1.はじめに
都市近郊の河川では,高度経済成長期をピークとしてダム建設や砂利採取などの人為
の介入が盛んに行われ,河床低下の問題が発生した.中でも砂利採取は,採取区間の河
床を直接低下させるだけでなく,隣接した区間での人工構造物の破壊や岩盤河床への移
行などをもたらし,河川の形態や動態に大きな影響を与えた.
砂利採取と河床低下に関する先駆的な研究をした松本(1964,1965),三井(1968)などは,
下流部における砂利採取量と変動量との関係を認めているが,河床変動過程までは言及し
ていない.
そこで本研究は,埼玉を流れる荒川中流域を対象として砂利採取と河床変動の実態を明
らかにし,河床変動を動的平衡の概念を用いて予察した.
2.荒川砂利採取
県営砂利採取事業にかかわる砂利採取量(埼玉県:1987)に加えて,今回,民営事業に
よる採取量を荒川砂利採取契約書および砂利指定等の申請許可書の資料から試算して,
採取量の遷移と採取区間の変遷を明らかにすることができた.
戦後漸増していた採取量は,1959年から急速に伸び,1963~64年にピーク(約5,890,000m
3)
を示した後,河床低下や河川構造物の破壊などが問題となり法規制が進む中で減少し,
1978年に終息した.
また砂利採取箇所は,主な需要地に近い下流に多い状態から,1955年頃には荒川全体
に広がり,1964年に河川法が施行され採取区間が中流部である熊谷市付近へと遷移し,採
取量の減少がはじまった.さらに1968年には砂利採取法が施行され,1972年に寄居町より
上流へ遷移し,最終的に荒川からの採取は認められなくなった.
3.河床変動と砂利採取
熊谷扇状地扇頂部に1939年に埋設された明戸サイフォンは,河床低下により,1947年頃
に露出し,その後,サイフォン直下で約6mの局所的洗掘がみられた.
荒川上流河川事務所の横断面図から求めた河積(A)と区間長(L)を用いて算出した
河床容積変化量(?AL)を区間ごとの砂利採取量と比較した.1964年から1971年の変化は,
主要採取区間である80.0km~76.0km区間(概ね熊谷大橋から荒川大橋区間)において
?AL(約25万m
3)が砂利採取量(約26万m
3)と近い値を示し,松本.(1964,1965),三井
(1968)と同様に両方の値が釣り合う関係に似た傾向を示した.しかし熊谷市久下付近では,
砂利採取が行われているにもかかわらず,堆積傾向が認められた.
一方で,現在までに多くの箇所では,流路を中心として広い範囲で低下が進行している.
さらに,砂礫床の区間である熊谷付近においては,堆積による上昇が認められた箇所もある.
例えば,熊谷市久下付近においては,河床断面図の特徴から1964年以前に最大低下時
期があり,1964年頃から急速に上昇を示している.また熊谷市広瀬付近では,1965~1970年
頃に最低河床を迎えた後,上昇へと転化した.
このように,同一地点で時間とともに低下から上昇に転化し,また同一時点で低下区間と
上昇区間が互いに出現している.これらの事実は,河床変動が砂利採取区間から流域全
体へ波及したことをうかがわせる.これは,人為の介入により,河川の平衡が破壊され,新
たな平衡へと進む過程としてとらえられる.
4.今後の展開
荒川中流域における砂利採取と河床変動との関係の検討を基に,ダム建設や河川改修な
ども含む人為的影響による河床変動の地形学的メカニズムを,動的平衡の概念を用いて流
域スケールで解明して行きたい.
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