日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の258件中151~200を表示しています
  • ―北京の什刹海を事例として-
    何  晨
    セッションID: 813
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. 研究目的と研究対象地域
    本研究の目的は,北京の什刹海を事例として,大都市における水辺空間の歴史的変遷,および変遷過程の中で形成された様々な景観や施設(観光要素)が,都市観光化に果たす役割を明らかにすることにある.
    近年,大都市における水辺空間の意義に対する関心が集まっている.水辺空間は,飲料水・農業用水の供給源や河川交通・資材運搬などの物流機能のみならず,近年では近隣住民に対するレクリエーションの場や自然環境の保護といった親水機能の役割を担っている.生活環境の悪化が進行する大都市において,水辺空間の果たしうる役割は大きい.
    急速に開発の進む北京では,水辺空間の観光開発は重要な意味を持つ.什刹海は北京市のほぼ中央に位置する,同市を代表する水辺空間である.近年,北京では急速な経済成長や観光の国際化を背景とした,観光客の増加が顕著である.什刹海は,北京の中でも観光化の進んだ地域である.美しい景観を眺望できる湖畔には,西洋スタイルのバーやレストランが相次いで開業し,外国人観光客やビジネスマンを対象とした一大歓楽街を形成している.

    2. 調査方法
    什刹海における観光開発の状況を把握するため,2008年7月から8月にかけて,現地調査を実施した.具体的には,什刹海周辺に立地する諸観光施設,およびバーや土産品店など全127店に対してインタビュー調査を行い,各施設の開業年や出店理由,出店の経緯,経営者の出身地,業種選択の理由などを調べた.また,什刹海周辺の都市計画や,什刹海保護区に位置する歴史・文化的建造物の利用状況なども調査した.さらに,GISを用いた空間分析も実施した.

    3. 什刹海の変遷
    什刹海の機能は,時代とともに大きく変化した.金代,什刹海は,北京における生活用水・農業用水の供給源としての役割を果たした.什刹海周辺には農地が広がり,牧歌的は風景が広がっていた.元代に入ると運河の開拓が進み,什刹海は水運の拠点として栄えた.周辺地域には,物流網を背景とした商業地が形成された.明代には,什刹海の一部が皇居の範囲内に組み込まれたため,什刹海の物流機能が消失した.一方,風光明媚な湖岸には,貴族の邸宅や庭園,寺院が相次いで建設された.清代,什刹海は住民のための水辺空間として解放された.周囲には茶店や遊芸施設が建てられ,庶民の憩いの場となった.一方,中華民国時代には,戦乱の中で什刹海は荒廃した.屋敷や寺院は本来の機能を失い,行政機関や一般庶民の住宅へと転用された.中華人民共和国時代に入ると,什刹海の再整備が進んだ.2000年代に入ると,バーやレストランを中心とした遊興施設が相次いで立地し,什刹海は北京を代表する都市観光地の一つへと成長した.その一方で,環境破壊も顕在化した.

    4. 什刹海の観光要素
    結論として,什刹海の変遷と観光要素の関係をモデル化した.什刹海の変遷過程と観光化の間には,密接な因果関係が確認できる.什刹海が北京における生活用水・農業用水の供給源,水運の拠点,貴族の景勝地,庶民の憩いの場と変遷していく過程で,その周辺地域には,美しい風景,庭園,寺院,貴族の邸宅,庶民の住宅などが建設された.これらが今日,風光明媚な観光スポットやバー,レストランとして活用され,什刹海における重要な観光要素を構成している.
    その一方で,什刹海の有する豊かな緑地空間や歴史・文化施設などは,いまだ観光資源として十分に活用されてはいない.現在の什刹海では,自然環境の破壊や,歴史的建造物の取り壊し,およびバー,住宅,事務所等への改築などが進んでいる.潜在的な観光要素を活用し,自然や歴史,文化の保護に配慮した持続的な都市観光地を築くことが,これからの什刹海の課題である.
  • 「鎌倉」を事例に
    齋藤 譲司
    セッションID: 814
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    _I_ はじめに
     従来の観光地理学は,社会的・経済的な機能と構造に注目した観光地の形成過程の研究が中心である。一方,文化人類学や社会学では,観光と文化との関わりを指摘する研究がさかんである。観光客がもつ場所のイメージや観光地の訪問は,既存の文化を刺激し,新しい文化を構築する。そして,高度に情報化した現代社会では,観光地のイメージ形成がメディアによってなされる点が重要な課題であると指摘されている。近年,地理学においても文化的次元に注目した研究は,新しい観光地理学の方向性として認知されはじめている。このような文化的要素による観光地の成立は,構築主義の視点から指摘することができる。本研究では,観光地(ホスト),観光客(ゲスト),メディアの三者が特定の場所イメージを共有できる地域を観光空間と定義した。そして,三者による場所イメージの共有の程度が観光空間の構築に影響する点を神奈川県鎌倉で論じる。

    _II_ ホスト・ゲスト・メディアの分析
     本研究ではホストとして地域政策として観光空間の構築に関わる鎌倉市行政,と観光空間に居住する地域住民を扱う。行政は法令により既存の景観を保存し,開発による改変を規制することで「古都」イメージに合う景観を保存している。地域住民は近世以前の建築物を鎌倉の観光資源と認識し,さらに「古都」イメージに合う「鎌倉らしい」景観の維持に努めている。これが鎌倉における行政の観光政策と地域住民の鎌倉観光への態度である。
     ゲストの分析では鎌倉市観光課が実施した「鎌倉市観光基本計画策定調査報告書」を用いて,ゲストの動態やゲストの鎌倉に対する意識を分析した。ゲストは史跡の存在や自然の豊かさを感じ「古都」をイメージしていた。そしてゲストが訪れる資源は近世以前の建築物が中心であった。このようなゲストが持つイメージと「古都」イメージに合う観光資源を巡ることがゲストの鎌倉観光である。
     メディアの分析では鎌倉を紹介したガイドブックを使用し,記述された言説を読み解く。本研究では「ブルーガイド鎌倉2007」を使用し,書かれた言説を観光資源別に分類した結果,10種類に分類できた。「ブルーガイド」の言説からは歴史的で文化的な「古都」であると同時に自然が豊かな観光地を読み取れた。このような言説による「古都」イメージがメディアの中の鎌倉である。

    _III_ 三者の観光への関わりと地域性
     鎌倉北部では,「古都」と結びついた行政の観光政策が行われ,関与は強い。地域住民は観光資源への認識があり,景観維持に積極的であるため,地域住民の鎌倉観光への態度は強い。ゲストは「古都」を感じられる観光資源を訪れているため,ゲストの鎌倉観光への関わりが強い。メディアには「古都」をイメージする言説が多く使用されメディアの中の鎌倉が構築されている。つまりこの地域では,四者が「古都」イメージを矛盾なく受け入れ,観光空間が構築されている。
     鎌倉駅周辺の地域では行政の観光政策が不十分であり,地域住民の鎌倉観光への態度は皆無である。ゲストは鎌倉観光の拠点として鎌倉駅を訪れるため「古都」の拠点として関与は強い。メディアは観光資源の掲載がなく,メディアの中の鎌倉は「古都」と結びつかないが,商店の掲載により,「商業地」として関与が強い。つまり,四者とも「古都」イメージを抱けず,観光空間は構築されない。
     鎌倉西部地域では行政の観光政策が近代以降の建築物にまで及び,行政の関与は強い。しかしこれらの建築物は「古都」イメージを感じられないため,地域住民,ゲスト,メディアに観光資源として受け入れられない。「古都」を感じられる高徳院のみを観光資源として受け入れ,観光空間の構築が不徹底である。
     鎌倉東部地域は「古都」と結びついた行政の観光政策が行われ,関与は強い。しかし,土地の細分化による景観の喪失により地域住民の鎌倉観光への態度が希薄になった。また「古都」イメージに合う資源はあるがゲストの鎌倉観光の関与は弱く,メディアの中の鎌倉は「古都」をイメージする言説の使用が少ない。かつては「古都」イメージを共有でき,観光空間が構築されていたが,構築が衰退した地域である。

    _IV_ おわりに
     本研究ではホスト・ゲスト・メディアに注目することで観光地鎌倉がこれらの相互作用の中から構築されたものであることが明らかになった。鎌倉北部では四者が「古都」イメージを共有できたため,矛盾のない観光空間が構築されていた。しかし,他地域では「古都」イメージを共有しきれず,観光空間の構築は不徹底であった。観光地における主体間の関係を明らかにできた本研究は,今後の観光地理学の進展に貢献するものと思われる。
  • 赤石山脈アレ沢崩壊地の事例
    西井 稜子
    セッションID: P0901
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    I.はじめに
    大規模な岩盤崩壊が発生した斜面では,崩壊以前から斜面内部において重力性変形が進行していた可能性が高い,ということが多くの研究によって指摘されている.しかし,その進行程度を評価することは極めて難しいため,具体的な崩壊予測の確立には至っていない.崩壊発生前には,斜面内部の重力性変形に伴い地表面にテンションクラックなどの前兆現象が発現される場合がある.したがって,そのような前兆現象の特徴と,その後に発生した崩壊の特徴(規模,運動様式)との対応関係を定量的データに基づき評価することは,崩壊発生の危険度評価の精度向上に繋がると考えられる.そこで,本研究では2004年5月に赤石山脈北部のアレ沢崩壊地内で発生した岩盤崩壊を例に,崩壊発生前後の空中写真判読と崩壊斜面の図化を行い,その前兆現象と崩壊特性について検討をおこなった.
    II.調査地と方法
    アレ沢崩壊地は,赤石山脈間ノ岳(3,189 m a.s.l.)の東斜面に位置する.地質は,四万十帯の砂岩頁岩互層からなり,地層の走向は北東―南西方向が卓越する.また,崩壊地周辺には,岩盤の重力性変形を示す山上凹地,山向き小崖,谷向き小崖が数多く存在する. 崩壊発生前後の空中写真(1976年,2003年,2004年)をスキャナーでデジタル化し,三次元数値化システムソフトを用いてオルソ画像と5 mメッシュDEMの作成をおこなった.以上のデータを基に,GISを用いて地形図の作成および崩壊斜面長,傾斜,崩壊面積と体積,崩壊深などの地形計測をおこなった.また,空中写真判読により,崩壊地縁辺部に発達するテンションクラックの分布図を作成した.
    III.結果と考察
    地形計測の結果から,2004年の岩盤崩壊は,崩壊面積6×104 m2,崩壊体積約8×105 m3(幅250 m,比高400 m,平均崩壊深13 m)の規模であった.崩壊した岩盤斜面頂部には,山上凹地がいくつか存在し,崩壊はそのうちの一つを境に発生したことが明らかになった.そして,崩壊発生前後の斜面プロファイルの比較から,崩壊の運動様式は約40°のすべり面に沿った岩盤すべりであったことが推測された.また,1976年~崩壊発生前年(2003年)の間に,崩壊地縁辺部に長さ数~数10 mのテンションクラックが新たに形成されていたことが確認された.したがって,岩盤崩壊が発生する少なくとも半年前には,地表面にその変化が現れる程度の重力性の岩盤変形が生じていたことが明らかになった.以上より,大規模な岩盤崩壊(105 m3オーダー)の発生前には,崩壊地縁辺部に空中写真で判読可能な規模のテンションクラックが形成される場合があり,詳細な空中写真判読により崩壊の前兆現象を抽出できる可能性があるといえる.
  • 小山 拓志, 天井澤 暁裕, 増沢 武弘
    セッションID: P0902
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1,はじめに 日本の高山の風衝側斜面で普遍的に認められるパッチ状裸地(原田・小泉,1997)は,密生したスゲ類や矮性低木群落などの根系が主として風食を受けて形成された裸地であり,その風下側縁辺部にみられる小さな崖は,風食ノッチ(小泉,1984;福井・小泉,2001)あるいは単に小崖(原田・小泉,1997)と呼ばれている.日本の高山では,パッチ状裸地や風食ノッチの形成が,風衝斜面での地形形成や植物群落の分布に大きな役割を果たしていると考えられ(小泉,1984),風食ノッチの形成プロセスや形成速度を明らかにすることは重要である.そこで本研究では,南アルプス南部,悪沢岳周辺において,風食ノッチの年間後退距離を測定したので報告する. 2,調査地域と測定方法  調査地は,悪沢岳(3141 m)東方の丸山(3020 m)と赤石岳(3120 m)北方の大聖寺平(2800 m)で,地質は主に砂岩・泥岩の互層からなる.風食ノッチの年間後退距離の測定は,丸山の南向き斜面の5箇所および大聖寺平の南西向き斜面の16箇所でおこなった. 風食ノッチの形態を把握するため,丸山では5 m×5 m,大聖寺平では最大傾斜方向3 m×水平方向2 mの範囲で平面図を作成し,さらに同範囲に分布する風食ノッチの縦断面図を作成した.なお風食ノッチの年間後退距離の測定方法は,原田・小泉(1997)に従った.すなわち長さ15 cmのアルミ製の棒を風食ノッチの中央部に根元まで打ち込み,1年後に露出した部分の長さを風食ノッチの年間後退距離として測定した.打ち込みは,丸山で2005年7月24日,大聖寺平で2006年8月14日,測定は丸山で2006年8月16日,2007年8月29日,2008年9月9日(抜け落ちのため欠測あり;第1図:風食ノッチ番号4),大聖寺平で2008年9月12日におこなった. 3,風食ノッチの形態と植生 丸山に分布する風食ノッチは,比高(地表面から庇頂部まで)が10 cm~20 cm程度で,深さ(奥行き)が平均4.5 cmの明瞭なノッチの形態を呈する.庇頂部にはクロマメノキなどの矮性低木群落やミヤマキンバイ,スゲ類などの草本植物が生育しており,庇からそれらの根系が垂れ下がっている場合が多い. 大聖寺平に分布する風食ノッチは,深さが平均10.4 cmあり,丸山に比べ掘り込みが大きい.庇頂部にはガンコウランやイワウメなどの矮性低木群落やハイマツの生育がみられ,根系が風食ノッチの庇から垂れ下がっている. 4,測定結果と考察 丸山:測定をおこなった5箇所の風食ノッチは,年間で平均1.8 cm後退していることが確認された(第1図).最も後退した風食ノッチで,年間4.2 cm(2006~2007年)と年間5.1 cm(2007~2008年)であった.また2006年には存在していた風食ノッチの庇が,2007年には崩壊しかけているものや,すでに崩壊しているものが存在した.そのような場所では,庇直下に崩壊起源と考えられる崩積土や,頂部に生育していたと考えられる植物の遺体が点在していた. 大聖寺平:測定をおこなった16箇所の風食ノッチは,2年間で平均2.4 cm後退していた(第2図).2006年~2008年で最も後退した風食ノッチでは,13 cmの後退がみられた.大聖寺平においても庇の崩壊が一部で確認できたが,年間後退距離の大きい風食ノッチでは,庇を植被するイワウメの剥離やガンコウランの枯死が多くみられた. 大聖寺平に分布する風食ノッチの年間後退距離の値が,丸山に分布するものと比べ大きいことから,少なくとも大聖寺平は丸山よりも風衝度が高いことが推測される.
  • 熊原 康博
    セッションID: P0903
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    問題意識と目的  近世以前までに成立した主要な街道筋の起源は,当初いくつか存在した道の中で,人々が自然条件や社会経済条件の最適な道を繰り返し利用することにより,ある特定の道沿いのみが集中的に発展したことによるのではなかろうか.これまでの街道筋の発達に関する研究は,歴史学分野で社会経済条件の面から主に説明されてきたが,自然条件について十分な検討がなされてきたとは言い難い.本発表では,自然条件の中でも,徒歩や牛馬の荷駄による移動にとって最も影響の大きいと考えられる地形条件について具体的に検討し,どのような地形上に街道や宿場などがあるのかなど,街道筋における地形条件の規則性を導くことを目的とする. 対 象  本発表では,江戸から京都までを主に山岳地域を経由する中山道(距離約533km)を研究対象とした.その理由は,1)五街道の一つであり,大名や旗本の参勤交代や年貢の輸送をはじめ,善光寺参りなどのため行き交う旅行者も多いなど,中山道を利用した往来がさかんであったこと,2)関東平野や中部地方の山岳地域,三河高原など変化に富んだ地形を通過することから地形条件の規則性の多様性を検討するに適当であること,3)東海道沿いに比べ,戦後の都市化の影響が少なく,当時の様子を伺えることである.なお,本発表では,ボリュームの関係から関東平野(日本橋-高崎宿間:約110km)の中山道沿いを検討することとした. 方 法  江戸時代中期,文化年中に道中奉行の調査によって中山道の街道沿いを詳細に描いた中山道分間延絵図を参照して,現在の地形図に中山道のルートを書き入れた.また,都市化の影響が少ない終戦直後に撮影された縮尺4万分の1米軍空中写真, 明治~大正期に作成された旧版地形図をもとに, 街道全体にわたる地形分類をおこなった.地形分類の範囲は,おおむね街道を中心に両側1km程度とした.一部の地域については現地へいき,簡易断面測量やハンドオーガーによる表層地質観察を行った. 結 果  関東平野の中山道のルートを大きな地形区分で見ると,東京低地の西縁の日本橋を始点として,武蔵野台地東縁-荒川低地-大宮台地-荒川低地-熊谷扇状地-櫛挽本庄台地東縁-神流川-高崎台地を通る.ルートの特徴としては,1)低地よりも台地をできるだけ選択して通過すること,2)関東山地を横切る峠へつづく高崎をめざして,江戸と高崎間を結ぶ直線的なルートであることが挙げられる.  より詳細な街道沿いの地形区分を見た場合,台地上では,1)開析谷をできるだけ横切らない,2)段丘面上で相対的に高い分水界上を通過する,という特徴が認められる.また,開析谷を通過せざるを得ない場合には1)開析谷内の微高地,2)河床幅の短いところ,3)河道が直線的な部分を選ぶ傾向が見られる.例えば,宿場のあった板橋では,開析谷である石神井川を横切る.そこでは,河川争奪によって生じた数__m__程度高い旧河床がある箇所を選択し,河道幅が狭い部分を通過している.一方,低地では,自然堤防上をできるだけ通過し,後背湿地や旧河道を通過する箇所を抑える傾向が見られる.大宮台地北端と熊谷扇状地南端までの荒川左岸の地形区分をみると,自然堤防がある箇所を巧みに選択して街道がつけられているが,自然堤防がなくなる地域のみ,人工の久下堤を街道として利用している.  宿場の地形的な立地をみると,日本橋から高崎までの13宿のうち,12宿が段丘上にあり,1宿(蕨宿)が自然堤防上,1宿(新町宿)のみが氾らん原にある.   考 察  上述の結果は,当時人力による土木技術であったことから,地形を活用して街道筋が成立していたことを示すと考えられる.具体的には,街道筋は,河川による自然災害を予防し,またその被害を最小限に抑えるルートであり,移動距離や高低差をおさえるなど往来の負担を可能な限り軽減するルートを選択しているといえる.  本研究の進捗にあたり,財団法人日本生命財団の助成を受けました.
  • 佐藤 剛, 苅谷 愛彦
    セッションID: P0904
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    飛騨山脈北部,乗鞍岳南東面に位置する栂池自然園(1,900 m asl付近)は一部閉塞された凹地状の地形場にあり,高層湿原が発達する。本報告では地形・地質踏査結果から,_丸1_栂池自然園周辺の地形が,地すべり活動に伴い形成されたこと,_丸2_園内で得たAMS14C年代を報告する。
  • 須貝 俊彦, 佐々木 優太, 小島 圭, 柳田 誠, 古澤 明, 池田 倫治, 大野 裕記, 西坂 直樹, 市川 清士, 守田 益宗
    セッションID: P0905
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    愛媛県肱川最上流に位置する宇和盆地で掘削されたコアの深度約70m以浅の過去約50万年間の堆積層を対象として、粒度分析、色相計測、有機炭素・全窒素分析、帯磁率測定を行い、この間の環境変化を復元した。 コアにおいてC/N比が10以下の層準(L*>30、TOC<1%の明灰色シルト)は、湖底堆積物と考えられ、MIS 3, 5, 7.5, 9, 11,13の間氷期に出現した。C/N比が20を超える層準(L*<20、TOC≧3%の泥炭質シルト)は、湿地堆積物と考えられ、MIS 2, 4, 6, 8, 10,12,14の氷期に出現した。以上は、気候の氷期-間氷期変動に伴い、盆地床は湖と湿地を繰り返してきたことを強く示唆する。とくに、氷期の海面低下に伴う日本海の閉塞や瀬戸内海~豊後水道の陸化が、当該地域に顕著な乾燥化をもたらした可能性が想定される。他方、各指標値の50万年間の定向変化は、盆地の埋積が進むにつれて、湖の出現頻度や期間・水深は減少し、その一方で平坦な盆地床が拡大し、斜面から盆地中央への粗粒物質の到達頻度や規模が減少してきたことを示す。
  • 青木 賢人, 堀 和明
    セッションID: P0906
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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     パタゴニア氷原は南極を除く南半球の氷河で最大規模を誇る.現在の氷原はBaker川の河口付近を境にして北氷原・南氷原に分かれているが,最終氷期最盛期には一つの山岳氷床になっており,現在よりも遥かに大きかった.氷床の後退に伴って,General Carrera湖(チリ側の名称.アルゼンチン側ではBuenos Aires湖:以下GC/BA湖)やCochrane湖(アルゼンチン側ではPueyrredon湖:以下C/P湖)をはじめとする巨大な氷河湖が氷原の東側に出現した.これらの湖には周辺山地から河川が流入し,河口部にファンデルタや開析扇状地(かつてのファンデルタ)が形成された(Glasser et al., 2005).ファンデルタは数段認められ,湖の水位変化に対応して形成されたものと考えられている(Tuner et al., 2005;Bell,2008).したがって,このファンデルタの地形や堆積物の特徴を明らかにし,湖水位変化との関係を議論することは,パタゴニア地域における氷河変動を考える上でも大切であろう.
     GC/BA湖は,東西150km,南北10-20km,面積1,900 km2をもつ.現在の湖水面は海抜約200mである.現在,湖水はBaker川を通して太平洋側に流出するが,13 ka以前には大西洋側に流出していたと考えられている.C/P湖は,GC/BA湖の南側に位置する.現在の湖水位は海抜約150mである.湖水はCochrane川を通してBaker川へ流出する.また,これら2つの湖はかつて一続きだった可能性も指摘されている(Tuner et al., 2005).  空中写真や衛星画像にもとづき,両湖岸にみられるファンデルタや開析扇状地の分布や形態を把握した.現地調査は,2006年12月,2007年12月および2008年8~9月におこなった.現地では,ファンデルタの地形や堆積物を確認し,また,GC/BA湖の東端に分布する湖成段丘やモレーンなどの地形調査もおこなった.緯度経度はGPSで確認し,標高はSRTM-3の標高データから推定した.さらにファンデルタを構成する堆積物中から有機物に富む部分を取り出し,AMSによる年代測定をおこなった.年代はCALIB Rev. 5.0.1を用いて補正した.
     GC/BA湖のファンデルタは,現成のものも含めて,大きく3段に区分された.これらを上位から,ファンデルタ1,2,3と呼ぶ.ファンデルタ1の規模はファンデルタ2や3に比べて小さい.扇状地末端に位置する段丘崖の高度は海抜380〜440m程度であった.堆積物は円磨された砂礫層からなる.堆積物中に含まれていた土壌からは約17 ka,また,砂礫層を覆う土壌からは8.4 kaの年代が得られた.ファンデルタ2は広い堆積面をもち,表面勾配は一般にファンデルタ1に比べて小さい.扇状地末端に位置する段丘崖の高度は海抜290〜320m程度であった.堆積物は円磨された砂礫層からなり,表層部に平行層理,その下位に,傾斜20-30度で湖側に傾く斜交層理を確認できる露頭もあった.また,砂礫層が極細粒砂やシルトからなる湖成層を覆っている場合もある.扇状地末端の周縁部では,礫質支持の礫層も確認された.Aviles川沿い(図)では,この段丘面の上に2列のモレーンが乗っている.このモレーンの年代は表面照射年代の結果から,外側が約8.5 ka,内側が約6.5 kaと推定されている(Douglass et al., 2005).ファンデルタ3は現在の湖水位に対応して形成されたもので,現河道は網状流路をなしている.また,湖に供給された堆積物は波により東側に運搬されている可能性が高い.
     以上のことから,GC/BA湖の水位は,2回ほど急激に下がったと考えられる.ファンデルタ1は約400mの湖水位,ファンデルタ2は約300mの湖水位に対応して形成されたと推定される.GC/BA湖末端に分布する最も内側のターミナルモレーンの年代は23~16 kaである(Kaplan et al., 2004).その頂部の標高は約420mであり,顕著な峡谷の発達も見られないことから,モレーンの形成以降にこれを超える湖水位に達し,大規模な氷河湖決壊洪水が発生したとは考えにくい.また,これらのモレーンの湖側には,ファンデルタ1および2を形成した湖水位に対応している標高約300m,約400mの湖岸段丘が認められる.前述した年代値も考慮すると,ファンデルタ1は16~8.5 kaの間に形成されたと考えられる.また,ファンデルタ2は,Aviles川沿いのモレーン分布と形成史との関係から8.5kaまでには礫層の堆積をほぼ終了し,8.5~6.5kaの間の湖水位が安定した期間を経た後,6.5 ka以降に離水したと推定される.
     一方,C/P湖の湖岸でも,現世のものも含めて数段のファンデルタを確認できた.しかし,離水ファンデルタの末端の高度がGC/BA湖とは異なっているとともに,湖岸線に沿う分布の連続性が悪い.これらのことから,C/P湖の湖水位変動がGC/BA湖と連動していたと考えることには疑問が残る.
  • 後藤 秀昭, 杉戸 信彦, 廣内 大助, 鈴木 康弘, D. Enkhtaivan, J. Sukhbaatar, O. Batkhishi ...
    セッションID: P0907
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. はじめに  ユーラシア大陸の中央に位置するモンゴルとその周辺では20世紀にマグニチュード8クラスの巨大地震が複数発生している。そのうち,1905年に発生したブルナイ(Bulnay)地震(M8.2)では,長さ320km,横ずれ変位量最大14mにも達する世界最大級のプレート内の地表地震断層が出現した。その変位地形は,100年経った現在でも明瞭な地形として地表に残されており,活断層が繰り返し活動する様子を地形学的な調査を通して明らかにする絶好のフィールドを提供している。  この地震断層については地震直後にロシア人,モンゴル人研究者により調査が行われ,その全体の概要が明らかにされた。その後,冷戦後の1990年代後半にアメリカ地質調査所の研究者が数年間調査を行っている。この研究では,地震断層の分布とその地表形態の概要をまとめるとともに,1905年の地震や古地震に伴う変位量などが一部の場所で検討されている。  本研究では,地震断層の中央部を対象として網羅的な地形判読を行うとともに,現地にて地形学的な調査を行うことを通して平均変位速度や活動間隔を検討した。これらは,大陸のプレート内にある活断層の繰り返しの特徴やインドプレートの衝突によるユーラシア大陸の変形様式を明らかにする上で貴重な情報となると考えている。  現地調査の前に,CORONA衛星写真および空中写真の実体視による地形判読を行い,断層の分布の把握や地形分類図の作成を行った。現地では,Handy Station(杉戸ほか,2007)による地形計測や地形面編年のためのピット掘削,14C年代測定試料採取を行った。 2.調査地の変位地形と変位速度,活動間隔 1)Bust湖の東  最終氷期に形成されたと考えられる比較的広い堆積段丘面(L1面)が広がり,この段丘の段丘崖が左横ずれしているのが3ヶ所で確認でき,60~75mの変位量が計測される。その一方で,段丘開析谷の現河床には1905年の地震時の変位と思われる小規模なずれが残されており,8~9mの変位量を示す。現河床の周りには小規模な離水地形がみられる。地形発達から1905年と同程度の変位が繰り返されてきた様子が読み解ける。L1面を約2万年前の形成とすれば,この付近の変位速度は3mm/年より大きく,活動間隔は2600年よりも長いことになる。 2)Bust湖北西(1の地点の約20km西)  Bust湖の周辺では,最終氷期以降と考えられる複数の地形面が分布し,それらの段丘崖が断層によって変位を受けているのが観察できる。最も広い堆積段丘(L1面)形成時の段丘崖には105mの左横ずれ変位が認められ,その下位のL2面形成時の段丘崖は36~44mの左横ずれ変位が計測される。L2面の堆積物から得られた試料からは4970-5290 cal yrBPの年代が得られた。したがって,変位速度は5~7mm/年となる。また,L1面を2万年前とすれば5mm/年となり,ほぼ同程度の値となる。また,この周辺の小規模な河谷には,19±2mおよび11.5±0.5mの変位が観察できる。1905年に9~12m程度の変位があり,それらが繰り返されてきた可能性が高い。平均変位速度とこれらの変位量から活動間隔は1600~2400年程度となる。 3)Oygon湖北西(2の地点の約60km西)  完新世に形成されたと考えられる段丘面の段丘開析谷2つに微小な横ずれ変位が観察でき,8±1mおよび16±1mの変位量が計測できる。また,段丘面に認められる開口割れ目の充填堆積物中の試料から1390-1570 cal yrBPの年代値が得られた。したがって,活動間隔は1340~1520 年よりも長く,変位速度は7mm/年より小さいと考えられる。 4)Oygon湖の西(3の地点の約10km西)  ここでは現河床に13±1mの変位が認められ,1905年の地震変位量を示していると考えられる。この河床の西側には2段の段丘面が認められ,そのうち低位の地形面(L2面)形成時の段丘崖を基準にすると24±1mの変位量が計測できる。したがって,1905年の活動の前にも1905年と同程度の変位があったと考えられる。L2面から得られた試料からは3220-3400 cal yrBPの年代が得られた。したがって,活動間隔は3170~3350年より短く,変位速度は3.5mm/年より大きいと考えられる。 ※本研究は,科学研究費補助金(基盤研究(B)課題番号:18401003,代表者:鈴木康弘)により実施した。
  • 小岩 直人, 松本 秀明, 杉澤 修平, 葛西 未央, タナブド チャルチャイ
    セッションID: P0908
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに  2004年インド洋大津波時には,多くの地域で海浜地形の著しい変化が生じている.タイ南西部では津波時に侵食された砂浜海岸が,津波後に比較的短時間で修復され,津波以前の地形に修復されている事例が報告されつつある(Choowong, et al., in press).筆者らは,タイ南西部Phanga-nga県Khao LakのPakarang岬,およびPak・Ko川河口部おいて,インド洋大津波以降,津波で消失した砂嘴の再生過程のモニタリングを継続している.その結果,砂嘴は必ずしも津波襲来以前の形に復元されているわけではなく,津波を引き金として,異なる地形変化傾向を示す例があることが判明してきた.本発表では,これらの途中経過について報告する. 調査地域および調査方法 調査地域は,タイ南西部のKhao Lak,およびNam Khemに位置している.この周辺はインド洋大津波時にタイの中でも最も甚大な被害を被った地域であり,津波工学,または堆積学的視点からの多くの研究が行われている.インド洋大津波時には,Pakaran岬では,津波の高さは7m以上,Pak・Ko川河口部が位置するNam Khemでは6m以上の津波の高さを記録している. 両地域において,2002年以降の異なる撮影日の衛星画像(IKONOSおよびQuick Bird画像),および津波後の現地調査(GPSおよびオートレベルを使用)による測量を2006年8月,2007年4月,2008年12月に実施し,それらのデータのGISによる重ね合わせにより(Pak Ko川河口部は1957年撮影の空中写真も使用),津波襲来時,およびそれ以降の海浜地形の変化過程を検討した. Pak Ko川河口部の地形変化  Nam Khem平野の北部に位置するPak Ko川河口部では,津波により砂嘴が消失したことが指摘されているが,2006年8月にはすでに砂嘴(長さ240m,最大幅100m)が形成されているのを確認できる.ただし,その形成位置は津波前の砂嘴とは異なり,津波前よりも東側(内湾側)に形成され,さらに,砂嘴の方向は北西-南東方向(以前は南北方向)に発達している.また,砂嘴の北側に位置する海岸部では,津波時には侵食を被っていなかったが,津波後から約30m/年の速度で海岸侵食が進行している.この海岸侵食は,2007年以降も進行し,砂嘴の西側を侵食しており,砂嘴は2006年12月以降に縮小傾向にあることがわかる.また,これらの侵食域は,2007年4月,2008年12月と確実に北側へと拡大している. Pakaran岬周辺の砂嘴の再生過程 ここでは,津波襲来前には,Pakarang岬から北北西に伸びる砂嘴が形成されていたが.津波時には,約16,000m2の砂嘴が侵食されている. 2007年4月には,砂嘴の再生が顕著になり,岬の先端から西に伸びる約230mの砂嘴(A),さらにAから方向を変え,北へ長さ約150m伸びる砂嘴(B)が発達している(面積12,300 m2).これらは,津波前との砂嘴とは全く異なる位置および形態をしている.砂嘴は,2008年12月には,砂嘴AおよびBに新たな堆積物が加わるようにして成長し,北側へ約150m伸び,その先端から東側へ屈曲,さらに南側へ100m発達している(面積23,600 m2). この周辺の砂嘴は,中~粗粒砂からなる砂層の上位にサンゴ礫が被覆するという堆積構造となっている.サンゴ礫はウオッシュオーバー堆積物の構造を示すことがあり,砂嘴の形成に関わったと思われる暴風時の大波の方向を推定することが可能である.また,砂嘴上において2007年に確認されたサンゴ礫は,2008年には黒味がかっており,新旧サンゴ礫の区別が可能である.さらに,砂嘴上にはサンゴ礫からなる数列のリッジが発達している.これらを用いて,砂嘴の再生プロセスを明らかにする予定である.  本研究は,平成18-21年度科学研究費補助金(基盤A,研究代表者:今村文彦)の一部を使用した. 参考文献 Choowong, M., et al. (in press) Beach recovery after 2004 Indian Ocean tsunami from Phanga-nga, Thailand. Geomorphology
  • ―中期更新世以降の地形発達史の構築を目指して―
    植木 岳雪, 鈴木 毅彦, 青木 秀則, 青野 道夫, 水戸第一高等学校 2007年SPP地学受講生徒
    セッションID: P0909
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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     関東平野北東部の水戸市周辺には,那珂台地面,東茨城台地面と呼ばれる海洋酸素同位体ステージ5.5(MIS 5.5)に形成された海成段丘が広く分布し,それらを限る久慈川,那珂川に沿っては現河床よりも急勾配の縦断面形を持つMIS5a以降の河成段丘が発達している.水戸市周辺は,MIS 5.5以降の気候変化,海面変化と地形の応答が敏感な地域と言える.那珂台地面,東茨城台地面の上位には高位面と呼ばれる海成段丘が分布し,水戸市周辺ではMIS 5.5以前から隆起運動が継続していたと考えられる.一方,那珂台地面,東茨城台地面の地下には,シルト層を主体とする見和層下部層,礫層を主体とする見和層中部層と呼ばれる2つの埋没谷を充填する地層がある(坂本ほか,1969;坂本,1972など).近年,テフロクロノロジーによって,東茨城台地面の地下の見和層下部層・中部層は,中期更新世中期以降のさまざまな時代の地層の集合体であることが明らかになったので(鈴木,1989;横山ほか,2004;中里ほか,2005;山元,2007など),従来の見和層下部層・中部層の定義・層序区分を再検討する必要がある.また,高位面と見和層下部層・中部層の関係も明らかでなく,水戸市周辺の中期更新世以降の地形発達史の構築は今後の課題である.  本研究では,(独)科学技術振興機構による茨城県立水戸第一高等学校のサイエンスパートナーシッププロジェクト(SPP)の一環として,東茨城台地北東縁のMIS5.1に形成された上市面上で深度30 mのボーリング掘削を行った.掘削されたコアをJST-MT-1コアと呼ぶことにする.ここではJST-MT-1コアの記載を行い,周辺の東茨城台地の地下の見和層下部層・中部層との関係について述べる.JST-MT-1コア中のテフラについては,鈴木ほか(2009)を参照されたい.  JST-MT-1コアは, MIS5aに形成された上市面上にある水戸市三の丸の水戸第一高校内の標高29.74 m地点で掘削された深度30mのボーリングコアである.コアの深度0~3.58 mは盛土,深度3.58~5.08 mは赤城鹿沼テフラを主体とする斜面堆積物,深度5.08~13.05 mは上市面を構成する礫層,深度13.05~29.45 mは見和層下部層,深度29.45~30.00 mは基盤の中新世のシルト質細粒砂岩である.見和層下部層の層相は以下の通りである.  深度13.05~20.10 m(標高16.69~9.64 m):上方粗粒化を繰り返す平行葉理,低角あるいは高角の斜交葉理が見られるシルト層,細粒砂層.全体に腐植を多く含み,淡水の湖沼性の珪藻化石を産出する.深度16.09 mには層厚約1 cmの細粒なガラス質テフラをはさむ.湖沼堆積物と判断される.  深度20.10~21.48 m(標高9.64~8.26 m):上方粗粒化を繰り返す塊状,低角あるいは高角の斜交葉理が見られる中粒~粗粒砂層.中礫を含む層準がある.湖沼堆積物と判断される.  深度21.48~29.45 m(標高8.26~0.29 m):大礫サイズ以上の淘汰のよい礫層.河道堆積物と判断される.  深度16.09 mの細粒ガラス質テフラは,神奈川県大磯丘陵で産出するMIS6からMIS5.5にかけて噴出した(新井ほか,1977)箱根TAu11テフラに対比される.したがって,JST-MT-1コアの深度13.05~29.45 mは見和層下部層は,MIS6に形成された谷をその後の海進にともなって埋積させた堆積物と判断できる.  鈴木(1989)によれば,水戸市周辺の地下には,浅い谷を埋積する礫層を主体とする見和層中部層があり,その中にはMIS7.3~7.1に噴出した(鈴木ほか,2004;山元,2007)真岡テフラが挟まれる.そして,見和層中部層の下には,シルト層を主体とする見和層下部層が谷を埋積している.しかし,今回JST-MT-1コアの見和層下部層から箱根TAu11テフラが見いだされたことによって,従来の見和層中部層と見和層下部層の層序は逆転することになり,東茨城台地の地下の埋没谷の構造を再構築する必要がある.また,MIS6に堆積したと考えられてきた見和層中部層の年代,堆積過程も再検討しなくてはならない.  水戸一高2007年SPP地学受講生徒:福田ゆり子・堀田真理子・小林禎嘉・桑名惇一・中村仁和・大内美帆・大関洋宗・佐藤佑也・鈴木悠平・立原智裕・宇留野滉介.
  • 鈴木  正章, 遠藤 邦彦, 近藤 玲介
    セッションID: P0910
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    近年、白老~勇払海岸平野では、建築用骨材などの利用を目的として頻繁に砂利穴が掘削され,すぐれた人工露頭が出現し、豊富な地質データが得られるようになった。これらのデータを用いて鈴木ほか(2007)は、テフラやAMS14 C年代などに基づいて縄文海進最盛期以降に形成された浜堤砂礫を基底にして,上位に発達するチャンネル、洪水性や湿地性などの堆積物の埋積過程やその古環境を約3000年間に遡って検討してきた。また、佐藤・鈴木(2007)は、基底を成す浜堤砂礫の起源が主に礫種構成から日高地方に分布する中・古生代の堆積岩や変成岩に由来することを明らかにした。一方、古川・七山(2006)によれば、本海岸平野は、樽前山をはじめとして駒ケ岳や有珠山などの完新世後期~歴史時代に活発に活動した火山噴火のテフラの降灰分布域にあたる。  本発表では、2008年7月苫小牧市錦岡の砂利採取場に出現した露頭において認められた十数枚にも及ぶテフラ群(写真)について重鉱物組成、火山ガラスの形態的特徴、火山ガラス(n1)や斜方輝石(γ)などの屈折率 や化学組成などのテフラの岩石化学的諸特性を明らかにし、少なくても12層のテフラを検討し,その駒ケ岳,有珠,樽前火山等のテフラとの対比を試みた。これまでに,下位から駒ヶ岳d(Ko-d,1640年),有珠b軽石(Us-b、西暦1663年)、有珠b火山灰(Us-b、西暦1663年)、樽前b(Ta-b、西暦1667年),駒ケ岳c2(Ko-c2、西暦1694年)、樽前a(Ta-a、西暦1739年)や樽前_III_a0(Ta-_III_a0、西暦1874年)などが確認された。この露頭では不明テフラがなお数層挟在し、有珠火山や樽前火山を起源とする残余の火山灰との対比が課題となっている.また一部には火砕流・火砕サージ堆積物が存在する可能性がある.いずれにしても白老―勇払海岸平野では,Ko-d(1640年)を挟在するクロボク土およびUs-b(西暦1663年)の堆積面を基底にして樽前、有珠や駒ケ岳の活発な火山活動によってもたらされた降下テフラが過去370年間に約1.2mの厚さで次々と降り積もった事実をこの露頭は示している。これらの降下テフラはこの地域の小氷期に相当する時代の環境変遷を解明する上で,一部を除き数年-数10年の間隔で時間軸を提供する.同時にこれらの降灰や火砕流・火砕サージは当地域の植生や斜面環境に大きな影響を与えた.さらにこれらの噴火は地球的規模で認められている「小氷期」の寒冷化を増長した可能性もある。 このようにこの露頭は樽前山をはじめとして多くの火山の活動によってもたらされた噴出物を記録する貴重な断面であることが判明したため,同年9月に土層の剥ぎ取り調査を行い本ポスター発表で剥ぎ取り断面を展示する(写真)。  なお、本研究は、平成18~20年度科学研究費補助金(基盤研究(C))課題:「海岸沖積低地形成における堆積プロセスと完新世後期の気候変動」課題番号:18500784(研究代表者:鈴木正章)を使用した。記して感謝の意を表します. 【参考文献】 古川竜太・七山太(2006)北海道東部太平洋沿岸域における完新世の降下火砕堆積物.火山、51:351-371 佐藤明夫・鈴木正章(2007)白老―勇払海岸平野と日高期限の沿岸漂砂礫.日本第四紀学会講演要旨集,37:148-149 鈴木正章・遠藤邦彦・佐藤明夫・古川竜太・鈴木 茂・細野 衛・中村賢太郎(2007)北海道、白老平野における縄文海進期以降の沖積層の堆積過程.日本第四紀学会講演要旨集,37:84-85
  • 石黒 敬介
    セッションID: P0911
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    I.はじめに
     これまで房総半島南部における海成段丘の研究の多くが完新世海成段丘であり,後期更新世海成段丘についてはあまりされていない.また,房総半島は,完新世においては南端部から保田にかけて,隆起率が低下することを明らかになっている.しかし,後期更新世の地殻変動についての研究例は少ない.本研究では,1) 土壌発達過程の差から富浦における後期更新世海成段丘を区分すること,2)大房岬,豊岡,南無谷の段丘面の標高を対比させ,富浦における後期更新世の地殻変動を考察することを目的とした.

    II.調査方法
     千葉県南房総市富浦町の西南端に位置する,大房岬,豊岡,南無谷を調査地域に選定した(図1).各調査地域に発達する段丘面から土壌を採取し,粒度組成,陽イオン交換容量(CEC),交換性陽イオン(Ca2+,Mg2+,K+,Na+)の定量,pH(H2O,KCl)の測定をおこなった.土壌化学分析値からみられる土壌発達過程の差により,後期更新世海成段丘を区分した.

    III.結果と考察
    (1)土壌発達過程の差による後期更新世海成段丘の区分  大房岬,豊岡,南無谷の土壌の粒度組成、CEC、塩基飽和度、H+の分析の結果から,富浦における後期更新世海成段丘を,上位から富浦I面,富浦II面,富浦III面,富浦IV面の合計4面に区分した(表1).上位面から下位面にいくにしたがってCECの値は減少することがわかった。また、H+の含有量も、上位面から下位面にいくにしたがって値が減少することがわかった.粘土含有量に関しては,上位面から下位面にいくにしたがって減少する。

    (2)後期更新世における地殻変動
     大房岬と南無谷の段丘面を富浦I面から富浦III面まで対比すると,南は隆起量が大きく、北へいくにしたがって隆起量が小さくなることがわかった。その傾向は完新世と同様であった。しかし、隆起率は完新世で大きく、後期更新世においては小さい。したがって、隆起傾向は完新世と後期更新世は近似しているが、隆起量には差があることがわかった。
  • 加越海岸の事例
    山中 玲, 青木 賢人
    セッションID: P0912
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに
     これまで,海岸侵食について数多くの先行研究がなされているが,調査期間が短いことや,汀線変化を載せていても場所を把握し辛いという問題点がある。
     本研究では加越海岸全域について明治時代から現在までを調査期間とし,海岸に人の手が加えられていない時代からの海岸線の変化を経年的に把握することを目的として分析を行った。
    前回の発表では,解析の結果が中心であったが,今回は,解析方法について詳しく述べる。

    2.研究対象地域
     石川県羽咋市滝町滝崎~福井県坂井市三国町黒目福井新港まで約100kmの加越海岸を対象地域とした。
     この海岸は,全国的に見ても顕著な海岸侵食が発生している地域であり,調査期間内にダム建設,砂利採取,護岸工事など人の手が加えられている。

    3.解析方法
     研究対象地域全域の地形図・空中写真をデジタル化したものに,コントロールポイントを打ち,簡易的に幾何補正を行い,それらのレイヤを重ね合わせた。次に,幾何補正をした地形図・空中写真から読み取ることができる海岸線を年代ごとにトレースし,その海岸線を1000m区間に分割し,各年代間の変化量を求めた。
     使用した地形図と空中写真については,基準図とした地形図は,縮尺2万5千分の1を13枚,作業図で使用した地形図は縮尺2万5千分の1,5万分の1を13枚,空中写真は,1947年~1952年の米軍撮影写真は縮尺4万分の1のものを33枚,それ以降1967年~2002年のものについては2万分の1または2万5千分の1のものを104枚使用した。
     なお,地形図・空中写真は研究対象地域全て同じ測量・撮影年のものを入手できないため,本来ならば,時間補正を行う必要があるが,本研究では撮影年が最も近いものを選んだ。
     使用ソフトは,ESRI社ArcGIS 8.3,使用スキャナーは,空中写真については,EPSON ES-8500,地形図についてはGRAPHTEC CS300-10eN,スキャン設定は,空中写真については、イメージタイプは8ビットグレースケール,解像度800dpi、TIFF形式により保存,地形図については,イメージタイプは8ビットカラー,解像度400dpi,TIFF形式により保存した。
      作業手順については,まず基準図は,スキャナーで取り込んだ2万5千分の1地形図のデータをArcGISでジオコーディングする。作業図については,スキャナーで取り込んだデータを基準図に重ね,コントロールポイントを打ち,レクティファイをし(図1),海岸線をトレースする。
     ここで,今回の幾何補正は平面的な補正のみの簡易的な幾何補正である。しかし,本研究では海岸線のみを取り扱い,高度が0である為,簡易的な幾何補正でよい。
     計測誤差については,地形図に関しては,佐藤(2000)と同じ方法で,機械誤差(0.1mm)と描画誤差(0.2mm)と標定誤差(0.5mm)が含まれる。よって,使用地図の縮尺を考慮して,本研究では2万分の1地形図では10m,5万分の1地形図では25m以上前進,後退した区間について分析対象とした。
     空中写真については田中ら(1973)によると,誤差には大きく分けて7点挙げられるが,1.カメラ軸が鉛直軸から傾いていることによる誤差,2.潮位差にもとづく誤差の2点が支配的とされる。
    このうち1についてはGIS上でレクティファイを実行し,地形図と重ね合わせているため,考慮する必要はない。
     次に2については,満潮位(High water Level:H.W.L)と干潮位(Low Water Level:L.W.L)の差と前浜勾配の逆数を乗じた値となる。各海岸のH.W.LとL.W.Lとの差と現地調査によって計測した前浜勾配については以下に示す(表1,表2)。この結果,誤差の最大値は14mになり,本研究では14m以上前進・後退した区間を分析対象とする。

    4.結果
     これらの作業により,地域別による海岸線の変化,各海岸線の年代別による変化,海岸線変化量の時空間変化を表すことができた。結果の詳細については前回分を参照。1年間当たりの海岸線の変化量は1968年~1974をピークに後退した。しかし,1974年以降になると前進に転じた。
  • 森脇 広, 永迫 俊郎, 奥野 充, 河合 渓, Crocombe Ron, Cowan George, Maoate Paul
    セッションID: P0913
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに:ラロトンガ島は南緯21 度,西経160度に位置する.この島は周囲 30kmで,東西に長軸を持つ楕円形をなす. 中央に開析されたカルデラを伴う前期更新世の玄武岩山地を基盤として,周囲を更新世・完新世の海岸平野,裾礁が取り囲む.これまで演者らは南太平洋の完新世海岸平野の変遷を明らかにする目的で,この島の東岸において海岸低地の詳しい調査を行い,完新世の海岸環境の変遷を明らかにしてきた.今回,安定地域における更新世・完新世の海岸平野とサンゴ礁の地形形成過程解明の基礎資料を得るために,レベル機器測量によって海岸平野の地形断面を求め,また形成年代を明らかにするためのC-14年代測定試料を採取した.さらに詳しい沿岸海底地形図によって礁原の分布の知見を得た.これらを基に,完新世・更新世の海岸平野およびその形成と深く関わるサンゴ礁の地形的特徴を明らかにした.  海岸低地の規模:海岸低地の幅は南東岸,南岸が他の海岸域より狭い.南岸では平均して約300mであるのに対し,東岸から北岸,西岸では平均して約500mである.海岸低地は,扇状地・浜堤列・湿地からなる.浜堤列は大部分が一列で,この山地側には,更新世の台地と接して後背湿地が連続的に配列する.3列に分岐した浜堤列がみられる東岸では,浜堤・堤間湿地の堆積物からC-14年代が得られ,過去4000年間の離水過程が明らかとなっている(Moriwaki et al., 2006). 海岸低地の地形断面:測量によって得られた海岸低地の地形断面に基づくと,最も標高の大きい北東岸では浜堤の高さが平均海面上約6mに達する.北東岸は礁原が狭いため,波浪の影響を強く受けやすい場所にある.浜堤の構成物質は粗粒のサンゴ礫のからなる.他の海岸では浜堤の標高は平均海面上3mから4mほどである.広い礁原をもつ南岸は浜堤は砂からなっている.海岸低地の大部分は完新世の礁原を基盤として形成されている.高い比高を持つ浜堤の分布域では更新世のサンゴ礁が完新世浜堤堆積物下に伏在しているところもある.   サンゴ礁:礁原の幅は,海岸低地の広さと逆の関係にあり,低地の幅の狭い南岸では広く,平均約700mほどあるが,低地の幅が広い東岸では狭く平均100mほどである.  礁原の沖には水深10~20mの海底平坦面が平均幅約250mで全島を取り囲む.それは沈水した礁原か波食台のような地形と推定される.この幅は,礁原の広い南岸では狭く,平均約200mほど,礁原の狭い東岸では広く,平均約300m, その他の海岸では,平均270mほどである.このように,海岸低地,礁原,海底平坦面の規模には顕著な地域差が認められるが,これら3地形を併せた全体の規模の地域差は小さい. 更新世の地形:完新世の海岸平野の形成位置とほぼ同じ場所に,更新世の離水扇状地・離水サンゴ礁がある.離水扇状地は一般には標高20m以下で,風化した玄武岩礫からなる低台地を形成する.それは,完新世の扇状地よりも広く山麓に連続する.山地沿いでは,河川が下刻し,明瞭な段丘崖をもつが,海側では現在の低地との比高が小さくなる.東岸では海岸沿いにあるおよそ2mほどの高さの更新世離水サンゴ礁とほぼ同じ高さとなる.更新世の浜堤列は認められない.侵食された可能性があるが,場所によっては,更新世の離水扇状地と離水サンゴ礁は近接した位置にあり,浜堤列が形成されていないところもある.完新世と更新世の海岸平野とサンゴ礁は同じ場所で,同様の地形構成と配列をなし,大局的には同じ形成過程をたどって形成されているが,両時期の扇状地規模の違いなど,詳細にみると地形発達に差異が認められる.
  • 楮原 京子, 黒澤 英樹, 小坂 英輝, 石丸 恒存
    セッションID: P0914
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     今回報告する断層露頭は,岐阜県飛騨市古川町杉崎で行われたバイパス工事に伴う斜面の開削によって出現したものである(図1).演者らは本断層の性状とその活動性を明らかにするために,空中写真判読と露頭周辺の地表踏査,および断層露頭の観察を行った.以下には,露頭観察結果について報告する.なお,本露頭に見られる太江断層の変動地形の特徴については,本学会楮原ほか(2008)「岐阜県古川町杉崎における断層露頭とその意義について-その1」にて報告する.

    2.露頭観察結果
     空中写真判読と地表踏査の結果から,太江断層は北側隆起を伴う右横ずれ断層であると判断される.本露頭は,太江川に発達する2段の段丘面のうち,高位の段丘面(I面)が開削されたもので,I面下の地層が露出する.ここでは,風化花崗岩と花崗岩類の礫を含む砂礫層が,N74°W 67°NEの断層面(露頭中央)で接する。風化花崗岩類は地質図から,船津花崗岩類と推定され,岩盤中に小規模な断層が発達している.花崗岩類ならびに砂礫層は断層近傍では破砕を受け粘土化している.断層面は地表に向かって低角化する.断層面の地表部は人工改変等で削剥されおり,断層面の形状と段丘面の変形との関係を,直接観察することはできなかった.
     一方,断層下盤の砂礫層は,赤色風化したくさり礫を多く含み,露頭で確認できる層厚は15m以上である.この砂礫層でには,傾斜不整合が3面認められ,下部ほど断層運動(上下変位)に伴った引きずり変形が著しい.このことから,断層活動の繰り返しによって変位が累積していると判断される.さらに,断層露頭の最上段では,この断層より北側に低角逆断層が確認された.ここでは,I 面構成層である崖錐性堆積物に,花崗岩類が衝上しており,断層面の傾斜に沿った変位量は約50cmである.この断層面の地表延長はI面の撓曲部にあたる.崖錐性堆積物や砂礫層の年代が不明であるため,本断層の活動履歴や最新活動時期について言及できない.しかし,以上の観察結果および地形調査結果からI面形成以降,太江断層が活動したことは明らかである.

    3.おわりに
     飛騨高原のような山間部では,断層変位基準となる段丘面などの発達が乏く,侵食が激しいため,活断層の判読が難しく,特に活動間隔が長い,あるいは単位変位量が小さい断層の判読はより困難となる.太江断層は,構造性の地形であると疑われつつも,これまで活断層として注視されることはなかった.太江断層の発見は,山間部におけるより精細な活断層調査の必要性を示すと共に,活動性の低い断層の適切な活動性評価の重要性を再認識させるものであった.なお,本断層の活動性については,年代測定と火山灰分析および断層ガス測定の結果を踏まえ,今後検討していく予定である.
  • 石原 武志, 須貝 俊彦, 八戸 昭一
    セッションID: P0915
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに 関東平野中央部の東京低地から荒川低地下流域にかけては,沖積低地の基底地形をなす埋没段丘群および埋没谷が存在する(Matsuda, 1974など).これらの埋没地形は最終氷期の海面低下に伴い形成された (Kaizuka et al., 1977など).当時,利根川は荒川低地を経由して東京低地へ流下していた(菊池,1979など).一方,埋没地形の内陸側への連続性は十分明らかにされていない.地形形成における海面変化の影響がどこまで及ぶのかを理解する上でも,内陸部沖積低地の埋没地形を明らかにする必要がある.本研究では関東平野中央部の荒川低地中・上流域と妻沼低地(Fig.1)を対象に,埋没地形の分布形態について検討した. 2.調査方法  荒川低地上流域の沖積層の層序は下位からG1u, S1l1, S1l2, S1m, S1uの5層に区分される(石原ほか,2008).このうち,沖積層基底礫層にあたるG1uに着目し,1000本以上のボーリング柱状図資料から地質断面図を作成してG1uの分布範囲を検討しG1uの堆積する谷を河川の縦断方向へ追跡した(Fig.2).さらにこの埋没谷の側壁に三段の埋没段丘面(_I_,_II_,_III_)が分布することを見出し,それらの連続性を検討した. 3.結果と考察 【沖積低地下の埋没谷】  妻沼低地北部では現利根川右岸にあり,支流の福川との合流点付近で進路を南へ向け,行田市街地西縁を経て荒川低地へ流下する.荒川低地上流域では低地中央を通過し,支流の入間川などと合流後,流向を南東へ変える.熊谷付近のG1u頂面の等高線は現成の熊谷扇状地と同様に東に張り出た弧を描き,利根川の埋没谷が弧をなぞるように追跡できることから,荒川は当時も扇状地を発達させ,利根川へ合流していたと考えられる. 【埋没段丘】  埋没段丘は荒川低地にのみ分布し,妻沼低地では明瞭な埋没段丘地形は認められない._I_面と_II_面は荒川低地の上流域から中流域にかけて連続して分布し,凝灰質粘土層が最大5mの層厚で砂礫層を被覆しているところもある.埋没谷底との比高が最も小さい_III_面の分布は断片的である. 【下流側との対比】  埋没段丘_I_は荒川低地下流域のAr1と東京低地のT1に,_II_はAr2とT2に,G1uはAr3とT4へそれぞれ連続する(Fig.2)._I_,_II_,_III_,G1uの順で縦断勾配が増す.これらは,_I_~_III_面とG1uが,最終氷期の海面高度が低下する過程で順次形成されたことを示す.T1, T2はATに覆われており(遠藤ほか,1983),これらの段丘面が最終氷期の低海面期に形成されたことを裏付ける.最終氷期の海面低下に応じた埋没段丘の形成は,荒川低地上流域まで追跡できる.  【深谷断層による変形】 Fig.2のNo.20地点の上流側でG1uの高度が3~5m不連続的に低下している.また,これより上流側では明瞭な埋没段丘地形は認められない.No.20地点付近には,南西側隆起の逆断層である深谷断層が横切ることが明らかにされており(山口ほか,1999など),完新世に活動した可能性が指摘されている(水野ほか,2004).No.20地点上流側のG1uの落ち込みは,深谷断層による変位を反映したものと考えられる.また,妻沼低地において埋没段丘が認められない理由として,妻沼低地が同断層の下盤側の沈降域にあたるために,断層活動によって海面低下の影響が相殺され,段丘が形成されにくい環境にあったと推定される. 文献:遠藤ほか.1983 URBAN KUBOTA, 21, 26-43.Matsuda 1974.Geog. Rep. of Tokyo Metrop. Univ, 9, 1-36.石原ほか 2008.日本地理学会発表要旨集, 73, 155.Kaizuka et al 1977.Quaternary Research, 8, 32-50.菊地 1979.第四紀研究, 17, 215-221.水野ほか 2004.活断層・古地震研究報告, 4, 69-83.山口ほか 1999.地質調査所速報, EQ/99/3, 29-36
  • 堀 和明, 杉本 英之, 高橋 英行, 松山 怜史, 卜部 厚志, 田辺 晋
    セッションID: P0916
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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     沿岸に発達する沖積低地の地下には,最終氷期の海面低下期に形成された開析谷が存在する.開析谷の埋積過程に関する研究の多くは,開析谷形成後の海進・海退時に,海成層の堆積があった場所を対象としてきた.近年では,海岸部において完新統コア堆積物の詳細な解析が盛んにおこなわれている.一方,河成層のみがみられる場所,すなわち,より内陸側の開析谷充填堆積物を対象とした研究は少ない.こうした河成層の特徴を明らかにすることは,地質時代の地形・地層形成過程を考える上で,また,今世紀に予想される地球温暖化が河成低地に与える影響を考える上でも重要であろう.
     信濃川下流域に広がる越後平野は日本有数の規模を誇る沖積低地で,年間2~3mmの沈降運動により沖積層が極めて厚くなっている.河口付近の最大層厚は約160mで,内陸においても100mの厚さを持っている.沿岸部では,海進期にバリアー―ラグーンシステムが発達し,海退期にこのラグーンが埋積されていった.ラグーンが広がった範囲よりもさらに内陸側で掘削長の大きいコア堆積物を採取できれば,前述した河成層の特徴,さらには河成低地の海水準変動への応答を検討することが可能になる.そこで本研究では,信濃川の旧河道の一つである西川の左岸において約100mのオールコアボーリングをおこない,堆積物の解析をおこなった.
     掘削したコア堆積物については,半裁,岩相の記載,色調測定(10cm間隔),泥分含有率測定(10cm間隔),電気伝導度測定(2m間隔),軟エックス線写真撮影をおこなった.また,採取した堆積物に含まれていた植物片や木片の放射性炭素年代測定を現在依頼している.
     堆積物の大部分は,砂および泥からなるが,深度91m付近より下位で細~中礫がみられるようになり,深度97m以深は礫層となった.
     深度75mより上位では,砂と泥の互層が卓越するようになり,この傾向が深度16m付近まで続く.砂は極細粒~中粒砂で,斜交層理や平行層理が頻繁に認められた.また,泥層はシルトからなり,有機物に富む場合が多い.深度16mより上位では,砂が13m以上にわたって厚く累重している.この砂層は,全般に下位の砂泥互層を構成する砂に比べて粗く,礫を含むこともある.  堆積物の色調は全般に変化が小さい.明度(L*)は30~40程度の値を示した.a*は0前後の値をとり,b*は0~10の値をとることが多かった.
     電気伝導度の値はほとんどの層準で0.4mS/cm以下となった.深度60.5m,70.5m,72.5mのみが0.4mS/cm以上を示したが,最大でも0.7mS/cmに届かなかった.
     調査地点周辺の既存ボーリング柱状図との対比にもとづくと,深度97mより下位にみられた砂礫層は,沖積層基底礫層に相当する.また,ほとんどの層準で電気伝導度の値が小さいことから,今回採取された堆積物は,淡水環境下で堆積した可能性が高い.つまり,コア採取地点には,海水の影響がほとんどおよばなかったと考えられる.
     深度75~16m付近にかけて厚い砂泥互層が累重していることは,この地点の特徴である.砂の粒度は極細粒~中粒砂となっていることから,この砂層は河道内ではなく,氾濫時に河道の外に堆積した自然堤防堆積物やクレバススプレー堆積物と推定される.また,有機物に富む泥層は,後背低地に堆積したものだろう.
     深度16mより上位では,砂の堆積が卓越している.掘削地点は西川のすぐそばであり,砂の粒度も粗いことから,西川の河道内に堆積したと考えられる.また,厚い砂の堆積には,この時期の河道の安定に加え,沈降運動が影響したと思われる.
     今後は,放射性炭素年代値の結果をもとに,堆積速度や海側のバリアー―ラグーンシステムとの対比を進めていく予定である.
     本研究は,福武学術文化振興財団の平成19年度歴史学・地理学助成を受けておこなわれた.記して謝意を表する.
  • 町田 尚久
    セッションID: P0917
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに
     都市近郊の河川では,高度経済成長期をピークとしてダム建設や砂利採取などの人為
    の介入が盛んに行われ,河床低下の問題が発生した.中でも砂利採取は,採取区間の河
    床を直接低下させるだけでなく,隣接した区間での人工構造物の破壊や岩盤河床への移
    行などをもたらし,河川の形態や動態に大きな影響を与えた.
     砂利採取と河床低下に関する先駆的な研究をした松本(1964,1965),三井(1968)などは,
    下流部における砂利採取量と変動量との関係を認めているが,河床変動過程までは言及し
    ていない.
     そこで本研究は,埼玉を流れる荒川中流域を対象として砂利採取と河床変動の実態を明
    らかにし,河床変動を動的平衡の概念を用いて予察した.

    2.荒川砂利採取
     県営砂利採取事業にかかわる砂利採取量(埼玉県:1987)に加えて,今回,民営事業に
    よる採取量を荒川砂利採取契約書および砂利指定等の申請許可書の資料から試算して,
    採取量の遷移と採取区間の変遷を明らかにすることができた.
     戦後漸増していた採取量は,1959年から急速に伸び,1963~64年にピーク(約5,890,000m3
    を示した後,河床低下や河川構造物の破壊などが問題となり法規制が進む中で減少し,
    1978年に終息した.
     また砂利採取箇所は,主な需要地に近い下流に多い状態から,1955年頃には荒川全体
    に広がり,1964年に河川法が施行され採取区間が中流部である熊谷市付近へと遷移し,採
    取量の減少がはじまった.さらに1968年には砂利採取法が施行され,1972年に寄居町より
    上流へ遷移し,最終的に荒川からの採取は認められなくなった.

    3.河床変動と砂利採取
     熊谷扇状地扇頂部に1939年に埋設された明戸サイフォンは,河床低下により,1947年頃
    に露出し,その後,サイフォン直下で約6mの局所的洗掘がみられた.
     荒川上流河川事務所の横断面図から求めた河積(A)と区間長(L)を用いて算出した
    河床容積変化量(?AL)を区間ごとの砂利採取量と比較した.1964年から1971年の変化は,
    主要採取区間である80.0km~76.0km区間(概ね熊谷大橋から荒川大橋区間)において
    ?AL(約25万m3)が砂利採取量(約26万m3)と近い値を示し,松本.(1964,1965),三井
    (1968)と同様に両方の値が釣り合う関係に似た傾向を示した.しかし熊谷市久下付近では,
    砂利採取が行われているにもかかわらず,堆積傾向が認められた.
     一方で,現在までに多くの箇所では,流路を中心として広い範囲で低下が進行している.
    さらに,砂礫床の区間である熊谷付近においては,堆積による上昇が認められた箇所もある.
     例えば,熊谷市久下付近においては,河床断面図の特徴から1964年以前に最大低下時
    期があり,1964年頃から急速に上昇を示している.また熊谷市広瀬付近では,1965~1970年
    頃に最低河床を迎えた後,上昇へと転化した.
     このように,同一地点で時間とともに低下から上昇に転化し,また同一時点で低下区間と
    上昇区間が互いに出現している.これらの事実は,河床変動が砂利採取区間から流域全
    体へ波及したことをうかがわせる.これは,人為の介入により,河川の平衡が破壊され,新
    たな平衡へと進む過程としてとらえられる.

    4.今後の展開
     荒川中流域における砂利採取と河床変動との関係の検討を基に,ダム建設や河川改修な
    ども含む人為的影響による河床変動の地形学的メカニズムを,動的平衡の概念を用いて流
    域スケールで解明して行きたい.
  • 2004.12.26インド洋大津波被害調査から
    阿子島 功, 林田 光祐, 柳原 敦, 坂本 知己, 井上 章ニ, 岡田 穣, 中島 勇喜
    セッションID: P0918
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
     スマトラ沖を震央とする2004.12.26地震によって発生したインド洋大津波は,地震発生の約2時間後に,スリランカ島を襲い,死者行方不明者約4万人の被害を生じた。震源から1,400km離れたスリランカ島では,地震による地殻変動は全くなかったので,純粋に津波のみによる被害であった。2005年より2008年の間にスリランカ島の南西海岸および南部海岸において数回の現地調査を行い,津波被害と地形との関係および海岸林の津波減衰効果について検討した。 防潮堤などの構築物による津波対策は財政的に難しく、集落移動も実施されつつあり、海岸林の減災効果も検討に値する。
    調査(一部の断面測量を含む)の結果,津波被害の強弱は,まず海岸地形とりわけ砂丘の高さに支配されること,モクマオウ林などの被覆によって波力が減衰されることが一部で認められた。高い砂丘でも人為的な凹所(道路・水路)から津波が侵入した。
     スリランカ南部海岸の津波ハザードマップ試作図を提示し、作成上の課題を述べる。 スリランカ政府は津波直後から対策として汀線から100m(西海岸)~200m(東海岸)の建築規制を計画し、都市開発局は海岸付近の津波侵入範囲、土地利用図などのGISを2005年前半に完成した。しかし現在までに地形分類図にもとづくハザードマップは作成されていないように思われる。
    【スリランカ南部海岸における2004.12.26インド洋大津波被害の特徴】 スリランカにおける津波の経験は、1883年のインドネシア、クラカタウ火山噴火に伴う津波のみで被害軽微であったために、津波に対する備えはまったくなく、海に臨んでいた観光宿泊施設(戸建客室群が一般的である)などは津波に直撃された。ヤーラ自然(サファリ)公園のパトナンガラで日本人客10数人が犠牲となった観光施設は幅約1kmの岩石海岸の湾入の中央の汀線にあった。 砂嘴では津波が全面を越流した。タンガラ中心地の東3kmのメデイラでは、低い砂嘴を越えて潟湖と潟湖性低地に津波が侵入したが、林帯が500mのマングローブ林を通過した津波は海岸から約500mまで、林がほとんどなかった潟湖を通過した津波は海岸から1km弱の低地まで到達した。
     砂丘では津波が越した場合もあれば、砂丘を越さなかった場合もある。ハンバントタの北東1.5kmでは、砂丘が破られたところで落差をもった強い流れによって砂丘裏側(比高6m)に落ッ掘レ地形ができた。ブンダラ野鳥公園では、高さ約6m前後の砂丘の一部から背後の潟に向かって約100m先まで砂丘砂が流された。ハンバントタの西方2.6kmでは、高さ約6mの砂丘のうち、人工水路があった砂丘の切れ目の幅を広げ、移動した砂で水路がふさがれた。ハンバントタの西方2kmでは、モクマオウ林に覆われた高さ約5.5mの砂丘を横切る水路跡の低みを波高2.5mの津波が走り、その先の低地の家屋が破壊された。
    【津波ハザードマップ作成上の課題】地形分類図は、既存の1:50,000地形図を基図として、現地観察、Quick Bird画像、Google Earth画像、ALOS・PRISM画像,STRM3標高を参考に作成した。 この地形分類図を津波ハザードマップとして読み替えるためには、次の課題があることがわかった;
     ・大分類は、海岸段丘(高度10m以上、今回と同じ規模の津波では津波が到達しない)と低地(津波が侵入する可能性がある)の2区分とし、
     低地の細分を、谷奥の低地、潟湖性低地(地盤高さが低い。浸水・湛水しやすい)、河川沿い自然堤防(微高地)、砂丘(高さにより溢流)、磯浜(津波が直撃する)、砂浜(津波が浜堤を越える)、水部(河川水路、潟湖)とし、津波侵入範囲は付加記号とする。
    ・津波ハザードマップとしての重要な分類基準は、砂丘・浜堤の高さによる区分であり、〔高い砂丘、低い砂丘、浜堤。付加記号として砂丘の切れ目〕の図示が必須である。しかし、当地では地盤高さに関する情報が貧弱で、既存の1:50,000地形図では等高線間隔が100ftであり、人工衛星測量によるSRTM3標高(約90m格子間隔標高)は、現地での断面測量と比べると樹林・樹園になっている砂丘部分の詳細な標高を表していない(樹冠の高さをひろっており、ヤシの樹冠高は20m)。
    したがって、はじめに地形分類図を作成し、現地の目視などで砂丘高さ2区分、海岸林(モクマオウ林,マングローブ林)の林帯幅の大きい部分を付加記号扱いすれば簡易な津波ハザードマップとして提示できる。砂丘の人為的な切り欠き部分は,規模によらず最も危険な箇所であり,付加記号で強調すべきであるが, ALOS・PRISM画像の立体視でも、現地観察で確認していた箇所を網羅することは困難である。
  • 中田 高, 渡辺 満久, 鈴木 康弘, 後藤 秀昭, 徳山 英一, 隈元 崇, 加藤 幸弘, 西澤 あずさ, 泉 紀明, 伊藤 弘志, 渡邊 ...
    セッションID: P0919
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    詳細海底地形図による遠州沖の断層変位地形判読 100226   Fault-related Submarine Features off Enshu, Central Japan 中田 高(広島工業大学)・渡辺満久(東洋大学)・鈴木康弘(名古屋大学)・後藤秀昭(広島大学)・徳山英一(東京大学)・隈元 崇(岡山大学)加藤幸弘・西澤あずさ・泉 紀明・伊藤弘志・渡邊奈保子(海上保安庁)・植木俊明(海洋先端技術研究所) Takashi NAKATA (Hiroshima Inst.Tech.), Mitsuhia WATANBE (Toyo Univ.), Yasuhiro SUZUKI (Nagoya Univ.) Hideaki GOTO (Hiroshima Univ.), Eiichi TOKUYAMA (Univ. Tokyo), Takashi KUMAMOTO (Okayama Univ.) Yukihiro KATO, Azusa NISHIZAWA, Noriaki IZUMI, HiroshiITO, Naoko WATANABE (Japan Coast Guard) Toshiaki UEKI (Ocean High Tech.Inst, Inc.) キーワード:南海トラフ,遠州灘,海底地形,海底活断層 Keywords: Nankai Trough, Enshu-nada, submarine topography, submarine fault 研究の目的  南海トラフ沿いの海底活断層を対象に、断層変位地形を詳細に調査・計測する目的のために,海上保安庁などによって取得された測深データを基に駿河湾から四国南西沖に至る海域の詳細な海底地形図の作成を進めている.オリジナルデータの仕様が比較的に均質であった遠州沖の海域は,データの接合とDEM化の処理がスムーズに進み詳細な海底地形図が作成することができたので,それを基に地形分類図を作成した. この海域では,これまでも茂木(1977)や東海沖海底活断層研究会(1999)などによって主要な地形とその性状については記載されているが,本研究では,従来の成果よりも精度よく微細な海底地形を把握し,その形態的特徴とその成因を検討した. 使用したデータとその処理 海上保安庁所有の測量船に搭載されたマルチビーム音響測深器によって,1986年以降に遠州灘―相模湾にかけて取得されたデータ(速度5ノット~8ノット程度・ビームを2度間隔(1184ファイル・データ量:約16GB))を使用した. オリジナルデータに対して,航跡補正、各種バイアス補正、動揺センサーによる補正、音速度補正、喫水補正等の各種補正を実施した後,音響的・電気的ノイズ、浮遊物によるノイズ等を除去し修正済みPingファイルを作成した.このデータをもとに3秒メッシュグリッドでDEMを生成し,これをもとに縮尺10万分の1で10m間隔の等深線図を作成した. 検討結果の概要  御前崎海脚から志摩海脚にかけて、大陸棚外縁から遠州海盆と呼ばれる深海平坦面や天竜海底谷に下る大陸斜面およびその基部に発達する海底には,右横ずれ変位を伴う逆断層と考えられる遠州断層(東海沖海底活断層研究会編:1999)の影響を強く受けたさまざまな断層変位地形が発達する. 遠州断層は,北東-南西に延びる遠州トラフの北縁にそって急崖(海底断層崖)や大陸斜面に大きな撓みを形成している.大陸斜面を深く開析する浜松海底谷などの海底谷が,遠州トラフに合流する地点では谷底を横切る比高30m程度の低い急崖が認められるなど,この断層の運動が海底まで達する活動的で新しいものであると判断される.また,断層崖やその延長に見られる撓曲崖の表面に発達する無数のガリー(小開析谷)が,100m から数100mほど系統的に右にずれる屈曲谷が発達しているのが観察される. このほか,遠州断層の北に沿っては小海丘が連続的に発達しており,断層運動に伴う局地的な隆起や海底面の逆傾斜が示唆される.さらに,大陸棚斜面にはいくつかの比較的大規模な地滑り地形が認められるほか,これまで竜洋海底谷と呼ばれてきた地形も,地滑りに伴う大規模な 開口亀裂と考えられる地形である可能性が指摘される. 本発表には,平成20年度科学研究費補助金( 基盤研究(B)(一般))「海底活断層から発生する大地震の予測精度向上のための変動地形学的研究」研究代表者:中田 高の一部を使用した.
  • 齋藤 仁, 中山 大地, 松山 洋
    セッションID: P0920
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    ・はじめに:
    大規模な崩壊や地すべりなどの研究では,斜面単位での解析が行われてきた.よって,山地における斜面(単位斜面)の分割は重要である.従来の研究では単位斜面の定義は様々であったが,数値標高モデル(DEM)を用いることで,より汎用的な斜面分割が可能であると言える.  ある斜面は,基本的に,谷線と分水界(尾根線)で囲まれた範囲と考えることができる.ここで,単位斜面を分割する際には,分割された斜面の空間スケールなどがほぼ等しくなることが重要である.また,分水界は斜面の起点となる場所であるが,従来の分水界の定義では大流域の分水界も小流域の分水界も区別はなかった.そこで本研究では,分水界に相対的な次数(階層)を定義することで斜面にも相対的な階層を与えることができ,空間スケールを考えた斜面分割が可能だと考えた.  さらに,現在,様々な空間解像度を持つDEMが整備され,利用することが可能となりつつある.よって,このような異なった空間解像度のDEMを用いた場合でも,同様な斜面分割ができる手法を開発することも重要である.  以上より本研究では,斜面の空間スケールの階層構造に注目し,谷線と分水界(尾根線)の階層に基づいた斜面分割を試みた. さらに,空間解像度の異なるDEMを用いて山地の斜面分割を行い,その結果を比較・検証した.
    ・方法:
    解析には,国土地理院数値地図50mメッシュ(標高),基盤地図情報10mメッシュ(標高),およびASTER G-DEM (Earth Remote Sensing Data Analysis Center,サンプルデータ,約30mメッシュ)を用いた.また,対象地域は赤石山脈,および四国山地である. DEMから流域を抽出した際の流域界は,分水界と考えることができる.本研究では,面積条件を変化させて,様々な面積を持つ流域を抽出することで流域界も複数抽出した.次に流域界となった回数を集計し,分水界に階層を定義した.ここでは,1回流域界となった場所は1次の分水界,2回流域界となった場所は2次の分水界のように,抽出された回数に応じて相対的な階層を定義した.ここで,得られた分水界と谷線とを重ねて斜面を分割することで,斜面にも相対的な階層を定義することができる(図~\ ef{fig:a}). 以上の手法を,3つの異なる空間解像度のDEM (約10m,約30m,約50m)に適用して斜面の分割を行った.
    ・結果と考察:
    分水界に相対的な階層を定義することで,それにより分割された斜面も階層化することができた.つまり,各斜面は階層間で包含関係にあり,ある次数の斜面(図 \ ef{fig:a},2nd unit)は,1つ下の次数の斜面(図 \ ef{fig:a},1st unit)から構成され,1つ上の次数の斜面に完全に包含された. これらの結果は,異なった解像度のDEMを用いた場合にも同様に確かめることができた.また,赤石山脈と四国山地においても同様な斜面分割が可能であり,本研究での手法が汎用的なものであることが示された.
  • 岩崎 英二郎, 須貝 俊彦, 水野 清秀, 杉山 雄一
    セッションID: P0921
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに
     濃尾平野の熱田層上部には,新期御岳下部テフラ層の内,Pm-1,Pm-2,Pm-3’,Pm-3の4層が確認されている(水野,1996;須貝ほか,1998;丹羽ほか,2008など).濃尾平野は御岳テフラの降灰範囲外であり,これらの軽石は木曽川によって運ばれたドリフトパミスと考えられている.本発表では,濃尾平野の沈降中心で掘削された海津コア(須貝ほか,1999;岩崎ほか,2008など)の熱田層上部に見出された軽石層と,御岳起源軽石を対比した.その結果,Pm-1’からPm-3まで計6種類の軽石が含まれていることが認められた.
    2.対象コア・研究手法
     本研究に用いた海津コア(KZ-1)は,1998年に地質調査所(現産業技術総合研究所)によって,岐阜県海津郡海津町の標高1.90mの地点から深度601.0mまで掘削された.海津コアの深度88.15~59.75mの層位に軽石を含む層準が30層認められる.これら30層準から採取した軽石の重鉱物組成測定と火山ガラスの主成分組成分析を行った.重鉱物組成測定は偏光顕微鏡(NIKON:ECLIPSE 50iPOL)を用いて測定した.火山ガラスの主成分組成分析は,日本電子製SEM-EDS(JAM-6390LAおよびJED-2300)を使用して,ZAF法の簡易定量による点分析である.本論では海津コアから採取した軽石試料の名称をKZ-1の後に4桁の数字(分析に利用した軽石を採取した深度範囲の上深度)を付けて表記する.また,御岳起源の標準試料として,諏訪湖沿岸で掘削されたGS400コアと63Bコア(大嶋ほか,1997)から採取されたPm-1’からPm-3まで計6種類の軽石の分析も行った.
    3.結果
     軽石層はコア深度88.15~59.75mの層位に認められ,岩相と軽石の産状から計30個の単層に分けられた.その内13層準が,軽石の割合が極めて多い純粋な軽石層として認められる.その他の17層準は,基質である砂や泥の中に軽石を含む層である.火山ガラスの主成分組成では,御岳起源軽石6試料がCaO vs FeO+ TiO2において,各試料のプロット点の分布範囲が重複することなく区別できた(Fig.1).
    4.考察
     御岳起源軽石6試料はCaO vs FeO+ TiO2の関係において,それぞれのプロット点の分布範囲が重複しないことから(Fig.1),火山ガラスの主成分から6個の御岳起源の軽石を区別する手段として,CaO vs FeO+ TiO2における分布範囲から判断することが有効と言える.この考えに従って,海津コアの軽石試料を御岳起源の軽石に対比した.海津コアの純粋な軽石層から得られた13試料の火山ガラスの主成分は, CaO vs FeO+ TiO2の関係において主に単一の比較試料の範囲に分布している(Fig.1).従ってこれら13試料はそれぞれ,KZ-1 8795,8720,8665がPm-1’に,KZ-1 8130がPm-1に,KZ-1 7915,7825,7745,7645,7535,7455, 7120がPm-2に,KZ-1 6190がPm-3’に,KZ-1 6150がPm-3に対比されると考えられる(Fig.2)また御岳軽石の重鉱物組成の特徴として,Pm-1’から2(YbP)が黒雲母を含み,それ以降の軽石は黒雲母を含まないことがある(竹本ほか,1987;大嶋ほか,1997).上述した13試料に含まれる重鉱物の種類は,従来の研究と整合的であり,KZ-1 8795から7120の11試料が黒雲母を含み,KZ-1 6190,6150が黒雲母を含まない.13試料以外の17試料の火山ガラスの主成分は,CaO vs FeO+ TiO2の散布図において複数の比較試料の範囲に分布している.そのため,これらの軽石層は上述した13の軽石層とは異なり,主に複数の御岳起源軽石が混在した層準であると考えられる.具体的な結果をFig.2に示す.御岳起源軽石に対比される軽石層の層序は,竹本ほか(1987)と大嶋ほか(1997)で報告されている軽石層序とも整合的である.
  • 村上 亘, 大丸 裕武, 小川 泰浩, 黒川 潮, 多田 泰之, 三森 利昭, 安田 正次, 齋藤 仁
    セッションID: P0922
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに  2008年6月14日に発生した岩手宮城内陸地震は地すべりや斜面崩壊、土石流といった山地災害を引き起こし、多くの人的被害をもたらした。宮城県栗原市の荒砥沢地すべりに代表されるように、これまで報告されている崩壊のうち、大規模なものは宮城県側で報告されている。一方で、岩手県側では宮城県側に比べると崩壊は小規模である。しかし、筆者らが現地踏査した結果、岩手県側には大規模な崩壊には至らなかったものの、山体に亀裂が確認される現場が複数存在した。このため、それらが弱線となり、今後の融雪や降雨などによって崩壊が拡大する恐れがあると考える。本報告では、岩手県一関市祭畤地区で発生した崩壊斜面の背後の稜線部に確認された亀裂とその挙動について報告する。 これまでの調査結果  亀裂の確認された斜面は、今回の地震で崩落した祭畤大橋より北に1km程離れた場所に位置する(図1)。対象地付近の地質は第三紀の凝灰岩である。調査地およびその周辺では図中のハッチで示したように小規模の崩壊が多数確認される。  図2に今回確認された亀裂の位置を示した。亀裂は複数の崩壊が確認された斜面上部の稜線の反対側に確認された。最も長い亀裂の長さは約80mで、崩壊地_丸1_の背後から北東方向に形成されていた。亀裂の幅は数cmから最大で2m近くあり、崩壊地_丸1_から離れるにつれ、狭くなっている。また、亀裂の深さは50cm程度である。調査した当初は、亀裂より下部の斜面(図2のAの部分)が崩壊する前兆と考えた。しかし、亀裂より上部の稜線部(図2のBの部分)の樹木の傾斜方向を調査したところ、その多くが南東~南方向へ傾斜していることが確認された(図2)。このことから亀裂より上部の稜線部分は、崩壊地_丸1_および_丸2_の方向にトップリングしていると推定された。 今後の調査  今回調査した亀裂より上部の稜線部分は、今後の融雪や降雨などによってトップリングが進行し、崩壊が発生する可能性がある。このため、筆者らは融雪後も調査を継続し、変位の状況を確認することで、この仮説を検証する予定である。
  • 黒田 圭介, 黒木 貴一
    セッションID: P0923
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    _I_.はじめに 段丘や斜面などの地形区分は,一般的に空中写真の実体視によって行われる。最近では,分解能が空中写真にせまる衛星データ(例えばAlos)が入手できるようになってきた。そこで本研究では,Alosのパンシャープン画像を用いて,実体視判読による地形区分を試み,同一地点の空中写真の判読結果と比較した。衛星データを空中写真と同じように地形判読ができれば,広範囲に渡る地形区分が可能となり,GISによるデータ解析・管理の効率化も期待できる。地形学における衛星画像の新たな利活用方法として一般化できれば,その応用範囲は広い。 _II_.研究方法 用意したデータ:AlosのAVNIR-2(2006年6月2日)とPRISMデータ(2007年4月29日の直下視(UN)と後方視(UB))である。前者の解像度は10mで後者は2.5mとした。幾何補正手順:PRISMの直下視(UN)データをGCP10点で2次多項式変換を用いて幾何補正した。幾何補正に使用したGCPを用いて,AVNIR-2データを幾何補正した。パンシャープン画像化:幾何補正済みのPRISMの直下視データとAVNIR-2データを用いてパンシャープン画像を作成した。東西を横とするパンシャープン画像の観察では,平野部は立体的に見え,裾野はまれに立体的に見え,山地部は画像をどう動かしても立体的に見えない。そこで,ArcMap上で画像を103度回転させて衛星軌道を横とするパンシャープン画像に調整した。今回は,丘陵地斜面,段丘,沖積低地を対象に,画像縮尺を1/30000、1/10000、1/5000とした。本要旨では,丘陵斜面地について報告する。 _III_.斜面地形区分の試行 今回判読を行った斜面丘陵は,昭和57年7月に発生した長崎豪雨による斜面崩壊地である。図1は2006年撮影空中写真とPRISMデータのパンシャープン画像である。10m解像度のパンシャープン画像では,山道の識別は困難で,雑木林と裸地が かに判読できる程度である。  図2は空中写真と衛星画像それぞれの実体視にもとづく地形区分図である。空中写真では頂稜,谷頭斜面,谷頭凹地,上部谷壁斜面,下部谷壁斜面,崖錐・段丘,谷底に区分できた。一方衛星画像では,急斜面で隣接地形との傾斜の違いが小さい下部谷壁斜面が区分できず,幅10数m未満の狭い領域を持つ谷頭斜面,谷頭凹地,谷底は部分的しか区分できなかった。したがって,衛星画像は空中写真に比べて,急傾斜領域,狭小領域,傾斜変換線の識別に難があるが,ある程度の斜面地形区分は可能であることが分かった。 _IV_.今後の課題(まとめにかえて)  今回,斜面丘陵地での地形判読はある程度可能であることが分かった。今後は,段丘区分,沖積低地での微地形の区分を_II_-2で示した各縮尺で行い,衛星画像で地形区分を行う際の最も適切な縮尺を考察する。
  • 平塚 延幸
    セッションID: P0924
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1 研究の目的と研究方法谷川岳東面一の倉沢は急峻な地形が形成されている。これら地形は地質による影響が強いものの、「多雪」による雪食作用や、小疇・高橋(1999),小疇(2002)によれば氷期における「氷河作用」を受けていると考えられている。しかしこの地域の調査研究例は少ない。そこで、一の倉沢に存在する堆積物を調査し、一の倉沢の地形形態と比較し、地形形成営力をもたらした地形形成環境を考察した。2 地質と地形の状況上部稜線付近は蛇紋岩からなり、草付アバランチシュート・ルンゼ・岩壁帯が形成されている。山稜中腹部では輝緑岩は岩壁帯を形成し、その岩壁内に花崗岩からなるルンゼやアバランチシュートが形成されている。また下部は石英閃緑岩からなり、急峻なアバランチシュートが形成され、滝沢下部と四ルンゼ合流地点は雪崩の集積により雪氷食壁地形が形成されている。また一の倉沢中流部から下流部にかけて堆積地形が形成されている(図1)。3 雪渓上の堆積物と現河床内の堆積物 一の倉沢には雪崩により涵養された雪渓が毎年7月下旬まで残る。積雪期と残雪期をのぞいた、8~10月下旬が水流の影響を受けるが、水量も少ない。礫や堆積物の移動営力は、集中豪雨など特別なイベントの場合のみと考えられる。河床底には。雪崩による運搬堆積物および水流による再堆積物からなる現成堆積物が存在する。雪崩による直接の浸食は極めて小さい。現在の笹やブッシュおよび積雪は岩屑移動を抑制する作用として働いている。積雪と植生の境目にある、節理と植生による風化作用により生産された岩屑が、雪崩により運搬される。これら運搬された岩屑は、雪渓の消長に従い堆積していくが、中・大礫の岩屑が下部に、その上に小・細礫が乗るように篩い分けが行われ、その後の降雨と雪渓下の流水により、細礫および砂・粘土質が礫間に入り込む。 4 一の倉沢中下流部の堆積物一の倉沢中下流部には堆積物が存在し、下部から_I_・アウトウオッシュ・_II_・_III_期に分類できた(図2)。TI(谷川一の倉)_III_期…石英閃緑岩・輝緑岩・花崗岩・蛇紋岩の角礫~亜角礫を含む極めて陶太が悪い礫で、基質は主に砂質で軟弱である。分布は中流部のみに限られている。TI_II_期およびTI_I_期の堆積物を切って堆積している。  TI_II_期…1~2mの蛇紋岩礫を含み、石英閃緑岩の含有率が低い。大小礫と砂・粘土基質から構成される見かけ上5~10mの層で、一部礫支持で隙間を持つ部分があり、一の沢から下流部湯桧曽川にかけて堆積し、下流部で平坦面を形成する膨大な量の堆積物。TI_I__II_間アウトウオッシュ…TI_I_の上部およびTI_II_の下部に挟まれた層で、主に下流部に見られる。粘土基質の下流方向へのインブリケーション小礫の層と砂・粘土基質の細礫の互層からなる。TI_I_期…輝緑岩と花崗岩の亜角礫からなる粘土基質の層で、薄く沢内に分布する。押しつぶされた蛇紋岩風化礫も見られる。氷成堆積物と判断した。5 考察と結果これら堆積物と、現在の雪崩による岩屑運搬作用を比較した結果、一の倉の地形形成環境について次のように考えられる。 TI_I_期…石英閃緑岩帯をおおう氷体が存在し、石英閃緑岩帯のアバランチシュートが形成された。ただし、一ノ沢出合上流一の倉沢右岸には、この層が層理となって存在することから、完全な氷体でもなく、また現在の越年性雪渓のように下部から流水で消えていく状態でもなく、雪崩による涵養と順次ゆっくりと消失するという寒冷型雪渓型を伴う氷河と判断した。またこの時期に凍結融解作用が強く働き輝緑岩帯垂壁では岩屑供給が行われ、また花崗岩帯ではアバランチシュートやルンゼが形成した。これらの岩屑は雪崩により運搬された。TI_I__II_間期…_I_期でいう「氷河」は幾度かの融解時期があった。TI_II_期…岩相の特徴と下部のTI_I_期堆積物とアウトウオッシュ堆積物から、寒冷期終了後の多雨期に、山稜上部の凍結融解作用から開放された土石が、水分を含んだ雪を伴い流下した、一種のスラッシュ雪崩(雪泥流)(北海道雪崩事故防止研究会編2002)と考えられる。蛇紋岩帯のアバランチシュートやルンゼ・岩壁帯の地形はこれにより発生したと思われる。TI_III_期…植生が一時期後退し地表面が広く表れた時期に、雪崩の影響を大きく受けた。この堆積物はTI_II_期およびTI_I_期の堆積物を切って堆積していることから、雪渓が長期間越年した小氷期を想定できる。
  • 鄭 信智
    セッションID: P0925
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    ◆なぜサーフィン研究なのか?---発表者はこれまで,バリ島のツーリズムについての調査・研究を行ってきた.なかでも,そこに往来する外国人ツーリストと,そこで「ホスト」的役割を果たすインドネシア人の出稼ぎ就労者,およびバリ在来住民との関係性を考察してきた.そのなかで,近年目立つようになった,バリを基点とするサーファー・トラベラーの「波を求める」移動(サーフ・トリップ)が,バリ島およびインドネシアのツーリズムの空間的展開を理解するうえで重要であると考えるに至った. ◆先行研究---しかし,従来,サーフィンを扱った研究というのは,サブカルチャーとしてのサーフィン文化,サーファーのアイデンティティやジェンダーなどに注目する社会学的な研究が中心で(Boot 1996; Donnelly and Young 1998; Donnelly 2000; Wheaton 2000; Farmer 1992; Ishiwata 2002; Waitt 2008),地理学分野においても,coastscapeやsurfing spaceといった,サーファーの空間形成や空間認識を扱うものに限定されてきた(Sheilds 1991; Corbin 1994; Whyte 2002)。つまり,サーフィンもツーリズムの一形態であるにも関わらず,ツーリズム研究との関連においては,ほとんど扱われてこなかったという現状がある。 ◆インドネシアにおけるサーフィン・ツーリズム---従来のバリのツーリズム研究では,文化ツーリズムの側面が強調されてきた.しかし,ビーチを中心とする「近代的」大衆ツーリズムも無視できない規模を持つ.なかでもビーチ・リゾートの中心地であるクタは,1970年代を前後に集まってきた海外からのサーファーによって観光地としての発展が始まり,現在は,世界的なリゾートして確立している.その一方で,サーファーを含むバジェット・トラベラーの目的地としても知られ,バックパッカー・エンクレーブの地としても認識されている.そして,多様な就業機会を持つクタは,国内からの出稼ぎ就労者が集まる基点ともなっている. クタには,ビーチボーイと呼ばれる出稼ぎ就労者が集まるが,彼らの多くはサーファーでもあり,ツーリストへのサーフボードの貸与や,サーフィンのレッスン,あるいはサーフィン・スポットの発見・斡旋・ガイドなどの役割も担っており,近年のサーフ・ツーリズムの重要な担い手となっている. インドネシアには,一部のサーファー・コミュニティのみが知るサーフィン・スポットが100ヶ所,あるいは200ヶ所以上あるとも言われ,いわば「サーファー・エンクレーブ」を形成している。そのなかで,一部のスポットには外部資本が入りつつあり,その多くは,クタを拠点とするサーフ・トリップの目的地として成長している。そして,こうしたトリップに,大小の旅行エージェントやビーチボーイなどが関与している状況が見られる. サーフィン・スポットとして「発見された」諸地域の住民は,バリのクタをモデルとした観光開発を期待しているが,その一方で,開発資本の側は,あくまでもクタを拠点としたサーフィン・スポットの拡張を志向し,なおかつサーフィンという閉じた世界でのネットワーク形成を目指す傾向にある。そして,そうした観光開発の際に,地元有力者との交渉を仲介する役割として,クタで働く出稼ぎ移動者(ビーチ・ボーイ)たちが動員されることがある. 当日は,このような関係性のなかで意図されるサーフィン・ツーリズムの拡大の具体的な内容と,インドネシア全体の観光地開発に与える影響について発表し,また,ツーリズム研究においてサーフィンを取り上げることの意味についても考察したい。
  • 4ヶ村のアンケート調査からみた送り出し側の社会
    荒木 一視, 山本 真弓
    セッションID: P0926
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.背景と目的  わが国においても外国人労働者に対する関心が高まっている。受入制度や文化的な摩擦,言語の習得,労働環境の整備などといった議論が交わされているが,出稼ぎを送り出している側の社会についての検討は決して多くはない。こうした観点から,本報告では有数の出稼ぎ労働者の輩出国であるバングラデシュを取り上げ,送り出し側の農村における出稼ぎ労働者の実態について取り上げる。実際,「出稼ぎ労働者」という日本語の響きには,「貧困」と結びついたイメージがあるが,はたしてそのような(単純な)理解でよいのであろうか。 2. 対象村と調査  対象とする農村は出稼ぎ労働者を輩出しているムンシゴンジ県とコミラ県の合計4村(1,369世帯,7,998人)であり,調査は2008年2月にバングラデシュのローカルNGOの協力の下に行った。実際の村落での調査は報告者らが作成した英語のアンケート用紙に基づいて,NGO側の調査員がベンガル語で面接調査をおこなった。ムンシゴンジ県は首都のダッカから自動車で約1時間余の距離にあり,一部は首都への通勤圏に含まれる比較的都市的影響の大きな農村地帯である。一方,コミラ県はムンシゴンジ県に比べて,首都の影響は少なく,調査対象2村も幹線道路から離れた所に位置している。 3. 調査結果の概要 まず,出稼ぎ開始年であるが,2000年代以降にその数が増加する傾向が認められた。また,出稼ぎ先(国外)としては,中東諸国及びイスラム諸国という傾向が広く認められた。そうした中で,日本や韓国,台湾といった東アジア諸国もまとまった数が確認できた。出稼ぎ者の教育水準については,高卒や大卒などの資格を持つものが多くみられ,10年程度の就学期間を持つものはむしろ出稼ぎ者の教育水準としては低位に位置した。これは当該調査村全体の教育水準とは明らかに異なるパターンである。村全体としては,一般的に就学期間5年をピークにそれ以下の階層に多くが属し,10年近い教育年数を有するものは少数である。このことから,出稼ぎ者の教育水準は村内ではかなり高い方に位置づけられる。  また,アンケートによる家計調査からは,低位の階層に多くの世帯があつまり,高所得層は少数であるという途上国農村には一般的と見られるパターンが認められたが,その中で出稼ぎ輩出世帯の多くは,所得の上では中位かそれ以上の階層に多く見られた。なお,電化率に関しては50_%_程度にとどまる1村をのぞいて,他の3村では7割程度には電気がきていた。同様に携帯電話の普及率でも5割に満たない1村をのぞき,高い村では9割以上の保有が確認された。 4. 考察  アンケートを用いた4ヶ村の調査から,出稼ぎ労働者を送り出している社会の検討を行った。その結果,出稼ぎ労働者を輩出している世帯の村落内における経済的な位置は相対的に高いこと,また,教育水準も相対的に上位にあることがうかがえた。逆に村内には出稼ぎに行くことさえも困難な経済的低位に置かれたが者が数多く存在するということも事実である。今後は,このような出稼ぎ労働が従来から村落内にあった社会経済階層を固定化する(豊かな者がさらに豊かになり,貧しい者は貧しいままにとめおかれる)方向で作用しているのか,あるいは撹拌するような(貧しい者が富裕層になれる機会が提供される)方向に作用しているのかなど,村落社会に及ぼす影響を検討していく必要がある。また,いずれにしても出稼ぎ労働者を通じて,少なからぬ現金が村落内に持ち込まれ,不動産投資や農業投資,商業投資など何らかの形でバングラデシュ社会に還元されているわけであり,その点についてはしかるべき評価をする必要があるとともに,その波及効果については,新たな栽培作物の導入や農地の整備,農産物流通機構の整備などによる農業開発による村落への波及効果などとの比較も含めた検討が必要である。
  • 飯田 淳二
    セッションID: P0927
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに
     本報告の目的は、台湾のコメ流通における精米業者の役割について明らかにし、精米業者が台湾のコメ生産と小売状況にどのような影響を及ぼしているのかついても明らかにする。
     そのため本報告では、台湾の精米業者であるA社の事例を中心として、生産者や小売店との具体的な取引関係を分析する。
    2.台湾稲作の概況
     まず、台湾稲作の概況を見ると、全体的に減少傾向にあり、2000年には約190万トンであった生産量は、2007年には約130万トンとなっている。こうした減少傾向の中で、耕種農業全体の生産額に占めるコメの生産額の割合も減少しているが、現在でも全体の17%を占めており、台湾農業の中心的作物である。
     台湾で生産されているコメは、その80%以上がジャポニカ種である。また、行政院農業委員会へのインタビューによるとコメの収穫面積の約10%で契約栽培が行われており、台稉9号や高雄139号などの高級品種が栽培されている
     このように生産されたコメの80%以上は、生産者から民間の精米業者に販売され、その後卸業者や小売店などへ流通する。このため民間の精米業者がコメ流通の中心であるといえる。次に、民間の精米業者による小売店や生産者との取引について分析してみよう。
    3.精米業者A社の販売・集荷行動
     本報告で対象とするA社は、1987年に設立され、年間約10万トンのコメを扱っており、台湾で最も規模の大きい精米業者である。
       まず、A社と小売店の取引について見ると、A社は小売店で自社のコメを販売してもらう場合、「取扱料」を一商品毎に小売店に払うこととなっており、そのためA社は「取扱料」を早期に回収することが可能な、消費者に受け入れられやすい価格の品種から小売店で販売する。このような品種は、他の小売店の販売実績などによって決定され、現在では、台農11号という多収量品種となっている。小売店で販売する品種については、小売店からの要望などはほとんどなく、A社が決定することができ、売れ残りが生じた場合には、小売店はA社にその分を返却することができる。
     以上のような、小売状況を受けて、A社では一期作の前の12月~1月と二期作の前の5月~6月に、生産者に対してA社が生産者から買い取る品種、量、価格などの条件をアナウンスしておく。生産者は、各精米業者などからの買い取り条件を比較し、生産する品種や量を決定する。また、台稉9号や高雄139号などの高級品種については、契約栽培が行われており、買い取り価格は多収量品種と比較して、10%程度高く設定されている。
     現在のA社の買い取り状況は、買い取り量の70%が台農11号や台農67号を中心とした多収量品種であり、30%が台稉9号、高雄139号、高雄145号などの高級品種となっている。
    4.結論
     本報告では、台湾のコメ市場において精米業者が、コメの集荷・販売の中心であり、そのような機能を背景として、小売段階と生産段階に対して重要な役割を担っていることを明らかにした。しかし、本報告では精米業者に次いで集荷・販売を行っている政府の役割については分析していないので、今後の課題としたい。
  • 根師 梓
    セッションID: P0928
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに  1990年代前半に、ペットボトル入り緑茶(以下、緑茶飲料とする。)が登場し、1990年代後半から緑茶飲料需要が急増したことにより、日本の緑茶産業の構造は大きく変化している。日本の緑茶産業の構造は、スーパーまたは緑茶飲料メーカーなどへの販売を主とする大手製茶企業と、茶専門小売店への販売を主とする中小規模製茶企業に分けられるが、緑茶飲料需要の増加により、大手製茶企業への集約化、中小規模製茶企業の淘汰が進んでいる。 また、緑茶飲料の需要増加は、煎茶需要の減少を引き起こし、煎茶需要で経営が確保されていた山間部などの生産や販売を脅かしている。したがって、煎茶需要確保のための新規販売先の創出が課題となっている。そこで近年、新規販売先の創出として、海外への日本産緑茶輸出が行われている。日本産緑茶輸出量は年々増加し、輸出相手先国の範囲も拡大しており、海外における日本産緑茶の需要が高まっている。 本研究では、緑茶輸出を行っている中小規模製茶企業T社とA社に対してヒアリング調査を行い、海外における日本産緑茶需要増加への対応について明らかにする。 2.T社の海外需要への対応  T社は10年ほど前からアジア方面への輸出を開始し、2年前にアメリカのニューヨークに直営店を設け緑茶販売を行っている。アジア諸国向けとアメリカ向け輸出の方法は異なっており、アジア諸国へは輸出商社を通して行っているため、利益率は少ない。そのため、下級緑茶をアメリカ向けの輸出量より多く輸出している。アメリカ向けには、上述した直営店にだけ輸出しており、富裕層向けに高級茶を販売している。そのため、利益率はアジア諸国向け輸出に比べて高い。T社は今後、アメリカでの販路拡大を考えている。しかし、現状よりも日本茶需要が増加した場合、供給が追い付かないと考えられるため、原料確保が課題となっている。 3.A社の海外需要への対応 A社は抹茶と煎茶の生産・加工・輸出を行っており、10年ほど前から主に抹茶をアメリカへ輸出している。さらに煎茶の輸出を行うために、2003年に中国へ進出し抹茶と煎茶の生産を行っている。A社が70%、中国の茶業公司が30%出資し、合弁会社B社を設立した。B社は生産量の80%を中国国内へ流通させ、20%を日本に輸出している。日本に輸出された荒茶は、仕上げ茶に精製され、ドイツやアメリカに輸出され、日本では流通させていない。A社の中国進出の目的は、生産コストの削減と、海外における日本茶需要増加のための原料確保である。しかし、中国での生産・加工体制が欧米諸国のユーザーの要求を必ずしも満足させるものではないため、上述したように日本での仕上げ茶加工が必要な状況となっている。 4.まとめ  事例としてあげたT社とA社は、日本産緑茶需要増加に対応するために海外進出し事業を展開していた。しかしT社は今後の原料確保が課題となっており、A社は原料確保のため中国に進出したが、現地での最終加工体制が確立されていないため、日本を経由して輸出せざるを得ない状況となっている。両社のこうした課題は、日本産緑茶の原料確保が困難な状況にあることを示している。煎茶需要の新規創出として進められている日本産緑茶輸出であるが、実際には産地と製茶企業の動向が一致していない。こうした産地と製茶企業の動向については、次の課題としたい。
  • 水野 一晴
    セッションID: P0929
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    インドのアルナチャル・プラデシュ州は、ブータンと中国・チベットとの国境に近く、22-24のチベット系民族(細分化すれば51民族)の住む地域である。今回は、とくにディランゾーン地域の植生と伝統的な森林管理に焦点をあてて報告する。
    1.アルナチャル・プラデシュのディランゾーン地方では、コナラ(BainangShing: Quercus griffithi他)の落葉が肥料として農業に重要な役割を果たしている。
    2.コナラの落葉は、トウモロコシの裏作の大麦(標高1790m以下)およびソバ(1790-2000m)の栄養分のためと雑草の生育を妨げるために主に利用されている。
    3.住民からの近接性や利用条件の違いなどから、森林がSoeba Shing「落葉を集める森林」, Borong「手をかけない森林」(薪を集める地域), Moon「深い森」(建材を得たり、狩猟を行う地域)の3つに区分されている。 それらの3つの森林は、管理のあり方が異なり、特に、集落の周辺の、最も近接性の高いSoeba Shing「落葉を集める森林」は、人為的にコナラの純林に統制され、伝統的な慣習のもとに厳格に管理されている。
    4.Soeba Shingのコナラの落葉は住民にとって財産であり、基本的に住民間で落葉の譲渡はなく、そのためすべての住民がSoeba Shingを所有している。
    5.Moonは、時代とともに住民からの近接性が高まるにつれて、伐採され、マツ(Lensong Shing: Pinus wallichiana)の多い二次林に遷移し、Borongとなる。
    6.土地は、Soeba Shingが個人所有、BorongとMoonは、クランの所有であるため、それぞれの区域で、その利用が個人およびクランに制限される。
  • 梁 海山, 若林 芳樹
    セッションID: P0930
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    【はじめに】 改革開放後の中国の急速な経済発展に伴い,内モンゴル地域も大きな変貌を遂げつつある.その背景には,農村地域での都市的土地利用への大量転用,農村人口の都市への流出という都市化の波が押し寄せたためである.政府は,食糧不足や経済の持続的な発展を支えていくために,内モンゴルなど内陸の牧畜地域に「草原開墾」,「定住化」などの政策を実施してきた.しかし,内モンゴルの大草原地帯では,人口増加にともなう農耕地の拡大や薪材の採取,家畜の過放牧などが原因で砂漠化を初めとする環境劣化が進行した.そこで,2000年頃から沙漠化防止,環境保全を目的とした「放牧禁止」「生態移民」などさまざまな制度・政策が導入されてきた. こうした内モンゴルにおける改革開放後の変化については,主に環境政策と農牧業,土地被覆・土地利用への影響や衛星画像を用いた砂漠化の実態把握などに関する研究が蓄積されている.しかしながら,それらの研究は内モンゴルの一部の地域について2000年以前の状態をローカルに捉えたものであり,近年の政策転換後の変化の地域的差異について検討した例はまだみられない.そこで本研究は,内モンゴルにおいて環境政策が本格化した2000年代以降を対象にして,土地利用変化からみた環境政策と都市化の地域的動向を明らかにすることを目的とする. 【研究方法とデータ】 本研究では,旗・県単位での環境変化を表す土地被覆・土地利用データとして,内モンゴル土地勘測院の「土地利用現状調査統計データ」を採用した.このデータは,リモートセンシングに基づいて土地利用について52種類に分類した結果を89の旗・県ごとに集計したもので,本研究ではそれを9種類に分類し直したデータを使用する.また,変化の背景を知る手がかりとして,必要に応じて「内モンゴル統計年鑑」の社会経済データを参照した. まず土地利用の分布傾向を把握するために,2000年と2005年における単位地区ごとの土地利用構成に対して修正ウィーバー法を適用し,代表的土地利用の組み合わせを抽出した.ただし,この方法では構成比の小さい土地利用項目の変化を捉えきれないため,各年次の土地利用構成比の差を表すデータ行列に因子分析を適用した.得られた因子が表す代表的な変化パターンの分布傾向を明らかにするために,因子得点にクラスター分析を適用し,土地利用変化パターンからみた地域の類型化を行った. 【結果】 卓越する土地利用の組み合わせからみた内モンゴルの土地利用類型は,草原が卓越するモンゴル国境地帯,東部から南部に広がる半農半牧地域,東北部の森林地域,および黄河流域と一部の鉱工業都市に局地的に現れる都市化地域に大別され,2000年以降も大きな変化はみられない. しかし2000年から2005年にかけての土地利用変化パターンを因子分析によって要約すると,異なる変化傾向を表す4つの因子が抽出された.それらの因子は,都市化,耕地の増加と森林の減少,灌漑による農地の拡大,土地の劣化・荒廃によって特徴づけられる. 得られた因子得点にクラスター分析を適用して,内モンゴルにおける土地利用変化の類型化を行ったところ,都市化地域,変化の小さい地域,退耕還林還草地域,土地劣化地域の4つに分類された.都市化地域は,フフホト,パオトウ,シリンホトなど地級都市や県級市を含む地域で,都市用地や交通用地の面積が増加し,耕地面積が減少している.変化が小さい地域は,放牧禁止政策により牧畜飼育地として開墾された,北部や東北の牧畜地域が多く含まれる.退耕還林還草地域は,南部の半農半牧地域に分布し,灌漑できない畑が林地や草地に転換されている.土地劣化地域は,黄河流域周辺の地域,烏蘭布和砂漠とクブチ砂漠の周辺地域に分布し,多くが窪地,砂漠,アルカリ地で占められている.そこでは,近年の降水減少に伴って地下水灌漑を行う農業が増加した結果,アルカリ地の面積が大幅に増加している. 【考察】 1990年代末までの農村地域の変革制度・政策は,農牧民の生活向上を目的とした農業・牧畜業の改革であったが,農牧地域の経済構造を大きく変革するものではなく,むしろ牧草地の劣化,沙漠化などの環境変化を深刻化したといわれている.これに対して,2000年以降の環境政策は,砂漠化や土地の劣化を防止する環境保全の目的で行われており,2005年までの土地利用変化にその効果の一端が現れている. 一方,この間の内モンゴルでは,資源開発と工業化に伴う都市化が急速かつ本格的に進行した.その結果,既存の都市域の拡大や新しい都市の誕生とともに,広大な農牧地域に散在する鎮と区の拡大が著しくなり,中核都市とその周辺での都市化が進行した.本研究での分析結果には,こうした開発の結果と最近の環境政策が反映されている.
  • 小野 有五, 菊本 光子
    セッションID: P0931
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    [背景・目的] ケニア共和国は東アフリカで中心的役割を果たす一方で、旱魃や大雨などの自然災害、政府内部の腐敗、急激な人口増加等の課題を多く抱えており、貧困の削減を重要課題とする国際社会にとっても更なる注目が必要な国である。ケニアを含む途上国に対して従来行われてきた開発援助は、受益者である貧困国の住民に主導を置かないものが多かったために、持続的な発展を促進出来なかったばかりか、逆に依存を高めることにもつながっていた。そこで本研究では開発途上国における住民主導の持続可能な発展のあり方を探るために、ケニアの首都ナイロビのマザレスラムにおける住民活動の実態を調査し、住民と共に、活動の更なる改善を目指すことを目的とした。また、持続的開発の一手段として、観光立国であるケニアの中で大変危険な地域とされている都市スラムを未開発の観光資源ととらえ、そこにおけるエコツーリズムの実施可能性を検討した。
    [研究手法] 本研究では、マザレスラムにおいて長年、住民主導の活動を推進してきたマザレ・コミュニティ・リソースセンター(MCRC)の中心メンバー3名を聞き取り調査の対象とした。聞き取り調査は2008年8月~10月に5回行った。聞き取りに基づき、2008年9月12日~13日の2日にわたり日本人大学院生3名の参加者を対象としたモデル・エコツアーを実施した。続いて、9月21日に日本人観光客等6名の参加者と共に2回目のモデル・エコツアーを実施した。2つのモデル・エコツアーにおいて、ツアーの事前事後に参加者のアンケート調査を行った。さらに、ツアーの改善へ向けた資料作りのために、2008年9月23日から10月7日にかけて、マザレスラムでの現地調査を行った。歩測とコンパス、ハンドレベルを用いて、エコツアーを行ったルート沿いのマッピング行い、さらに聞き取りや観察によって、ルート沿いの店舗の分布や、水道、電気などインフラについて調査した。
    [結果と考察] 1つのスラムと考えられてきたマザレ・スラムが、中央を流れるマザレ川をはさんで、「古いマザレ」と、コソボ地区と呼ばれる「新しいマザレ」に分けられること、両者で、住宅の配置や密度、住民、経済状態など多くの相違があることが明らかになった。これらは、それぞれのスラムが形成されてきた歴史的な相違とともに、そこにうみついた住民の出自や、意識の違いとも深く関わっていた。聞き取り調査の結果では、MCRCが主に活動しているのは「コソボ地区」であり、ここでは、活気のある経済活動が、住民の自立的な活動を支えていることが推定された。
    MCRCの直面している資金調達、外部との関係強化、地域主体の開発への理念浸透と実践、という三つの主要課題が明らかとなったが、そのいずれに対しても、エコツーリズムは有効な対処法として期待され、マザレスラムにおけるエコツーリズムのニーズが確認できた。そこで、2組のグループを対象にしたモデル・エコツアーを実施した。1回目のツアーではMCRCのガイドによるスラム内の案内、住民との歌や踊りでの交流を行った。2回目では、MCRCのガイドによるスラム内の案内を行った。また、モデル・エコツアーで使用するガイドブックを作成し、ツアー後、アンケートの結果等を参考に改善を試みた。MCRCへの聞き取り調査、モデル・エコツアーにおける観察、ツアー実施後の参加者とMCRCとの話し合い、参加者のアンケート結果から、エコツアーの参加者とスラム住民の双方が、相手への理解、及び相手の自分に対する理解を求めていること、またそのような理解促進の機会としてのエコツーリズムの可能性が期待されていることが明らかになった。さらに、住民主体の開発活動においても、住民と対等の視点に立つ限り、外部の者が果たせる役割も存在することが分かった。エコツアー参加者はツアーの事前事後を通して、自分達の訪問がスラム住民に及ぼす影響について考慮しており、「責任ある観光」としてのスラムエコツアーの可能性が指摘できた。しかし、スラムにおけるエコツーリズムのシステム確立のためには課題点も多く、スラム住民と外部関係者の協力の下でのモデル・エコツアーの実施の継続が望まれる。
  • 経営様式と土地権の管理様式に着目して
    増野 高司
    セッションID: P0932
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに
     東南アジア大陸部(タイ,ラオス,ミャンマー,ベトナム,カンボジアそして中国のうち雲南省)では,山間地域を中心に広く焼畑が営まれてきた.しかしながら,ひとことに焼畑といってもその姿はさまざまであるし,1970年代以降には常畑化した地域も少なくない.本研究の目的は,既存の東南アジア大陸部における焼畑に関する記述をもとに,焼畑の経営様式および慣習的な土地権の管理様式の観点から,その地域性について議論することである.具体的には,村レベルあるいは世帯レベルによる焼畑の記述について,焼畑の経営様式(耕作年数と休閑年数,栽培作物),民族,土地の管理様式,焼畑以外に営まれる農業との組み合わせ,に着目する.

    2.調査方法
     東南アジア大陸部においてこれまでに報告された焼畑を研究対象とした文献のリストを作成した.各文献について,焼畑の経営様式,慣習的な土地権の管理様式および焼畑以外の生業についての記述をまとめることから,比較研究をおこなった.

    3.結果および考察
     既存の研究のうち調査が2003年以降に行なわれたものの一部について,その調査地を地図上に落とした(図1).耕作年数についてみると,1年のみの地域から,連作が続いて常畑化している地域がみられた(表1).休閑年数は,2006年においても10年以上が維持されている地域があるいっぽうで,3年程度からまったく休閑を想定しなくなっている地域まで幅広い.その栽培作物についてみると,陸稲が共通するものの,トウモロコシなどを栽培する地域もみられる.
     焼畑以外に営まれる農業に着目すると,例えば事例1および事例3のように焼畑を営むと同時に水田も耕作するような複合的な農業様式を持つ地域がみられた.
     土地の管理様式についてみると,事例3では焼畑地は村の共有地であるが水田は世帯の占有権が明確である.そして事例4では焼畑地の占有権は,休閑地も含めて世帯レベルで管理されている.焼畑における休閑地も含めた土地管理様式については,明確な記述がみられない報告が多いが,地域差が大きくみられる重要な指標のひとつである可能性が指摘できる.
  • ―カリフォルニア州サリナスの花卉産地を事例として―
    田中 真由紀
    セッションID: P0933
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに 研究対象である花卉は、食用農産物ではないため、近年問題とされている「食の安全」等と直接関わりなく、関税等による貿易障壁が低いとされている。また、花卉の消費国は経済的に安定している先進国であり、それに対して安価な労働力を豊富に持つ発展途上国は、今後先進国市場に向けて輸出を拡大していくと考えられる。 アメリカの花卉生産は古い歴史があるが、1970年代初頭以降南アメリカからの安い輸入花卉が増大し、切花生産が盛んだったカリフォルニア州では1980年代後半から農家数の減少が見られる。しかし、前述したような花卉市場のグローバル化の影響を受けているにもかかわらず、全米における国内花卉生産額は現在でも増加を続けているため、各産地では何らかの変化が生じていると考えられる。そこで本研究では、花卉市場のグローバル化により特に影響を受けたカリフォルニア州において、変化をとげてきた花卉経営をとりあげ、その生産の傾向や経営戦略を調査し、グローバル化に対応したアメリカ花卉産地における経営の展開方向を検討することを目的とする。 2.研究方法 USDA, Economic Research Service,“floriculture and nursery crops Yearbook2007,”; USDA, “The Census of Agriculture 2002”; Monterey County Agricultural Commissioner’s,“Monterey County Crop Report1970~2007,”等のデータから、生産額、生産面積、生産者数、貿易額などの変化をトレースすることによりモントレー郡サリナス地域における花卉生産の特徴を分析した。  また、カリフォルニア州サリナス地域にある花卉生産農家に聞き取り調査を行った。 インタビュー項目として、_丸1_生産品種の方法、_丸2_取引方法、_丸3_育種・栽培の技術、_丸4_地代水準、_丸5_資材や生産コスト、_丸6_労働力確保の方法と対応、_丸7_栽培品種の組み合わせについて等を設定した。 3.結果 今回、アメリカカリフォルニア州の花卉産地の変化要因を整理するために、産地形成期、第1転換期、第2転換期、発展期の4つの時代区分を行った。 産地形成期のサリナス地域は、全米において比較的花卉生産に優れているという理由によりカーネーションに特化し生産を増やしたことで、アメリカの中でのシェアを伸ばしていった。しかし、第1次転換期では、それ以上に花卉生産に優れた南アメリカの新規参入国が出現し、アメリカの花卉市場に影響を与え始めた。花卉市場のグローバル化が始まった時期だともいえる。しかし、南アメリカの輸入花卉増加という要因以上にサリナス花卉産地に影響を与えたのは、フザリウムというカビの病気と労働組合との対立であった。これは農業という生物を扱う産業の難しさであり、また労働集約的である花卉生産に対する労働力のグローバル化が問題となったといえる。第1転換期以降、サリナス地域はバラという代替品に品種転換が行われたが、その後すぐに南アメリカの低コスト花卉戦略に市場を奪われるようになる。よってこの第2転換期は、グローバル化の低コスト花卉から逃れられなくなった状況となった。その後、発展期でまた代替品種として、土のついた輸入が難しいポット苗生産に転換。それ以外にも南アメリカでまだ生産されていない品種を先取りする道を選んだ生産者、品質を強みにして販路を海外に広げる道を選んだ生産者など、ほぼ単一な品種で産地をなしていた花卉産地が経営者の品種選択によって各経営体が各品種を生産するよう多様化してきた。今後も、同じ状況が続くとすると、カリフォルニアの花卉生産は産地としてどう転換するかではなく、経営体ごとの意思決定を常に強いられ、海外産地と競争しなければならないと考えられる。
  • 高野 誠二, デローズ ロナルド, 小口 高, 柴崎 亮介
    セッションID: P0934
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに 主題図である土地利用図には、その作成にあたっての背景や、作成者の意図などが表出している。また、地理的環境や文化的背景などにもとづいた、その場所に適する土地利用タイプによって、元データが分類されるのが一般的である。このため、土地利用図の作成における背景となる情報を把握することによって、土地利用図の理解を一層深めることができる。 本研究では、オントロジーを用いた英語圏における土地利用図研究プロジェクト(高野ほか,2006年日本地理学会春季学術大会発表)の一環として、オーストラリアとニュージーランドでの土地利用図の刊行の状況をまとめ、その背景を整理するとともに、分類体系についてもオントロジー的な互換性の視点から検討する。
    2.オーストラリアにおける国内統一基準による土地利用図 オーストラリアは高度な決定権を持つ州によって構成される連邦国家である。このため、国内における土地利用図も作成主体ごとにその様式や分類体系が異なり、互換性の低さが大きな問題であった。たとえば、1944年にビクトリア州が土地利用図を刊行したが、これは他国と比べても早い取り組みであったものの、当然ながらビクトリア州をカバーするのみであった。その後も州などがそれぞれ独自の土地利用図の刊行を続けてきたが、ウェスタン・オーストラリア州が用いたWestern Australian Standard Land Use Classification (WASLUC)のように、他の機関によっても広く採用された分類体系も登場する。このような状況に対して、統一基準による土地利用図の作成が20世紀末ころに始まった。その一つ目が、オーストラリアとニュージーランドが1999年に共同で作成したAustralian and New Zealand Land Use Classification (ANZLUC)である。このWASLUCとANZLUCの双方共に、市街地の土地利用分類に重きを置いた一方で、非都市的な土地利用を中心とした統一基準も求められるようになり、2000年ころよりAustralian Collaborative Land Use Mapping Programme (ACLUMP)において、Australian Land Use and Management (ALUM) Classificationに基づいた、国内全土をカバーする土地利用図が作成されている。
    3.ニュージーランドにおける国内統一基準による土地利用図 ニュージーランド初の土地利用図は、航空写真にもとづき1944年に作成されたが、狭い範囲での作図であり、米国のTennessee Valley Authorityが作成した分類体系を流用た。ニュージーランドでは国レベルにおける決定権が強いためか、オーストラリアよりも古い1981年にStandard Land Use Code Committee (SLUCNZ)が設立され、New Zealand Standard Industrial Classification (NZSIC)と米国のStandard Land Use Coding Manualを融合させた詳細な土地利用分類体系を設定した。また、1999年にオーストラリアと共同でANZLUCを提唱した。NZSICとANZLUCの双方共に、市街地の土地利用分類が中心だった一方で、非都市的な土地利用を主眼とするNew Zealand Information System (LINZ)が1989年に提唱され、国内全域の土地利用図作成に用いられている。
    4.まとめ  オーストラリアとニュージーランドの両国共に先進国であるので、これまで調査したインド・フィリピンなどとは異なり、地形図の整備の遅れに起因する土地利用図作成上の障害や、土地利用図作成を援助する国への依存に起因する自国のイニシアチブの欠如といった状況は見当たらなかった。 オーストラリアでは国内統一基準にもとづいて全国をカバーする土地利用図の作成が、最重要の目標であった。このため、FAOや他の先進諸国が用いる分類体系との互換性の確保はほぼ全く考慮されてこなかった。ニュージーランドではオーストラリアよりも早くから、国内統一基準による土地利用図作成が進んだのは、中央政府の決定権が大きかったことと、国土が比較的小さかったことに理由の一部があると考えられる。
  • 久保 純子, 南雲 直子, 嶋本 紗枝, Him Sophon, So Sokuntheary, Chan Vitharong, Lun V ...
    セッションID: P0935
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    カンボジア、コンポントム州サンボープレイクック遺跡の地形・堆積物調査に加えて発掘調査をおこない、考古遺物の編年調査と炭化物の14C年代測定を行なった。その結果、プレアンコール期、アンコール期それぞれの遺物とそれにほぼ対応する炭化物の14C年代が得られた。
  • 東ネパールにおける海外出稼ぎと都市移住者の増加
    渡辺 和之
    セッションID: P0936
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. 目的と方法
     1996年、ネパールではネパール共産党毛沢東主義派のマオイストが、政府を相手に「人民戦争」と呼ばれる武装闘争を開始した。以来、2006年の停戦に至るまで国内では民間人を含め、13000人以上もの犠牲者が出た(小倉2007)。この問題に対し、政治学や人類学の分野では政党政治、民族運動などの観点からの研究もあるが(Hutt 2004)、長引く紛争が村落社会にどのような影響を及ぼしたのかに関しては、まだ非常に限られた報告しかない(cf.八木ほか2006, 南 2008)。
     発表者は、内戦終結後の2006年と2008年、かつて調査した場所を広域に歩くことができた(cf.渡辺2007, 2009)。発表では、おもに2つの調査地を再訪した結果をもとに、山村の社会変化について素描する。対象とするのは東ネパールのサガルマータ県にあるソルクンブー郡とオカルドゥンガ郡である。マオイストの活動は西ネパールからはじまり、全国規模に展開していった。ソルクンブー郡では2001年、オカルドゥンガ郡では2002年に大規模な襲撃事件が起きている。軍隊の駐屯するのは郡役所や飛行場のある町周辺だけであり、それ以外はマオイストが巡回してくる地域だった。
    2. 結果
     変化の結果をまとめると、以下の通りである。1.マオイストの巡回する村落部では、マオイストから要求される献金を嫌がり、家族で都市に移住した人がみられた。これをある村人は「マオイストが追い出した」といっていた。そして留守宅にはかつては下働きをしていた別の人が家賃を支払って住んでいた。また、海外に出稼ぎにゆき、その資金を元手に荷役業をはじめる人もいた。2.軍隊の駐屯する町では、マオイストが献金に来ることは少なかったが、海外出稼ぎも増加している。また村人のなかには、首都で出稼ぎ斡旋会社を経営する人も現れた。首都への移住者も増えたが、女性や老人が村の家に残るケースも見られた。
    3. 考察と結論
    結局、東ネパールの調査地に関する限り、マオイスト問題は山地のグローバル化を加速させたといえる。治安の悪化により、中間層はカトマンズに、そうでない人は海外出稼ぎに出て行った。調査地域はどちらも90年代にはすでに出稼ぎや首都への移住がさかんな地域だった。このため、これらの現象はマオイスト問題によって生じたことではないが、その規模はこの10年の間に拡大し、ますます組織的に送り出すようになったといえる。
    引用文献
    Hutt,M.2004.Himalayan People’s War. Bloomington & Indianapolis: Indiana University Press.
    小倉清子2007.『ネパール王政解体』NHKブックス.
    八木浩司・熊原康宏・長友恒人・前杢英明2006.フムラ・カルナリ紀行―切り捨てられた領域・ネパールマオイスト支配地域を行く(前後編).地理51(10):104-110, 51(11):98-105.
    南真木人編2008.マオイスト運動の人類学.民博通信122:1-17.
    渡辺和之2007.流動する羊飼い.地理52(3):50-58.
    渡辺和之2009.『羊飼いの民族誌』明石書店.
  • 平野 淳平
    セッションID: P1001
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.研究目的
     江戸時代の古日記に記載されている毎日の天候記録は、小氷期後半(18世紀から19世紀)の日本における気候を復元するための有効な代替データである。大飢饉が発生した1780年代や1830年代については、詳細な天候空間分布が復元され、暖候季の自然季節推移の様子が明かにされている。しかし、この2つの年代以外については、暖候季の気候の様子を詳細に復元した研究が少ない。
     欧米では、1816年の夏が記録的冷夏になり、「夏のない年」として知られている。この冷夏は、前年のインドネシアのタンボラ火山噴火の影響によるものと考えられている(Stommel and Stommel, 1979)。しかし、日本では1816年前後の暖候季の気候の状態についてはあまり詳しく知られていない。1810年代の暖候季の天候の状態が日本を含めてグローバルスケールで解明されることは、火山噴火等の自然的要因と気候との関係を解明する上で重要である。そこで、本研究では全国各地の古日記天候記録を元に日本における小氷期後半(18世紀~19世紀)の暖候季の気候を復元し、特に1810年代前後の暖候季の気候の状態を明かにすることを目的として研究を行った。
    2.データ・方法
     まず、現代の古日記所在地と近接した気象官署19地点の日降水量データを用いて、各地点間の降水日(日降水量1mm以上)出現の同時性に着目してクラスター分析による地域区分を行った。その結果、九州、近畿、関東、北東北の4つのエリアが区分された。区分された各エリアを一つの単位として、毎日の降雨の有無を判定し、その組み合わせから天候空間分布型を分類した。
     現在(1961年-2000年)において天候分布型と気圧配置型との対応関係を調べた結果、4エリア全てで降雨域のない「全域晴天型」が、太平洋高気圧の張り出しと対応していることが判明した。そこで、小氷期後半に相当する1782年から1840年の期間について、19地点の古日記天候記録を用いて5月1日から10月31日の毎日の天候分布型を復元して、「全域晴天型」出現頻度の経年変化について解析した。
    3.結果
     7月と8月について、月別に「全域晴天型」出現頻度の経年変化について調べた結果、1810年代前半において8月の「全域晴天型」出現数が顕著に低下していることが新たに判明した(図1)。この結果は、1810年代前半の盛夏季に太平洋高気圧の張り出しが弱まったことを示している。
     一方、欧米で冷夏となった1816年前後には7・8月とも「全域晴天型」出現頻度の顕著な低下は見られなかった。したがって、日本の場合は、欧米とは異なり、1815年のタンボラ火山噴火の夏の気候に対する影響は少なかったものと推定される。この欧米との相違は火山噴火等の自然的要因と気候との関係を解明する上での一つの重要な情報であると考えられる。
  • 長谷川 直子, 小林 仁美, 田中 博春
    セッションID: P1002
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. はじめに・研究方法 都市の中に存在する緑地は周辺市街地よりも気温が低温であることが多く、このような現象はクールアイランド現象と呼ばれている(浜田ら,1994).この現象は主に樹木や芝生からの蒸散による潜熱輸送や、樹木による日射遮蔽などの効果によって生じている. クールアイランド現象を捉えた研究例は多い.ところが、このような現象が起こるメカニズムを研究した例はまだあまりない.研究例の1つとして神田ら(1996)は、夏季の明治神宮の森で樹冠と大気間の熱収支観測を行った.その結果、正味放射量の約7割が樹冠で蒸発潜熱に変換されていることがわかった.だが、この観測は夏期だけに行われたものなので、他の季節についての検討は行われていない.また、クールアイランドの観測は人工排熱の多い大都市の緑地周辺で行なわれていることが多い.だが緑地特有の気温環境について知るためには、緑地での気温と人工排熱の少ない場所での気温との比較を行なう必要もあるだろう. そこで本研究では、滋賀県彦根市にある高宮神社の神社林内外で2008年7月から2008年11月まで気象観測を行った。神社林の対照として、人工排熱の影響の少ない隣接する畑地を選んだ(図1).その2地点間の気温差の日変化や季節変化、天候との関係、気温差が生じるメカニズムについて考察した.観測地点を図1に、観測ステーションの概要図を図2に示す。
    2.結果・考察  一般的に緑地による気候緩和効果としては夏季の冷却が注目視されているが、本研究では、夏季と秋季の夜間に緑地内が周辺の畑地よりも高温になる現象がたびたび発生した。それらは夜間に多く認められた。図3にその結果を示す。  図3は2008年7月のある晴天日の夜間における気温差(畑地―林内)の時間変化とその時刻における林内外の正味放射量の時間変化を示している。正味放射量の時系列変化から、林内の放射収支はほぼ平衡状態であるのに対して、林外では放射収支量はマイナスになっている。つまり、樹冠に覆われていない場所では放射冷却が進んでいることを示している。そして、畑地の正味放射量が18時を過ぎてからマイナスが続き、それにともない(畑地―林内)の気温差も徐々に小さくなり、23時ごろにはマイナスに転じた。以上のことから、林内外の放射冷却の違いが、林内外の夜間の気温差ならびに気温逆転をもたらしていると考えられる。
    謝辞:研究にあたる費用の一部は2008年度福武学術文化振興財団地理学・歴史学助成「島緑地の気候緩和効果に関する基礎研究」(代表長谷川)から助成を受けた。また、観測ならびに測器の設置にあたっては高宮神社のご好意を得た。
  • 財城 真寿美, 磯田 道史, 八田 浩輔, 秋田 浩平, 三上 岳彦, 塚原 東吾
    セッションID: P1003
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに
    東アジア地域では測器による気象観測が最近100年間程度に限られるため,100年以上の気象観測データにもとづく気候変動の解析が困難であった.近年,地球規模の気温上昇が懸念される中,人間活動の影響が小さい時期の気象観測記録を整備し,長期的な気候変動を検証することは,正確な将来予測につながると考えられる.またこれまで数多く行われてきた古日記の天候記録による気温の推定値を検証する際にも,古い気象観測データが有効であると考えられる.
     Zaiki et al.(2006,2008)は1880年代以前の日本(東京・横浜・大阪・神戸・長崎),また中国(北京)における気象観測記録を均質化し,データを公開している.本研究はこれまで整備してきた19世紀の気象観測記録とほぼ同時期の1852~1868年に,水戸で観測された気温の観測記録を均質化し,現代のデータと比較可能なデータベースを作成することを目的とした.さらにそのデータを使用して,小氷期末期にどのような気温の変化があったかを検討する.
    2.資料・データ
     19世紀の水戸における気温観測記録は,水戸藩の商人であった大高氏の日記(大高氏記録)に含まれている.原本は東京大学史料編纂所に,写本が茨城大に所蔵されている.寒暖計による気温観測は1852~1868年にわたり,1日1回朝五つ時に実施されている.
     水戸気象台の月平均値は要素別月別累年値データ(SMP:1897年~),日・時別値は地上気象観測日別編集データ(SDP:1991年~)を使用した.
    3.均質化
     大高氏記録の気温は,華氏(°F)で観測されているため,摂氏(°C)へ換算した.さらに,当時の観測時刻である不定時法の「朝五つ時」は季節によって変動するため(午前6時半~8時頃),各月の平均時刻を算出した.そして,水戸気象台の気温時別データを利用して,各月の朝五つ時のみの観測値から求めた月平均気温と24時間観測による月平均値を比較し,均質化のための値を算出した.均質化後には,最近50年間の観測データとの比較によって異常値を判別し,データのクオリティチェックを行った.
    4.19世紀の水戸における気温の変動
     今回,大高氏記録から所在が判明した1852~1868年の水戸の気温データは未だに断片的ではあるが,1850・1860年代は寒暖差が大きく,夏(8月)は水戸の平年値よりも0.9°C高く,冬(1月)は0.5°C寒冷であったことが明らかとなった.これは,すでにデータベース化している19世紀の東京・横浜での気温の変動とほぼ一致する傾向にある.今後は,大高氏による観測環境がどの程度直射日光の影響を受けやすかったのか等,検討する必要がある.
  • 西城 潔, 和田 枝里
    セッションID: P1004
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに 近年、ヒートアイランドの影響により都市部でソメイヨシノの開花日が郊外部よりも早まることが指摘されている(たとえば松本ほか,2006)。しかし従来の研究において、開花日以後、満開日に至るまでの開花の進行過程を観察し、気温や土地利用との関係を検討した例は少ない。本発表では、2007年4月に仙台市内でソメイヨシノの開花調査結果をもとに、開花日から満開日に到る開花の進行過程と気温との関係、それに対するヒートアイランドの影響について考察する。 2.調査対象地域  調査地点は、仙台市の中心市街地をほぼ東西に横切るように7地点設定し、西に位置するものから順に地点1~7  とした。地点3.4は都心域、地点1・2・5・6は都市化進行域、地点7は田園地帯に位置する。また地点4と7では、開花前後約40日間の気温観測を行った。 3.開花過程の観察 本研究では、開花がどの程度進行しているかを評価するため、観察木全体を眺めた時に何割程度が開花しているかを10段階(1~10)で判断し、その値を「開花度」と定義した(観察木全体で50%程度の花が開いていると判断されれば開花度は5とする)。各地点で4~5本の観察木を選定し、個々の観察木の開花度を平均したものを、その地点における平均開花度とした。観察は、著者の一人和田が、2007年4月6日~18日の期間の偶数日に計7回実施した。調査地点4・7における気温観測は、2007年3月16日~4月23日までの期間、自記温度計により行った。温度計は、観察木の一本を選んで根元から約1.5mの高さの樹幹部に北向きに設置し、10分間隔で測定した。 4.結果と考察 図1には地点ごとの各観察日における開花度の推移を示した。 開花は都心域の地点3・4で早く、郊外へ向けて順次遅くなる。気温観測の結果は、ほぼ一貫して地点4の日平均気温が地点7のそれを約1.0℃上回っており、ヒートアイランドが開花日の遅速をもたらしていると考えられる。また開花度の変化をみると、地点3・4ではほぼ1.0/日の割合で安定的に増加しているのに対し、それ以外の地点では日による増加率の変動が著しい。地点4と7を比較すると、前者では日平均気温の変動幅が小さく、開花度が安定的に増加するという結果をもたらしていると考えられる。こうした気温の変動性およびそれに連動した開花度の進み方の違いには、ヒートアイランドが影響を与えていると考えられる。
  • 大久保 さゆり, 高橋 日出男
    セッションID: P1005
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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     1990年代半ば以降のNOx・PM法の改正や大都市圏での条例による排ガス規制などにより,近年ではSPM(Suspended Particulate Matter, 浮遊粒子状物質)濃度の低下が指摘されるようになった.その一方で,測定されるSPM濃度は,自然起源の粒子や他物質からの二次生成など,多様な要因が反映されたものであり,大規模な黄砂イベント時には広い範囲で常監局のSPM濃度に影響することも報告されている.
     本研究では,時間的にも空間的にも様々なスケールで濃度が変動するSPMを対象に,主成分分析を用いて時空間変動の特性を明らかにすることを目的とし,特に濃度の長期変化の地域性と季節変化について検討する.
     国立環境研究所提供の月間値データファイルから,全都道府県の一般局でのSPM濃度月平均値を用い,1991~2006年度を対象に,主成分分析を行なった.
     その結果,全体の6割を占める第1主成分(寄与率62.2%)は,国内の広い範囲で同符号となり,主成分スコアからは濃度の季節変化を示すと考えられた.また第2主成分(寄与率9.2%)は,首都圏・京阪神など大都市域で固有ベクトルの値が高く,そのスコアの変動は,それらの地域の濃度の長期低下傾向と一致した.したがって,対象期間の16カ年における国内のSPM濃度には,季節変動が大きく現れ,次いで大都市域での濃度低下傾向が反映されることが示唆された.
  • 中村 圭三
    セッションID: P1006
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. はじめに  ネパール・ヒマラヤ山中のジョムソム Jomsom 2720m(図1)周辺では、日本の協力によりリンゴの栽培に成功している。一方、エヴェレスト街道Lukla近郊のアップルプロジェクト農場(2660m、図1)では、1997年の設立以来、日本品種のリンゴ栽培が試みられている。  そこで、ほぼ同高度に位置する両地のリンゴ栽培に関し、特に気候環境を中心に、日本のリンゴ産地とも比較しながら検討することを試みた。 2. 調査地域 アップルプロジェクト農場のあるチェプルンChheplung 2660mでは支柱、ジョムソム近郊のマルファMarpha 2670mではリンゴの木のそれぞれ0.5mおよび1.5m高度に、シェルター内にセンサをに装着したデータロガ(おんどとりRTR52)を設置し、2007年8月末から2008年2月までの期間に、1時間ごとに気温を観測した。 3. 調査結果 (1) ネパールのリンゴ産地の気候は、日本の産地の気温と年平均気温はほぼ 等しい。 (2) 有効積算気温は、長野1959.7℃に対し、チェプルンおよびマルファで は、それぞれ約1100℃、約1300℃と推定される。 (3) 低温要求時間は、長野3139時間に対し、チェプルン およびマルファで は、それぞれ3400時間、28000時間と推定される。
  • 福岡 義隆
    セッションID: P1007
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1.はじめに  人々が集落を形成し始めると、その土地の自然環境や社会環境の特徴に因んで地名をつけるのが一般的である。特に前者を地形や植物、気候、水文環境に因んでつけた地名を自然地名とみなして、その分布状況から逆にその土地の自然環境の特徴を読みとることができると思われる。そのことはアイヌなどの先住民に学ぶことが多い。  富士山のような大きく高い山体が聳え立つ周辺では、地形はもとより気候や植物、水文などの環境が左右され、際立った特徴を有する場合にそれに因んで人々はニックネーム的に地名をつけたくなるものと考えて、富士山の周辺の自然地名を調べてみた。そのことは、歴史的な意味を知る上でも防災上にもかなり役立つ情報となりうるものと思う。 2.研究方法  国土地理院発行の2万5千分の1の地形図を用い、吉野正敏著『気候地名集成』(古今書院、2001)における分類方法に従って、地名収集を行った。調査範囲としては、富士山体の影響を受けると思われる山頂(3776m)の約10倍の距離40km前後に及ぶ範囲内の地形図62枚について地名を調べた。ただし、今回は地形地名を除く自然地名、すなわち気候・植物・水文地名について収集した。 3.結果と考察 _丸1_山頂中心に10数km以内には地名は極めて少ない。 _丸2_調査範囲内63枚の図幅で見る限り、気候地名数は84で、水文地名数(124)や植物地名数(254)に比べ少ない。 _丸3_山頂からの方向別図幅1枚当たりでは、気候地名は北半円に相対的に多く、水文地名は南半円に、植物地名は季節風の風上・風下(NW~SE)に多い傾向にある(表1参照)。 _丸4_山頂からの距離別図幅1枚当たりでは、いずれの地名も2周目(14~28km)に多く、3週目(23~40km)に少ない。どの距離でも植物>水文>気候の順となっている(表2参照)。
  • 松本 太, 浜田 崇, 田中 博春, 一ノ瀬 俊明
    セッションID: P1008
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1. はじめに 都市空間では,地表面の人工物化,風通しの悪さ,人工廃熱の増加,緑の喪失などにより高温化(ヒートアイランド化)しており,快適性が損なわれている.また,熱中症患者も増加している.このような都市では,屋上緑化や保水性舗装などの技術による熱環境改善対策だけでなく,予防や適応の策も考える必要がある. 地方自治体が都市の熱環境を対象とした施策を行う際には,視覚的な情報(地図)が重要となる.たとえば,ドイツでは,ローカルな気候環境を都市計画や大気汚染対策に活用するため,クリマアトラスとよばれる気候環境主題図の作成が行われている(一ノ瀬,1999).日本でも,これを応用し,クリマアトラスの一つとして体感温熱指標の分布図を作成すれば,都市における熱環境の予防や適応策を検討するうえで重要な情報となりうる. 国内では,体感温熱指標の研究は建築や生気象などの分野を中心になされ,さまざまな指標(WBGT,SET*,PMVなど)の観測が都市で行われてきた.しかし,これらの研究のほとんどが定点観測によって行われているため,分布図は作成されていない.一方,面的に把握するためには,多数の定点観測データが必要であり多額の予算と労力を要する. そこで,本研究では日本の都市域における体感温熱環境の評価を最終目標とし,まずは体感温熱指標の分布図を作成することとした.その第一段階として,気温,湿度,風,放射などの気象要素の移動観測を行い,各気象要素の測定の評価と分布図の作成を試みた.今回は,2008年7月に茨城県常総市で行った移動観測の予備観測と,8月に長野県長野市で行った移動観測の結果について報告する. 2.観測方法 常総市では気温,湿度,風,放射の移動観測とそれらの定点観測との比較を行った.観測は条件を単純化するため,平坦で土地利用が一様(水田)な場所を選んだ.観測日は2008年7月31日の午後である.移動観測は,サーミスター温度計(乾球温度・湿球温度),超音波風向風速計,放射収支計(下向き短波・長波放射量),赤外放射温度計(路面温度),GPSを自動車に搭載し,1秒毎に記録した.定点観測地点においても同様の気象要素を1秒毎に測定した.定点と移動観測で得られたデータを比較した. 長野市での移動観測は,常総市で行った移動観測と同じ方法によった.観測日は2008年8月13,14日の日中に行なった.定点観測は,都市キャニオン内(信州大学教育学部構内)と都市のバックグラウンド(同大学の校舎屋上)において同様の測定を行った.また,これらに加えて,グローブ温度の測定とキャニオンでは熱画像の取得も行った. 3. 結果  まず,常総市の予備観測で行った定点と移動観測の結果を比較した.定点通過時において,日射量は1W/m2程度,大気放射量は4W/m2程度の差がみられた.一方,自動車で移動している間の日射量を比較すると(図1),時系列の変化は類似しているものの,移動観測ではときどきスパイク状の日射量の低下や日射量の立ち上がりが定点に比べ遅いことなど違いもみられた.差の平均は約4.1W/m2だった. また,大気放射量は定点と移動とで全体の傾向は類似していたが,細かい変動は必ずしも一致していなかった.  放射量の測定はセンサーの時定数が10秒あることがこのような違いをもたらすものと考えられる.したがって,都市のような複雑な放射環境場における測定に際してはその空間代表性を十分吟味する必要がある.
  • 中川 清隆, 鈴木 悠規, 榊原 保志
    セッションID: P1009
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    _I_.はじめに

     2008年元旦~大晦日の間、平坦地に立地する埼玉県熊谷市街地のデパート(地上高約32m)と郊外の大学学生寮(地上高約47m)の屋上と地上、合計4箇所に自然通風式自記温湿度計HOBOを接置して5分間隔連続観測を実施した。地上気温差をヒートアイランド強度、屋上-地上気温差を接地逆転強度とみなし、両者の関係を実測・吟味することが目的である。途中、市街地地上観測地点で自記計の盗難が発生した。郊外地上観測地点の自記計との間でキャリブレーションした別の自記計で代替する措置を取ったが、4月11日15時~6月6日15時55分の長期欠測が生じた。昨年末の記録が回収されたばかりのため詳細は未検討であるが、観測結果の概要を報告する。

    _II_.ヒートアイランドと郊外接地逆転のアイソプレス

     一年間のヒートアイランド強度(左)と郊外接地逆転強度(右)のアイソプレスを並べた図を作成した(図省略)。縦軸は日付、横軸は日中の時間である。両強度とも正領域のみ灰色表示されており、暗い部分ほど大きな強度を示す。欠測中の市街地地上気温は、熊谷地方気象台1時間測定値で代替した。両図の特徴には共通性が認められる。横縞模様とともに縦縞模様が目立ち、ヒートアイランド、郊外接地逆転ともに、激しい経日変化だけでなく1/2~1/3日程度の周期の振動を含む日変化が存在することが示唆される。秋~冬~春は、夜間だけであなく正午付近にピークをもつ日中のヒートアイランドが頻発するが、夏季は午後~日没後にピークをもつヒートアイランドが頻発する。郊外接地逆転強度はヒートアイランド強度以上に経日変化が激しいが、終日逆転が存在する日が頻発する。強い接地逆転は秋~冬の夜間に集中している。

    _III_.郊外接地逆転と夜間ヒートアイランドの関係

     両アイソプレスを概観するだけでヒートアイランド強度と郊外接地逆転強度の間の対応関係が示唆される。日界における両者の散布図を作成した(図省略)。横軸に郊外接地逆転強度、縦軸にヒートアイランド強度を目盛り、月ごとにプロットしてある。散乱は大きいものの両者には明瞭な線型関係が認められる。月別の回帰式は、最も決定係数が大きい6月、1月、11月では、それぞれ、
     δTu-r=0.3702α+0.5208   R2=0.8628
     δTu-r=0.3044α+0.1165   R2=0.8367
     δTu-r=0.3164α+0.3490   R2=0.8352
    となる。これらは2007年夏季晴天日日界に対して得られた
     δTu-r=0.8405α+0.5745   R2=0.9094
    に比べると、回帰係数が半分以下と小さく、決定係数も低い。これは、気象条件によるフィルター処理未実施のためである可能性が大きい。当日までにもう少し解析を進める予定である。

    _IV_.おわりに

     ヒートアイランド強度と郊外接地逆転強度との間に明瞭な線型関係が存在する事実は、中小都市の夜間ヒートアイランドは、市街地に移流して来た郊外に形成された接地逆転層が都市の粗度により攪拌されるため下層の逆転が破壊されて都市混合層(等温位層)が形成される結果形成され、この時、混合層上端部にはクールアイランドが形成される、というメカニズムの存在を強く示唆・支持する。本観測は本年も継続中である。
  • 安田 正次
    セッションID: P1010
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに
    近年、日本海側地域において積雪量が減少しており、動植物の分布の変化やスキー場の閉鎖などの影響が報告されている。ところで、日本海側の降雪は、一般に冬期西高東低の気圧配置となって大陸から乾燥した低温の季節風が日本海上空に流れ込み、日本海から大量の水蒸気を供給された後、脊梁山脈にぶつかり上昇するときに発生すると考えられている。
    そこで、降雪の因子の一つと考えられる日本海の海水温と、代表的な多雪地域である十日町の積雪量の関係を考察し、日本海側地域における積雪量減少の原因を検討する基礎的な資料を得る事を目的とする。

    使用資料
    積雪量の指標として、日本海側多雪地帯として代表性を持ち、永年同一の方法で観測が行われている森林総合研究所十日町試験地の観測資料から、年最大積雪深を積雪量の指標とした。海水温のデータは、気象庁の日本海平均海水温データから日本海表層海水温、および輪島測候所の沿岸海水温の1月から3月の平均値を使用した。気温の経年変化を調べるために、輪島測候所の地上気温の1月から3月の平均気温を使用した。

    結果と考察
    図1に日本海の平均海水温と十日町の積雪深の経年変動を示した。海水温と積雪量の変化率を一次回帰分析によって求めたところ、海水温は100年間で2.4℃の上昇傾向に積雪量は100年で90cmの減少傾向を示していた。
    日本海の平均海水温と十日町の積雪深の相関係数は-0.514で有意水準0.01以下の強い負の相関があり、海水温が上昇すると積雪量は減少する事が明らかとなった。図1を見ても、日本海全体の海水温が上昇傾向にあるのに伴って十日町の積雪量が減少していることがわかる。
    以上から、海水温の上昇にともなって積雪量が減少しているという現象が明らかとなった。これは、これまでに知られている、海水温度が高く寒気の温度が低いとき積雪量が増加する(菊池 1995)という知見とやや矛盾する。そこで、輪島における気温と海面温度の差と積雪深の関係を検討したが、関連は認められなかった(図2)。次に、輪島の気温と海水温度の関係を検討したところ強い正の相関が認められた(図3)。
    冬期の日本海では、海水の温度よりも大気の温度が低いため、熱は海水から大気へ移動している。つまり、海表面は大気によって常に冷却されているのである。そのため、気温の変動が海水温の変動へ影響を及ぼしている事が考えられる。そのために、海水面温度が低い時に積雪量が多くなると考えられた。
    以上から、積雪量と海水温の関係を明らかにするためには、大気によって冷却されている海表面の温度ではなく、海面よりもさらに下層の海水温をデータとして用いる事が必要であると考えられた。
  • 田畑 弾, 内山 裕貴, 小川 直人, 山川 修治
    セッションID: P1011
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    目的と方法
    2008年5月26日17時30分~18時頃栃木県高根沢町、那須烏山市、市貝町において降雹が発生し、3億円もの農業被害が発生した。
    本研究は現地調査のあと、今回の降雹のメカニズムを以下のデータを基に解析を行なった。
    1:落雷地点は東京電力Webの雨量・雷観測情報
    2:気象庁AMeDAS・気象官署の計363地点の、風向風速・気温および気圧(官署のみ)データ。また降雹発生地域の降水強度を調べるために全国気象レーダーを用いた。
    3:気象庁発行の地上天気図、高層天気図、ウインドプロファイラのデータ。
    4:降雹発生時における雲の分布状況を調べるために高知大学気象情報頁よりMT-SAT1Rの可視画像。
    5:JRA-25より等圧面高度・東西風・南北風・気温の各要素。
    6:気象庁観測で、ワイオミング大学にデータベースとして集められている高層観測データによるエマグラム。

    結果と考察
    現地調査を行った結果、
    1:植物等の倒伏から推定した方向に発散が見られなかった。
    2:被害域はほぼ楕円形であったが、扇形に広がった痕跡はない。
    3:竜巻の発生を示唆する情報はなかった。
    4:被害発生時間には、被害域を活発な積乱雲が通過中であった。
    今回の降雹はダウンバーストや竜巻を伴うものではない。
    地上場と高層場の両面から考察した降雹発生のメカニズムであるが、下層が湿潤であり、地上場では太平洋からの南風が吹き込んでいる。それだけでは温暖な状態であるかが理解できないので、JRA-25のデータを用いて作成した、925hPaの図(図2)を見ると、降雹が起こった範囲は、周囲に比べて気温が高い。エマグラムのデータと組み合わせると、温暖で湿潤な空気が入り込んでいた事がわかる。さらに、上層が寒冷(図1)であったことがわかる。
     対流圏が不安定であることは、SSI(09JST:0.41, 21JST: -3.24)、LI(09JST:-2.78, 21JST:-2.41)、K指数(09JST:12.1, 21JST:35.1)などの値から、大気が不安定であることが理解できた。
     持ち上げメカニズムについて考察する。局地天気図(図3)から、秩父を中心とした低気圧およびトラフラインが認められる。さらに17時頃には、シアラインが降雹域を通過している。よって、秩父を中心とした局地低気圧からのトラフラインおよびシアラインにより、降雹をもたらすような積乱雲を発生させるような上昇気流が起こったと考えられる。また上層の場で相当温位差を取った際に、Δθe>0より上昇流が発生しやすい場であったと推測される。
    以上の3つの要因から積乱雲が発生し、鬼怒川上空を通過した直後、降雹をもたらしたものと解釈できる。
  • 池田 敦, 岩花 剛, 田村 亨, 福井 幸太郎, 渡邊 達也, 北村 裕規, 西井 稜子, ISOP メンバー
    セッションID: P1012
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
     近年の温暖化に伴い、富士山の永久凍土分布が急速に縮小したと、ここ数年しばしばマスメディアによって報道されている。しかし、富士山の永久凍土に関してこれまで得られた知識は、地表付近(永久凍土層より浅い位置)の地温から推定されたものにすぎず、永久凍土そのものの温度条件など不明な点が非常に多い。本稿では、富士山における先行研究のレビューと今後の研究方針について、国内の若手凍土研究者の勉強会(Informal Seminar on Permafrost: ISOP)で議論したことをもとに、筆者らが2008年から開始した共同研究について紹介する。現地調査に参加したISOPメンバーは他に、原田鉱一郎氏、斉藤和之氏、末吉哲雄氏、澤田結基氏、Andreas Kellerer-Pirklbauer氏である。
     研究初年度の目標は、(1)永久凍土に達する観測孔を山頂部に掘削し、地温と、それに関連する気象要素の連続観測を開始し、(2)岩盤内の永久凍土分布を地中レーダー(GPR)を用いて推定できるか試験することとした。

    方法
     携帯型エンジンドリルを用いて、2008年8月末と9月末に、山頂部の2地点に深さ約3 mの地温観測孔を設置した。1本目は比較的平坦な面が広がる北西側の風衝地(地点1:標高3695 m)に、2本目は火口内に突き出る岩盤(虎岩)の付け根付近(地点2:標高3680 m)に掘削し、データロガーを用いた地温の連続観測を開始した。
     山頂部の7ヵ所と南斜面の9ヵ所において、GPR探査を行った。南斜面では、標高2800~3700 m間のほぼ100 mおきに探査した。ちなみに、岩盤内の永久凍土分布を物理探査から明らかにした例はこれまでなく、今回の試みは先駆的であり、方法として確立しているものではない。液相と固相の水では、電磁波伝播速度に顕著な差があるため、地盤内の水分条件が十分であれば、電磁波伝播速度の高低から、地盤の凍結の有無を判別できると考えて試みた。

    観測孔の地温
     砂礫層よりなる地点1の観測孔(深さ3.1 m)では、掘削時に深さ2 m付近で火砕物の間隙に氷が確認されたものの、2.5 m以深のボーリングコアは乾燥しており、氷は確認されなかった。掘削直後2 m深の地温は0.0℃であったが、3 m深の地温は0.3℃であり、その後、9月末までに全層の融解が確認された。掘削約1ヵ月後の9月26日の地温プロファイルは、2.2 m以深が0.1℃で一定となっていた。その地温プロファイルからは、2.2 m以深は掘削時の擾乱によって地温が0℃を上回っているが、観測孔周辺は同深度で融点にて凍結しているように思われた。この地点での永久凍土の有無を判定するためには、少なくとも2009年の秋までのデータが必要だが、現段階でも深さ2.5 m付近より下方には融点に近い永久凍土が存在することが予想される。
     地点2も砂礫層よりなるが、2 m以深はより細粒でシルトも多く含む。掘削時2 m以深のコアは水を多く含んでおり、深さ3.3 mの掘削孔全層が凍結していなかった。掘削11日後の10月9日の地温プロファイルは、顕著な日変化が見られる表層を除き、全層が3℃を上回っており、その地点に永久凍土が存在しない可能性を示唆した。

    GPR探査結果
     得られた電磁波伝播速度の鉛直分布パターンには、深度や地点間の標高差に応じた系統的な傾向は認められなかった。すなわち、永久凍土が存在しやすい深度や標高帯においてのみ高速度層が検出されるということはなかった。深さ約8 mまでの電磁波伝播速度は、0.10~0.13 m/nsであることが多かった。一般に永久凍土層の電磁波伝播速度としては0.11~0.15 m/nsという値が得られているが、比較的乾燥した砂礫層も同様の電磁波伝播速度をもつ。そこで得られた結果のみからは、凍土層がどこに存在するかを特定できなかった。
     一方、電磁波の伝播速度が遅い層は、その深度に凍土層が存在しない有力な証拠になりえるかもしれない。とくに地点2を含む山頂部の2ヵ所(探査深度約13 m)と、南斜面各地点の一部の深度では、電磁波伝播速度が0.10 m/ns以下であり、そのような低速度層のある深度には凍土が存在しない可能性が高かった。その探査結果と標高の上下関係のみから判定するかぎり、南斜面には永久凍土がほとんど存在しないという解釈が合理的であった。

    まとめ
     山頂の年平均気温(約−6℃)から予想されるよりも観測された地温が高かったことや、場所によっては電磁波電波速度が遅いことから、山頂部でも部分的に永久凍土が存在しないことが推定された.今後はおそらく大気側の低温条件だけでなく、地盤側の高温条件(火山性地熱)も考慮して、富士山の永久凍土を論じる必要があるだろう。
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