日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の203件中1~50を表示しています
  • 井上 知栄, 植田 宏昭
    セッションID: 201
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     IPCC第4次評価報告書において地球温暖化予測に用いられた,第3次結合モデル相互比較プロジェクトの全球大気海洋結合モデルにおける,アジア・西部北太平洋域モンスーンの夏季平均場,および西部北太平洋域・東アジア域周辺にみられる,対流活動の段階的な季節的東進などについて,降水・循環場の地理的分布や,雨季の開始などの季節変化に関する気候学的観点から,観測データとモデル出力との比較解析を行った.  夏季(6~8月)平均場における観測とモデルの比較解析の結果,多くのモデルはアジアモンスーンの降水や風の場の広域的特徴を再現しているが,東アジアから西部北太平洋にかけての領域において,下層風や,北太平洋高気圧の位置や強さの再現性については,モデル間のばらつきが大きい.また,西部北太平洋における下層西風が観測より強い(弱い)モデルは,日本付近における太平洋高気圧の張り出しが観測より北偏(南偏)する傾向が確認された. 西部北太平洋およびその周辺領域における3度の段階的な季節進行の時期を調べるため,南シナ海(110°~120°E,10°~20°N),フィリピン東方(127.5°~140°E,5°~15°N),対流ジャンプ領域(130°~165°E,15°~25°N)における,半旬降水量の季節進行を比較した.南シナ海の5月中旬における雨季開始は,観測に比べてやや遅れて生じるモデルが多い. 6月におけるフィリピン東方の雨季開始の時期は最もモデル間のばらつきが大きい.7月における対流ジャンプの時期は観測に比べて2~4半旬早いモデルが多く,多くのモデルにおいて,3段階の季節進行の時間間隔が,観測より短い傾向を示す.このほか,観測と同様に結合モデルにおいても,7月中旬ごろの西部北太平洋上における対流活発化の再現性が,日本付近の梅雨明けの再現性にとって重要である可能性が示唆された.
  • 植田 宏昭, 大庭 雅道, 謝 尚平
    セッションID: 202
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     アジアモンスーンの成立と変動は、海洋と陸面過程の複合的な影響で引き起こされていることは論を待たないが、その定量的な評価は十分とは言えない。二十一世紀に入り、地球温暖化によるアジアモンスーンの変調、とりわけ日本を含む広域アジアの水資源問題が注目を集めているが、トレンドの議論とともに、それらを裏付ける物理プロセスの解明・提示が必要とされている。本研究では、アジアモンスーンを形作る季節変化に内在する大気・海洋・陸面間のフィードバックプロセスの特定とその定量化を目的とする。  大気海洋結合大循環モデルを用いて、モンスーンの段階的な季節進行における海洋と陸面の寄与について、正と負のフィードバックの定量化を行った。夏のアジアモンスーンは、5月中旬のFirst Transition、6月中旬のインドモンスーンオンセットおよびITCZの成熟、7月中旬のConvection jumpの3回の急激な季節変化によって特徴付けられる。  これらの変化における、SST効果、放射/陸面効果を算出したところ、5月中旬のオンセット(南シナ、インドシナ半島など)は、広域の温度コントラストの反転が主要素であることを反映し、SSTの効果は相対的に小さいことが実験的に明らかになった。一方、6月中旬のSSTは対流活動の活発化に対し負のフィードバック効果として働いている。  西太平洋上の対流ジャンプにおけるSSTの寄与は低く、対流活動を抑制するプロセスがあることが示唆された。なお、この対流抑制プロセスを引き起こす下降流の成因については、線形傾圧モデルを用いて、ITCZによる熱源応答との関係を実験的に示すとともに、TRMM-PRHデータやAIRSなどの人工衛星データから、対流活動の前兆現象とされる対流圏中部の背の浅い対流による湿潤化の描像を明らかにした。
  • 加藤 央之, 永野 良紀, 田中 誠二, 山川 修治
    セッションID: 203
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     地球温暖化に伴う気候変化により,平均場の変化とあわせて日々の天気パターンがどのように変化するかを知ることは重要である。これまで,日々の天気パターンすなわち地域的な気候・気象現象を説明する背景として地上天気図(気圧配置パターン)のパターン分類(吉野・甲斐,1977;気候影響利用研究会,2002など)結果が有用な指標となっていた。しかし,この分類では複雑なパターンになると,分類に主観が入る可能性があり,また,地球温暖化時の予測結果に対しては同等な天気図が準備されないため,現在と将来の定量的な比較を行うことは難しい。そこで,海面気圧の分布パターンを多変量解析を通じて客観指標に置き換え,これを分類することにより,現在と将来の定量的な比較を行うことを試みる。本発表では,まず東アジアにおける10年間の午前9時の海面気圧データ(3653日)を用いた手法の構築を行い,従来の天気図分類パターンとの比較を通じて手法の妥当性の検証を行う。  解析には1991年~2000年の東アジア地域(北緯20度~52.5度,東経110度~160度)における午前9時の海面気圧データ(NCEP/NCARの再解析データ)を用いた。水平解像度は緯度2.5度×経度2.5度である。海面気圧データに主成分分析を行い,得られた第1~第6主成分までの主成分スコアに対する6次元空間内で3653日のクラスター分析(群平均法)を行った。ここで主成分については各年毎のデータを用いた予備解析の結果から,毎年安定した変動パターンとして出現する第6主成分までを採用した。また,クラスター分析についてはクラスター間の距離が急激に増加する直前の7グループを大分類とし,それぞれのグループについては別途詳細分類を行って結果を調べた。  主成分分析の結果,第1主成分は大陸の高(低)気圧の盛衰を示すパターン,第2主成分日本の東方における低気圧の盛衰を示すパターンであり,寄与率はそれぞれ51%, 16%である。また,第6主成分までの累積寄与率は87%で対象領域の気圧変動の大部分を説明できる。クラスター分析の結果分類された各グループのうち,代表的な2グループの月別出現頻度を図1に示す。また,各グループの平均パターンを図2に示す。各グループの出現頻度は明確な季節特性を示した。従来の天気図分類パターンとの比較により,いくつかの相違点が明らかになった。これは例えば西高東低の冬型気圧配置としても,本手法ではその強度による分類のほか,大陸の高気圧が発達したものか東海上で低気圧が発達したものかを明確に区別することによるものである。
  • 田中 誠二, 加藤 央之, 山川 修治
    セッションID: 204
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     前報では前線の出現と海面気圧との関連性について発表を行った.しかしながら前線の出現について背後関係にあるものは海面気圧のみではとらえられず,高層における気象場などとの関係も考慮に入れる必要がある.そこで本発表では,前線の出現頻度と高層の気象場についての関係を調べ,その関連性を考察した.
    2.研究方法
     まず,前線の出現パターンを把握するため,気象庁作成の地上天気図より,東経110度から東経170度までを10度ごと,北緯20~65度の範囲で5度ごとに区切って出現数データを作成し,主成分分析を行った.また,NCEP-NCAR再解析データより,500,600,700,850,925,1000hPaにおける高度場,気温,東西風,南北風,および海面気圧についても同様に主成分分析し,前線出現パターンとの関係性を調べた.さらに,気象場と前線出現との相関を調べ,有意である地域を判別した.
    3.結果
     11月における前線出現の主成分分析結果のうち,特に第3主成分が高層の気象場と関連性があった.以下ではこの主成分分析結果について述べる.
     11月における前線出現の第3主成分は,関東南方~沖縄付近に作用中心が現れるパターンである(図1).これは当該地域における前線出現の多少を現していると考えられる.
     11月の第3主成分は,ほぼすべての気象場と有意な関係が認められた.まず,高度場と海面気圧では,700hPa以上の高度場では日本南東方に作用中心,カムチャッカ半島付近に他の作用中心が現れるパターン,850hPa以下の高度場および地上気圧では日本東方から沿海州にかけての領域に作用中心,カムチャッカ半島の北方に他の作用中心が現れるパターンが対応していた.気温については日本の南方に作用中心を持ち,バイカル湖からカムチャッカ半島にかけての領域に他の作用中心を持つパターンが対応していた.東西風では,北緯45度付近におけるおもに東経140度以東の領域で作用中心が現れるパターン,南北風では600hPaおよび700hPaにおいて日本付近を境界にしたパターンとの対応が認められた.またこれらの結果は日本付近の地域で有意となることが認められた(図2).
     これらの結果より,11月における関東南方~沖縄付近にかけての前線の出現には,850hPa以下では大陸の高気圧(シベリア高気圧)の東方への張り出し,700hPa以上では日本東方の気圧傾度,また日本の南方と北緯55度付近との気温傾度,日本付近における偏西風の蛇行,および北緯45度・東経140度以東における偏西風の強さが関与していると考えられる.
  • 遠藤 伸彦, 松本 淳
    セッションID: 205
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1. はじめに
    地球温暖化に伴い気温や降水の平均値のみならず,気候の極端現象の発現頻度や発現時の強度が変化するのではないかと考えられている(e.g. IPCC AR4, 2007).WMOとCLIVARが組織したETCCDMIは,気温や降水の極端現象(Climate Extremes)に関する指標を考案し,世界の各地域で降水特性(降水量,降水頻度,降水強度等)の長期変化傾向を把握する努力を続けており,その成果はAlexander et al. (2006)にまとめられ,IPCC AR4にも採録されている.しかし,東南アジアにおいては極端現象の長期変化傾向についての研究は非常に限られた地点でしか行われていない.本研究では,GAME・MAHASRI等のプロジェクトを通じて東南アジア諸国の水文気象局から入手した日雨量データを用いて,降水の極端現象の長期変化傾向とその地域性を報告する.
    2. データ・品質管理
    本研究の対象国は,ミャンマー・タイ・ラオス・カンボジア・ベトナム・マレーシア・シンガポール・ブルネイ・フィリピンであり,長期間(少なくとも30年以上)の日雨量データが利用可能である251地点を選択した.各地点の日雨量データに対して,Wijngaard et al. (2003)にならい4種類の均質化テストを適用した.全地点中3地点では4種類の均質化テストでデータが均質でない可能性があると判断されたが,図中ではそのまま表示した.
    3. 結果
     それぞれの降水指標に対しノンパラメトリックなMann-Kendall検定を適用して長期変化傾向を評価した.なお,トレンドの大きさは線形回帰式から求めた.年降水量は紅河流域で減少トレンドが目立つが領域全体では増減に偏りはない.降水日数(日雨量1mm以上)が領域全体で減少傾向が顕著であり,年降水量に大きな変化がないため,結果として平均降水強度は領域全体で増加傾向である.日雨量50mm以上の日数は,紅河流域で減少し,ベトナム南部で増加している.また,マレーシアの西岸でも減少している.1961年から1990年を基準期間とし, 日雨量の95(99)パーセンタイル値を地点ごとに求めた.この基準となるパーセンタイル値以上の日雨量を各年毎に積算し,トレンドを求めた.95(99)パーセンタイルを超える降水は紅河流域・バンコク付近・マレーシア西岸で顕著な減少傾向あった.一方,ベトナム南部では95(99)パーセンタイルを超えた降水は増加傾向である.フィリピンでは強い降雨の発現頻度が増加している地点が相対的に多い.ミャンマーでは乾季の長さが長期化する傾向であった.
  • 平野 淳平, 三上 岳彦
    セッションID: 206
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1. はじめに
    近年、数値モデルにもとづいた気候の将来予測が盛んに行われているが、的確な将来予測のためには、過去から現在にいたる気候変動の実態を正確に理解する必要がある。日本において公式気象観測記録が得られるのは1870年代以降に限られるが、Zaiki et al., (2006) などによって、19世紀に行われていた非公式な古気象観測記録が補正・均質化され、気候変動解析に用いられている。このような古気象観測記録とは別に、最近、水戸における幕末期(1850年代)の気温観測記録の存在が明らかになった。これらの古気象観測記録からは、幕末期(1850年代-1860年代)に一時的な温暖期が存在したことが示唆される。この時期は、小氷期(Little Ice Age)末期に相当するため(Lamb 1977)、日本においても温暖であった可能性があるが、古気象データには観測方法による誤差が含まれていると考えられる。そのため、実際に幕末期がどの程度温暖であったのかを議論するためには、代替データを用いて当時の気温を推定した上で、観測値との比較・検証をする必要がある。
    本研究では、1830年以降、観測時代にかけて継続的に得られる古日記天候記録を用いて、冬の気温を推定し、幕末期(1850-1860年代)の冬が現在と比較してどの程度温暖であったのかを解明することを目的としている。
    2. データと方法
    東北地方南部に位置する山形県川西町で1830年から1980年まで「竹田源右衛門日記」に記されていた毎日の天候記録を代替データとして用いた。また、1890年以降については、近接する山形の気象官署における冬季3ヶ月(12-2月)の月平均気温データを用いた。古日記天候記録から冬季気温を推定するために、1890年-1980年の期間において「竹田源右衛門日記」から求めた12-2月の降雪率(雪日数/降水日数×100)と山形における12-2月の3ヶ月平均気温との関係を検討した。その結果、両者の間には危険率1%で有意な負相関(r=-0.75)があることが判明した。両者の間に成り立つ回帰式を元に12-2月の降雪率を説明変数、12-2月の3ヶ月平均気温を目的変数として1830年-1890年の川西町における冬季平均気温を推定した。
    3. 結果と考察
    図1は、上記の方法によって推定された川西町における1830年代以降の冬季気温の変動を示している。この推定結果から幕末期には、1)1840年代後半-1850年代前半と2)1860年代後半の2つの一時的な温暖期が存在したことが指摘できる。標準誤差(±0.6℃)を考慮すると、これらの2つの時期の気温は、現在(1971-2000年)の気候値とほぼ同程度と考えられる。19世紀の古気象観測記録からもこの2つの時期が暖冬であったことが示唆され、本研究の結果と整合的である。また、1860年代後半の温暖期には諏訪湖で明海(全面結氷が起こらない)となった年が含まれていることから、本研究による推定結果の信頼性は高いと考えられる。
  • 石坂 雅昭
    セッションID: 207
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    近年の気候値の変化から最深積雪の気温および降水量依存性を調べた結果、冬期モンスーンによる多雪地域では、温暖積雪地域の気温に対する負の依存性が見られるのに対して、同じく寒冷地域では気温依存性はなく降水量のみに依存することがわかった。そして、前者の気温依存性に法則性がみられることから、これらの多雪地域については、気候変動による気温と降水量の変化がわかれば、積雪深を予測することが可能である。また、北海道東部太平洋側の地域は、気温に対する正の依存性がある得意な地域であることなどもわかった。
  • 佐川 正人
    セッションID: 208
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.目的
    北海道東部太平洋側では濃霧の頻発することが知られている.しかし,「濃霧」とは概念的にわかっているものの,その濃さ(視程)についてはよく分かっていない.今回,視程の連続観測を実施し,同時に1事例のみであるが霧の酸性度及び電気伝導度についても観測をおこなった.これらについて報告する.
    2.結果
    完全には通年ではないが,北北東の前後および南南西の風の場合に霧が多く出現し,それぞれにおいて視程200m未満の濃霧の出現頻度の多いことが明らかになった.これらの方向は釧路高専から見て南に太平洋,北北東に釧路湿原が位置していることから,北よりの風の場合には釧路湿原における放射霧,南よりの風の場合には移流霧(海霧)であることが容易に想像できる.また,視程100m未満の濃霧も約1%出現しており,これは放射霧,移流霧ともに大きな差異は認められない.2009年7月7日夕方から7月8日早朝にかけて,霧の酸性度および電気伝導度の測定をおこなった.この期間,視程は300m前後であった.pHは6.2,電気伝導度は113μS/cmであった.pH,電気伝導度については今後いくつかの地点で観測を実施し,移流霧と放射霧においての差異を明らかにする予定である.
  • 立入 郁, 篠田 雅人
    セッションID: 209
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    農牧業を国の基幹産業とするモンゴル国においては、気象災害は国の社会経済に大きな影響を及ぼす。特に、近年発生した大規模な干ばつやゾド(寒雪害)はモンゴルの社会経済に深刻な被害をもたらしたことが伝えられている。加えて、地球温暖化による気候変動、砂漠化などに伴う自然環境や陸上生態系の長期的な変化は、農牧業への影響、水資源への影響などを通して自然に依存している部分の大きいモンゴル国民の生活に深刻な影響を与える懸念が指摘されている。本研究では、干ばつ・ゾドのメカニズム解明と早期警戒を目的として著者らが先に開発した回帰木を用いた診断モデルを、温暖化予測モデルの出力値のみを用いる形に簡略化し、今世紀の残りにおけるゾドリスク評価を行った。2010~2099年のゾド頻度をみると、中南部から北東部にかけての地域でゾドの頻度が高く、特に被害の大きいゾドは南部から東部にかけての3アイマグ(県)に集中してみられた。
  • 咏梅 咏梅, 境田 清隆
    セッションID: 210
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1. はじめに
    中国内モンゴル自治区中部の渾善达克(フンシャンダーガ)沙地(41.25°N-44.5°N,112.25°E-117.5°E)は,乾燥,半乾燥地域と半湿潤地域との境界地域に位置する。近年沙漠化の進展が著しいと言われ, 首都北京に近く砂塵暴の発生源として注目を集め、様々な研究が行われている。衛星データを用いて渾善达克沙地地域の沙漠化について調べた先行研究は烏欄図雅(2001),武(2003),何(2003)などがあるが,2ないし3つの限られた年代の比較で沙漠化の進展を結論付けており,植生量の変化の実態をとらえてはいない。一方2001年から実施された「禁牧」,「退耕還林還草」,「京津風沙源治理工程」など沙漠化・沙塵暴防止の取り組みにより、一部では植生量の回復が指摘されている(金ほか,2006;周,2004)。
    2. 研究方法及びデータ
    植生量変化の実態を捉える方法の1つとして正規化植生指数(NDVI:Normalized Difference Vegetation Index)が広く使用されている。本研究では,NDVIデータとしてNOAA/AVHRRの1981年から2006年(解像度8km)までのデータとMODIS/Terraの2001年から2006年(解像度500m)までのデータを用いて,植生量の時空間的経年変化を調べた。また土地類型毎に植生量の経年変化を調べるため,2000年Landsat TM(解像度30m)データを基に内蒙古師範大学が作成した内モンゴル土地利用図を使用した。植生量に影響を及ぼす気象要素としては,対象地域における11観測点の1981年から2006年までの月別気温,月別降水量及び旬別降水量データを使用した。
    3. 結果
    (1)対象地域(渾善达克沙地)全体のNDVIの変化傾向をみると,1980年代から90年代にかけて増加し,2000-2001年に減少したが,そのあとやや回復し,期間全体としての減少傾向は認められない。
    (2)NDVIの変化傾向を土地利用別にみると,集落および都市において減少傾向を示すが,他の土地利用においては減少していない。
    (3)NDVIは降水量の変動と高い相関を示し,乾燥地域では生育期間の降水量が植生に重要であると考えられる。また土地利用別にみると,草地と沙地(未利用地)において相関が高く,地域的には乾燥の著しい西部において相関が高いことが分かった。
    (4)近年において同程度に顕著な少雨年(1989,2001,2005年)のNDVIを比較すると,2001年で最も低下が著しく,2005年には低下が少ないことが判った。この傾向は北東部の錫林浩特市で顕著であり,現地の聴き取り調査から,2000-2001年にかけては旱魃にイナゴ害発生が加わり、頻繁な砂嵐の発生などにより植生が退化したこと2002-2004年にかけては降水量の増加、禁牧政策の効果により植生が回復したことが分かった。
  • 吉田 圭一郎, 飯島 慈裕
    セッションID: 211
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    I はじめに
     小笠原諸島の気候は長期的な乾燥傾向にあり,夏季の乾燥期間(「夏季乾燥期」)が長期化し,その乾燥の度合いが強くなりつつある(吉田ほか 2006).この夏季乾燥期の存在は小笠原諸島の固有植生の成立に強く関わっており,夏季乾燥期の土壌水分条件は乾性低木林の重要な成立要因とされる(吉田ほか 2002).季節的な乾燥は植物の生長を制約し,地域の植生に影響する(Adams and Kolb 2005).したがって,気候の乾燥化が小笠原諸島の固有植生に与える影響を評価するためには,夏季に卓越する季節的な乾燥に対する植物の生長の応答について明らかにする必要がある.
     本研究では,今後の乾燥化による小笠原諸島の植生への影響を評価するため,季節的な乾燥と固有種の生長との関連を明らかにする.そのために本研究では夏季乾燥期の土壌水分量が異なる地点でシマイスノキの幹生長の季節変化を比較し,土壌水分条件が幹生長に与える影響について考察した.

    II 調査地と方法
     本研究では,乾性低木林が分布する父島東部の初寝山(215m a.s.l)と東平(226m a.s.l)に観測点を設け,土壌水分量とシマイスノキの幹生長量について連続観測を行った.土壌水分量(体積含水率%)はTDR式土壌水分計により10cm深で測定した.シマイスノキの幹生長量は2個体の主幹にデンドロメータを設置し,連続観測した.夏季に卓越する季節的な乾燥環境を把握するため,初寝山と兄島の気象観測データを用いた.本研究では2006~2008年までの観測データを使用した.

    III 結果と考察
     図1には初寝山と東平におけるシマイスノキの幹の生長期間を示す.両地点とも幹生長の開始は5月中旬で,その年々変動は小さかった.幹の生長期間の終了は,2006年には両地点で同時期の6月下旬に幹の生長期間が終わったが,2007年と2008年には東平に比べ初寝山の方が早かった.特に2008年には東平では7月28日まで幹生長が観測されたのに対し,初寝山では6月21日には幹生長がみられなくなり,1ヶ月も短くなった.
     厳しい乾燥環境が卓越し,土壌の水ポテンシャルが低下すると樹木の生長期間が終了することが多くの研究で示されている(例えば,Royce and Barbour 2001など).初寝山では夏季乾燥期に土壌水分量が25%以下となり,土壌の水ポテンシャルが急速に低下していた.このことから,夏季乾燥期の土壌の水ポテンシャルの低下がシマイスノキの幹生長の終了を早める直接的な原因であると考えられた.実際,初寝山では土壌水分量が25%以下になるとシマイスノキの幹生長が終了し,その後は幹が収縮して乾燥ストレスを受けていた.
     本研究の結果から,季節的な乾燥により土壌水分量が著しく低下する場所では,その影響でシマイスノキの生長期間が短縮されることが明らかとなった.今後も乾燥化傾向が継続した場合,構成樹種の生長量が低下し,その結果として群落高などの植生構造が変化することが予想される.

    本研究は科学研究費補助金「植物の水利用様式からみた気候変化が小笠原諸島の固有植生に及ぼす影響の解明」(平成20~21年度,若手研究(B),20700670,代表:吉田圭一郎)の補助を受けた.
  • 渡来 靖
    セッションID: 212
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     関東平野では,越後山脈や関東山地を越えて吹き降りてくる気流によるフェーン現象によって,しばしば昇温がもたらされる.熊谷で国内最高気温(40.9˚C)を記録した2007年8月16日でも,フェーンが高温要因の一つであったことが示されている(例えば,渡来ほか 2009,日生気誌,46,35-41).
     冬季においては,関東平野では季節風が山を越えて吹き下ろす空っ風が吹くことが多いが,もともと冷たい気団のためボラ型となることが多い.しかし,2009年2月20日に,北西風に伴って急激に気温が上昇する現象が観測された.今回はその事例について,昇温要因を調べるために解析を行った.
    2.事例解析
     2009年2月20日は,南岸低気圧の影響で未明に降水があり,熊谷や前橋では積雪も観測されたが,低気圧が関東の東に抜けると関東平野に北西風が吹き込み,北西内陸域を中心に急激な昇温が観測された.特に,関東平野北西内陸域の中央に位置する熊谷では昇温が大きく,15時から16時の1時間で3.0˚C上昇した.昇温と同時に相対湿度は急落し,北西風が急激に強まっていることから,フェーン現象が昇温の一因であることが示唆される.また,前橋・熊谷・東京の観測値を見ると,地上気温・相対湿度・風速の急変時刻は,前橋が14時,熊谷が16時,東京が21時頃であり,フェーンによる昇温の影響が時間とともに南東へ広がっている様子がわかる.
    3.領域気象モデルによる再現計算
     詳細な昇温メカニズムを調べるため,領域気象モデルWRF(Ver.2.2)を用いた再現計算を試みた.初期・境界値には気象庁MSMデータを用い,計算初期時刻は2009年2月18日21時(日本時間)とした.
     再現計算の結果,気温の変化傾向や降水域など,概ね再現された.しかし,熊谷で観測された日最高気温は約5˚C過小となっており,十分再現されていない.今後はモデルのチューニングなどを行い,熊谷での急激な昇温の要因を調べる予定である.
  • 秋本 祐子, 日下 博幸
    セッションID: 213
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1. はじめに
    気候学の研究は観測や統計解析による研究が中心であったが,近年,気候モデルを用いた研究もさかんに行われるようになってきた.特に,小気候の分野では,領域気候モデルの一つであるWeather Research and Forecasting (WRF)モデルが有効な解析ツールとして注目を集めている.
    WRFを使用する際には,大気データや土地利用データ等を入力する必要がある.一般的なユーザーは,デフォルトとして与えられている入力データを利用している.したがって,現時点で,デフォルトの計算設定でのWRFモデルのパフォーマンスを十分把握しておく必要がある.同時に,計算設定を変更することでモデルの再現精度がどの程度改善されるかを定量的に把握しておく必要がある.
    WRFモデルの再現性の検証は,いくつかの事例に対しては行われてきているが,気候モデルとしての性能の検証はほとんど行われてきていない.さらに,入力データの変更によって,WRFモデルの地上気温の再現精度がどの程度向上するのかを気候学的に評価した研究もほとんど見られない.
    そこで本研究では,夏季の関東平野を対象として,WRFモデルの地上気温の再現性を検証する.さらに,土地利用データや大気データの変更がWRFの地上気温の計算結果に与える影響を定量的に評価する.
    2. 計算設定
    WRFの計算設定を表1に示す.日本全土を含む2400km×2400kmの領域を第1領域とし,太平洋・中部山岳・関東平野・日本海を含む484km×484kmの領域を第2領域として計算を行う.このうち,関東平野を解析対象領域とする.積分期間は,2002年から2006年までの各年の7月27日9時(Japan standard time, JST)から9月1日9時(JST)までとする.このうち,各年の8月1日から8月31日までの1ヶ月間を解析対象期間とする.
    3. 数値実験の概要
     はじめに,基準実験(Case1)を行う.Case1では,デフォルトで与えられている入力データを用いる.具体的には,大気データには米国環境予測センターの客観解析データ(Global Final Analyses, FNL)を,土地利用データには米国地質調査所のデータを用いる.次に,入力データの感度実験を行う.Case2では,大気データの感度を調査する.具体的には,大気データをデフォルトとして与えられているFNLからJRA-25(Japanese 25-year Re-Analysis)及びJCDAS(JMA Climat Data Assimilation System)に変更する.Case3では,土地利用データの感度を調査する.具体的には,土地利用データをUSGSのデータから国土地理院の3次メッシュ(約1km2)のデータに変更する.
    4. 結果
     AMeDAS観測値と数値実験の計算値から作成した2002年8月の平均気温の水平分布を図1に示す.AMeDASの観測結果では,東京都心部を中心に高温域が北西方向に広がっている(図1a)これらの特徴は,Case1~3の数値実験でよく再現されている(図1b - d).大気データを変更すると(Case2),全体的に気温が1~2℃程度低く計算される(図1b, c).特に,関東平野北西部や,神奈川県東部で地上気温が過小評価されている(図1c).土地利用データを変更すると(Case3),関東平野北西部や神奈川県東部における地上気温の過小評価が改善される(図1d).
    他の年でも,大気データを変更すると地上気温が全体的に±1~2℃程度の変化が見られる.また,土地利用データを変更すると一部の地域の地上気温が変化し,その分布特性が変化する(図省略).発表では,これらの結果に合わせて,擾乱のある日を除いた解析結果についても紹介する.
  • 西森 基貴, 桑形 恒男, 石郷岡 康史, 村上 雅則
    セッションID: 214
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    著者らはすでに,都市と郊外の気象観測点における気温変化傾向の相違,例えば気象庁17官署(JMA-17)の山形と近隣の小国アメダスとの比較を行い,また大都市気象官署,JMA-17,および近藤純正が選定した11地点の各平均気温の比較からJMA-17にも都市影響が含まれていることを示し,さらに新たに非都市19観測点を選定し,気温変化傾向の地域性・季節性を論じた(07年秋季大会;西森ほか(2009)-農業気象)。今回はそれらに引き続き,都市の影響を取り除いて温暖化の農業影響を考える上で重要な「農耕地気候変動モニタリング地点の選定」とその選定過程において明らかになった,日本の地域ごとの気温変化傾向とそれに影響する周辺土地利用の関係について報告する。
     地上気温データの解析期間は,1980-2007年とする。ここで2003年以降の最高最低気温は,気象庁では10分ごとのデータにより算出するが,統計の連続性の観点から,1時間値から算出し直したものを用いた。解析手法は,線形トレンド解析を中心とする。また周辺土地利用との関係では,国土数値情報における1997年時点の3次メッシュ土地利用分布を用いた。集計に際し,農地は水田+畑地,都市率(UA)は建物+幹線道路とする。観測点周辺の土地利用算出に当たっては,地点から擬似円形5kmの範囲で藤部の対数的距離重み付け法を採用した。
     図1には,四国のアメダス地点における年平均日最低気温の線形上昇トレンドでの大きさを示す。これによると高松・高知という県都観測点の大きなトレンドが目立ち,都市の影響がうかがえる。実際このトレンドの大きさと,周辺UAとの関係を散布図にすると,UAの大きな地点ほど昇温が大きい関係が得られる。ただ年平均日最高気温トレンドの大きさと周辺土地利用との関係は明瞭でなく(図略),例えば高知県ではUA28.1%の県都高知,高知県農業技術センター内にあり周辺農地率42%の後免,都市化影響のない官署の室戸岬,そしてUA0.6%と高知県最小の梼原における日最高気温のトレンドの大きさはほぼ同じである。このように1980年以降は都市以外の観測点でも最高気温上昇が顕著で,その傾向は高知・四国のみならず広く西日本にわたり,さらに春秋の昇温が著しいことがわかった。
     図2は関東地方アメダス地点における年平均気温の線形トレンドを高中低に3類型化し,1997年時点のUAと農耕地率の散布図に上乗せしたものである。これにより,昇温トレンドと周辺土地利用に対応したアメダス地点の分類が可能となった。まず年平均気温の上昇が~1.0℃/25年と小さい地点(▲)は,みなかみ・那須など周辺が都市でも農地でもなく森林が多い高地観測点(Groupu-L)であり,いわゆるバックグラウンド気温の変化傾向を表していることが示唆される。またトレンドが1.4℃~/25年の地点(●)は,東京・横浜・千葉などの典型的な都市地点(Group-H)など,おおむねUA大の地点が多い。そしてトレンドが1.0~1.4℃/25年以下と中程度の地点(■)は,またいくつかのグループに分けられるが,UAと農地率がともに高い都市農地地点(M-1),農地率が極めて大きい龍ヶ崎・下妻(茨城県),真岡・大田原(栃木県)および横芝光(千葉県)などの純農地地点(M-2),UAが小さく比較的森林が多い森林農地地点(M-3)などに分類可能である。中でもM-2地点は「農耕地気候変動モニタリング地点」の目的に合致すると思われるが,その昇温程度はGroup-Lのバックグラウンド地点よりは大きいことがわかった。
  • 日下 博幸, 縄田 恵子, 木村 富士男, 宮 由可子, 秋本 祐子
    セッションID: 215
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1. はじめに
    近年,ヒートアイランドと地球温暖化,猛暑,局地豪雨との関係が社会的な関心を集めている.これに呼応して,現在,これらの視点に立ったヒートアイランド研究が活発に行われている.都市で発生する対流性降水に関する数値モデル研究の多くは,ある降水事例に対して都市あり実験と都市なし実験を行い,その差から都市が降水におよぼすインパクトを論じたものが多い.前回大会では,東京で発達した降水事例に対して同様な感度実験を行い,都市の存在が降水量を増加させるという結果を得ることもあるが,計算条件によっては逆の結果が得られることもあるということを示した.同時に,これはシミュレーション結果にカオス性が明瞭に現れたためであり,従来の決定論的な感度実験を行うことにより局地豪雨に対する都市の効果を評価する際は細心の注意を払う必要があることを述べた.
    本大会では,前回大会で紹介した局地気候シミュレーション手法に加えて,アンサンブル予報的な考えを導入した結果を紹介する.
    2. 都市気候シミュレーションのアンサンブル感度実験
     前述した問題を克服するための手法として,気候実験がある.気候として見ることにより,数値シミュレーションの初期値問題的な性質を弱め境界値問題の性質を強めることができ,都市という境界条件の違いが検出しやすくなると思われる.われわれのグループでは, 2001~2008年の8月を対象に関東地方の気候に対する都市の有無の感度実験を行った.その結果,都市効果により都市域で降水量が明瞭に増加するという興味深い結果を得た(図1).しかしながら,都市以外の場所でも降水量の増加や減少が顕著に認められる場所がいくつかあるため,この都市域で認められた降水量変化が都市によるものなのか,単なるカオスの影響なのか判断することは難しい.そこで,本研究では,境界値として利用している客観解析データを変えることにより,この不確実性を減らす努力を行っている.図2aは境界値を気象庁の領域客観解析データ(RANAL)から気象庁・(財)電力中央研究所の長期再解析データ(JRA25)に変更した場合,図2bは米国環境予測センターの最終解析データ(FNL)を用いた場合の結果である.都市が降水量を増加させる,あるいは減少させる地域は数多くあるが,境界値としてどのデータを用いた場合でも,東京付近では降水量が増加していることは興味深い.
  • 榊原 保志
    セッションID: 216
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    沖縄県那覇市におけるヒートアイランドの時間的変化の特徴が1年間の都市(市街地駐車場)と田舎(原野に隣接する駐車場)で観測された地上気温の差を用いて示された.そして,都市と田舎における気温鉛直勾配の時間的変化の特徴が市街地の小学校の校庭と屋上および原野に隣接する駐車場とその近くにある建物屋上で観測された気温から示された.快晴時のヒートアイランドは日中小さく夜間大きくなるといった日変化を示すのに対し,くもりまたは雨の時は大きな日変化は見られない.都市域における鉛直気温の勾配ULRは日変化せず雲量の大小に関係なく0.01℃/m以下と中立状態に近い.田舎の鉛直気温の勾配RLRは日中はほとんどゼロに近いが夕方から大きくなり明け方最大になる日変化が快晴時に見られた.
  • 大久保 さゆり, 高橋 日出男
    セッションID: 217
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     国内の常時監視データを用いて,SPM濃度の長期トレンドと年々変動について整理した.SPM濃度は,冬季,夏季,春季に濃度のピークを持ち,程度に違いはあるものの,どのピークにも減少トレンドがみられた.人為起源の粒子による寄与が高い冬季や夏季には,大都市域を中心に濃度の低下が広くみられた.冬季のSPM濃度は,移動発生源の規制が実施された大都市域だけでなく,多くの地域で濃度が減少しており,ダイオキシン類の規制など,全国で共通するSPMの減少要因も存在することを示唆した.一方で,夏季のSPM濃度は,おおむね減少傾向にあるものの,一次粒子の寄与が大きい冬季に比べると,減少の度合いは小さかった.地域差の大きい人為起源粒子の寄与が相対的に小さくなる春季には,SPM濃度は国内の多くの地域で同様の経年変動がみられることを示した.  さらに,SPM濃度には長期の変動や地域による特徴だけでなく,全国規模で共通する年ごとの濃度変動もみられることを明らかにした.冬季,夏季の高濃度年/低濃度年の気象場の解析から,全国的にSPM濃度が上昇,低下するときは,総観スケールの気象場にもその要因があることを示した.
  • 宮本 真二, 内田 晴夫, 安藤 和雄, ムハマッド セリム
    セッションID: 218
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    バングラデシュのほぼ中央部,ジャムナ川の支流であるロハジョン川沿いに位置するタンガイル県,ドッキンチャムリア村(Dakshin Chamuria)における土地開発過程の検討を行った.  現地点での結論を以下にまとめる.ジャムナ川中流域では,1.約12~11千年前に形成された洪水氾濫堆積物(自然堤防状の微高地)を利用するかたちで,それ以降に,生産域と居住域の開発が行われた.その後も2.幾度かの洪水に見舞われながらも,盛土の主体部の維持管理はマティ・カタによって、恒常的に実施されてきた.さらに,少なくとも3.約1.3千年前までには当該地域において,生産域としての水田開発に連動する形で近隣地域に屋敷地が形成されたものと推定した.
  • 茗荷 傑
    セッションID: 219
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    はじめに
    茗荷(2009)では北軽井沢の土地機能回復過程について、六里ヶ原、押切場周辺の現在の植生及びその侵入状況や野火の痕跡などの調査結果から、土地の機能は自然の回復力を待つだけではなく、人為的な活動がそれと意図せず、回復させる可能性があることを報告した。(図・表)
    その結果、新たな調査を加える必要が生じたのであった。
    この北軽井沢一帯は、浅間山の天明3年の噴火で発生した鎌原土石なだれに襲われ大きな被害を出したことで知られる鎌原地区が含まれる地域である。特に六里ヶ原から押切場にかけての一帯は噴火以降長らく植生の侵入もなく、荒地の状態が続いていたが、草軽電鉄の敷設により機関車の火の粉から山火事が発生、その影響で植生侵入が助長された結果、急速に森林が形成されることとなり、現在のような別荘地開発へとつながっていったと考えられる地域である。
    北軽井沢と草軽電鉄
    北軽井沢の浅間山よりに広がる六里ヶ原一帯は天明の噴火によって吾妻火砕流に覆われた。六里ヶ原はそのほとんどが現在別荘地あるいは耕作地となっているが、浅間山近くの浅間白根火山ルート周辺は私有地であるにもかかわらず開発されずに残っている。これは特に周辺の景観を保存しようという殊勝な考えからではなく、単に浅間山に近すぎて不気味故開発しても売れないだろうという判断によるという。ルートから集落側には植生が侵入し森林を形成している。土地の者の話では昭和30年代には一木一草も無かったところに40年代になってちらほらと植生が侵入し始めたとのことである。また、同ルートから山側の地域は火口から半径4km以内の円内に入るため噴火時など入山規制が発動された場合には立ち入ることができない。
    草軽電鉄は軽井沢から草津をつなぐ目的で敷設され、大正4年7月にまず軽井沢-小瀬温泉間が、続いて嬬恋までが大正8年に開業した。薪炭のほか白根山から産出する硫黄の運搬に大いに寄与し他とされている。その後大正13年に電化、大正15年に軽井沢―草津間が全面開通したものの、昭和37年に全面廃線となった。ナローゲージの軽便鉄道であったが蒸気機関車時代にはよく火の粉が飛んで野火を出していたという。
    土地機能回復の過程における可能性
    六里ヶ原に植生が侵入し始めた時期と鉄道が敷設された時期がおおよそ一致しているためにこの山火事が六里ヶ原の植生回復に寄与したのではないかと考えた。資料によると草軽鉄道は六里ヶ原よりもおよそ1km東よりの地域を走っており、天明の噴火で直接被害を受けた地域を縦貫しているわけではない。当時の写真絵葉書を見ると軌道周辺には森林の存在が確認できる。したがって山火事により地表が露出した状態が続くと、表土が移動しやすくなり、その結果徐々に植生は西側へと移動していくのではないかと考えた。南端部分は黒豆河原と呼ばれ現在も植生はほとんど見られないのであるがこのあたりは天丸山が草軽電鉄の軌道との間に横たわっているのである。従って軌道敷設の影響を受けたとは考えにくい。
    今回は土壌状態、および植生の状況などからさらに調査を加え、地形の影響などを考慮して調査地点を選択し改めて調査と土壌分析を行った。ここではその結果を報告する。
    参考文献
    思い出のアルバム草軽電鉄刊行会 2008 「草軽電鉄の詩」郷土出版社
  • 小野 映介, 宮本 真二, 海津 正倫, 上中 央子
    セッションID: 301
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    完新世後半における津軽平野の詳細な地形環境変遷を明らかにするために,浅瀬石川扇状地に立地する前川遺跡(田舎舘村)と岩木川の氾濫原に立地する稲村遺跡(五所川原市)を対象として地形・地質調査を実施した.その結果,弥生時代~平安時代における岩木川とその支流の動態(堆積と下刻)に関するデータが得られた.
    (1)前川遺跡とその周辺[浅瀬石川扇状地]:微高地に位置する前川遺跡C1区では,層厚10~20_cm_の耕作土直下で平安時代の遺構が検出されている.地表面下約100_cm_までは洪水堆積起源のシルト混じり極細粒砂とシルトの互層からなり,その下位には黒色有機質シルトの堆積が認められる.黒色有機質シルトの層厚は10~20_cm_で,弥生時代の水田が検出されている.同層に含まれる有機物からは2,290yrsBPの年代値を得た.また,水田層の下位にはシルト~極細粒砂を挟在して1~2枚の黒色有機質シルトの堆積が認められる.水田層の下位30_cm_,層厚10_cm_の黒色有機質シルトからは3,430yrsBPの値が得られた.前川遺跡と同じ扇状地面には,垂柳遺跡や田舎舘遺跡などの弥生時代の遺跡が立地するが,それらの遺跡でも洪水堆積起源のシルトや極細粒砂に覆われた黒色有機質シルトから水田が検出されている.
    このように,前川遺跡の立地する扇状地面では弥生時代の水田層である黒色有機質シルトが広範に分布しており,同層は洪水堆積物による埋積を受けている.当地域に洪水堆積を及ぼす可能性があるのは浅瀬石川のみである.したがって,弥生時代以降のどこかの時点で浅瀬石川の地形形成作用が堆積から下刻へと転じて,開析扇状地を発達させたと考えられる.前川遺跡C1区の微高地は,開析扇状地面の縁辺部に断続的に分布する蛇行帯の一部に相当する.上述したように,同地区では弥生時代の水田層を覆う100_cm_程の堆積物が認められ,その最上部からは平安時代の遺構が検出されている.こうした堆積状況は微高地=蛇行帯が,弥生時代~平安時代に形成されたことを示す.
    (2)稲村遺跡[岩木川氾濫原,下位面]:層厚10~20_cm_の耕作土の直下には5~10_cm_の薄い泥炭層が発達する.その下位には,層厚10~20_cm_の平安時代遺物包含層(極細粒砂混じりシルト)が堆積する.また,平安時代の遺物の包含層下には洪水堆積起源のシルトと細粒砂の互層(層厚約50_cm_)が認められる.同層とその下位の暗茶褐色有機質シルト層との境界は明瞭で,その境界部には埋没樹木が多くみられる.調査区内の2か所で採取した埋没樹木からは,1,140yrsBP(780-990A.D.),1,240(670-890 A.D.)の年代値が得られた.また,層厚30_cm_の暗茶褐色有機質シルト層についても調査区内の2か所で採取し,1,180yrsBP(770-790 A.D.),1,300yrsBP(650-780 A.D.)の値を得た.
    以上の層相・層序,遺物の出土状況,埋没樹や有機物の年代値は,当地点において平安時代前半に劇的な環境変化(湿地→50_cm_に及ぶ洪水堆積)が生じたことを示す.
    (3)弥生時代以降,扇状地面上に蛇行帯を形成するような活発な堆積活動を行った後,下刻に転じて数mの比高を有する段丘崖を形成する浅瀬石川の動きは,完新世後半における他の一般的な河川の動態と比較して,極めて特異である.このような河川の動態を生じさせる要因として考えられるのは,上流部における土砂生産量の一時的増加である.また,浅瀬石川の上流部で弥生時代以降に急激な土砂生産を生じさせた有力な要因として,十和田平安噴火(915A.D.)が考えられる.津軽平野と同じく,十和田カルデラ付近から流入する河川を有する能代平野や八戸平野では,完新世の地形発達に十和田火山の活動が大きく影響したことが指摘されている.十和田平安噴火は,浅瀬石川などを介して津軽平野の地形発達にも何らかの影響を与えたと考えられる.そうした観点からみると,稲村遺跡における平安時代前半の洪水堆積物は,浅瀬石川の開析扇状地面にみられる蛇行帯の形成と連動して生じた可能性も考えられる.今後,調査地点を増やしながら,点的なデータをつなぎ合わせていく必要がある.
  • なし
    安仁屋 政武
    セッションID: 302
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    南米南パタゴニア氷原に位置するペリート・モレーノ氷河で、ラテラル・モレインによって押しつぶされて枯死した木とラテラル・モレインによって形成された池に水没して枯死した木のサンプルの年代測定から、小氷期(LIA)の前進時期を明らかにした。それによるとLIAの前進はAD1600~1650頃とAD1850 年頃の2回あり、これはパタゴニアの他の氷河(特に北4km のところに隣接しているアメギーノ氷河)での前進時期とほぼ同じである。現在のペリート・モレーノ氷河の変動はパタゴニアの他の氷河(1つを除く)と全く異なるが、小氷期の変動は同じであったことが判明した。
  • 瀬戸 真之, 須江 彬人, 澤田 結基, 曽根 敏雄, 田村 俊和
    セッションID: 303
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    I.はじめに
     森林限界を超える高山の斜面での凍結・融解による物質移動プロセスについて,これまで多くの報告があった(岩田,1980;檜垣,1990;鈴木,1992;苅谷ほか,1997;福井・小泉,2001;高橋・長谷川,2003など).森林限界以下の低標高山地斜面でも,局地的に植生が除去されたようなところでは,高山の斜面とよく似た物質移動プロセスが起こることがある.郡山・猪苗代両盆地の分水界に位置する御霊櫃峠(海抜約900m)には尾根上に裸地が広がり,そこには一種の構造土が発達している(鈴木ほか 1985).これまで,その微地形・構成物質や地表面物質移動の特徴について,田村ほか(2004),瀬戸ほか(2005),Seto et. al.(2006)が報告している.これらのプロセス・景観は,高山のそれととよく似ているが,標高が低いこともあり,非周氷河作用による物質移動も無視できないと考えられる.すなわち,周氷河作用と非周氷河作用の両作用が複合して斜面上の物質移動を引き起こすという,他の高度帯とは異なる特徴を持った物質移動プロセスが発現している可能性がある.そこで本研究では,実験斜面に礫を置いて凍結融解を繰り返し、どのようなプロセスで礫が移動しているのかを明らかにする.本報告では実験結果の速報を述べる.
    II.実験方法
     今回の実験は北海道大学低温科学研究所の実験室で行った.この実験室は気温をコントロールすることで,地表面の凍結・融解を再現することができる.2007年および2008年にEx1からEx14の実験を行った.実験は発砲スチロール製の箱に厚さ約10cmの土壌を入れた箱Aと箱Bを用意した.傾斜は10度から15度とし,御霊櫃峠の砂礫地で採取した厚さ2cm程度の扁平礫を1つの箱につき,4個から8個置いた.各礫の表面には×印を2カ所付け,この交点の移動を観測した.礫の位置測定には専用定規と分銅を用いた.この方法では,測定者が慣れれば±1mm程度の精度で測定できると考えられる.さらに実験斜面の土層中には-1,-3,-5,-8cmにそれぞれ地温センサーを設置し,-2,-5,-8cm深に土壌水分計を設置した.箱の傾斜,土壌水分,室温の変化については実験ごとに設定した.
    III.実験結果
    ここでは主としてEx3の実験結果を報告する.Ex3では箱Aを15度、箱Bを10度傾斜させて実験斜面とした.室温を-10℃から+5℃まで変化させて実験斜面の土壌試料を凍結融解させた.実験斜面には径15cm程度,厚さ2cm程度の扁平礫を4個置いた.凍結開始は2008年9月20日13時,融解開始が2008年9月22日18時で,融解完了が2008年9月25日19時である.実験斜面の凍上(礫の垂直移動)は凍結開始直後に始まり,9月21日頃ピークを迎えている.水平移動量は凍上が終わり,霜柱が崩壊するときにピークを迎えた.その時期は9月24日頃である.一方,地温の観測結果は9月22日の夜に最低値を記録している.垂直移動量の最大よりも水平移動量が最大になる時期が遅れることからも,礫の移動は霜柱クリープによることが明瞭である.箱Aの平均凍上量は1.0cm,平均水平移動量は1.1cmで箱Bの平均凍上量は0.7cm,平均水平移動量は0.1cmであった.移動量の大きな差には,箱の傾斜のみならず,箱Aでは霜柱が成長し凍上した一方で箱Bでは霜柱がほとんど成長しなかったことが影響している.これには土層中のアイスレンズの成長が関与していると考えられる.
    Ex1からEx13では傾斜と凍上量から算出される霜柱クリープによる礫の移動量よりも大きな移動量が観測された.したがって,実験斜面では霜柱クリープが認められるものの,礫の移動量はそれのみでは説明できないことが明らかである.  Ex14では凍結時に積雪を模した細かい氷で実験斜面全体を厚さ約1cm程度に覆った.この実験では室温を-10℃から+5℃まで変化させ,傾斜は箱A,B共に15度とした.この結果,融解時に地表面付近の土壌が水分で飽和し,マッドフローが発生した.このマッドフローにより礫は大きく移動し,斜面傾斜方向に最大で63.8mmの移動を計測した.この結果は御霊櫃峠において鈴木ほか(1985)が報告した観察と良く似ている.このことから,御霊櫃峠のような低標高の斜面では凍結・融解サイクルに起因する霜柱クリープのようなプロセスと,積雪の融解によるマッドフローなど地表面を流れる水が関与したプロセスとが複合して,礫を移動させていると考えられる.
  • 小元 久仁夫
    セッションID: 304
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    【研究目的】
    宮古島のビーチロック試料に関する14C年代は、Kawana and Pirazzoli(1984), 堀ほか(1994), 小元(1995, 2005, 2008), 河名(2003), Omoto(2006)などにより報告されている。14C年代を暦年代に較正する際、安定同位体比の測定は不可欠であり(Stuiver and Polach, 1977)、また試料が海洋生物の場合reservoir correctionが必要である(Stuiver and Braziunas, 1993)。これまでの報告では安定同位体比による14C年代の補正やreservoir correctionの補正が十分に行われていなかった。このため本報告ではビーチロック試料について安定同位体比を測定しconventional ageを求め、この年代を暦年代に較正するる際にreservoir correctionを行った。このようにして得た暦年代にもとづき宮古島のビーチロックの形成年代と後期完新世における海水準変動について検討したのでその結果を報告する。
    【研究方法】
    宮古島の21地点からビーチロックに含まれる貝化石、化石サンゴおよび石灰砂岩を90個採取した。試料採取地点の高度と断面測量はレーザーレベルと巻尺を使用して行い、高度は平均海水面(TP)に補正した。試料の14C年代と安定同位体比(δ13C)は、日本大学年代測定室でβ線計測法により、安定同位体比はIsoPrimeにより測定した。reservoir correction値としてR=400, ΔR=24~69年(Omoto, 2007および本研究)を使用しIntCal 04プログラム(Stuiver and Reimer. 2004)により暦年代を求めた。
    【考察および結論】
    宮古島のビーチロック試料で、もっとも古い年代を示したものは宮古島南部のスガーネから採取した化石サンゴ試料の4,223yrs cal BPであり、もっとも新しいものは”Modern”である。この結果から宮古島ではビーチロックが4,200yrs cal BPころから形成されはじめ、ごく最近まで形成された。 ビーチロックの形成期を±2σ(95.4%)の誤差範囲で重複する期間とみなせば、宮古島では4,220~2,890y, 2,440~2,210y, 1,480y~現在まで合計3回ビーチロックの形成期があった(図1)。 ビーチロックの高度と暦年代から後期完新世の海水準変動について考察した結果、宮古島東部の大浦田原海岸と西部の狩俣海岸では一部離水したビーチロックがあり若干の隆起を示唆する。しかしその他の海岸では、ビーチロックが現在でもほぼ潮間帯に位置しているため(図1)、後期完新世の海水準は約4,200年前から現海水準とほぼ同じであったと推定される。この結果、宮古島では井関(1974, 1978)が推定した2,000y BPごろの低位海水準―いわゆる「弥生の海退」―は存在しなかった可能性が高い。
    【参考文献】
    紙面の都合により記載省略。
  • 愛媛県沿岸地域を事例として
    野本 竜広
    セッションID: 305
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    Abstract:
    1.はじめに
     近年,環境意識の高まりとともに,各地で様々な環境保全活動が行われており,地理学の分野でも,その活動について研究が蓄積されつつある.例えば,池中(2008)は,里山と市民活動が行われることが多いその周辺環境を含めた総体的な活動地を指すものとして,里山フィールドと呼び,里山フィールドでの保全活動の実態や地域性について明らかにしている.山間部の里山に対して,柳(1998)は「里海」という概念を提唱している.「里海」とは,人手が加わることにより,生産性と生物多様性が高くなった沿岸海域と定義している.臨海地域の環境保全活動については,淺野(2008)の宍道湖・中海と霞ヶ浦など海跡湖を対象とした研究がある.しかし,海岸を対象とした保全活動についての研究は少なく,地理的条件や地域背景を含めて考察する地理学の視点から海岸環境の保全活動を分析する意義があるといえる.そこで,本研究では,愛媛県沿岸地域における海岸環境の保全活動とその活動主体がどのような担い手によって運営されているのか,どのように成立したのか,変遷を明らかにすることを目的とする.なお,本研究で取り上げる保全活動とは保全的な自然保護活動内容を指す.例えば,里海フィールドの保全・管理のための作業,生物の調査観察,地元の地域に働きかける活動,自然保護活動などが挙げられる.
    2.対象地域と方法
     愛媛県の海岸の総延長は1644.323km(平成19年版建設統計要覧)である.愛媛県沿岸は,比較的島が少なく広い海域の部分(灘)と,それらを区切る芸予諸島の多島海,宇和海のリアス式海岸の部分から成り立っている.第4回自然環境保全基礎調査における海岸調査報告書(平成6年3月環境庁調査)によると,平成5年度において,自然海岸は約42%,半自然海岸は約26%,人工海岸約31%,河口部は約1%と自然海岸はかなり減少している.
     『平成19年度版環境NGO総覧』の報告によると愛媛県における環境保全活動を行っている民間団体の設立件数は49件である.本研究の調査対象は,その中から,海岸を主な活動場所とし,加えてその活動を地域社会に向けて公表し,広めていこうという姿勢をもつものとして,16件の活動主体を選定した.各主体に対し,活動の実態を明らかにするため,活動主体の概要・発起人の属性・里海フィールドの特性・活動内容・社会的ネットワークなどの項目に関する聞き取り調査を行った.
    3.海岸環境保全活動の概要
     16主体の活動内容は,以下の通りである.
    表1 愛媛県で海岸環境の保全活動を実施している主体と活動内容

      開始年 事務局  形態  活動内容
    1 1972年 明石市  任意   月1回のニュース発行,調査研究
    2 1978年 松山市  任意   四十島の松保全,梅津寺海岸清掃
    3 1979年 松山市  任意   重信川河口調査
    4 1983年 今治市  任意   海岸の保全署名活動,陳情,学習会
    5 1989年 西条市  任意   カブトガニの保護,海岸清掃  
    6 1990年 今治市  任意   「瀬戸内法」改正運動,海岸生物調査
    7 1998年 八幡浜市 NPO 自然・環境学習,自然修復・再生
    8 2000年 上島町  任意   アマモ場再生
    9 2001年 今治市  NPO   県内外団体との環境蘇生交流会
    10 2002年 内子町  NPO 都市環境学習センター管理,自然観察調査
    11 2003年 宇和島市 NPO コンブ増殖
    12 2004年 松山市  NPO   地域環境の情報発信
    13 2004年 松前町   任意    海浜植物群落の保全活動
    14 2004年 西条市   任意   アマモ・コアマモ場再生
    15 2004年 松山市  任意      EM石けん推進
    16 2007年 今治市   任意   ガラモ場再生
    (1) 松山市に事務局をおく主体が多い.実際にはすべての主体が里海フィールド活動を中心とするわけではない.
    (2) 今治市を活動フィールドとする主体が複数存在する.
    (3) 海岸域以外の市町に事務局が立地している.
    文献
    淺野敏久 2008.『宍道湖・中海と霞ヶ浦 環境運動の地理学』古今書院.
    池中香絵 2008.市民団体による里山周辺環境での活動実態と地域性―奈良県大和平野地域を対象として―.人文地理60: 23-37.
    柳哲雄2006.『里海論』 恒星社厚生閣.
  • 伊藤 史彦, 畠 周平, 小荒井 衛, 長澤 良太, 司馬 愛美子
    セッションID: 306
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1. はじめに
     中国山地は、古くから砂鉄を原料とした「たたら製鉄」が盛んに営まれ、日本有数の鉄生産地帯であった。たたら製鉄の原料となる砂鉄は、山地の風化した花崗岩を崩して沈殿池に流し込み比重により選鉱する「鉄穴(かんな)流し」と呼ばれる手法により採取されてきたため、大規模な地形改変が生じた。現在でもその地形は鉄穴流し跡地として中国山地の随所で確認することができる。
     鉄穴流し跡地の地理学的検討はこれまでにも数多く報告されてきた。中でも貞方(1996)は空中写真判読および現地測量により、中国地方に数多く存在する鉄穴流し跡地の具体的な形態、分布、廃土量の見積もり等を地域別にまとめており、中国地方における鉄穴流し研究の一大報告となっている。
     しかし、鉄穴流しによる砂鉄の採取が終息してからすでに長い年月が経過しており、現在では跡地の大部分が森林に覆われているため、空中写真判読によって詳細な地形を把握するは難しい。また、広域の対象地において網羅的に現地測量を行うことには限界があると考える。
    そこで、本研究では樹木下の地盤高データが高密度かつ広域に取得可能な航空レーザ計測により鉄穴流し跡地の計測を実施することで鉄穴流し跡地の詳細な地形を明らかにし、さらに取得したデータを用いた地形解析を行うことで、鉄穴流し地形の特徴抽出を試みた。

    2. 対象地および方法
     調査対象地は鳥取県の南西部に位置する日野郡日南町の神戸上地区25km2とした。対象地は、鉄穴流しによる切り崩しの残りである「鉄穴残丘」や、崩した土砂を途中でせき止めて造成した「流し込み田」とみられる棚田など、鉄穴流しの名残が多くみられる地域である。
     航空レーザ計測は2008年11月14日に実施し、1点/1m2以上の計測点密度で対象地の高さ情報を取得した。
     取得した三次元計測データには地盤に照射されるデータの他に、植生や人工構造物といった地物に照射されたデータも含まれているため、フィルタリングとよばれる地盤・地物分離処理を施し、純粋な地盤高データを抽出した。
     その後抽出した地盤高データから数値地形モデル(DEM)を作成し、立体地図として可視化を図ることで、鉄穴流し跡地地形の把握を試みた。
     さらに、作成したDEMを用いて水文解析を行うことにより水系網データを作成し、鉄穴流し跡地地形の特徴抽出を行った。

    3. 結果
     航空レーザ計測により樹木下の詳細な地盤高データの取得に成功した。取得した地盤高データから作成した赤色立体地図(特許第3670274号)を見ると、鉄穴流し跡地特有の鉄穴残丘や、山の斜面が切り崩された跡とみられる自然な地形とは考えにくい小丘が点在する場所が明瞭に判別することができる。計測時に同時撮影した空中写真と比較すると、空中写真では樹木に覆われていて地形が不明瞭な場所においても、航空レーザ計測により地盤高情報が取得され、鉄穴流し跡地の地形があらわになっていることがわかる(図1)。
     さらに、作成したDEMを用いて水文解析により水系網図を作成した結果、鉄穴流し跡地とみられる不規則な小丘が点在する場所において水系密度が明らかに高くなることがわかった。この結果は、鉄穴流しによる地形改変の度合いを示す重要なパラメータとなる可能性を示唆している。
     また、抽出された水系網を旧河道と考えると、そのような場所は、鉄穴流しによって削り取られた土砂を沈殿池に流すための「走り」と呼ばれる水路が存在していた可能性が高いと考えられる。
     今後、過去の文献調査や現地調査を行うことによりその確証を得ることができれば、鉄穴流し跡地の地形分類や植生解析等に有用な情報になると考えられることから、さらなる調査を続行する予定である。

    文献
    貞方 昇 1996. 『中国地方における鉄穴流しによる地形環境変貌』 渓水社.
  • 北の丸公園を事例として
    魚井 夏子, 村田 智吉, 渡邊 眞紀子
    セッションID: 307
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    【研究の背景と目的】
     都市土壌の一般的な定義は,Bockheim (1974)より「都市および都市近郊において,混合,埋立て,あるいは異物を混入させて創られた厚さ50cm以上の非農業,人工的な表層をもつ土壌物質(USDA 2005)」である.
     都市土壌の性状を広域的に把握したものに土地分類基本調査による土壌図がある.都市部の土壌図は,潜在土壌の概念と現在の土地利用の形態を中心に土壌分類を行っている.一方で,土地利用の変遷や造成,ヒートアイランドや乾燥化など都市環境の特殊性は考慮されていない.しかし,都市土壌は自然土壌と比較して都市環境の特殊性の影響を受け,自然土壌とは異なる土壌生成が行われていると考えられる.このような過去から現在までの人為的負荷の履歴や都市環境の特殊性を考慮して都市土壌の性状や生成過程を考察した研究はあまりない.
     そこで本研究では,人為的負荷の履歴や都市環境の特殊性という新たな観点を加えて,都市部の土壌を理解、評価するための方法の検討を行うことを目的として,都市公園土壌を事例に類型化を試みた.
    【調査地点と研究方法】
     土地利用の履歴が残されており,かつ土壌調査が可能な場所として,本研究では東京都千代田区北の丸公園を選定した.北の丸公園は現在に至るまで,様々な形態で利用されてきた場所である.戦後,公園として整備されることが決定し,大規模な造成を経て,昭和44年4月に開園された.現在は,国民公園皇居外苑北の丸地区として環境庁によって管理・運営されている.さらに比較対象として,大規模な造成が行われていない東京都目黒区の国立科学博物館付属自然教育園において調査とサンプリングを行った.
     都市土壌としての特徴を把握するための土壌調査と土壌分析は,自然土壌や農耕地土壌の手法を適用することが制約上難しいだけでなく,評価の観点を見据えた新たな手法の開発が必要である.そこで,本研究では土壌硬度を用いて人為的負荷が反映されると報告している平山ほか(1978)を参考に,長谷川式土壌貫入計(ダイトウテクノクリーンH-100)を用いて土壌の鉛直方向の相対的な土壌硬度を約120地点で測定し,物理的性状を調べた.また,1m検土杖(大起理化工業DIK1640)を用いて11地点で土壌層位ごとに計37試料を採取し,少量のサンプルによる分析方法の検討を行った上で、pH(H2O) (ガラス電極法), C,N含量(NCアナライザー),Al,Feの存在形態別定量(選択溶解法、原子吸光法),元素組成(エネルギー分散型蛍光X線装置EDX-700HS)の分析を行い,化学的性状の把握を行った.
    【結果と考察】
     土壌硬度の測定を行った結果,公園内の土壌は現在の土地利用,過去の造成や土地利用の違いによる類型化が可能となった.土壌の化学性状については、pH(H2O)が4.9~7.9を示し,表土は全ての場所でpH6以上となった.元素組成において人工母材の特徴を反映する結果が得られた.類型化と化学性状との対応を検討する.
    【参考文献】
    国営公園工事事務所 1980. 『国営公園工事事務所の歴史』. 関東建設弘済会.
    東京都 1999. 土地分類基本調査「東京東北部」「東京東南部」 5万分の1土壌図. 東京都
    平山良治ほか 1978. 自然教育園の土壌図. 自然教育園報告. 8:39-59.
    United States Department of Aquiculture (USDA) Natural Resources Conservation Service (NRCS) 2005. Urban Soil Primer. http://soils.usda.gov/technical/classification/taxonomy/
  • 小玉 芳敬, 川内 勇人
    セッションID: 308
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     風成微地形の代表である風紋(砂漣)については,Sharp(1963)をはじめとして現地観測や風洞実験が多数なされてきた。ところが,砂丘地においては斜面が普遍的に存在するにもかかわらず,風紋と斜面との関係を扱った研究は極めて少ない。Howard (1977)は,バルハン斜面での風紋観測から,風紋のクレストが風向きに対して斜行することを示した。「風紋がどの傾斜角まで登坂・降坂できるものか?」この限界傾斜角に関する先行研究は見当たらない。
     本研究の目的は,まず現地調査を通して風紋の登坂降坂限界傾斜角を明らかにすることである。次に傾斜可変の小型風洞実験装置を製作し,風紋の限界傾斜角を風洞実験で探ることである。これらを通して風紋の限界傾斜角が成立するプロセスを考える。

    2.鳥取砂丘における現地調査
     鳥取砂丘において2008年5月には140地点で,11月には急斜面を中心に50地点で,風紋が形成された斜面の最大傾斜角「斜面傾斜角」と「風紋の進行傾斜角」を計測した。風紋の進行方向は,断面形の非対称性から容易に判断できる。風紋のクレストに直交する方向を「風紋の進行方向」とし,その傾斜角を「風紋の進行傾斜角」と定義した。
     現地調査の結果,風紋の登坂降坂限界傾斜角は,登坂で24度,降坂で17度であった。

    3.小型風洞実験
     風紋の登坂降坂限界傾斜角が成立するプロセスを探るため,傾斜変化が容易な小型風洞実験装置を製作した。透明アクリルパイプ(内径32cm,厚さ4mm,長さ1m)を4本つなぎ,全長4mの閉管路を風洞として,単管パイプで組んだ架台の上に置いた。架台の中央を支点として,傾斜±24度まで調節可能とした。上流側に設置した送風機(マキタ製 MF301)については,電圧変換機(東京理工社製 Riko-slidetrans RSA-5)により風速を制御した。
     傾斜を調整した後,風洞の底から厚さ10cmで砂丘砂を敷き,幅30cm長さ4mの平滑砂面を作り,20分間の通風実験を行った。なお,風洞下流端には砂面高に合わせた堰を設けた。実験中は砂面高を一定に保つように,風洞上流端で適宜給砂を行った。また下流端において,風洞の中心点(砂面から高さ6cm)で風速を測定した。実験後にはレーザー距離計を用いて風紋の断面形状を計測した。
     斜面に直行して前進する風紋は,登坂条件では0度∼18度,降坂条件では0度∼14度の範囲で観察された。風紋を形成するには,登坂では風速5∼6m/secで,降坂では4∼5m/secに調整する必要があった。
    4.考察
     風洞実験の限界傾斜角は,現地の結果より小さい値を示した。実験装置の規模を検討する必要がある。
     風紋の進行限界傾斜角には,風紋の断面形態が影響していると考えられる。Sharp(1963)によると風紋の代表断面は,風上斜面で8度∼10度,風下斜面で最大20度を示す。登坂の場合,風上斜面の傾斜が安息角以上にはなれないため32度から8度∼10度を引いた22度∼24度が限界と考えられ,現地調査結果とほぼ一致する。いっぽう降坂の場合,風紋の風下斜面の傾斜が安息角以上になれないため,32度から20度を引いた12度が限界と考えられる。しかし実際の降坂限界傾斜角は17度であった。急斜面における風紋の断面形状を野外で詳細に調べることが当面の課題である。また安息角は湿潤条件下で急になる点に関しても検討が求められる。

    5.結論
     現地調査において風紋の登坂限界傾斜角は24度,降坂限界傾斜角は17度であった。風洞実験では風紋の登坂限界傾斜角は18度,降坂限界傾斜角は14度であった。登坂・降坂限界傾斜角は風紋の形状と安息角の関係により成立する可能性が指摘できる。急斜面における風紋の断面形態を調査することが当面の課題である。

    文献
    Howard,A.D. (1977) Effect of slope on the threshold of motion and its application to orientation of wind ripples. Geological Society of America Bulletin, 88, 853-856. Sharp,R.P.(1963)Wind ripples. Journal of Geology, 71, 617-636.
  • 堤 浩之, ラモス ノエリナ, ペレス ジェフリー
    セッションID: 309
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     フィリピン海プレートの西縁には,北から南海トラフ・琉球海溝・マニラ海溝・フィリピン海溝などの沈み込み帯が連続する.このうち,マニラ海溝およびフィリピン海溝では,過去400年間にM8クラスの海溝型巨大地震は発生していない(Bautista and Oike, 2000).また,完新世海成段丘の調査もほとんど行われておらず,これらの沈み込み帯の巨大地震発生ポテンシャルは不明である.しかし,例えばマニラ海溝で巨大地震および津波が発生すれば,マニラ大都市圏をはじめとするフィリピン沿岸部はもとより,南シナ海周辺諸国にも大きな被害がおよぶ可能性が高い.我々は,マニラ海溝に面するルソン島西端のボリナオ(Bolinao)地域,およびフィリピン海溝に面するミンダナオ島東端のマナイ(Manay)地域の海岸地形調査を行い,有史以前の海溝型巨大地震に伴って隆起したと考えられる数段のサンゴ礁段丘を確認したので報告する.
    2.ボリナオ地域のサンゴ礁段丘
     マニラ海溝はルソン弧の西側に位置し,そこでユーラシアプレートが東へ沈み込んでいる.ルソン島北西部のパンガシナン州ボリナオ市周辺は,マニラ海溝に最も近接した地域であり,隆起サンゴ礁からなる海成段丘が高度160m以下に発達している(Maemoku and Paladio, 1992).ボリナオ沖でのプレートの収束速度は6~7cm/yr程度と見積もられている(Rangin et al., 1999).海岸部には,高度10m以下に,少なくとも3段の隆起ベンチが確認される.海側へ緩く傾斜するそれぞれの隆起ベンチは,比高数mの急な段丘崖で隔てられ,段丘崖の基部にはノッチが観察される.このような地形的特徴は,間歇的地震隆起に起因する世界各地の海岸段丘地形に類似しており,マニラ海溝でも数mの海岸隆起をもたらすような巨大地震が,過去に繰り返し発生してきたことを示唆する.これらの隆起波食地形の旧汀線高度を求めるために,レーザー測距器を用いた地形断面測量を約20地点で行った.高度の基準は海面とし,測量後に潮位補正を行った.最低位の段丘(I面)の旧汀線高度は,海溝軸に最も近いレナ岬(Rena Point)で4.5m程度であり,そこから東へ海溝軸から離れるにつれて低くなり,約15km東方では2m以下となる.II面やIII面の旧汀線高度分布も同様な傾向を示す.これらの段丘の離水年代を求めるために,現地性のサンゴの化石を採取した.試料から不純物を除去し,X線回折分析により試料がカルサイト化していないことを確認した上で,14C年代測定を順次行っている.これまでに,II面の旧汀線付近のマイクロアトール外縁部から2000±20yBPの年代値が得られている.
    3.マナイ地域のサンゴ礁段丘
     フィリピン海溝はルソン弧の東側に位置し,そこでフィリピン海プレートがフィリピン諸島の下に東から沈み込んでいる.ミンダナオ島南東部のダバオオリエンタル州マナイ市周辺は,フィリピン海溝に最も近接しており,隆起サンゴ礁からなる海成段丘が高度200m以下に発達している.マナイ沖でのプレートの収束速度は4cm/yr程度と見積もられている(Rangin et al., 1999).本地域の海岸沿いでも,高度15m以下に4段のサンゴ礁段丘を確認した.これらの段丘は,比高2~4_m_の明瞭な段丘崖で隔てられている.本地域では,現時点で3地点の測量データしかないが,各面の旧汀線高度は,I面:2~3m,II面:5~6.5m,III面:7~10m,IV面:9m以上となる.これらのデータは,海岸部を2~4m程度隆起させるような地震が,フィリピン海溝沿いに繰り返し発生してきたことを示唆する.このうちII面とIII面から採取されたサンゴ化石から,それぞれ4155±25yBPと6525±25yBPの年代値が得られた.これらの年代から,マナイ地域の海岸部を縁取るサンゴ礁段丘は完新世に形成された可能性が高いと考えられる.
     現在,追加の年代測定を行っており,今後これらのデータも含めてマニラ海溝・フィリピン海溝の巨大地震の時期や周期について検討する予定である.また調査範囲を拡大して,海岸の隆起パターンを明らかにし,隆起をもたらした地震の震源断層モデルの構築を行う予定である.
  • 小暮 哲也, 松倉 公憲
    セッションID: 310
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     サンゴ礁が発達した海岸では、サンゴ礁が発達していない海岸に比べ津波の波高が小さいといわれている。これは、沖で大きな波高をもって進行してくる津波が海岸の前面のサンゴ礁を遡上する過程でそれとの摩擦によって、波高が大きく減衰するためである。また、サンゴ礁の切れ目が存在する場所では、波のエネルギーがそこに集中するため波高が増幅されることも指摘されている。このように、津波の進入に対してサンゴ礁が防潮堤の役割を果たすことは認識されているものの、具体的な事例研究は少なく、その実態には不明な点が多い。
     琉球列島では過去に何度か大津波に襲われている。特に、1771年に石垣島や宮古島を中心に12000人以上が犠牲になった明和大津波は、記録に残る最大のものである。それ以前にも、明和大津波を上回る規模の津波が発生したことが知られている。こうした津波は八重山諸島の南東側の南西諸島海溝付近で発生する地震によって引き起こされると考えられている。ところで、八重山諸島・黒島では、海食崖の前面のリーフフラット上に大きさが数メートルほどの巨礫が多数点在している。これらの巨礫の形状は海食崖に見られる崩壊の痕跡と一致することが多く、巨礫は海食崖からの崩壊によるものと考えられる。海食崖の崩壊は、崖の基部に発達するノッチの拡大による重力性崩壊のほかに、波浪の直撃による波浪性崩壊の可能性が指摘されている。本研究では、黒島において波浪性崩壊によってもたらされたと考えられる巨礫の分布を調べ、サンゴ礁の発達が波浪性の崩壊とどのように関連しているかを議論する。
     黒島には比高5 m以下の海食崖が島の北部を除く海岸沿いに発達している。海食崖の前面にはリーフフラットが見られ、その沖側には水深1-3 mのラグーン、さらにはリーフクレスト、リーフエッジが発達している。波浪の卓越方向である島の南部から南東部のリーフエッジは、他の地域に比べ高い位置に発達している。また、島には北西-南東方向に断層が伸びており、断層の延長線上にあたる南東部のリーフエッジには切れ目(すなわち幅70 mほどの溝)が見られる。海岸線からリーフエッジまでの距離(いわゆるサンゴ礁の幅)は東部から南部にかけて約800 m-1 km、南西部で約250-500 mである。
     黒島にみられる崩壊は海食崖に発達する垂直な節理とノッチのリトリートポイントから延びる水平な面に規定されている。Kogure and Matsukura (submitting)はこのような崩壊に与えるノッチの深さを推定している。それを使うと、リーフフラット上に点在する巨礫について、重力性崩壊の発生を仮定した場合のノッチ深さを計算できる。また、巨礫に見られるノッチ (崩壊以前に形成されたもの)の大きさも計測し、両者の比(実測値/計算値)を求めた。この比が小さいほど、波浪性崩壊が発生した可能性が高い。
     それぞれの巨礫について、求めた比とその巨礫が存在する海岸のサンゴ礁の幅との関係をみた。その結果、重力性崩壊による巨礫の分布はサンゴ礁の幅に無関係であるが、一方の波浪性崩壊による巨礫はサンゴ礁の幅が500 m以下の小さい場所(島の西側)に多い。ただしリーフエッジの切れ目のある島の南東側の一部にも波浪性崩壊がみられる。その理由として、その場所ではサンゴ礁の幅が800 mあるものの、断層によってリーフエッジに切れ目があり、その狭くて深い溝を通った津波が波高を増幅させて海食崖に押し寄せ、大きな破壊力で周辺の海食崖を破壊させたと考えられる。以上のことから、サンゴ礁の発達が良い海岸ほど津波のエネルギーを減衰させる効果を持つことが示唆される。
    文献
    Kogure and Matsukura (submitting): Critical notch depths for failure of coastal limestone cliffs: Case study at Kuro-shima Island, Okinawa, Japan. Earth Surface Processes and Landforms.
  • 越後 智雄, 小俣 雅志, 郡谷 順英, 市川 清士, 岩崎 孝明, 前杢 英明, 石山 達也, 宍倉 正展, 谷口 薫, 河名 俊男, 足 ...
    セッションID: 311
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    宮古島には,サンゴ礁段丘に変位を与える北西-南東走向で確実度I~II,活動度がB~Cの宮古島断層帯の存在が指摘されている(活断層研究会,1991;中田・今泉編,2002),活断層研究会(1991)によると,宮古島断層帯は東から新城(あらぐすく)断層系,福里(ふくざと)断層系,長沼(ながぬま)断層系,与那原(よなばる)断層系,野原(のばる)断層系,腰原(こしばる)断層系,嘉手(かで)断層系,来間(くりま)断層,佐和田(さわだ)断層,牧山(まきやま)断層から構成される.今回,宮古島断層帯の分布,最新活動時期,活動間隔および単位変位量を把握することを目的として,内陸地形地質踏査,沿岸調査,ボーリング,海域音波探査を実施した.結果を以下に報告する.
    地表踏査により,宮古島には,表層流を伴う河川の分布が限定的で,断層活動の時期を特定できる地層を見出すことが極めて困難であったため,活断層の活動性評価の手法で最も有効なトレンチ調査の実施は困難であると判断した.そこで代替の指標として,沿岸に分布するビーチロックに着目し,形成時期と分布高度を明らかにするために,ビーチロックの分布する海岸において,ハンドレベルを用いた時間潮位からの簡易断面測量と包含される化石サンゴの採取を行なった..このほか,宮古島断層帯の海域延長を確認するために,南岸と西岸の浅海域においてマルチチャンネル音波探査を実施した.また,宮古島市下地洲鎌地区において群列オールコアボーリング調査を実施した.この地点は,歴史記録「球陽」に基づけば,1667年に発生した地震で1200坪の範囲が三尺(約0.9 m)陥没したといわれている.調査の結果次の知見を得た.
    ・新城断層系および福里断層系は,第四紀前期の保良石灰岩には変形を与えているものの,第四紀中期の友利石灰岩には変形が及んでいない.
    ・東岸および南岸に分布するビーチロックは,抱含される化石サンゴや貝化石の14C年代測定の結果,概ね1600cal.y.B.P.以降に形成されたことがわかった.ビーチロックの分布高度からは,既存の活断層を挟んで,鉛直方向に1mを超える顕著な変位は検出されない.
    ・海域の音波探査の結果から,島尻層群に変位を与える断層が複数存在し,福里・長沼断層系の南部以外は,陸域の断層崖の走向延長との位置も整合的であった.しかし,完新統の堆積物の分布を特定できていないため,最新活動に関する知見は得られなかった.
    ・洲鎌地区での群列ボーリングから,西側をライムストンウォールに限られた断層崖の低下側に風成レス起源の大野越粘土層が厚く堆積し,崖の基部をチャネル堆積物が充填していることが明らかになった.しかし,今のところ1667年の断層変位を強く支持する証拠は得られていない.
    本調査は,文部科学省の「平成20年度科学技術調査等委託事業「活断層の追加・補完調査」のうち,財団法人地域地盤環境研究所が,産業技術総合研究所より委託を受け実施した.
    引用文献
    活断層研究会編(1991):『新編日本の活断層-分布図と資料』,東京大学出版会,437p
    中田 高・今泉俊文編(2002):「活断層詳細デジタルマップ」.東京大学出版会,DVD-ROM 2枚・付図1葉・60p
  • 林 奈津子
    セッションID: 312
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    研究の背景・目的
     地震の際に生じる液状化現象は,地下水面以下のゆるく堆積した砂層で発生しやすいことから,液状化発生地点と沖積低地の微地形の関係が検討され,自然堤防,ポイントバー,旧河道,砂丘・砂州の縁辺部などの砂質堆積物で構成される微地形で液状化現象が発生しやすいことが指摘されている(若松 1993など).しかしながら,従来の研究でも,本来液状化が発生しにくいとされている後背湿地などにおける噴砂が報告されており,より詳細な検討が求められている.
     そこで,本研究では静岡県西部の太田川下流低地を対象地域として1944年東南海地震で発生した液状化発生地点の分布の特徴を,微地形とそれを構成する堆積物に注目して考察する.なお,液状化現象に伴う地変として噴砂・噴水・地割れ・陥没・構造物の浮き上がりなどが挙げられるが,本研究では液状化の発生を示す指標として,液状化特有の地変 (今村・足立 1986) である噴砂を代表させて用いる.
    研究方法
     空中写真判読(1946年米軍撮影,縮尺1/40,000および1962年国土地理院撮影,縮尺1/10,000)から作成した地形分類図に,静岡県立磐田北高等学校科学部(1983)に基づく噴砂地点分布図を重ね合わせて噴砂の分布の特徴を検討した.また,噴砂が集中する地区を中心に約30地点のハンドボーリングを実施し,その結果から微地形を構成する堆積物の検討を行った.
    対象地域
     対象地域は磐田原台地の東側に位置し,太田川およびその支流である原野谷川によって形成された沖積低地である.低地の地形は大きく氾濫原とデルタに分けられ,臨海部には3列の砂州ならびに砂丘が発達する.本地域を構成する沖積層は軟弱な粘土層により特徴付けられ,地震の際の住家全壊率が80%以上に達する集落も存在した(大庭 1957).
    結果・考察
     対象地域にみられる噴砂について,自然堤防・ポイントバー,旧河道,砂丘・砂州の縁辺部など液状化現象が発生しやすい微地形(若松 1993)に対応する噴砂を微地形対応型噴砂,それ以外の地形に対応する噴砂を微地形非対応型噴砂として分類した.その結果,低地北部の三川地区および中部の土橋地区では自然堤防の縁辺部に噴砂が発生するほか,後背湿地にも噴砂が集中して発生していることが明らかになった.
     両地域では空中写真上の色調の違いから,現在の後背湿地に埋没した微地形を確認することができ,ハンドボーリング結果に基づき地質断面図を作成したところ,液状化発生地点付近ではG.L.約-1.5mから細礫まじりの細砂~砂質シルトが0.5~1m程度の層厚で検出された.
     また,加藤(1985)は土橋周辺の遺跡の発掘調査の際,細礫層の検出深度に着目し,南北方向に発達する埋没した旧河道および自然堤防を見出している.本研究で得られた堆積物は検出深度および分布から,この埋没自然堤防構成層に対応すると考えられる.なお,土橋地区上流側の埋没自然堤防上に立地する弥生時代後期の鶴松遺跡からは,この自然堤防構成層が液状化して形成された噴砂痕が検出されている.この噴砂痕は弥生時代後期の遺物を含む層を切るものと切られるものの2種類が存在するため,異なる発生時期の地震により形成されたと考えられる(袋井市教育委員会 1991).
    以上から,本地域では現在見られる微地形のみならず,埋没微地形が噴砂の発生,すなわち液状化と深く関わっていることが明らかになった.
  • 齋藤 仁, 中山 大地, 松山 洋
    セッションID: 313
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1. はじめに
     我が国では毎年,降水に起因する斜面崩壊が多く発生している.これらの危険度評価を行う上で,まず斜面崩壊の発生と降水量との関係を理解することは重要である.このため今日まで数多くの研究が行われてきたが,湿潤変動帯に位置する日本において,斜面崩壊の発生と降水量との関係を地域スケールで解析し,どの程度の降水量で斜面崩壊が発生するのかを解析した研究は少ない.
     そこで本研究では,降水に起因した1,174件の斜面崩壊を対象として,斜面崩壊が発生するまでの雨量強度(I)―降水継続時間(D)の関係(以下,「I-D」と記載)を統計手法(Quantile regression)を用いて解析した.そして,日本における斜面崩壊が発生する際のI-D閾値を算出した.また,得られたI--D閾値を世界各地での先行研究と比較することで,日本における斜面崩壊の発生と降水量との関係の特徴を明らかにすることを目的とした.

    2. 方法
     本研究では,2006年~2008年の間に日本で発生した1,174件の斜面崩壊(降水に起因した事例)を対象とした(国土交通省河川局砂防部 編集).また,降水量のデータとして,解析雨量(気象庁 編集)を用いた.
     斜面崩壊データを解析雨量とオーバーレイすることで,各事例におけるI--Dを算出した.なお本研究では,降水の開始から斜面崩壊が発生するまでの降水継続期間をD (h),その期間における平均雨量強度をI (mm/h)とする.また降水の開始は,24 h以上の無降水期間後に降水が観測された時と定義した.
     次にI-Dの散布図を作成し(図1),Quantile regression を用いて斜面崩壊が発生する際のI-Dの関係を解析した.ここでは,後述する先行研究にならい,下側2\%を斜面崩壊が発生する際のI-D閾値とした.また,世界各地での同様の研究と比較するために,Iを年間降水量で標準化して(I(MAP)),I(MAP)-D 閾値の算出も行った.

    3. 結果と考察
     I-Dの散布図を図1に示す.Dは3~537 (h)であり,Iは0.17~32.6 (mm/h)である.図1には負の相関関係があり,Dが長くなるほど,斜面崩壊が発生するIが減少することがわかる. 斜面崩壊が発生する際の閾値を求めたところ,I = 2.18*D^(-0.26) が得られた(図1).つまり日本においては,D<10 hでは2 mm/h 程度のIで,D>100 hでは0.5 mm/h 程度のIで斜面崩壊が発生する可能性があることを,図1は示唆している.一方で,D<10 h で発生する斜面崩壊は少なく,多くが10~200 hの間に分布している.
     閾値を標準化すると,I(MAP) = 0.0007*D^(-0.21) が得られた(図省略).この閾値を他の先行研究(e.g., Guzzetti et al., 2008, Landslides)と比較したところ,日本においては,特にDが短い領域(3≦D≦48 h)においてI-D閾値が低いことが明らかになった.
     以上より,日本において斜面崩壊が発生する際のIは低く,またDは長いことが示された.これは,日本は地形の起伏が大きく,またアジアモンスーン気候に属するため長時間継続する大雨の発生頻度が高いためであると考えられる. つまり,I--D関係からは,湿潤変動帯に属する日本における斜面崩壊の発生の特徴が示されたと言える.
  • 谷端 郷
    セッションID: 314
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    I はじめに
     本研究では,明治期以降に都市としての発展をとげた神戸を事例に,豪雨災害による被害要因を地形条件や都市化の状況に着目して分析することを目的とする.
     自然災害の発生や被害の要因を考える場合,近年発生した災害だけでなく,過去の災害を検討し被害要因を考える災害史研究の分析的視点も重要となる.また,被害要因の分析には,地域の自然条件や社会条件を総合的に検討する必要がある.
     日本において,急速な近代化を果たした明治期以降,特に人口・産業の集中する大都市において急激な都市化が進行した.なかでも神戸のような平野の少ない大都市においては,耕作地であった山麓部や川沿いにまで市街化が進んだために,豪雨災害に対して極めて脆弱な環境条件を持つに至った.つまり,都市化は,災害の被害状況に対して大きな影響を与えたと考えられるのである.
     そこで本研究では,1938年に阪神地域で発生した阪神大水害を事例として,地形条件や都市化の状況に着目し近代都市における豪雨災害による被害要因を分析する.なお,本研究では当時の被害状況や都市化の状況を,地理情報システム(GIS)を用いて分析することで,被害要因の定量的な分析も試みる.
    II 研究の対象と方法
     阪神大水害では,1938年7月3~5日の3日間の間に発生した豪雨が,土石流や河川の氾濫を引き起こした.神戸市では,家屋の約7割が被害を受け,616名の死者がでた(神戸市1965:582).
     本研究の対象地域は,1938年の神戸市域である.当時の神戸市は,現在の神戸市須磨区から灘区までを市域とした.神戸市における被害状況の復原には,『神戸市水害誌附図』(神戸市1939:117)に添付されている災害地図を用いた.この災害地図を基図とし,GISを用いて,浸水域,流出・全壊・半壊それぞれの家屋被害箇所,山谷崩壊場所をトレースした.また,死亡者の分布の作成には,『神戸市水害誌』(神戸市1939:247-280)の町会別のデータを用いた.
     さらに,1938年以前に測量された各種地形図,数値地図50mメッシュ(標高),数値地図25000(土地条件)を,復原された被害状況と重ね合わせることによって,被害要因を分析した.
    III 結果・考察
     本研究における分析の結果は,以下の通りである.
     (1)主に平野部で発生した浸水と家屋被害の分布は,地形との関係から2つのパターンに分けることができる.一つは,下流部まで両岸に段丘が存在する狭隘な河川の氾濫原において,深度の深い浸水と家屋被害を下流部までもたらしたもの(例えば妙法寺川や新湊川などの神戸市西部の河川)が挙げられる.もう一つは,谷口から典型的な扇状地を発達させた河川において,あまり家屋被害はみられず,広範囲に浸水をもたらしたもの(例えば宇治川や西郷川,都賀川など神戸市中央部から東部の河川)が挙げられる.被害の分布状況を考察したこれまでの研究で,地形条件に関して十分に検討されてこなかったが,被害形態の地域的な違いは,本研究によって地形条件の違いによるものであることが明らかになった.
     (2)明治中期の仮製図と被害分布図とを重ね合わせた結果,明治中期以前に成立した兵庫付近や平野部における伝統的集落の多くが浸水被害や建物被害を免れ,明治中期以降に市街化された地域で被害が広がっていることが確認された.この結果は,既に住吉川流域における阪神大水害の被害要因分析で指摘されている。しかし,本研究では住吉川流域以外においても近代期における急速な都市化と浸水被害や建物被害との関連性が示唆された.
     (3)本研究では,死者の分布が流出家屋や全壊家屋の分布状況と重なる傾向がみられた.これまで,阪神大水害における死者の被害要因についてはほとんど実証的な分析がなされてこなかった.しかし本研究では,死者の多くの被害要因は,家屋の流出や全壊をもたらした土石流である可能性が高いことが指摘された.
     以上のようなプロセスを通し, 阪神大水害の神戸市域の被害状況とその被害要因を検討した結果,いくつかの事実が判明した.一つは相対的にマクロな空間スケールの分析から,被害形態は地形条件に大きく規定されることである.他に,明治中期以降の都市化により,近世以前では人々が住まなかったような水害に遭いやすい地域にも人々が住み始めたことによって発生した災害であることが明らかになった.
     今後は,より具体的な都市化と被害要因との関連性を検討すべく,ミクロな空間スケールからの分析に取り組みたい.

    文献
    神戸市編1939.『神戸市水害誌』神戸市.
    神戸市編1939.『神戸市水害誌附図』神戸市.
    神戸市編1965.『神戸市史第三集社会・文化篇』神戸市.
  • 室岡 瑞恵, 桒 原 康裕, 春山 成子, 山縣 耕太郎
    セッションID: 315
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    I 背景及び目的
     国際河川アムール川は3カ国を流れる延長4,350km,流域面積2,051,500km2の大河である。中流域の極東ロシア・ハバロフスク周辺は湿地帯であり,雨期に洪水が発生する。
     本研究では当該地域の洪水の数理的解析を行い,洪水特性を明らかにするとともに,洪水を受ける地形要因との関係にも着目して,湿地の地形立地と洪水軽減を明らかにした。
    II 方法
     洪水特性を明らかにするために,王立オランダ気象研究所が有する1910年1月~2003年4月の月降水量統計を用い,解析を行った。解析方法は星(1998)に従った。また,ハバロフスク水文研究所の観測地点のアムール川における月最大流量を取り上げて1960~2003年の月降水量と月最大流量との関係を明らかにした。
     湿地に関しては堪水域を湿地と定義し,Murooka. et al. (2007)の方法を用いて地形別の湿地面積を求め,降水量との関係を明らかにした。最後に,降水量と湿地面積の関係を明らかにすることにより,どの地形立地の湿地が洪水を軽減しているかを明らかにした。
    III 結果と考察
     最大月降水量の頻度分布は指数分布に従っていた(カイ二乗適合度検定でp>0.05)。100年に一度起こる降水量は832mm/month,50年,20年,10年,5年に一度起こる降水量はそれぞれ717,565,447,324であった。月別の平均降水量は11~翌年3月は50mm/month以下であるのに対し,6~9月は70を超えるなど季節変動が大きく,中でも7月と8月は100を超えていた。
     横軸にハバロフスク月降水量 (mm/month),縦軸にハバロフスク月平均流量 (m3/sec)をとると,ANOVAで有意水準0.001以下でロジスチック曲線が適合した(図)。月平均流量の95%である降水量84.0mm/monthよりも大きいときに河川が許容量を超え氾濫し,洪水が起こる計算になる。
     降水量と地形別の湿地面積との相関を調べた結果,氾濫原の湿地面積のみ有意な相関が見られた。よって,すべての地形の中で氾濫原の湿地がもっとも遊水地としての機能を大きく果たしていると考えられる。
    参考文献
    1) 星清1998. 洪水ピークの確率評価法について. 開発土木研究所月報No. 539: 34-40.
    2) Murooka, M., Haruyama, S., Masuda, Y. 2007. Land Cover Change Detected by Satellite Data in the Agricultural Development Area of the Sanjiang Plain, China. Journal of Rural Planning 26: 197-202.
  • -新潟県魚野川上流域を事例にー
    松山  洋, 泉 岳樹
    セッションID: 316
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     SRM (Snowmelt Runoff Model) は、実測流量を使ってオンライン、あるいはオンライン的にパラメータの逐次同定や数学的な最適化を行なわなくても動かすことができる集中型モデルであり、これまで、山岳積雪流域の日平均流量の推定に用いられてきた。本研究では、日本有数の豪雪地帯である新潟県魚野川上流域に SRM を適用し、融雪--流出量を推定・検証した。SRM の入力に用いたのは、1993 年 4 月 26 日、5 月 12 日、5 月 28 日の Landsat/TM 画像から計算された流域内の積雪面積率、および AMeDAS 湯沢の日平均気温と日降水量であり、計算結果の検証には国土交通省六日町観測点の日平均流量を用いた。SRM を動かすのに必要なパラメータの一部は、 1992 年の融雪期における六日町の日平均流量を用いて決定し、客観的に決めるのが難しいパラメータは、魚野川上流域の北東約 40 km に位置する奥只見流域で SRM に適用された値を元に決定した。  魚野川上流域で分布型流出モデルを用いて融雪--流出量を推定した先行研究との比較のため、1993 年 4 月 23 日~5 月 30 日について Nash-Sutcliffe 指標を計算した。六日町の観測値と SRM の推定値で計算した Nash-Sutcliffe 指標は 0.82 となり、上述したような特徴をもつ集中型モデルであるにも関わらず SRM の推定結果は良好であった。また、4 月 26 日と 5 月 12 日の積雪面積率のみを用いて 5 月 13 日以降の積雪面積率を外挿した場合でも、上述した期間の Nash-Sutcliffe 指標は 0.83 となったことから、SRM は短期~中期の流量計算にも使える可能性がある。
  • 飯田 貞夫, 江口 旻, 大島 徹, 志村 聡
    セッションID: 317
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    清流として知られる那珂川の現在の水質特性を明らかにするため、2006年に現地調査を行い、その結果を2007年の日本地理学会にて発表し、同年12月に「那珂川流域の水質」として整理した。 その中で、那珂川は、上流部に分布する温泉の影響や中・下流域の人口密集地域を流下する地点等における影響などによる水質の変化はみられたが、河川全体としては、概ね良好な数値を示したことをまとめた。 そこで今回は、那珂川流域のさらに詳細な水質特性を把握するため、中流域における多くの支流に焦点をあて、本流との関係を調査した。
  • 西崎 弘人, 小寺 浩二, 宮下 雄次
    セッションID: 318
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに   平成18年4月7日に閣議決定された第3次環境基本計画において、「湧水の把握件数」を環境保全上健全な水循環の確保の指標と位置付けるなど、国レベルで湧水保全の諸政策が行われている。特に都市域では、生物多様性や災害時水源の確保のほか、河川水の水量確保の観点からも、湧水保全は望ましい。しかし、湧水に関する論文は多くが報告書的なものに終始し、水文科学的な研究は少ない。そこで、本研究では、神奈川県内における湧水の水質特性を把握し、特に都市化と密接な関わりがあると想定される水温をトレーサーとして用いてその長期変動を測定、湧水涵養源の特定を試みた。 2.研究方法 現地調査は2009年3月以降に実施中であり、測定項目は気温、水温、pH、RpH、EC、TURB、DO、TDSである。採水を行った地点のうち、主要な湧水では 、イオンクロマトグラフ法により主要溶存成分を測定し、シュティフダイヤグラムにて各湧水の水質特性を湧水形態ごとに表現した。また、トリリニアダイヤグラムを用いて、湧水形態ごとに表現を行い、それぞれの特性・地域差を明らかにした。  湧水形態に関しては、既存研究で用いられている谷頭型、崖線型以外に、神奈川県内の湧水で多く見られる沢水伏流水型、さらに自噴もしくは汲み上げ井戸の計4つを設定した。  水温に関しては、各資料から県内を代表すると考えられる湧水に対し、定点観測地点を設け、長期変動の評価を行った。その際、日変動も明らかにするために、水温自記録計も数か所設置し、 水温変化の特性とその要因について考察した。 3.結果・考察  地質・土壌に左右される陽イオンでは多くの湧水において、Ca溶存比が高く、バラつきが少ない傾向にあった。陰イオンでは、湧水型ごとの特性が見られ、山間部の人為的影響の少ない沢水伏流型でHCO3比が高く、生活排水や畜産、施肥の影響を受けやすい自噴・汲み上げ井戸型ではSO4やNO3比が高い傾向にあった。崖線型、谷頭型では大きな差異が見られなかった。 水温変動では、気温の影響を最も受けやすい沢水伏流水型で変化が大きく、次いで崖線型に変化が見られたが、涵養域に宅地など建物用地の広がる都市部の湧水で特に大きな変動が確認された。これは、ヒートアイランド現象などに因る地温変動幅の影響と考えられる。ただし、時間単位・日単位での大きな変動は確認できず、週単位・月単位での緩やかな変動をしていると予見される。 4.おわりに  都市域の湧水は平均水温が高く、その変動幅も大きい。今後は各湧水の水温変化幅と、変動特性について、今回も4種とした湧水形態を、崖線型・谷頭型という二分類に支配されることなく、適切に分類し、考察していく必要がある。
  • 米山 亜里沙, 小寺 浩二, 飯泉 佳子, 寺園 淳子
    セッションID: 319
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    _I_ はじめに
     沖縄県は亜熱帯に属し、陸域から海域への物質供給はマングローブ林やサンゴ礁等の生態系にとって重要である。近年の人口増加や開発事業、農地拡大が進むにつれ、河川水の水質悪化や地下水の硝酸濃度の増加、土砂流出等の水環境に関する問題が生じている。
     八重山諸島の海域は、県内でもサンゴ礁の多い地域であり、中でも石垣島は八重山諸島の中心的な島として、諸島内の他の島と比較して人口も多く、農業・畜産業が盛んである。人間活動が盛んなため、河川への土砂・栄養塩流出、下水の流入等が起こっている。石垣島の陸水の水質は多様であることが知られており(東田,1994)、流域単位での研究が進んでいる(坂西・中村2007等)。一方、小流域を含む諸河川の水質の比較や、水質の変動に関しては研究の余地があり、本研究では、小流域を含めた石垣島の陸水の水質変動を明らかにすることを目的とする。
    _II_ 研究方法
     現地調査を2008年5月、8月と2009年2月に行った。現地調査項目は気温、水温、電気伝導度(EC)、pH、RpH、DOである。サンプルを実験室に持ち帰り、アルカリ度、主要溶存成分(SO42-、 Cl-、NO3-、PO4-、NO2-、Na+、 K+、 NH4+、 Mg2+、 Ca2+)、全窒素、全リンを測定した。変動の割合は、ECの値を用いて、最大値、最小値と平均値を求め、最大値と最小値の差を平均値で割ったものを変動の割合とした。
    _III_ 結果・考察
     石垣島の陸水はアルカリ土類炭酸塩型、アルカリ土類非炭酸塩型とアルカリ炭酸塩型に属する。於茂登花崗岩類を流下する河川ではイオン含有量が少なく、島の中部から南部にかけては石灰岩層の影響を受けてCa-HCO3型である。Cl-濃度は於茂登岳をはさんで南北に流れる河川は1meq L-1前後であるが、屋良部半島、野底半島。平久保半島の河川では1meq L-1以上あり、半島ごとに季節間で増減がみられた。
    ECを指標に、各地点の溶存物質の濃度を比較すると、全体的に5月から8月にかけては変動の割合がプラス5%以上の地点が多く、8月から2月にかけてはマイナス5%以上の地点が多い(図1)。2月に一部の河川においてはECが増加する傾向にあり、水田排水の影響が示唆される。また源流域でも10%以上の変動がある。
    _IV_ おわりに
     亜熱帯ではスコール性の降雨や、台風、低気圧に伴った強雨もあり、島の水環境を総合的に考えていくために季節変化を把握し、降雨イベントによる物質循環を調査研究していく予定である。
    参 考 文 献
    東田盛善(1994):沖縄県石垣島の陸水の水質,工業用水,434,35-46.
    坂西研二・中村乾(2007):石垣島宮良川流域における懸濁性土壌,窒素およびリンの推定流出量,水土の知,75,9,29-32.
  • -水質の長期変動と2009年暖候期の観測結果から-
    小寺 浩二, 都筑 俊樹
    セッションID: 320
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに
     様々な地域での水環境変化が問題とされる中、古くから良好な水環境を保ち、日本の大規模湖沼の中では、透明度が高く水質が良いことで知られていた猪苗代湖でも、近年の水質の悪化が問題となり、注目されている。
     そこで、湖沼と集水域の長期的な水環境変化について、様々な水環境情報を整理して明確にし、最近の水質を継続観測することで、現状の問題点を明確にし、水環境改善のための対策の指針を示したい。
    II 方法
     まず、公表されている様々な水環境情報を整理するとともに、水文地理学的視点から、猪苗代湖・集水域・流入河川流域の自然特性を明確にして、長期的な水環境変化の状況を明らかにした。また、2009年4月~10月に行った現地観測結果から、この期間の季節変化を明らかにし、水質改善への対策について考察した。
    III 結果
     猪苗代湖と集水域の長期的な水環境変化が明らかとなり、現況に関する現地観測結果からも、水質改善対策への指針が示された。
  • 市川 康夫, 吉田 国光, 武田 周一郎, 花木 宏直, 栗林 賢, 田林 明
    セッションID: 401
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.研究課題
    産業としての農業の維持を計るために,日本の農政は農業経営の大規模化を政策課題とし,認定農業者の優遇や,「担い手」と呼ばれる農家への農地集積をめざしている.農業者の高齢化や脱農が急速に進んだ結果,それらの農地の受手として,近年,大規模経営の増加がみられるようになった.このような状況にあって,比較的早い時期から大規模経営が成立した事例がある.このように,大規模化に成功した農家の多くは,様々な手段を駆使して農地を集積しているが,農地が集積される仕組みに焦点をあてた研究は少ない.
    そこで本発表では,干拓による増反が実施され,農業構造改善事業を中心とする農政の影響を強く受けてきた印旛沼湖畔の水稲単作地域において,早くから大規模経営を成立させてきた条件を検討する.研究の手順としては,大規模経営の基盤にある借地を中心として,受手農家へ農地が集積されてきた仕組みを分析し,各農家による農地集積の形態の差異は,それぞれの農業経営において,いかなる役割を果たしているのかを考察し,その結果,大規模借地経営がいかに展開してきたのかを明らかにする.
    2.研究対象地域と印旛沼干拓
     研究対象地域に千葉県成田市北須賀地区東西・和田集落を選定した.北須賀地区は東印旛沼の湖畔に位置している.北須賀地区は末端の行政区であり,東西と和田,宿の3集落から構成される.これらの3集落はそれぞれ自治組織を持っており,東西はさらに4つ,和田は2つ,宿は6つの班に分けられる.この他に葬儀組合や農家組合など様々な社会集団が,それぞれの異なる空間的範囲をもちながら,重層的に存在している.
    北須賀地区における土地改良は,1936年と1969年の干拓時に2回行なわれた.戦前期の土地改良では,不整形な耕地が20aの長方形区画に,1969年の土地改良では30aの長方形区画に整備された.北須賀の水稲作は,早くから機械化に対応する基盤を備えており,多くの専業的農家が5~12haで農業経営を行っている.
    3.北須賀地区における大規模借地経営
    北須賀地区において,借地による農業経営の大規模化は1969年より開始された.大規模以前の北須賀における生業形態は世帯内で,複数の農業部門と漁業などを組み合わせる複合的なものであった.大正期から昭和戦前期にかけては,ほとんどの世帯が稲作と養蚕,自給用畑作を組み合わせていた.そのうちいくつかの世帯は,冬季に印旛沼での漁業も行っていた.また,宿においては水田が少なく,世帯収入に占める漁業の割合の高い世帯が多かった.この時期,多くの世帯の家計を支える生業は稲作と養蚕であり,各世帯は北須賀地区内にあった製糸場へ繭を出荷していた.
    このような生業形態は1950年代前半まで続いたが,1960年代に入ると川崎製鉄千葉製鉄所などの進出もあり,農外就業機会が増加した.そして,家計に占める稲作を中心とした農業の役割が相対的に低下した.さらに,米の減反政策の開始により,兼業農家が所有田の多くを休耕地とした.一方で,印旛沼干拓と土地改良事業,農業構造改善事業による機械化の進展によって,大型機械を導入した農家の作業受託が増加し,借地経営による大規模化が進んだ.当初,先駆的に大型機械を導入し稲作の作業受託を行ったのは1戸の農家にすぎなかった.しかし,1970年代中ごろには周辺の農家でも,シンルイ内の離農世帯の農地を請負うこと専業的農家が増え始め,借地経営が一般化した.そして,ほとんどの専業的農家がシンルイを中心として農地を集積し,1970年代末には現在の経営形態に近いものとなっていた.
    近年これらの農家のうち,農業労働力の高齢化により耕作の継続が困難になる事例がでてきている.そのため,周辺農家はこれらの農地を請負っているが,いずれの受託農家の経営者も60歳以上である.さらに,離農世帯のシンルイ内に農家がいない場合も発生しており,受託農家はシンルイ以外の関係にある農家の農地も引き受けざるを得なくなっている.また,離農世帯も早くに大規模化を達成しており,その跡地である農地の規模も大きくなっている.これまでの代表的な借地形態である,シンルイ内を中心とした1戸の離農世帯の農地を,1戸の受託農家が請負うもののみでは,借地経営による稲作の継続は困難になってきている.1戸の委託農家に対して複数の受託農家に分割するような形態や,地区外の大規模農家に一括して委託するなどの代替的な借地経営の方法が模索されている.
    1990年代末より,全国的に水稲卓越地域において北須賀地区のような借地経営が進んでいるが,早くに大規模借地経営を達成した北須賀地区の抱える課題は,将来的に全国の水稲卓越地域において顕在化することが予想される.
  • 深瀬 浩三
    セッションID: 402
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    I はじめに
     わが国では,1961年の農業基本法の施行などに伴う農業構造改善事業の実施や,1966年の野菜生産出荷安定法の施行の結果,野菜を消費地に安定して供給するいわゆる産地が各地に形成された.これら産地は市場での競合を経験しながら発展を遂げた.しかし,1990年代以降,産地間競争の激化や輸入野菜の増加,価格の低迷,生産者の高齢化などによって,販売金額が伸び悩み,多くの産地が縮小や再編を強いられている.本発表では,埼玉県北西部に位置する本庄市(旧児玉町)を研究対象地域として,産地を存続させるための農協や行政による施策と,それに対応する農業経営の変化を検討する.この地域は埼玉県を代表するナスやキュウリの野菜指定産地である。とくに夏秋ナスの生産は50年余りの歴史を持ち,厳選な選果に取り組んだ結果,規模を縮小しながらも市場から児玉ナスとして高い評価を得てきた.本研究ではナス生産農家を対象に調査を行った.
    II 地域農業の概要と農協集出荷組織の再編
     児玉地域では,1970年代までは米作+養蚕業を中心とする経営が行われていたが,養蚕業の衰退や稲作の生産調整により,1960年頃に始まった露地ナスまたは施設キュウリの生産が本格化した.とくに旧児玉町では,収益性の高さと先駆者の存在から,ナスを中心とする経営を選択した農家が多かった.当時からナスの品種は千両2号に統一され,タマネギやブロッコリーを組み合わせた生産体系が確立された.1976年には児玉地域の各農協が協力し,東京市場への一元出荷体制が誕生した.高品質のナスやキュウリを生産するための技術が普及し,それを可能にする先駆者の活動が,産地の規模と評価を保持する基盤となった.しかし,1990年代以降は,労働負担や高齢化,産地間競争などによりナス生産は減少傾向をたどり,東京市場での地位が低下した.
     1997年に児玉地域の1市4町1村(本庄市・上里町・美里町・児玉町・神川町・神泉村)の各農協が合併して,埼玉ひびきの農業協同組合(以下,JAひびきの)が発足した.JAひびきのでは,広域合併をきっかけに,ナスやキュウリの生産農家の労働時間の負担軽減や出荷量の安定化を図るために,2002年度に埼玉県の輸入農作物緊急対策事業を利用して,ひびきの南部選果利用組合を組織した.JAひびきの児玉集出荷センター内に,ナスとキュウリの選果機が設置された.組合の発足時に,ナス生産農家の参加は,旧本庄市6戸,旧児玉町75戸,神川町25戸,上里町10戸,神泉村3戸であった.キュウリ生産農家については,旧児玉町8戸,美里町20戸,神川町30戸,上里町1戸の計約180戸が参加した.
       選果機の稼働時期は,ナスでは6月~11月,キュウリでは2月~7月,9月~12月上旬である.選果施設では,60名(男性13名,女性47名)のパート従業員が厳選な選果にあたっている.組合員の共選共販の割合は90%以上である.ナスの出荷先をみると,埼玉県内の市場が50%,東京・神奈川の市場が50%を占める.キュウリについては,埼玉県内の市場へ30%,東京・名古屋の市場へ70%の割合である.少量の規格外のものは漬物業者と取引される.
     2005年からは全農埼玉の野菜共販ブランド「菜色美人」の一つとして扱われ,「児玉のナス」の知名度の向上を図るために,消費者に向けてラジオなどの宣伝活動が行われている.
     このように,農家は,選果場を利用することによって手間のかかる選別・箱詰作業を大幅に削減できた.2007年の調査では,ナス生産の主力な農家は60~70歳代の家族経営で,1戸あたりのナス作付面積は約30aである.農業経営自体は大きく変わらないが,余剰労働力を活用して生産管理に十分な時間をかけることで,農家間の品質格差を防止したり品質の向上を図ることが可能となった.また,後継者のいる農家ではナス以外の栽培も本格的に行われている.
    III 産地存続の課題―まとめにかえて―
     農協の広域合併をきっかけに,行政単位をこえた共選共販体制が構築され,高い品質と安定的な供給量を確保することができた.また,県の野菜ブランド化事業もある程度の役割を果たしている.課題として指摘できるのは,東京市場を中核とした販路は他産地との市場競争に直面するため,他の量産型産地とは異なるマーケティングの構築である.また,選果施設が組合を脱退する農家をある程度抑えたことは評価できるが,それは産地の存続の抜本的な解決に結びつくものではない.2008年の調査では,ナス生産者数が減少し,年齢と体力に合わせて作付面積を減らす農家も確認できた.また,高齢で後継者がなく,組合を脱退した農家は自給的な農業を行っていた.行政や農協の施策は産地の存続にとって重要な役割を果たすが,当然ながらそれには限界がある。こうした問題は日本の農業が抱える課題のひとつである。
  • 多田 忠義
    セッションID: 403
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     1970年代以降顕在化する林業不振により,森林組合の経営基盤は補助金を中心とする公共事業(森林整備事業)依存を続けている.そのため,国は森林組合の経営基盤を強化・合理化する目的で,森林組合の合併を推進している.加えて,森林整備・治山事業中心の森林組合事業を林産・加工事業も手がけさせる「事業多角化」を推進し,経営基盤を安定化させる取り組みも行っている.
     2000年代以降,国際的資源取引の変化や原油価格高騰の中で起きた国産材特需は,間伐期・主伐期を迎える林分の多い日本にとって国産材利用を促進する好材料である.加えて,京都議定書履行のために日本政府が推し進める間伐施業も森林組合経営によい影響を与えるはずである.しかし,2000年代に顕著となった林業における好条件が,これまでに合併し,事業多角化を試みてきた森林組合の事業経営によりよい影響を与えたか不明な点が多い.
     そこで本研究では聞き取り調査や森林組合提供の業務報告書を分析対象としながら,福島県会津地域における森林組合の実態を,広域合併および事業多角化の観点から明らかにすることを目的とする.

    2.会津地域の森林組合と広域合併・事業多角化
    (1) 福島県の森林組合
     福島県における1990年代の森林組合の特徴は,民有林ベースの資源が豊富で森林組合事業量も比較的多い中通り・浜通り地域,小規模零細な経営が中心の会津地域(高野・荒井 2002)に分けてとらえられてきた.2000年代以降の広域合併は中通り・浜通りで行われ,また事業多角化も会津に比べて進んでいるなど,会津地域とその他の地域との違いがより明確になっている.
    (2) 会津地域における森林組合の広域合併
     福島県は北海道,岩手県に続いて3番目の面積を有し,会津,中通り,浜通りで気候は大きく異なる.平成の合併によって59市町村になり,森林組合の合併も同じくして進んだ.1998年4月に設立した会津若松地方森林組合は,14市町村,5森林組合が関わる広域合併で,合併後の規模は全国トップレベルとなった(藤田 2001).また近年では,2007年4月に福島県北森林組合(以下,森組と略記)が成立した.また,耶麻西部森組と会津北部森組,および伊南村森組,田島町森組と舘岩村森組のそれぞれも合併を模索し協議中である.
    (3) 会津地域における森林組合の事業多角化
     会津地域で唯一広域合併を果たした会津若松地方森組と町単位で存続している西会津森組が事業多角化の状態であるものが,他の組合は森林整備事業に特化し,その事業取扱高も他の森林組合に比べ軒並み小さい値を示している.

    3.事例調査から考える広域合併・事業多角化のあり方
     広域合併の有無,事業多角化の有無に注目しながら会津地域から3森林組合を選び,調査した(表).3森組は,正組合員数及び事業総収益からみた森林組合の規模において,おおむね大中小の関係がある.この事例調査では,森組事業が広域合併を行わなくても事業多角化できる可能性を示すとともに,広域合併をすることで,満たされてきた地域や林家のニーズに応えられなくなる可能性があることを指摘できる.すべての森林組合を経営合理化・基盤強化のために合併や事業多角化を推進するだけではなく,関係主体や地域森林資源を考慮した多様なあり方が望まれる.


    表 聞き取り調査実施森林組合の事業内容
    Table. Details of Interviewed Forestry Cooperatives Businesses


    資料:2007年度森林組合一斉調査(各組合提供),聞き取り調査
    *,** カッコの順位は福島県下のもの.2007年事業年度に基づく.
    引用文献
    高野岳彦・荒井幸輔 2002.福島県における林業の動向と森林組合の地域性.福島地理論集,45,30-44.
    藤田佳久 2001.森林組合の広域化と地域林業経営の再編成(その2).Literary symposium,124,248-221.
  • ― 東北地方における水稲品種の変化 (商品化する日本の農村空間に関する調査報告 9)
    仁平 尊明
    セッションID: 404
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     現在,日本の食料自給率は40%程度と低迷している,しかし,主食であるコメの生産量は90%以上の自給率が維持されている.コメの生産量が長期的に維持されてきた主な要因として,コメの生産と流通に関する農政の方針を指摘できる.とくに1942年に施行された食糧管理法は,水稲をはじめとする食料供給作物に対して,食料の需給と価格の安定のために,生産と流通を政府の管理下に置くものだった.
     しかし,1994年に主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(食糧法)が公布されると,コメの流通面は,民間流通による自主流通米が主体となった.また,政府による管理が弱まったコメの生産面では,それまでの食料を供給するという機能に加えて,商品を生産するという機能が強くなった.このようなコメの商品化に関する変化は,生産と流通の様々な段階にみられる.例えば,新しい品種の開発と普及,大規模稲作農家の登場,農家による販売部門への進出などである.
     本研究では,とくにコメの新しい品種の開発と普及に注目する. 従来,コメの品種の開発と普及には,地方の農政や農協の意向が大きな影響を与えた.しかし,近年では,市場の嗜好を反映して,食味良好な品種の開発が進んでいる.このような新品種の開発,普及のプロセス,地域的な販売戦略など,コメの商品化に関する一連の動向を産地レベルで分析することは,現在の農業地理学の課題である.本研究では,水稲の新品種の開発から,産地における普及までの段階に注目して,水稲が地域的に商品化するメカニズムを解明することを目的とする.
     【東北地方のコメ産地
     事例とするのは,北海道や北陸地方とならんで,コメの主産地である東北地方である.作物統計によると,2007年の東北地方におけるコメの生産量は243.1万tであり,全国の28%を占めた.本研究では,コメの作付面積が連続的に1万haを超える地域的なまとまりを「大規模なコメ産地」とする.2000年農林業センサスの分析から,それに相当するのは,仙北平野,横手盆地,庄内平野,津軽平野,北上盆地,八郎潟干拓地,郡山盆地,会津盆地,三本木原台地,新庄盆地,能代平野,米沢盆地,浜通り地方,秋田平野の14地域であった.また,これら大規模なコメ産地のなかでも,米穀データバンク社の産地評価区分で最高のランクAに相当する市町村が集中するのは,横手盆地,北上盆地,仙北平野,庄内平野,米沢盆地,会津盆地の6地域であった.
     【新しいコメ品種の普及】
     従来よりコメの品種は絶え間なく開発され,産地で生産される主要品種も次々に交代されてきた.とくに1990年代以降の新しい品種の普及の特徴は,次の3点にまとめられる.(1)地方レベルでは,栽培品種が多様化して,地域分化がみられるようになったこと,(2)県レベルでは,コメの栽培面積が減少を続けるなかで,特定の栽培品種に特化してきたこと,(3)全体的に,新品種の命名が一般化してきたことである.
     新しい品種の開発と普及のプロセスにおいて,コメ生産の商品化として捉えられることは,(a)市場の需要に対応して,食味良好な品種が絶え間なく開発されていること,(b)新しい品種の一部は,地域ブランド(コメの産地品種銘柄)に指定され,付加価値が付けられたこと,(c)農家レベルの普及において,県や農協の販売戦略を反映して,有力な新品種が一斉に採用されたことである.なお,農家レベルで栽培品種が多様化しなかった要因として,県や農協の販売戦略ばかりでなく,農業従事者の高齢化を指摘できる.
     今後のコメ産地の対応として考えられことは,最新技術を駆使して新品種を開発している遠方の中小企業などとの連携,農家や個人商店などの小規模な組織による販売部門への参加,農地と農業労働力の流動化を推進するような農政の施行などである.また,近年の品種開発の目標は,食味の良さやブランド化など、市場性の追求が大きな目標になっているが,やませに強くて多収量になるなど,地域の自然に適応できるという従来の育成方針も再評価する必要がある.
  • 商品化する日本の農村空間に関する調査報告 10
    松井 圭介
    セッションID: 405
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1)問題の所在
     本研究は,文科省科学研究費(基盤研究(A) 商品化する日本の農村空間に関する人文地理学的研究;研究代表者:田林 明)による共同研究の一環であり,ポスト生産主義化の日本の農村において,農村空間の商品化が進行するプロセスとその意味を解明することを目的としている。発表者の報告では,ルーラリティの消費という視点から,農村における宗教ツーリズムの創造の調査報告を事例に考えてみたい。
    観光によるまちづくりや地域振興の実践にあたって,聖地創造はもはや常とう手段といっても過言ではない。地域間の競争の中で,いかに他所よりも魅力的な場所づくりを行うことができるか。現代はまさに聖地創造の時代といえる。聖地は偶発的に「観光のまなざし」の対象となるものではない。本発表では,複数のアクターのうち,とくに行政による聖地創造の仕掛けやカトリック側の対応を通して,教会堂や殉教地などが,いかに観光資源として対象化されてくるのか,長崎県におけるキリシタン観光を事例に検討する。
    2)創造される宗教ツーリズム
    長崎の教会群は2007年1月には,世界文化遺産の暫定リストに登録された。これを契機として,長崎におけるキリシタンの聖地巡礼を,宗教的意図のみならず,地域の歴史的文化遺産として,また観光振興の手段として活用しようとする動きは長崎県観光連盟により創出された。これは長崎県内各地に残る有形・無形のキリスト教関連の文化財を再検証し,カトリック長崎大司教区との協議の上,公式の「ながさき巡礼の道」を創造することを目的とするものである。長崎県内212の巡礼地を7地区に分け,巡礼のモデルコースとして紹介するほか,団体客には,カトリック文化などに詳しい巡礼ガイドを派遣するなどの対応も始めている。
    「ながさき巡礼」は既存の教会や殉教の聖地をルート化するものであるが,その背景にはさまざまな要因がある。巡礼発展による観光客の増加を期待する地元自治体の政治・経済的な要請,カトリック側の宗教的理念と布教戦略,スピリチュアルブームといった社会的状況,団塊の世代の退職期に伴う文化遺産観光への関心の高まりなどを背景に,「ながさき巡礼」という社会的な聖地創造への取り組みがなされているのである。
    3)消費されるルーラリティとその課題
    教会群が分布する五島列島などでは,少子高齢化による過疎化が進行し,信徒たちの力だけでは教会堂の維持が困難な状況にある。長年の風雨に耐えてきた教会建造物にも破損が目立ち,倒壊の危機にさらされる施設もみられる。世界文化遺産に登録されることによりツーリズムが進展し,国や地方自治体からの財政上の支援を受け,教会堂をはじめとする貴重な宗教施設が文化財として保護されることに期待する教会関係者も多い。その一方で世界遺産に登録されるおよびそれに伴うツーリズム化の流れに対する不安の声も聞かれる。教会群を観光資源化しようとする動きが強くなれば,教会堂の本来の意味である祈りの場としての宗教空間が変容する危険性を孕んでいることは否めない。
    長崎における宗教ツーリズムの解釈には,多様な読みが可能である。本発表では特に,農村風景の物語消費とツーリズムの生成時にみられる住民の集合的記憶の再編成による地域史のよみかえについて着目したい。 
    現代日本のような高度消費社会において,農村空間に付与されるイメージ操作の背景にも,記号消費の物語が構築されている。キリシタンがもつ「弾圧」「潜伏」「復活」という固有の歴史物語が教会群の風景と結びつくことにより,農村空間の商品化がなされていることについて,発表中に論じる予定である。
  • 商品化する日本の農村空間に関する調査報告(10)
    西野 寿章
    セッションID: 406
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    戦後、日本の山村は大きく変貌し、今日、山間集落では著しい高齢化が進行し、集落の自然消滅が進行しつつある。過疎地域における高齢化率30%以上の地域分布をみると、1995年では地形的条件、歴史的条件、気候的条件などによってより条件不利な地域で先行して高齢化が進行していた。とりわけ、急傾斜面における畑作農業に依存せざるを得ない外帯型山村では、1980年以降の木材価格の下落以降、人口流出に歯止めが掛からず、先行高齢化地域となった。
     2005年になると、先行して高齢化の進行していた地域の周辺で高齢化が進んで、多くの過疎地域が過疎地域の高齢化率を超えて、高齢化が進行するようになった。今日の山村の高齢化は、高度経済成長時代以降も、山村に住み続けてきた人々の高齢化によってもたらされている。このまま行けば、かなりの数の山村集落が消滅し、人工林の荒廃、耕作放棄地の拡大が進んで、国土保全上の問題が生じる可能性もある。
     政府では、1965年に山村振興法、1969年に林業構造改善事業、1970年に過疎法、そして1987年にはリゾート法、2000年からは中山間地域等直接支払制度を導入して、山村の振興を図ってきたが、山村の経済的基盤の再構築は容易ではない。
     今日、山村の状況は厳しさを増しているが、地域の内発的な取り組み、行政主導による村づくりによって、一定の成果を収めている山間集落、地域も少なくない。山村の持続可能性を検討するためにも、一定の成果を収めている山間集落、山村の事例から、その原理を分析し、山村政策のヒントとすることも必要だと考えられる。
     京都府旧美山町(現南丹市)芦生は、由良川源流部に位置する山間集落である。
    芦生は1975年では27世帯96人を数えたが、1980年には19世帯75人に減少した。1990年では21世帯59人と世帯数は増加したものの、人口は減少の一途にあった。それが2000年には246世帯69人と世帯数と人口が増加し、2005年では24世帯67人を数えている。
    2007年11月現在における芦生の高齢化率は、旧美山町全体の高齢化率が37.65%であるのに対して、芦生は23.53%と、旧美山町内においては二番目に高齢化率の低い集落となっている。旧美山町内において、隔絶性が一段と高い芦生が高齢化せず、今日に至っているのは、「むらおこし」への取り組みがあったからにほかならない。
     芦生の耕地は、集落周辺に広がるが狭小なため自給用で、主たる生業は、広大な共有林を利用した製炭と山仕事であった。しかし、高度経済成長期におけるエネルギー革命によって製炭業は衰退し、挙家離村が始まった。芦生で挙家離村が進行する中、地域の中堅者らが中心となって、地区の将来について集落ぐるみで話し合いが行われた。その話し合いの中で注目されたのは、共有林内に自生する「なめこ」であった。なめこの栽培技術を修得して、1961年に6戸9人のグループがなめこの栽培出荷を開始し、1963年には「芦生なめこ生産組合」が設立された。それ以来、芦生では、なめこをはじめ、漬け物類の商品化を農協の支援を受けて展開した。2006年には、1961年の創業者の後継者3人とIターン者3人の出資によって有限会社となって、さらなる持続的発展に挑んでいる。
     一方、群馬県上野村は、県の南西部、利根川支流神流川の源流部に位置する山村で、現在は上野村と上信越自動車道下仁田ICとを最短で結ぶトンネルが開通して交通アクセスが飛躍的に改善されたが、長く隔絶性の高い山村であった。1965年から40年間にわたって上野村長を務めた黒澤丈夫氏は「急峻で狭小な地形では機械の導入や大規模な農業経営は困難で、容易に生産性を高めることはできない。農林業だけでは所得が不安定となってしまうため、第一次、第二次、第三次産業をバランスよく振興してくことが良い」と考えた。上野村では長年にわたって観光宿泊施設の建設、特産品の開発、地場産業の育成を図ってきた。その結果、今日では、1,400人余りの人口のおよそ10%がIターン者が占めるようになった。伝統的なお祭りは、Iターン者にも引き継がれつつあって、長年の山村振興への努力の結果が現れつつある。これらの事例は、住民による地域の「商品化」、行政による地域の「商品化」によって地域の持続性を形成してきたといえる。
  • 商品化する日本の農村空間に関する調査報告12
    篠原 秀一
    セッションID: 407
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     日本における代表的な漁村・水産都市は、その多くが大都市圏から遠隔の地に位置する。今回はA北海道目梨郡羅臼町および標津郡標津町を事例に、漁業ほかを中心とする村落空間の商品化を検討した。漁村・水産都市における空間商品化は、主に地域ブランド水産物、自然環境/生業/生活の体験観光地、小説・映像作品の背景地ニして具現化する。  羅臼と標津は、ともに日本列島北東端に位置する。起源を同じくし、隣接する2町ではあるが、その村落空間の商品化には共通点と相違点がみられる。「魚の城下町」羅臼は、「羅臼昆布」「羅皇」といった詳細選別型地域ブランド水産物を有し、その厳しい自然環境ゆえに知床への冒険的観光者を集客し、多くの小説・映像作品・歌謡の舞台となってきた。標津は、羅臼ほどの自然観光地ではないが、体験観光プログラムを数多く整備して観光者を引きつけ、遡河鮭の捕獲施設を改良した「標津サーモンパーク」は「サケのまち」標津を代表する。羅臼と標津に共通するのは、「知床世界自然遺産」を良き地域イメージとして利用する点と、冬期の自然環境の厳しさが空間商品化の周年化を妨げている点である。
  • 北海道斜里町峰浜地区を事例に
    平井 純子
    セッションID: 408
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.山村留学について
    山村留学とは,「自然豊かな農漁村に,小中学生が一年間単位で移り住み,地元小中学校に通いながら,さまざまな体験を積む活動」である(NPO法人全国山村留学協会)。山村留学は留学児童の心身の成長だけでなく,地域の子どもたちへの刺激となり,地域住民の交流が促され,さらに外部からの眼が地域の良さの再発見をも引きだすことにもつながる。 1980年代後半,地方では過疎化に伴う学校統廃合を回避するため,山村留学事業を運営し地域を活性化していこうとする地域や自治体が増えた。同時期,都市部においては不登校や校内暴力などの学校教育への不安などによる社会的な不安が募った。地域と都市部におけるこれらの動きにより,山村留学事業は開始後10年ほど経過したこのころから増加し始め、社会的関心も高まり、一定の評価がなされてきた。一方で山村留学事業を実践したものの、数年のみで中止してしまう地域も少なくない。
    2.研究目的
    山村留学については,制度の紹介記事や体験ルポタージュのようなものが多く見られるが、学術的な研究が少なく今後の課題となっている。山村留学の形式には,里親型・寮型・学園型・親子型の4パターンがあるが,北海道で多く実施される親子留学での研究蓄積が希薄である。また,留学の児童生徒数は2004年をピークに減少しており,受け入れ児童数の多い学校と少ない学校の二極化が進んでいる。こうした状況から,個別の山村留学を検証していくことが必要となっている。 本報告では,山村留学の具体的な事例として,親子留学を行う北海道斜里町峰浜地区の峰浜小学校を取り上げ,当該地区での山村留学と学校教育の現状,山村留学生とその家族が与える地域社会への影響について,具体例をあげつつ検討した。詳細は当日報告する。
  • -長崎県小値賀町の事例-
    田代 雅彦
    セッションID: 409
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     我が国の地方圏,とりわけ農山漁村地域においては,基幹産業である農林漁業の長期にわたる低迷,さらに地域経済を下支えしてきた公共事業の縮小により,人口が減少し,活力が低下している。こうした中,特に1990年代以降,「観光」が地域活性化の切り札として期待されるようになり,これまで観光地ではなかった多くの地域でグリーンツーリズム等の観光振興が取り組まれるようになった。観光は,経済規模や雇用効果が大きい産業と言われている。しかし,交流人口の増加が地域の収入増加をもたらし,雇用や経済の活性化に結びついている地域は少ない。
     その中で長崎県小値賀町は,条件不利地でありながら,ツーリズム事業に成功した数少ない事例のひとつである。本報告ではその成功の理由を,主に2009年2月に実施した現地ヒアリング調査に基づいて考察することを目的とする。
     この町は,九州本土から西に60kmの五島列島の北部に位置し,主島である小値賀島を中心に大小17の島々からなり,人口は約3,000人である。毎日,佐世保港からフェリーが4便(約3時間),高速船が3便(約2時間),博多港からフェリーが1便(約5時間)就航している。島には空港もあるが現在定期便はなく,長崎市からの日帰りも困難な交通不便な離島である。一部が西海国立公園に指定されているものの,一級の景勝地はなく,決して観光が盛んな島ではなかった。
     ツーリズム事業としては,まず,小値賀本島の東にある急峻な地形の無人島である野崎島で,元・小中学校を宿泊施設に改造し,2001年より「島の自然学校」を設立。カヌー,シュノーケリング,魚釣り,トレッキングなど多彩な体験メニューを整備した。次に,小値賀本島で2006年から島民に「民泊」での協力を依頼し,ホームステイしながらの食事づくり,漁業体験,農業・畜産体験など,島民の暮らしとふれあいを核にした多彩な体験メニューを整備していった。
     2007年には観光産業を一元化する組織として,野崎島の「自然学校」,小値賀本島の「民泊組織」,そして町の「観光協会」の3つを統合し,「NPO法人おぢかアイランドツーリズム協会(以下,IT協会)」を設立してワンストップサービスを実現した。IT協会設立のキーマンとなったのは,外部からの移住者である。IT協会では,島民の30人に1人が会員という地域ぐるみの活動を展開し,島外にも事業協力者やファンを拡大していった。
     そして,IT協会自身でつくる様々な主催事業のほか,定住促進事業,子ども農山村漁村体験事業,海の体験事業等といった国等からの委託事業や,旅行会社ツアーの受入など多彩な事業を展開している。また,港のターミナルビルの指定管理者となり,売店も運営している。
     結果,小値賀町への観光客数は,IT協会設立前の年間約3,000人から8,000~1万人へと増加し,宿泊者数も2006年以降,民宿を中心に増加に転じている。IT協会の事業規模は,2007年度は6,000万円,2008年度には約1億円に達し,人口約3,000人の町で2009年度に10人の常勤雇用者(2007年度スタート時4人)を創出している。現在,IT協会では町からの運営補助金を一切受け取らずに運営できるまでに成長している。
     小値賀町が,観光を地域経済の活性化に結びつけた要因は,(1)IT協会が設立当初から,単に交流人口を増やして賑わいを創出するのではなく,産業として島の経済が潤うように “外貨”を獲得し,常勤職員の増加,行政からの自立という明確な姿勢を持っていたこと,(2)IT協会という事業,PR,問い合わせ対応など観光に関わる全てを一元化した組織と,リーダーが存在していること,(3)IT協会が訪島前に客の要望をつぶさに聞き,マンツーマンに近い形できめ細かく応えるオーダーメイド型の旅行を志向していること,(4)体験型が中心でリピーターが多いこと,(5)多くの町民がIT協会の事業に協力し,生業の中で無理なく観光事業に参画し,わずかでも経済的なメリットを享受していること,にある。
  • 山田 耕生
    セッションID: 410
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     1990年代以降,農山村地域では農山村の持つ農業景観や文化などを観光に結びつけた農村観光,いわゆる「ルーラルツーリズム」が各地で展開されるようになった。その動きはスキー場周辺地域においても見られる。これまでスキーシーズンの観光業に依存してきた地域では,春~秋期のいわゆる「グリーンシーズン」にルーラルツーリズムを展開することにより,スキー客減少による観光業低迷からの脱却を図っている。
     本研究では上記の点に着目し,長野県木島平村を事例に取り上げ,スキー場周辺地域におけるルーラルツーリズムの展開を明らかにする。さらに,宿泊施設への聞き取り調査および宿泊客へのアンケート調査を通して,ルーラルツーリズムの課題と意義について考察する。
    2.木島平村におけるルーラルツーリズムの展開
     長野県北東部に位置する木島平村では1963年の木島平スキー場が開業した。スキー場開業当初は村内の農家による民宿業経営が増加し,一時は40軒を超える民宿が存在していた。1980年代に入るとスキー場の規模拡大とともに外部移住によるペンション経営も増加し,スキー観光地として大きく発展した。
     一方で,スキーシーズン以外においても,木島平村では1966年頃から夏休みを民宿で過ごす家族での宿泊や,首都圏の大学の合宿や小中学校の自然体験学習などが行なわれるようになり,いくつかの民宿では夏期に宿泊客の受け入れを行っていた。1971年に農林省の自然休養村事業を導入し,散策路,キャンプ場,ロッジ,グラウンドなどを整備したほか,グラウンドやテニスコートなどを建設した。1985年には東京都調布市と姉妹都市の盟約を結び,村内に宿泊施設「調布市木島平山荘」がオープンした。調布市内の小学校では夏期林間学校の施設として利用した。
     1990年代半ば以降,木島平スキー場へのスキー入込が低迷すると,村内の宿泊施設,特に民宿の数も減少していった。そのような状況の下,1996年に民宿,ホテル,ペンションなどの宿泊業者と農業者を中心として,「木島平村グリーンツーリズム研究会(現在は協会)」を発足させた。同協会では,農業体験や農作物収穫・もぎ取りなどの「グリーンツーリズム」や,森林でのハイキング等のレクリエーションの企画や宣伝,観光客受け入れなどを行っている。
    3.宿泊施設経営にみるルーラルツーリズムの現状
     2008年時点,木島平村の宿泊施設はホテル5軒,民宿11軒,ペンション32軒であり,そのうちホテルを除きスキーシーズン以外に宿泊客を受け入れているのは,民宿9軒,ペンション25軒である。グリーンシーズンの宿泊客におけるリピーター率をみてみると,50%以下の施設が多いものの,70%以上の常連客を抱えている施設も目立っている。宿泊施設の経営者とつきあい,交流することで愛着が湧き,リピーターとなる場合が多いと考えられる。
     グリーンシーズンの宿泊客の目的については,自然散策や温泉,村内のレクリエーション施設でのスポーツなどが上位にある。自然散策は村が自然休養村事業で整備したカヤの平高原でのハイキングやケヤキの森公園での散策であり,宿泊施設経営者が自然や植生,動植物について説明しながら地域をガイドする場合も多い。農業体験については農業を兼業している民宿では多いが,主に外部からの移住者が経営するペンションでは農地を持たないためにあまり行われていない。しかし,村内の遊休耕地を共同で借り受けて小規模ながらアスパラガスやズッキーニ,ブドウなどの栽培を行っているペンションもあり,宿泊者の需要に応じて収穫などの体験を実施している。
    4.まとめ
     宿泊施設営者に行ったアンケート結果によると,木島平村の観光に必要なものとして,「農村風景」の回答数が多い。ルーラルツーリズムにおいては,その土台となる「農村らしさ」をいかに魅力あるものにし,観光客に提供できるかにその成否がかかっている。とりわけ,長期間「農村らしさ」とは対極とも言えるスキー場に入込の多くを依存してきたスキー場周辺地域では,観光業と関連させるなどして農業を維持する仕組みを作っていくことが大きな課題となっている。
  • 野田 江里
    セッションID: 411
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    研究目的
    本研究は、東京都奥多摩町のハイキングロード「奥多摩むかしみち」を事例として取りあげた。地域資源の観光利用に関わる主体を地域住民・行政・訪問者の3つに大別し、それらの相互関係を時系列的に検討することを第一の目的とした。次に、地域資源の観光利用の持続性を検討することを第二の目的とした。
    研究対象地域の概要
    「奥多摩むかしみち」(以下、むかしみち)は東京都奥多摩町に位置する約9kmのハイキングロードである。東京都奥多摩町は、東京都の最西部に位置し、その面積の約90%が森林に覆われている。同町は、1955年の発足以降、観光立町を掲げ観光協会の設立や遊歩道の開設等を展開してきた(奥多摩町誌1985)。その施策の一環として、むかしみちが成立した。むかしみちは、起点と終点からの主要交通機関へのアクセスが良く、住民の生活道でもあるため、整備が行き届いている。そのため、誰でも気軽に利用できる初心者コースとして人気が高い。ちなみに2009年4月29日には、一日約300人がむかしみちを歩いている。 むかしみちの地域資源利用の推移 むかしみちに関わる事象を時系列的に検証すると、その利用形態によって1982年まで、1983年~1990年、1991年以降の3期に分けることができる。近世から昭和前期にかけてむかしみちは、物流の主要街道として栄えた。その後は時代とともに住民の生活道として使用されるだけになった。しかし、沿道の小学校の廃校(1978年)を契機に、地域住民によるむかしみち沿道の歴史遺産の調査が行われた。1981年に調査報告書として、歴史遺産の由来やむかしみち沿道で語り継がれている民話等が記念誌にまとめられた。この時期にむかしみちの歴史遺産が地域資源として見直された。
    1983年~1990年には、記念誌に掲載されている地域資源を観光利用しようという動きが地域住民の間でおこった。そこで奥多摩町が、地域住民の有志に奥多摩むかしみち観光利用の提案書の作成を委託した。また1980年代後半のふるさと創生事業を契機として、外部(=訪問者)からもむかしみちの観光利用が注目されるようになった。地域住民・行政・訪問者の活発な意見交換ののち、1990年「奥多摩むかしみちを歩こう」グリーンイベント・ヘルシーウォークが開催された。当日約800人の参加者がむかしみちを歩き、むかしみちの観光利用が本格的にスタートした。
    近年になると、健康志向ブームをうけ、町の観光施策では森林浴がむかしみちの地域資源とみなされるようになった。町主導の森林セラピー事業が始まり、2008年にむかしみちは森林セラピーロードに認定された。
    以上のように、むかしみちの地域資源は地域住民が沿道の歴史遺産を見直し記念誌としてまとめることで発見された。それに基づいて観光利用が提案されたことで、むかしみちの地域資源の観光利用が成立した。近年は訪問者のニーズの変化とともに、地域資源の観光利用の形態の変化がおこった。さらに、1990年までむかしみちの観光利用の企画・提案の中心であった地域住民の高齢化や後継者不在によって、地域住民の関与が希薄化し、むかしみちは行政の管理や訪問者の一方的な利用になってしまっている。
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