニア州では、2000年にRGA(Rice Growers Association)の解散に伴い新たな米価格形成の動きが出てきている。従って、新しい価格形成過程の現状を考察することは、米産業における流通構造と価格構造の解明に不可欠であると思われる。そのためネット上で米卸売を行っているCRE(California Rice Exchange)を事例に取り上げ、主にインタビューと統計資料を用いてカリフォルニア州における協同組合組織やCREの現状を明らかにする。
    2.カリフォルニア州の協同組合組織と米価格形成過程
     現在、カリフォルニアの協同組合組織には、FRC(Farmer’s Rice Cooperative),CRM(California Rice Marketers)などがあり、民間企業では、American Rice Inc、Pacific International Rice Mill, Connell Rice&Sugar などがある。1988年の時点では、FRCの取扱シェア42%に次いで23%のシェアを誇っていたRGAが2000年に解散した。つまり、RGAの解散までカリフォルニアの米産業は、取扱数量・購入金額ともに多いFRCとRGAによる寡占状態でありFRCとRGAが価格形成に強い影響力を及ぼしてきたと思われる。しかし、RGAの解散とCREの設立により従来の価格形成過程に変化が見られてきた。現在では、全体の流通量のうち3割以上がCREを仲介している。RGAが解散する以前の生産者の契約形態は収穫前にあらかじめ購入する予定の民間の精米会社・輸出商社が買い取り数量と価格を決める収穫前契約が主流であった。この中でRGA組合員は、籾の売り渡し価格からRGAによる精米販売に要した費用を差し引いた残額を支払うプール計算方式で行われ、契約期間も10年以上と長期にわたっており事実上生産者は、買い手を限定されていたと言える。現在は、収穫後に価格を設定する収穫後契約が主流になっている。
    3.CREの販売構造と価格形成過程
     CREは、生産者の米を自社のネット上の取引場にて買い手との仲介を行う企業である。CREは、取引量に応じて手数料を取り経営を行っている。現在、1cwt(100ホ゜ント゛)当たり15セントの取引手数料と州の試験場などへ納める検査料と認可料を買い手に請求するシステムである。まず、売り手である生産者は、CREのネットに登録し売り出す米の数量を入力する。その後、数日以内に入札が行われ買い手に引き渡される。このシステムの利点は、買い手にとっては実務の大半をCREが代行してくれる一方で、商品の品質保証、契約条件や価格の保証をしてくれるので安全にかつ迅速に取引を行うことである。売り手にとっては、ネット上で取引量と入札価格が示されまた、入札後、一週間以内に入金されることがこの条件である。従って、いち早く現金を入手することができると同時に取引環境の透明性が、確保される。
    4.総括
     現在、CREの取引システム上の取引価格が、カリフォルニア州の米業界での実質的な卸売米価格の指標になりつつある。この事実は、カリフォルニアの米生産者が相場動向をふまえたうえでCREの価格指標を基準にして経営を行いつつあることを示している。従来の価格形成過程が、協同組合組織のプール計算に準拠した曖昧なものであったのでCREの取引システムが生産者・民間精米業者などに信用されつつある。
  • 酸性硫酸塩土壌地域の花きと花木の栽培
    水嶋 一雄, 藁谷 哲也, 中山 裕則, 山本 質素, 前田 健一郎
    セッションID: 303
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.研究目的
     世界第6位の米生産量(モミ量、2006)と世界第1位の米輸出量(2004)を持つタイの主要な米生産地は、チャオプラヤ川中央平原である。平原の大部分を占める中央平原地域は主要米の総収穫面積の17.3%、総生産量の23.2%であるが、1ライ(1ライ=0.16ha)当たりの生産量では国内平均の427kgを上回り587kgになる。ただ、この地域の中でも酸性硫酸塩土壌の堆積する地域では、水稲作農民は水田に石灰を投入して収量を確保してきた。
     タイは1980年代から第2・3次産業を中心に飛躍的に発展するが、この発展は1人当たり国内総生産(GDP)を2,539米ドル(2004)にした。この上昇は国民の食料消費を穀物からタンパク質を摂取する畜産物へと移行させ、また、高い所得を得る都市住民は潤いのある生活に花きと花木の消費を増やした。タイではこれらの消費に合わせた新しい農業形態が発達したが、この一つに花きと花木を育苗・栽培し販売する園芸農業がある。園芸農業はタイ経済と観光産業の発展と軌を一に伸張したが、注目すべきは酸性硫酸塩土壌の堆積する狭い地域に、園芸農家の話では約830を越えて園芸農家が集中し立地したことである。本報告では園芸農業の実態を確認した上で、この導入・発展の背景と要因を明らかにする。
    2.研究対象地域
     対象地域はバンコク郊外約60km離れたチャオプラヤ川中央平原の東部に位置するナコンナヨック県オンガラック郡の一地域である。この地域には国道33号線でカンボジア国境に通じる幹線道路305が通っているため、工場、住宅地、ガソリンスタンド、レストラン、ゴルフ場が点在して立地するなど、バンコク市街地拡大の影響を受けている。また、道路の両側の水田には転用と改廃が見られ、酸性硫酸塩土壌の堆積する水田では水稲作栽培だけでなく、島状に盛土してバナナや野菜などを栽培する。この状況下で、花きと花木の園芸農業は幹線道路305とコロン15(用水路を現地でコロンと呼ぶ)の交差する地点から、コロンと平行する道路の両側に約8kmに亘って立地する。
    3.園芸農業の導入と発展
     園芸農業の導入と発展には園芸農家へのインタビューから幾つかの過程を経てきたことが理解できた。1980年代初頭になってタイ経済の発展は都市住民を中心に花きと花木の消費を増やすことになったが、この地域にこの栽培が導入されるのは概ねこの時期である。一つのきっかけは、この地域に居住した中国人が趣味で花きなどの栽培をおこなっていたが、周辺の水稲作農民(主に女性)は中国人の農作業を手伝うことになった。この手伝いから農民は簡単な栽培技術を会得し、後に自ら独立してこの経営を始めた。ところが、消費が増える中で、次に農民の子供たちは別の店を持って独立し、さらに周囲の水稲作農民もこの経営に加わってきた。この結果、この地域に多くの園芸農家が立地したが、園芸農業地域として認知されると、他の職業に従事していた他地域の人々がこの経営に参入してきた。一方、2000年代になり園芸農業の経営が安定するとさらに多くの農家が参入してきた。たとえば、ゴルフ場経営者が場内や未利用地に造成した農地を、新規に参入する農家がこれを借地として栽培を始める事例や、バンコク市内のバイク販売経営者が複合経営の一貫として園芸農業を導入する事例などである。いずれにしても、様々な背景と要因から極めて狭い地域に園芸農業が発展している。

    なお、この研究は日本大学生物資源科学部21世紀COEプログラム「環境適応生物を活用する環境修復技術の開発」で実施したものである。
  • 秋田県増田町を事例として
    佐々木 達
    セッションID: 304
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     本研究の目的は,秋田県増田町を事例に,果樹複合経営の存立条件を検討することを通じて,近年の再編要因を明らかにしようとするものである.設定した課題は,(1)複合部門である果樹(りんご)は地域的にどのような位置づけにあるのか,(2)果樹複合経営を支える仕組みとは何か,(3)複合経営の再編=階層分化は存立条件にどのような影響を与えたのか,ということである. 対象地域の選定にあたっては,複合経営の作目構成の変化をより鮮明に捉えるという観点から,従来から複合部門として果樹(りんご)産地を確立してきたということ,さらに,その複合経営が大規模農家や専業的農家だけでなく,地域的に多く存在してきたことによって複合経営の再編を通して地域農業全体の変化を捉えることが可能となること,以上の点を考慮した.

    2.りんご生産の特徴と地域農業の変化
     増田町の地域農業は,稲作に支えられた複合経営という特徴を持っている.複合部門であるりんごは,隣接した平鹿町や横手市とともに,秋田県を代表する産地を形成しているが,全国的な展開からみれば,小規模産地に位置づけられる.さらに近年においては,青森・長野に代表される大型産地との産地間競争の中で,面積・収穫量という点においてもその地位を後退させつつある.こうしたりんご生産をめぐる状況変化の一方で,それを支えてきた稲作も米価低迷によって,その展開条件を狭められつつある.つまり,労働力配分の面では,産地間競争によるりんご出荷時期の前進化の影響によって稲作秋作業との重複が生じることになり,所得確保の面でも,従来の米に支えられた複合経営の仕組みが行き詰まることになったのである.

    3.果樹複合集落における階層分化の動向
     こうした地域農業の変化の中で,事例集落から,複合経営の存立条件および階層分化の動向を検討した.その結果,(1)果樹専作化層,(2)果樹主体複合経営層,(3)稲作主体複合経営層,(4)中間層,(5)零細経営層,という4つのタイプが見いだされた.また複合経営が多数存在している理由として,果樹における共同防除組合の存在、稲作における春作業を受託するトラクター組合の存在によって,各経営の労働力補完機能を果たしてきたことが挙げられる.しかし、果樹作業はそのほとんどが手作業であり,家族労働力を基礎としているために、労働力の高齢化や後継者世代の農外就業によって、複合経営の中に階層差を生み出している。また,複合経営農家群の中から水田を樹園地へと転換する,または果樹多角化へ向かう農家群も現れつつある.

    4.果樹複合経営の再編要因
     対象地域では,米とりんごの複合経営から果樹専作化・多角化へと向う者と経営を縮小していく者へと階層分化していく再編方向が認められる.こうした複合経営の再編要因としては,第一に,農産物市場の変化によって,より収益性の見込める作物へと転換する必要性に迫られたことが指摘できる.その過程を,土地利用から見れば水田転換によって果樹園へと変えることに現われており,稲作生産からの撤退をもたらしている.それは結果として,小規模産地のりんごを稲作が支えていた複合経営の地域的な仕組みを縮小させている.また,各個別経営とっては従来の複合経営のままでは存続することを困難にし,経営転換を迫ることによって,さらなる階層分化を推し進める可能性をもつものと言える.
  • 深瀬 浩三
    セッションID: 305
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     静岡県は国内最大の茶産地である.茶業経営の大規模化や専門化の傾向は主に平坦地で進行してきた.一方,山間地ではある程度の規模拡大は図られたが,平坦地に比べて生葉の収穫量が少なく,低温のために摘採時期が遅く,市場での価格競争の点で不利であった.そのため,山間地では平坦地との規模格差を補完するために,古くから小規模ながら高級茶生産を展開してきた(山本,1973;増田,1986).近年,荒茶価格の低迷や産地間競争の激化により,平坦地では生産規模の拡大を軸とした産地の再編が図られている(國澤,1999).このような状況下で,山間地の茶産地が,高齢化や労働力不足などの問題を抱えながら,高級茶の生産をどのように継続的に発展させてきたのかに着目する.
     本研究では静岡県の山間地に位置する川根地域を対象とする.大井川中流域に位置する川根地域(川根本町と川根町)では茶業が基幹産業であり、農業粗生産額の約90%を茶が占める(図).川根本町を事例地域として考察した.
    II 川根本町における茶業の変遷
     川根地域の茶業は,わが国の他の茶業地域と同様,明治期から海外への茶の輸出拡大に伴って発展した.川根茶業組合などの指導によって荒茶の製造技術は向上し,生葉の手摘みと機械製茶が一般化した.川根本町(旧中川根町)を例にみると,第二次世界大戦後から1960年代には,生葉の生産に関しては,町の政策によって茶業センターが設立され,在来品種から優良品種「やぶきた」への転換が奨励された.荒茶の製造に関しては,作業効率をあげるために製造機械の導入が進んだ.製茶工場数は,特に荒茶の製造機械を装備した個人経営の工場が増加した.これは生葉の手摘みを主体とした茶生産のため,自園・自製方式が経済的に有利あったためである.1964年には先駆的農家らが全国農業祭天皇杯を茶業界で初めて受賞し,全国に高級ブランド「川根茶」の名を馳せることになった.
     1970年代から1980年代には,全国的に機械の改良や大型化が急速に進み,川根地域でもさまざまな補助事業を活用した産地の基盤整備が始まった.生葉の生産については,収穫効率を上げるために,それまでの手摘みに加えて,鋏摘みや摘採機,防霜ファンが普及した.1980年代半ばには,一部の平坦地で大型の摘採機が導入されたが,傾斜部では大型機械の導入が困難であった.また,荒茶の加工では,農家の茶園経営規模が製茶工場の処理能力に制約されるという状況を打開するために,1986年には農協の再製茶工場が設立された.これにより,自園・自製・自販農家の中には,農協へ荒茶を販売する農家が現れた.1980年代末から,コンピュータ制御による大型製茶機械を導入するために,老朽化した製茶工場の統廃合が進んだ.2006年には機械設備の大型化を図るために,川根地域の各町にあった農協の再製茶工場を統合し,JAおおいがわ川根茶業センターが設立された.
    III 茶の流通・販売  
     茶の流通・販売は複雑であるが,現在,川根地域では一般に次のような形態がみられる.生葉売り農家は,地域内の自園・自製農家や加工業者(茶商)に販売や加工委託を行ったり,所属組織の共同製茶工場への持ち込む.自園・自製農家や共同製茶組織は,荒茶を加工業者や川根茶業センター(再製工場)へ販売している.仕上げ茶については,量が限られているので,自園・自製・自販農家や加工業者は,消費地の問屋を通して小売店に販売したり,通信販売によって販路開拓を行ってきた.また,川根茶業流通センターで再製された茶は,地域内の卸売業者を通して消費地の小売店へ販売されている.静岡茶市場を通して県内の茶商やドリンクメーカーへ販売される場合もある.
    IV ブランド化への取り組みによる産地の対応
     川根地域では,古くから小規模ながら高品質の茶の生産が行われてきた.茶の持つ必需性と嗜好性の二面性が,生産条件の劣悪な山間地でも産地形成を可能にした.自園・自製・自販農家が全国茶品評会などの煎茶部門で数々の優等賞を受賞することにより,高級茶産地としての知名度を誇示し続けてきた.同時に,消費者への通信販売を中心とした販売活動は,希少価値性を生み出し,産地の維持に寄与してきた.また,1980年代からは,自園・自製を主体とした伝統的な経営は,規模拡大などに伴う施設投資の増大により修正を余儀なくされた.高級茶の産地としての伝統を守る一方で,個人の施設投資を軽減したり荒茶生産の効率化を図るために,製茶共同工場の統廃合や農協の再製工場の大型化が進んだ.これは,平坦地の茶業地域と同様,産地の持続的発展に大きな役割を果たしてきた.

    図 静岡県における茶栽培面積と農業粗生産額に占める 茶粗生産額の割合(2000年)
      (関東農政局静岡農政事務所資料より作成)
  • 地域リーダーの輩出構造を手がかりに
    林 琢也
    セッションID: 306
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     国内産サクランボの栽培面積は,現在も拡大している.これには,高級果実として輸入品との棲み分けがなされ,輸入自由化の影響が少ないことや,栽培地域や収穫期がある程度限られるという点での希少性,サクランボが消費者に与えるイメージの良さなどが影響しているといえる.とくに,缶詰などの加工需要から生食への転換が進んだ1980年代以降は,交通・通信網の発達も相俟って,農家が直接,消費者と接する観光農園や直売,宅配といった市場外流通を志向する傾向も強くなっている.
     報告者はこれまでにサクランボを用いた観光農業について,行政の地域振興策と連携した青森県南部町や,大都市への近接性を生かし,個人の工夫とPRによって農園経営を進める山梨県南アルプス市における観光農業の役割を考察した(林2006,2007).これらの地域では,観光が果樹農業の振興に一定の効果をもたらし,地域農業に大きな影響を与えていた.これに対し,市場評価と大きな流通ロットに支えられ,既存の出荷システムが機能する大産地においても,観光農業をはじめとする市場外流通は浸透しており,産地の維持・発展の一翼を担っている.こうした地域では,非観光農家や農協などとの調整や協調がより必要となる.
     そこで本研究では,日本有数のサクランボ産地である山形県寒河江市において,既存の出荷システムと観光や宅配などの市場外流通がどのように協調・併存するなかで,産地としての規模が維持されてきたのかを明らかにする.なお,その際,地域リーダーの輩出構造と農家組織の活動,組織間の関係に注目する.近年の組織論では,統制のとれた縦の階層組織よりも,組織成員間の柔軟性(横の水平的ネットワーク)が重要とされている.農業者同士の結びつきや活動によって,いかにして地域リーダーが輩出され,産地の維持に貢献するのかを明らかにすることは重要な研究視角である.
    2.三泉地区におけるサクランボ栽培の特性
     寒河江市三泉地区の農業は,水稲とサクランボを主体にしている.とくにサクランボの生産・販売には積極的で,観光農園の組織化や雨除け・加温ハウス栽培が山形県内でも最も早くから取り組まれてきた.2005年の販売農家は142戸で,15戸が観光農園・直売所を経営し,26戸が加温ハウスによる早期出荷を行う.また,新品種(紅秀峰)の生産組合や研究会,地域農業を支える水田の作業委託(ライスセンター)などの組織もあり,こうした組織の活動が地域の農業を支えている.
    3.地域リーダーの輩出構造
     三泉地区には多くの農家組織が存在し,各組織のリーダーはサクランボの品質・栽培技術の向上という共通の目的によって強い結びつきをもっている.三泉地区の農家は,サクランボによって高収益をあげることで農業経営を行ってきたため,伝統的に先輩農業者が若年者に農業技術や経営手法を効果的に継承させることで「三泉のサクランボ」としての高い評価を保ってきた.これは家族内での技術の継承ではなく,地区内の農業者全体の底上げを図るものである.
     現在,70~80歳代の農業者は,昭和30年代半ばに果樹研究会を組織し,その活動を通じ,剪定技術などを当時の若年農業者に伝えた.当時の若年農業者は,栽培技術を高め,観光農園経営や雨除け・加温ハウス栽培を始めるなど,個々の経営観に即した農業経営を進め,さらにそれを若い世代へと伝えていった.例えば,観光さくらんぼ組合長のW氏は,昭和40年代後半に受託剪定グループを組織し,地区内や近隣の高齢農家や兼業農家の樹園地の剪定を請け負うとともに,その活動を通じ,自分よりも若年農業者の技術向上を図った.このときに栽培技術や経営方法を学んだ農業者は,現在,新品種の研究会や生産組合,農協の出荷組合,ライスセンターのリーダーとなり,地域農業を支えている.さらに,彼らは,三泉地区の若年就農者および農外就業中の後継者予備軍に対し栽培技術の習得・向上を図るための「三泉チェリークラブ」の技術顧問となり,20~40歳代の後進を育成している.
     つまり,三泉地区では高品質のサクランボを栽培するといった目的の下,技術の継承とそれを可能にする活動がそれぞれの農家組織の枠を越えて存在し,それがサクランボ産地の規模と評価を保ち続ける基盤となってきた.こうして,経営方針や出荷・販売方法の異なる農業者同士であっても協力し,互いの経営方針を尊重し合うことで,産地としての発展を促してきたのである.
    【参考文献】
    林 琢也2006.南アルプス市白根地区西野における観光農園経営の意義.
    2006年人文地理学会大会研究発表要旨:76-77.
    林 琢也2007.青森県南部町名川地域における観光農業の発展要因
    ―地域リーダーの役割に注目して―.
    地理学評論80:635-659.
  • 北海道音更町大牧・光和集落を事例として
    吉田 国光
    セッションID: 307
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.研究課題
     現在,日本の農業は国際競争の波にさらされている.その対抗手段として,政策的に農業経営の大規模化が推進されている.この大規模化という現象は,農地の売買,貸借,作業受委託などによって達成される.しかしながら,大規模化に成功する農家は一部に限られる.農地拡大のために,労働力と経済力に余裕があって,地縁・血縁をもとに,集落内外の農地を取得することができる経営者が,大規模化に成功すると考えられる.日本の農村において,ほとんどの世帯は,顔見知りであり地縁関係にあり,またいくつかの血縁に基づいた同族集団に所属する.
     農地移動については,従来から指摘されるものの,農地移動に至るプロセスについては,「地縁・血縁によるもの」と指摘されるにとどまり,その具体的なプロセスについては不明瞭な点が多い.農地移動が円滑に進められる要因や障壁となるものを明示し,これらが機能する仕組みの解明が必要である.
     そこで本研究では,大規模化の基盤である,農地移動に至るプロセスを明らかにする.集落を基点に,農地移動がいかなる社会関係によって行われ,その社会関係が,どのように空間的に広がってきたのかを明らかにすることを目的とする.

    2.研究対象地域と研究方法
     研究対象地域である北海道音更町大牧・光和集落は,1950年に入植が始まった開拓地で,大規模畑作農業が卓越し,酪農家,野菜作農家が混在している.開拓時には,141戸が入植したが,2007年には,31戸にまで減少した.
     研究方法としては,現地調査にて,大牧・光和集落の全農家の農業経営の現状を把握し,これまでの農業経営の変遷について,農地移動の実施状況を中心にして情報を得た.この情報をデータ化し,ネットワーク分析における多重送信性の概念(ボワセベン 1986)を援用し,農業者のもつ複数の社会関係を,その組み合わせから分析した.そして,その社会関係が,時代とともに,いかに多様化し,空間的に拡大してきたのかを明らかにした.

    3.社会関係からみた農地移動プロセス
     大牧・光和集落における,農地移動に関係する社会関係は,集落と中音更地区内での地縁や,本家分家,姻戚などの血縁に加えて,小学校での同級生,同窓生,PTA役員同士との関係,農業開発公社などの公的機関を介したより広範囲にわたるものまである.近隣世帯や集落などの地縁よりも,血縁の方が例え空間的に離れていても重視された.すなわち血縁が,他の社会関係よりも強く,決定要因となりうるものであった.血縁をもたない場合については,同一集落における近隣世帯で,の場合が最も多く,より近接性の高い農家との農地移動が行われることが多かった.農地移動が隣接集落におよぶ場合は,小学校の校友関係や,開拓以前からの付き合い,開拓世帯などの結社縁を含む場合が多かった.これらに加えて,地縁や血縁,結社縁が希薄である場合については,公的機関などを介したものが関係していた.
     このような,農地移動に関係する社会関係は,各農家によって差異がみられ,全体として5つに類型化できた.それらは,近隣・集落完結型,中音更地区拡大型,選択縁活用型,二次入植型,入作型である.それぞれの類型に該当する農家の事例分析から,農地移動に関係する社会関係が,いかなる経緯をもって成立したのかを提示した.さらにその社会関係が,いかにして農地移動に結び付けられてきたのかを明らかにした.このことから,農地移動に関係する社会関係は,時間の経緯とともに,近隣世帯や集落内で完結していたものから,中音更地区,他地区,音更町外に空間的に拡大するようになった.また,農地移動に関係することがなかったような社会関係が,従来からの地縁や血縁,結社縁に加えて,農地移動に結びつくようになり,社会関係の多様化をもたらした.その結果,農地移動は,地縁,血縁以外の社会関係によって行われ,集落や地区の範囲を超えて展開するようになったといえる.

    【参考文献】 ボワセベン, J.著,岩上真珠・池岡義孝訳 1986.『友達の友達-ネットワー ク,操作者,コアリッション-』未来社.Boissevain, J. 1974.Friends  of Friends :Networks, Manipulators and Coalitions. Basil Blackwell.
  • 初沢 敏生
    セッションID: 308
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     本研究は北海道胆振支庁むかわ町を事例として、ホッキガイの資源管理の特徴と課題を検討したものである。むかわ町はわが国最大のホッキガイ産地である苫小牧市に近接し、1990年代初めまではホッキガイの中心的産地の一つだった。しかし、1990年代半ばから水揚げ高が急減した。この背景にはホッキガイの資源管理の変化があったと考える。
     現在むかわ町で行われている重要なホッキガイの資源管理としては大きさの制限と採取料の制限、それに禁漁区の設定などがある。むかわ地域の規制は北海道の規制を上回る厳しいものであるが、市場ではさらに良質のものを求めている。しかし、むかわ地域ではこれに十分に対応できていない。これは大量採取によって資源の質が低下したためである。
     この地域では1989年からホタテガイの稚貝放流事業が開始されたが、1992年の水害で大打撃を受け、漁業協同組合は多額の負債を負った。ホッキガイはこの負債を返済するための原資として注目され、多額の賦課金を課した上で大量採取が行われた。この結果、地域の資源状況は悪化し、その後の地域資源の劣化を招くことになったのである。その後、資源管理を強化したことによって一定の成果は現れてきているが、大量採取以前の状況には戻っていない。地域資源管理の失敗の影響は長期間に及ぶため、慎重に対応することが必要である。
  • 番匠谷 省吾
    セッションID: 309
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. はじめに
     近年,わが国の木材需要は減少傾向にあり.製材業はその影響を受けて,廃業が相次いでいる.その一方で,戦後造林した木が伐期を迎えつつある.国産材素材と外材素材との価格関係に変化が生じ,国産材回帰の動きがみられる.このような状況のなかで,国内の製材業はどのような変容を遂げているのか,長期にわたり低迷してきた国内林業の振興のためにも,国産材と木材産業を関連づけて考察する必要があると考える.
     本研究は,伐期を迎えた国産材産地における製材業に焦点を当て,製材業に発展的傾向のみられる宮崎県都城市を対象として原木供給,製材工場における木材の生産,木材の流通という一連の過程の分析を通じて,この地域の製材業の発展とその要因について検討する.
    2.宮崎県都城市の製材業の特徴
      宮崎県の製材工場数の推移をみると,1990年から2003年の間に40%の減少したが,大規模工場は増加した.この傾向は全国でも宮崎県でのみみられる.また,宮崎県の製材業は国産材,特にスギの製材を中心としている.宮崎県は1991年以降,スギ素材生産全国第1位を保っている.豊富な資源をもとに,宮崎県の製材業は国産材スギ製材への特化が進み,工場の大型化がみられた.
     現在,都城市には39の製材工場が存在するが,都城市の製材工場数,従業員数は減少傾向にある.しかし,宮崎県全体はそれ以上に減少しているため,むしろ都城市の県全体に占める比率は高まっている.また,原木消費量は2000年頃までは減少傾向を示したが,2002年以降は増加に転じている.また,人工乾燥材生産量も2000年以降急激な増加をみせた.乾燥材は県内の生産量の半数近くを占めた年もあり,近年の都城市の製材業の発展が看取される.
     都城市の製材工場は大規模工場が多いのも大きな特徴である.国内の国産材製材会社上位10社のうち,3社が立地している.国産材製材において,都城市は宮崎県内や,九州地方はもちろんのこと,日本を代表する産地に成長している.
     対象とした8社は生産量が多く,全国有数の工場である大規模工場と,ある程度の生産量があり,数十人の従業員を雇用している中規模工場に分類できる.大規模工場は近年,設備面の充実により生産量は増加傾向にあり,規模拡大傾向である.一方,中規模工場では最新の機械の導入を見送る工場が多く,生産量が減少した工場もみられた.
    3.都城市における製材業発展の要因
     都城市の製材業が発展した大きな要因として乾燥材生産への取り組みがあげられる.2000年に住宅の品質確保に関する法律(品確法)の制定と,建築基準法の改正により,乾燥材の需要は増加した.宮崎県は乾燥材生産への取り組みが早く,2001年に乾燥材供給システム整備総合対策事業を創設した.製材工場が乾燥機を導入する際の補助を行っており,乾燥材を生産しやすい体制が整えられた.いち早く乾燥材生産に取り組んだことで,近年需要が増加した乾燥材の市場を確保することに成功した.対象とした8社すべてで乾燥材を生産しており,近年は乾燥材の評判が高まり他県への出荷も増加しつつあり,特にプレカット工場への出荷は九州にとどまらず関東までの各地工場へと出荷しており,出荷範囲は大きく変化した.
     製材工場の原木調達については,原木市場で原木を調達することにより,市場で細かく仕分けされた原木を調達することができ,市場で落札した原木を市場にストックし,製材の需要に合わせて必要分を工場に運び込むことでストックの費用を削減できるだけでなく,余分に生産して製品の在庫を抱えないようにしている.一方,市場外流通では,自社林もしくは素材業者から直接購入している.市場外流通は伐採現場から製材工場へ直送するためコストが安く,形質の似た丸太を入手することができる.また,直接素材業者から購入する場合は,原木市場が製材工場と素材業者の仲介を行うケースが存在することが明らかになった.
     戦後植林されたスギが伐期を迎え,素材が豊富に存在していることも発展要因としてあげられる.宮崎県は1991年以降スギ素材生産では全国一の生産量を誇っている.日本一の林道整備,高性能林業機械の普及,林道労働者の確保,降雪のない気候という条件が豊富な素材を生み出し,製材工場の生産性向上に貢献している.
  • 松本 久美
    セッションID: 310
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.問題の所在
     従来,都市計画は行政主導であったが,近年は主体に住民が加わり,協働のまちづくりが盛んに行われるようになっている.また,生活の質が問われるようになり,身近な住環境に対する関心は高まっている.住環境の維持・向上のためには住民同士で地域の将来像を共有することが不可欠であり,また,地域のルールを策定することが有効である.日本では個々の地域の状況に即して規制を設けることができる制度として建築協定があり,その必要性は高まっている.しかし,既存研究では建築協定の策定や更新に関わる議論は十分ではなく,特に策定・更新の地域的条件については触れられてこなかった.

    2.研究目的
     本研究は建築協定の策定数が全国最多である神奈川県横浜市を対象に,「建築協定総一覧」をはじめとする市提供の資料を分析することで,市内で策定された住宅系建築協定全405件の地理的分布とその特徴,さらに策定・更新の地域的条件を明らかにすることを目的とする. 建築協定を策定するためには住民の合意形成が必要となり,その負担は決して軽くない.さらに,建築協定は一定期間ごとの更新作業が必要であり,継続させていくためにも労力が要される.本研究において建築協定が成立する条件,そして建築協定を継続あるいは失効させる条件に着目し,それを明らかにすることは建築協定の円滑な策定・更新に寄与すると考える.

    3.建築協定制度
     建築協定制度は建築基準法に基づく制度で,1950年に建築基準法ができた際に同時に創設された.全国一律にかかる都市計画法や建築基準法などの法律でカバーできない細かい地域の住環境を守ることを目的としている.建築協定は住民同士の私的な契約であり,住民によって結成される建築協定運営委員会が策定・運営を担う.一般に期限(10年に設定されることが多い)が設定され,継続のためには更新が必要となる.本来は住民による全員合意を要するが,宅地造成などで販売の前に事業者のみであらかじめ協定を締結できる1人協定制度が1976年に創設された.つまり建築協定には,既成住宅地等において住民の合意形成を経て策定される合意協定と事業者のみで策定される1人協定の2種類がある.

    4.結果
     横浜市における建築協定の認可数のピークは1980年代中盤にある.これには横浜市の人口増大とそれに伴う開発が大きく関連している.横浜市では高度経済成長期に開発が急激に進み,80年代中盤からはバブルによる開発もあいまって,建築協定の認可数が1980年代中盤にピークを迎えたものと考えられる.また,近年の建築協定の認可数の減少は,開発ブームが終わったことで,1人協定の認可数が減少したことによるものと推察される.協定数は青葉区と三浦半島の付け根(金沢区・戸塚区・栄区・港南区など)に突出して多い.これは,青葉区では東急電鉄による開発と多くの土地区画整理事業,金沢区を中心とする一帯では京急電鉄による開発が多く行われたためと考えられ,このような大資本による開発が協定数を引き上げられていると言える.
     合意協定と1人協定を分けて見てみると, 1人協定・合意協定ともに青葉区と三浦半島の付け根(金沢区・戸塚区・栄区・港南区など)に多く,分布に大きな差はないことが判明した.更新の状況では,継続されずに失効した協定の割合を合意協定と1人協定で比較しても大きな差が見られないことや,合意協定・1人協定のいずれも協定区域の規模が小さいほど継続しやすいとは限らないことが明らかとなった.さらに規制内容では,1人協定の方がより厳しい規制を盛り込むことができることが分かった.
  • 村井 昂志
    セッションID: 311
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     日本はついに人口減少時代を迎えるに至った。これまで人口増加と拡大を続けてきた都市も、将来的には人口減少が避けられないであろう。この人口減少によって生ずるであろう課題の一つに、空間需要の減少などに伴って発生すると考えられる廃止施設の跡地などの余剰空間を、いかに扱ってゆくかというものがあげられよう。この跡地利活用は、一般に多様な選択肢が想定されるだけに、その実現にあたっては個々の抱える事情が大きく影響するはずである。したがって、その実態や意義はまず個々の経緯や地域的環境との関連の中で理解されるものであり、ここに地理学的手法を導入する意義があると考えられる。一方で地理学における跡地利活用についての研究蓄積は少なく、ことに公共施設を扱ったものはきわめて乏しいのが現状である。このような現状に鑑み、本発表では公共施設のうち公立小中学校を題材として、その跡地の実態とそれをもたらした経緯・地域的環境との因果関係、およびそれらの地域差について論じたい。

    2.研究の対象と方法
     本研究の対象とする廃校は、東京大都市圏1都3県 において1987年から2006年の計20箇年に廃校となった公立小中学校、計241校である。まずこれらの廃校跡地の利活用の現況を把握するため、廃校を抱える市区町村教育委員会に対してアンケート調査を行い 、利活用の有無や内容、建物や財産処分などについての情報を得た。この情報を都心部・都心周辺部・郊外部・縁辺部の4地域区分ごとに集計した結果を参考に、それぞれ特徴的な事例として都心部から東京都千代田区、都心周辺部から東京都江東区、郊外部から東京都多摩市を選定して更に事例研究を行った。事例研究にあたっては、第一の当事者といえる各区市へのヒアリング調査と各種行政資料を中心に、その他跡地利用者側の事情を把握するため利用者に対しても適宜ヒアリングを行った。

    3.結果と考察
     (1)廃校跡地では、行政は一般に財産処分の有無を問わず公共・公益性の高い施設への転用を目指す。 (2)千代田区では、高地価により民間事業者による公益施設の供給が見込みにくいため、学校跡地という希少性の高い空間を利用して行政が公共施設の直接整備を積極的に図ってきたが、バブル崩壊後の財政悪化により整備が滞り、空地のまま暫定的に開放されている跡地が多い。 (3)江東区では、売却による歳入と公益的な施設の供給を図りたい区側の意図と、立地条件や敷地規模の大きさ・地価の安さなどによる民間事業者の高い進出意欲との一致により、多くの廃校跡地が短期間で売却に至った。 (4)多摩市では、当初市の財産処分の意欲は低く、暫定的な利活用として市民開放が開始された。民間事業者側が廃校跡地を選んで進出してくる必然性にも乏しかったことなどから市民開放は継続され、次第にその利用者も増加していった。などといった経緯や現状が明らかとなった。
     安易な敷衍は必ずしも適切ではないものの、以上の知見をモデル化すると、以下のような構造が浮かび上がる。
     (1)公益施設を運営する民間事業者は、需要以上にコストの大きい都心とコストは比較的小さいが需要も少ない郊外との中間地帯で高い進出意欲を示す。 (2)需要に見合うだけの公共・公益施設の民間供給が見込めない都心では行政による公共施設の直接整備が図られるが、その他の地域では施設の保全・改修コストの増大が予測される中で公共施設の総量を増やすことにきわめて慎重であり、自治体が自前で公共施設を供給することは少ない。 (3)その結果、自治体・民間事業者のどちらによる公共・公益施設の供給も見込みにくい郊外では、跡地の多くは余剰空間として今後とも残される可能性が高いと考えられる。
  • 新井 智一
    セッションID: 312
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     近年の海外諸国では,水供給・水使用の不平等をもたらす政治・経済的要因に対する関心が高まっている.この問題についての邦訳書も数多く出版され,そのいくつかは,今後日本でもこうした問題が生じうることを主張している.そこで,本研究は,地下水を大量に汲み上げて販売する企業が集積する山梨県北杜(ほくと)市白州(はくしゅう)町を取り上げ,水関連企業の集積要因をポリティカル・エコロジーの視点を通して明らかにすることを目的とする.ポリティカル・エコロジーは,ローカルな環境改変の要因を,大スケールの政治経済的コンテクストとミクロな政治との関わりという観点から解明するものである(McCarthy 2005).従来は発展途上国での研究が主であったが,近年は先進国での研究の必要性が高まっている.

    2.白州町における地下水と水関連企業
     旧北巨摩郡白州町は,南アルプスと釜無川に挟まれた県境の町であった.旧白州町には甲斐駒ヶ岳などに浸透した豊富な地下水が存在し,地下水は企業と住民に,釜無川の水は農業に供給されていた.旧白州町では,稲作・畜産・野菜栽培などの農業が中心であり,町の人口の伸びは横ばいであったものの,高齢化が進んでいた.旧白州町は,2004年の町村合併により,北杜市白州町となった.
     旧白州町は人口流出対策として,1969年に工場誘致条例が制定され,その結果1973年にサントリー(株)白州蒸留所が進出した.また1980年代後半以降,県事業の下で工業団地が造成され,1998年までに水関連企業5社が操業を開始した.ウィスキーの消費量が1983年をピークに減少を続ける中,サントリーは1991年に天然水の製造を始め,1997年に出荷量で首位に立った.また,水関連企業の数社は工場見学客を受け入れ,これに伴い1997年の白州町観光入込客数の71%が「見学者」であった.

    3.地下水をめぐる白州町議会での議論と町の対応
     旧白州町議会では1994年に,企業による地下水汲み上げに対する懸念の声が初めて上がり,1998年に「白州町地下水保全条例」が制定されたが,総量規制や罰則規定は盛り込まれなかった.また1997年に,町と水関連企業5社が「地下水保全・利用対策協議会」を設立し,観測井を設けた.しかし,同協議会において町は一会員にすぎず,町議会では,「この立場で企業に対する指導ができるのか」という疑問の声が上がった.地下水に関するデータは蓄積中であるが,取水量の把握は企業の申告にもとづく.また,株式上場していない企業の製品製造数は,非公表のため把握できない.

    4.白州町の地下水利用をめぐる政治的・経済的背景
     旧白州町政が,町内の水に初めて着目したのは,1982年の「白州町第二次総合計画」であった.旧白州町は国の「名水百選」選定に応募し,1985年に選定された.また,国事業の下で,宿泊施設であるヴィレッジ白州(1995年)と名水公園(1996年)を開設し,滞在型観光地の整備を進めた.
     その一方で,1990年代に厳しい減反目標を課せられた旧白州町は,米の特産品化と県のグリーン・ツーリズム事業である「やまなし農村休暇邑」(1996年)事業を推進した.また,2001年に国・県事業の下で,農産物の直売所と加工所を併設する「道の駅はくしゅう」を開設した.水くみ場が好評なこともあり,道の駅の業績は現在のところ順調である.
     このように,旧白州町では農業の再編を視野に入れた観光開発の中で,前述の諸施設が開設されたが,こうした施設において「名水」は重要な要素である.その一方で,町では地下水の枯渇も懸念されている.しかし,企業はミネラルウォーターの製造を通して,町の名水を宣伝する役割も事実上担っている.このことから,町は企業に対する指導に消極的であると考えられるのである.
  • 地域審議会・地域協議会等の「地域別附属機関」の動向を中心に
    美谷 薫
    セッションID: 313
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     近年の「平成の大合併」により,市町村の広域化が顕著に進展してきた.この流れのなかで,1999年の市町村合併特例法改正による地域審議会の制度導入後,同法による地域自治区,合併特例区(以下では,これら3制度並びに類似制度を「地域自治組織」と表記する)の制度化など,さまざまな合併前の市町村を単位とした枠組みを公的に維持させる仕組みが構築されてきた.
     これらの制度については,根拠法の規定が緩やかであることから,設置市町村によってその形態が異なってきたことが指摘されている(例えば,朝日新聞2006年12月25日朝刊).さらに,地域審議会や地域自治区の下での地域協議会などの附属機関(以下,「地域別附属機関」と表記する)については,類似した権能が規定されている場合でも,活動・運用の実態には大きな差異が生じつつある.
     そこで本報告では,合併関係市町村間で人口や財政等の規模に差異が大きく,合併による住民生活への影響が特に大きいと考えられる中核市・特例市を対象として,合併後に設置された地域別附属機関の制度と運用の実態について整理する.

    2.中核市・特例市における「地域自治組織」の動向
     2006年9月に実施したアンケート調査によれば,1999年度以後に市町村合併を実施した40の中核市・特例市のうち,32市で「地域自治組織」が設置されている(美谷 2007).最も多いのは地域審議会の22市であり,地域自治区が9市,合併特例区が2市,市の独自組織が1市となっている(複数制度を併用する市もあるため,合計は32を超える).
     地域自治組織の設置区域は,地方自治法に基づく地域自治区を導入している浜松,豊田,宮崎の3市を除いて,旧中心市を除く区域となっている.

    3.事例市における地域別附属機関の制度と運用実態
    (1)静岡県浜松市
     浜松市では,合併前の12市町村単位で地方自治法に基づく地域自治区が設置された.地域協議会の機能はきわめて細かく,かつ広範囲に規定されており,運用面でも非常に多くの諮問がなされている.また,地域自治区内の事業に係る予算編成過程では,支所に相当する地域事務所で編成・執行する「地域自治振興費」について,地域協議会への諮問・答申が必須と位置づけられるなど,政策過程における強い権能が付与されている.
    (2)愛知県豊田市
     豊田市においても,浜松市と同じ地方自治法上の地域自治区が設置された.このうち旧豊田市については,5支所の区域に分割する形で地域自治区が設置され,地域協議会はさらに,この単位の5つの「代表者会議」と20のコミュニティ単位での「地域会議」の二層で構成されている.
     地域協議会には新市建設計画や予算編成に関する意見陳述・建議の機能が想定されておらず,自らの地域の課題抽出とその解決方策を議論することが求められている.また,地域協議会は意見集約や意思決定を行う場であり,それに基づく事業実施は,同じ区域に設置されている「地区コミュニティ会議」が行うという形で役割分担が図られている.
    (3)兵庫県姫路市
     姫路市では,合併前の旧4町の区域に,それぞれ地域審議会が設置された.審議会の権能に大きな特徴はないが,これまでのところ,各年度に新市建設計画に関する市長からの諮問がなされ,3回程度の審議を経て答申書が提出されている.翌年度の予算編成に際しては,この答申内容が参考にされることとなっており,地域別附属機関からの意見の取扱手法が明確化されていない事例も多いなかで,文字通り「審議会」的な運用がなされている.

    4.おわりに
     以上のように,中核市・特例市の地域別附属機関の運用には,浜松市の事例に代表される,政策過程に強い影響力を及ぼし得る「準議会型」,逆に,地域のまちづくりに特化する豊田市のような「まちづくり組織型」,制度趣旨に合う純粋な形での運用を行う姫路市のような「審議会型」といった形態が確認された.
     しかし,多くの設置市では,地域別附属機関の活動が,予算編成の際の意見交換が中心となるような「懇談会型」の運用にとどまっている.したがって,制度の導入だけでなく,内実をともなう運用をいかに確立するかが,合併後の地域自治を進めるうえで重要になるものと考えられる.
  • 松坂屋および高島屋の創業経営者の経営理念と東京進出戦略
    末田 智樹
    セッションID: 314
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     現在における無数の小売業経営者の経済活動の原点、並びに小売業経営の経営理念の基盤が、すでに昭和戦前期までの百貨店の創業経営者達によって確立されていたと考える。また、それが戦時によって切断されたかのようにみえるが、戦後以降において呉服系百貨店及び電鉄系百貨店の2つの形態が上手く重なって百貨店業態が見事に復興したとともに著しく伸長し、都市の商業空間の中心を形成した。そして高度経済成長期以後の幾多の新たな小売業態とその創業経営者達を創出させる重要な要因となっていたと考える。
     しかしながら、戦後の小売業態の発展がいつの間にかダイエーの中内功や、イトーヨーカ堂及びセブン-イレブンの経営者・創業者である鈴木敏文などのスーパーマーケットやコンビニエンスストア経営による小売業態発展要因の説明へとすり替えられてしまった感も否めない。もちろん彼らにより生み出された新小売業態の発想や経営理念、経営戦略などは高く評価されるべきであることは周知の事実であるが、それらは顧客重視の接客販売業としての範疇に留まるものであり、小売業態の基本的経営理念・戦略や都市における商業空間の形成(図1参照)は、明治中期から昭和戦前期までの都市部を中心とした百貨店業の成立に関わった創業経営者達からクリエイトされたと考える。
     そこで以上のような観点から探るためには、明治中期から昭和戦前期に至る都市型小売業の代表格である百貨店の創業者や経営者に焦点をあてて、彼らの意思決定及び経営活動、そして彼らによる百貨店としての成立過程について解明することが必要となる。その意味で、今後日本の小売業態の将来を展望するためにも、積極的に商業部門における企業家活動や経営組織・経営戦略の史的研究を行うことが不可欠な課題であると考える。
     このような問題意識を受けて本報告では、現在の愛知県で江戸期の尾張藩の時代から永続する老舗百貨店である松坂屋の創業者伊藤次郎左衛門家と、現在百貨店業界で単独グループとしては売上高日本一の百貨店である?島屋の創業者一族であった飯田家同族を中心に検証を加え、昭和戦前期の日本における大規模小売業の発展要因と、戦後において影響力を持ち続けた百貨店業態の経営理念や経営戦略について究明する。さらに本研究は、両社における同族経営活動が、戦後以降も同社の経営者の意思決定に著しく影響を及ぼし、日本の小売業態が発展する上での始祖的かつ模範的な役割を果たし続けたとの見解に基づき、明治中後期から昭和戦前期までの百貨店業成立過程の研究を大きく前進させる分析でもある。
  • 作野 広和
    セッションID: 315
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     中山間地域では過疎化・高齢化の一層の進展により,自治活動や冠婚葬祭など集落機能が急速に衰える,いわゆる限界集落問題が生じている。提唱者の大野(1991)はフィールドワークの蓄積から経験値として集落が「高齢化率50%以上,戸数20戸未満」となると共同体機能が著しく低下することを指摘した。だが,社会においてはこの数値基準が一人歩きし,問題が矮小化されているのが現実だ。
     国土交通省や農林水産省など行政機関でも限界集落の実態調査を行っている。その結果,全国で約1,400の無住化危惧集落が存在しているとの報告はあるものの,その根拠はセンサスデータからの推計や,過疎指定団体など行政機関を通したアンケート調査の結果から得られたに過ぎない。すなわち,限界集落がどこに,どれだけ分布しているのかについても明らかになっていないのが現実である。
     そこで,本研究では中山間地域が全域に広がる島根県を事例として,限界集落の分布を把握するとともに,それらの集落がいつ,どのようなステップで小規模・高齢化していったのかについて経年的に把握する。これにより,小規模・高齢集落の限界化過程を把握することができ,集落の衰退過程を動態的にとらえることが可能となる。
    II 限界集落の抽出と限界化過程の類型化
     本研究では島根県中山間地域研究センター(2006)のデータを用い,島根県中山間地域における限界集落の抽出を行い,その集落の世帯数・高齢化率の変化を基に限界化過程の類型化を行った。その結果,島根県内には限界化レベル1および2のいわゆる限界集落は232集落あり,このうち限界化レベル1の危機的集落が79存在していることが明らかになった。次に,1980年・1990年・2000年における各集落の高齢化率および世帯数の変化から集落の限界化類型を行った。
     その結果,停滞集落(9),漸進集落’(22),進行集落(97),急進集落(10) に類型化することができた。(カッコ内は集落数)。各集落は県内各地に分布しているものの,島根県西部の県境付近および石見高原上に多数分布していることが明らかになった。
    III 限界的集落の特性と限界化要因
     次に,農業センサスを用いて類型別に人口,立地,農業経営などの集落特性を比較,分析し,限界集落に共通する限界化の要因を明らかにした。分析の結果,限界化を迎えた集落は先天的に小規模な集落が昭和の過疎により一層小規模化し,残存世帯が高齢化したことにより限界化したと考えられる。また,1970年代から80年代にかけての若年層の流出状況により限界化を迎える早さが異なっていることも明らかになった。
    IV 事例集落における限界化過程
     この他,本研究では島根県邑智郡邑南町の旧羽須美村内における4集落を事例として,各集落の限界化過程と世帯経済や農業経営の実態についても明らかにした。このうち,高齢化率70%・世帯数10戸未満の危機的集落では集落の消滅もやむを得ない状況が確認された。また,今後も世帯の維持により存続が見込まれる集落であっても,農業経営はほとんど行われておらず,集落としての機能は確実に崩壊しつつある実態が明らかになった。
  • 老人福祉センター入浴サービス利用者の調査から
    西 律子
    セッションID: 316
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     東京都文京区では、2007年4月、行財政改革の一環として、利用率が低下した施設、老朽化し、新たに建て替えることが困難な施設については廃止の方向で検討がなされ、高齢者向け余暇活動施設寿会館(老人いこいの家)も対象となった。これまで入浴サービスを提供していた寿会館を廃止し、浴室設備を持たない一般区民向け施設交流館を開館した。寿会館は徒歩でのアクセスが可能なように、区内17箇所に設置され、各館、週3日から4日、内風呂を持たない高齢者や家に風呂があっても使い勝手が悪いとする高齢者に入浴の機会を提供してきた。入浴は午後からであるが、午前中から高齢者が集まってきていた。浴室を利用することによって、対面接触に基づく緩やかな利用者同士のつながりが生じていた。 文京区は、区内公衆浴場での無料入浴デーを月2日から6日に増やすことで対処した。
     現在、介護保険制度による施設を除く、高齢者を利用対象者として位置づける施設において、浴室設備を有するのは、区内に2箇所ある老人福祉センターである。この老人福祉センターの入浴サービスは、寿会館廃止後、その利用率が大幅に増加した。どのような高齢者が新たな利用者として加わったのか、この施設利用にはどのような背景があるのか、を捉えるため、入浴サービス利用者を対象に、聞き取り調査を行った。
  • 福岡県農村部における3歳~6歳のK保育所児を事例に
    謝 君慈
    セッションID: 317
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1、はじめに
     子どもの知覚環境を扱った従来の地理学的研究では、手描き地図による分析方法が多く使われてきた。また、描図力の発達、または1人の空間的行動が許されるという前提があることで、そのほとんどが児童(小学生以上)を対象にした研究である。しかし、幼児(小学生未満)を研究対象にする場合、1人の空間的行動が許されないこと、つまり保護者の介在を前提にして考慮しなければならない。
     2005年秋、報告者は保護者の養育態度が幼児の遊び空間や知覚環境に与える影響を明らかにするために、福岡県大都市近郊における那珂川町のA保育園の3歳~6歳、計90名の幼児の保護者にアンケート調査を実施した。結果として、幼児の知覚環境や遊び空間は、保護者の養育態度にある程度の制約を受けている(謝, 2006)。
     2006年夏、報告者は幼児の知覚環境の形成を明らかにするために、詳細な現地調査の後、「景観写真による言語描写法」を用い、福岡市大都市近郊における那珂川町のA保育園の3~6歳、計91名の幼児を研究対象にして面接調査を実施した。幼児の回答内容を分析し、集計し得た結果、A保育園周辺における26項目の幼児の「知覚要素」が見出された。さらに、それぞれの要素が幼児の知覚環境の中で果たしている役割によって、大まかに26項目の知覚要素を「ショッピングの機能」「遊戯の機能」「乗り物の機能」「道筋の機能」を持つ知覚要素、という4つの要素に分類することができた。また、4つの知覚要素に対する12項目の形成要因や知覚要素による知覚方法も見出され、知覚形成過程を推定することができた(謝, 2007)。

    2、研究目的
     本研究の目的は、前回の研究対象地域である大都市近郊のA保育園の幼児の知覚環境の異質性を探究することを視野に入れた上で、大都市近郊と異なる地域性を持っている農村部を事例に、幼児の知覚環境の要素を把握することによって、幼児の知覚環境の形成を明らかにすることである。

    3、研究対象地域
     本調査の対象地域は、福岡県久留米市田主丸町川会校区である。川会校区は、豊かな自然環境のある田主丸町の西部に位置しており、計11集落と2つの団地がある。景観的には、13の居住地区を除くと、典型的農村景観が展開している。研究対象は、川会校区におけるK保育所の3歳児~6歳児、計43名の幼児である。

    4、研究方法
     まず、報告者はK保育所の幼児の保護者の案内により対象地域である田主丸町川会校区で詳細な現地調査を実施しながら、景観写真を撮影した。川会校区内の13地区に共通ルートがあることを考慮した上でK保育所⇔13地区の通園ルートを5つに分け、前回の調査で用いた「景観写真による言語描写法」という手法を踏まえ、2007年6月27日から7月19日にK保育所の3歳~6歳の幼児に個別で面接調査を実施した。
     分析方法として、幼児に見せたすべての景観写真が写った地点を1:2500の「久留米市基本図」に写真番号を落とし、面接調査で幼児が反応を示した景観写真の番号と反応を示さなかった写真の番号と違う色で区別し、43枚の地図を作成する。また、幼児の知覚要素に対する形成要因や知覚要素による知覚方法と知覚環境の形成過程を定量的方法で分析する困難性があるため、本報告では、保育園⇔原・門ノ上・志床・高島・高縄手という通園ルートに対する幼児の回答内容を事例に、分析方法を説明する。

    5、結果の概要 
     1人1人の幼児の回答内容によって、農村部の幼児における通園ルートの知覚要素を把握することができた。また、それぞれの知覚要素についてさらに回答してくれた幼児の理由を分析し得た結果、知覚要素に対する形成要因や知覚要素による知覚方法も見出された。さらに、知覚要素による知覚形成過程も推定することができた。一方、ほとんどの幼児の通園ルートも推定することができた。
  • 河端 瑞貴, タパ ラジェッシュ バハドール
    セッションID: 401
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

    I はじめに
     地理情報科学のカリキュラム開発が国内外で活発になっている.地理情報科学は,地理学を中心として,情報学,環境学,人文・社会科学など幅広い分野が関わる横断的で汎用性の高い学問領域である.したがって,地理情報科学のカリキュラムを確立するためには地理学と他分野間の連携が必須であるが,わが国では両者間の効果的な連携は必ずしもうまくいっていない.一方,地理情報科学教育で先行する米国では,地理情報科学に関連する学位や修了証書を授与する教育プログラム(以下,GIS修了証明プログラムと記す)を開設している大学が急速に増えており,そのカリキュラムの中に分野間の連携がしばしばみられる.そこで本研究では,わが国での参考とすべく,米国大学のGIS修了証明プログラムのカリキュラムにおける地理学と他分野,特に地理系と工学・情報系との連携状況を調査した.
    II 調査方法
     調査対象のGIS修了証明プログラムの選定には,URISA(Urban and Regional Information Systems Association)の2006年9月1日時点におけるGIS Certificate Programを提供する大学リスト(http://urisa.org/career/colleges)を利用した.このリストに掲載されているプログラムの中から,米国の大学であること,カリキュラムの情報がWeb上に公開されていること,およびカリキュラムの科目を提供する学科(Departmentあるいはそれに近い部門)の情報が得られることの3つの条件を満たす大学83校のGIS修了証明プログラム合計114件を選び,これらを調査対象とした.
     次に,各GIS修了証明プログラムについて,カリキュラムの概要,科目,科目が開設されている学科などを調査し,GIS修了証明プログラムのデータベースを作成した.そしてこのデータベースを用いて,GIS修了証明プログラムのカリキュラムにおける地理系学科と他学科,特に地理系学科と工学・情報系学科の連携についての全体的調査を実施した.ここで地理系学科とは学科名に‘Geo’がつく学科とし,工学・情報系学科とは学科名に‘Computer’,‘Engineering’,‘Information’がつくものとしている.GIS(Geographic Information SystemやGeographic Information Science)の名前がつく学科は地理系と工学・情報系学科からともに除いている.
    III 調査結果
     GIS修了証明プログラムのカリキュラムを構成する学科の連携状況について調べると,調査対象のGIS修了証明プログラム114件の中で,科目を提供する学科数が1つのカリキュラムは72件(63%),2つは10件(9%),3つは7件(6%),4つ以上は25件(22%)あり,構成学科数の平均は2.6であった.このことから,単一の学科で構成されているカリキュラムが過半数を占めるものの,複数の学科が連携したカリキュラムも約4割と多いことがわかる.特に,構成学科数が4つ以上のカリキュラムが2割以上存在することは注目に値する.
     GIS修了証明プログラム114件のカリキュラムにおける地理系と工学・情報系の比率を調べると,地理系学科の科目が含まれるカリキュラムは70件(61%)と多数を占め,工学・情報系学科の科目が含まれるカリキュラムは34件(30%)と3割であった.地理系学科と他分野の学科が連携したカリキュラムは,GIS修了証明プログラム114件の中で33件(29%)と約3割を占め,地理系学科と工学・情報系学科が連携したカリキュラムは23件(20%)と2割を占めていた.GISカリキュラムにおける学科間連携がほとんどみられないわが国と比較して,極めて高い割合である.地理系学科と工学・情報系を含む他分野の学科が連携している例として,コスムネズ・リバー・カレッジのGIS修了証書プログラムのカリキュラムをみると,人類学(Anthropology),生物学(Biology),電子情報科学(Computer Information Science),環境技術(Environmental Technology),地理学(Geography),地質学(Geology),園芸学(Horticulture),マーケティング(Marketing),物理学(Physics),物理化学と天文学(Physical Science & Astronomy),植物科学(Plant Science),不動産(Real Estate),社会学(Sociology)と12もの学科が連携して合計42科目を提供している.
    IV おわりに
     米国大学のGIS修了証明プログラムのカリキュラムでは,地理系と他学科の連携が多くみられ,地理系と工学・情報系学科の連携もしばしばみられる.GISカリキュラムにおける学科間連携がほとんどみられないわが国にとって,こうした米国の事例は参考になる.今後は2007年度のGIS修了証明プログラムについても同様の調査を行い,学科間の連携の在り方についてより詳細な調査を行う予定である.

    謝辞
     本研究は科研費(17200052,17202023)および財団法人福武学術文化振興財団の助成を受けたものである.
  • 道州制の区域案を事例に
    笹谷 俊徳, 貞広 幸雄
    セッションID: 402
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     行政区、選挙区、学区、用途地域、土地利用、商圏、気候区分、植生、生物の縄張りなど多くの空間分割が都市計画や地理学をめぐる現場に存在している。空間分割は一つの地域に複数並存するため、時としてそれら空間分割の比較や分類整理が必要となるが、定量的に空間分割同士の比較を行う手法は極めて限られている。
     そこで空間分割同士の定量的な比較手法と、比較結果をもとにした空間分割群の分類や典型的な案の抽出の手法を提案する。手法の特徴として、空間分割間の関係性を類似性と階層性という二つの観点から指標化する。空間分割間の類似・階層関係の度合いを定量的に表現することや、複数の空間分割を空間的特徴に基づき整理することが本研究の目的である。
    2.手法の提案
     類似性とは、二つの空間分割TiとTjにおいて二点が同じ領域に属するか否かが一致する割合だと考える。一方階層性とは、空間分割Tjにおいて同じ領域に属する二点が空間分割Tiにおいても同じ領域に属する割合だと考える。
     まずある点xにおけるTiとTjの類似性と階層性を指標化する。任意の点yが、xとTiでもTjでも同じ領域に属する割合(sA(x))、xとTiでは同じ領域に属するがTjでは同じ領域に属さない割合(sB(x))、xとTiでは同じ領域に属さないがTjでは同じ領域に属する割合(sC(x))、xとTiでもTjでも同じ領域に属さない割合(sD(x))をそれぞれ求め、xにおけるTiとTjの類似度Rij(x)とTiのTjに対する階層度Iij(x)を定義する。Rij(x)、Iij((x)はそれぞれ1から0の値をとり、1の時完全な類似性または階層性を表す。
     またTiとTjの領域全域における類似度、階層度はsA(x)~sD(x)をxについて積分したものを使い表現できる。この指標は計算上では、TiとTjを重ね合わせたときTiでは領域k、Tjでは領域lに含まれる領域の面積Sklを用いて求めることができる。
    空間分割群について求めた類似度を類似度行列として直接用いたクラスター分析による分類や、階層度を入力行列としたネットワーク分析による階層関係の有向ネットワーク表示により、多数の空間分割についてもその関係性を把握できる。
    3.ケーススタディ 道州制の区域案
     33種類の道州制の区域案、22種類の国の地方支分部局の区割り、12種類の諸団体の区割り、12種類の社会経済的・地理的条件に基づく区割りを比較し、分類・類型化した。それにより、新潟、長野、山梨、福井など中部・関東地方で特に区分が一致していないことや、分割の大中小や北陸の扱いなどにより分割群を大きく6つに類型化ができることなどがわかり、多数の空間分割の比較や分類において本手法が有効であることが確認できた。
  • 埼玉県南部地域を事例として
    高橋 優樹
    セッションID: 403
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに
     本研究は,詳細な空間スケールにおける,世帯あたり自動車保有台数と車種別自動車数の分布の地域的な差異を明らかにすることを目的としている.本研究の対象地域としては,埼玉県南部地域(旧浦和・旧与野・旧大宮・戸田・蕨・鳩ヶ谷・川口)を取り上げた.本地域は東京のベッドタウンとして発展してきた経緯から,現在では東京大都市圏の北部を成しており,人口分布や交通・就業機会などの多くの側面において東京へ向かう鉄道網に大きく影響を受けている地域である(高阪・関根,2005).
     自動車台数のデータとして,(財)自動車検査登録情報協会が発行する『町字別自動車保有車両数統計』を用いた.これには,メーカー別・車種別(通称名)・初度登録年別の台数が町字単位で記載されている.
    2.世帯あたり自動車保有台数の分析
     国勢調査小地域統計を用いて,世帯あたりの自動車保有台数を求め,第1図に分布を示した.研究地域における平均世帯あたり自動車保有台数は0.91台/世帯であった.世帯あたり自動車保有台数が高い町字は,旧浦和市東部・川口市東部・旧大宮市西部など,郊外に分布がみられる.最高値は,埼玉高速鉄道線 浦和美園駅に近い,旧浦和市東部に位置する旧浦和市大字高畑(2.52台/世帯)であった.世帯あたり自動車保有台数が低い町字は,都市部に分布がみられ,川口市南西部から旧大宮市に向かうJR京浜東北線に沿っておよそ2kmの範囲内に特に密集して分布がみられる.最低値は,JR京浜東北線 蕨駅に近い川口市芝園町(0.31台/世帯)であった. よって,世帯あたり自動車保有台数の分布には「郊外で高く都市部で低い」という傾向が見られ,最高で8.1倍の地域差がみられることが明らかになった.
    3.車種グループ別構成割合の分析
     車種別にみた自動車保有台数の地域的差異を明らかにするため,町字別自動車保有車両数統計に含まれる559車種を,価格帯を考慮して3つのグループに分類し,3グループ12車種を研究対象車種とした.
     安価な価格帯(90~150万円)の車種を「普及車グループ」,高価な価格帯(300~450万円)の車種を「国産高級車グループ」,輸入車の車種を「輸入高級車グループ」として,この3グループの分布を第2図に表した.図中の円チャートのサイズは研究対象車種の台数に比例し,チャート内の割合は各車種グループが台数に占める割合を示している.
     研究地域全体でみた各車種グループの構成割合は,普及車グループが48.2%,国産高級車グループが24.6%,輸入高級車グループが27.2%となっている.普及車グループの割合が48.2%より高い町字は,研究地域北部の旧大宮市に多くみられる.国産高級車グループの割合が24.6%より高い町字は,川口市の北東部や戸田市の西部などに多くみられる.輸入高級車グループの割合が27.2%より高い町字は,旧浦和市中心部や蕨市・川口市南西部など,京浜東北線や埼京線に沿った都市部に多くみられる.
     以上のことから,自動車分布を車種別にみると,都市部では輸入高級車が占めるシェアが平均よりも高くなり,郊外では安価な普及車のシェアが高く,川口市東部などの都市部と郊外の中間地域では国産高級車のシェアが高いことが明らかになった.
    世帯あたり自動車保有台数の分布 Fullsize Image
  • 宇都宮 陽二朗, 伊藤 昌光
    セッションID: 404
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     ここで報告する地球儀は、幕末駿河大宮(富士宮の寺社領と天領)在住の角田桜岳により製作された地球儀で、桜岳の手代、女中はじめ、木工、金工(飾り職人)、浮世絵画家、交友関係にあった浅草天文台の技官や地理学者らとの協労により完成している。安政2年頃より地球儀の製作に着手し、完成年は翌安政3年11月である。地理学者の中には新発田収蔵の名もあり、この製作に深く関わったことが知られる。地球儀は球体、地平環、子午環、脚と台座からなり、地平環の直径は293 mm (内径, 205.5 mm), 厚みは11mmである。球体の直径は198.6 mmで南北極の地軸部で直径214.3 (内径207 mm)の真鍮製子午環に固定される。球体は紙製張り子で、表面に世界図(コ゛ア)が貼り付けられている。この世界図の清書は歌川芳盛に係る。残念なことに、手代の記録でも製図者名と製図過程の記載はないため作図者は不明であるが、彼の交友関係者の中で球体の直径に対応するコ゛アの縮尺など高度な知識及び製図技術を有する者は、新発田収蔵のみであり、彼が編図から製図までを一手に引き受けたものと推定される。地平環に貼り付けられた木版の紙には方位角、十二宮、閏年間の暦月日、360度目盛などが示され、当時の地球儀の中でも、西欧製地球儀に忠実であると言えよう。コ゛アは10度毎に経緯線が引かれ、黄道と30度毎の十二宮のシンホ゛ルが記されている。
  • 目崎 茂和
    セッションID: 405
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     『古事記』『日本書紀』などの日本神話では、「国生み神話」など、神々の聖地が地名として記載され、その地理的な比定がなされてきた。本研究の発表では、
    (1)高天原・黄泉国・根堅洲国・常世など神話の仮想空間を地理学的に検討する
    (2)「国生み神話」の島々の地理構造を検討する
    (3)竺紫日向・高千穂峰、出雲、倭、伊勢、熊野などの聖地を風水学的に検討する
  • 町田 宗博
    セッションID: 406
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     1974年4月にコザ市と美里村が合併し沖縄市が誕生した。コザ市は、「基地の街」としても、また当時まで全国で唯一のカタカナの市名としてもよく知られていた。地名「コザ」の由来については、米軍の誤用により発生したものとして語られるが、その詳細については明らかではない。本報告では、最初に米軍作成の地図(AMS図)と米軍資料を用い、地名「コザ」の発生の状況を明確にする。次に、沖縄戦後の米軍、沖縄側行政担当者、一般住民における「コザ」をめぐる動きの中で、社会変動の表象としての地名「コザ」について考察していく。
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