日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の258件中251~258を表示しています
  • 関戸 明子
    セッションID: S503
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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     明治43(1910)年、群馬県が主催し、関東1府6県、甲信越3県、秋田を除く東北5県が参加した1府14県連合共進会が前橋市を会場に開催された。この連合共進会は、関東地方で開催されたものとしては過去最大規模であった。
     この共進会に合わせて、群馬県教育品展覧会が開催された。この展覧会は、群馬県教育会の前身である上野教育会が主催したもので、会場は高崎中央尋常高等小学校、開催期間は57日間、入場者は11万人を超えた。展覧会には、教具・器具・資料など25,689点が出品された。
     教育品展覧会の出品物は「十の八九は教育者の熱心なる考案製作蒐集施設研究調査の結果にして、従来往々諸処の展覧会が生徒の成績品を以て場の大部分を填めたる如きと頗る其の趣を異にせり。……本県全町村の郷土誌は学校職員と役場員との共同の編纂に成れるものにして、多大の労力と時間とを要せしものなり」(下平末蔵「明治四十三年が与へたる活教訓」上野教育278、1910、pp.1-5)と位置づけられている。
     郷土誌は、修身・国語・算術・歴史・地理・理科といった初等教育に設けられた19のカテゴリーの一つとして展示された。『群馬県教育品展覧会目録』には、市町村単位の郷土誌119点が記載されている。10月21日と23日の『上毛新聞』に掲載された記事「展覧会場一巡」によれば、156点の郷土誌が出品されていたことが確認できる。こうした点数の違いは、郷土誌の完成が遅れて追加出品されたことなどで生じたと思われる。
     これらの郷土誌は、明治42(1909)年9月の県知事の訓令によって編纂されたもので、当時208あった市町村のうち、半数以上で所在が確認されている。この訓令には、市町村長・小学校長は別紙目次により明治43(1910)年6月30日までに郷土誌を調製して市町村役場と市町村立小学校に備え付けることとあるだけで、目的などは明記されていない。郷土誌の目次としては、自然界が地界・水界・気界・動物・植物・鉱物の6章と14節、人文界が戸口・教化・郷土ノ沿革・官公署・風俗習慣・村是規約条例等・経済の7章と29節39目を掲げている。
     この目次のうち、人文界の第7章「経済」・第8節「郷土ノ公経済」には、地租・耕地・小作料・生産額・消費額・基本財産などに関して15目のデータの収録を求めており、編纂当初より単なる教授資料の調製だけを目的に、この事業が企図されたとは考えにくい。郷土誌は、県レベルや郡レベルでも作られてきた。そのなかで、この編纂事業が町村を範域としたことは、地方改良運動の展開期に行われたことと結びついていると考えられる。このことは、郷土誌を県に提出するのではなく、小学校と役場に備え付けるように命じた点からも推察される。
     日露戦争後、地方の疲弊が顕在化するなか、明治41(1908)年10月に戊申詔書が発せられた。これは、国運の発展のために、上下一致して勤勉倹約することなどを説き、地方改良運動を支える精神的な柱となった。これを受けて群馬県では、翌年3月に戊申会が結成され、詔書の奉読が各地で行われた。戊申会成立の準備段階で作られた「群馬県斯民会準條」には、精神教育の奨励、道徳と経済の調和、教育産業の発達、地方自治の向上を目的とすると記されている(『雑事綴(戊申会庶務係)』群馬県立文書館所蔵)。明治42年9月に始まる郷土誌編纂事業もこうした流れを受けたものであろう。
     その後、明治45(1912)年6月に、郷土誌を初等教育と自治民育とに活用するため県知事の訓令が出された。この訓令は、群馬県報で27頁にも及ぶ詳細なもので、郷土誌の利用方法として7点を掲げている。そのなかには、市町村自治行政上の方針を立てるには資料を郷土誌に採ること、市町村民の指導教化の材料として郷土誌を十分に利用することなどとあり、教育だけでなく地方自治にも活用することを求めている。さらに、「郷土ノ公経済」の項目には、町村の富の程度を他町村と比較し、生産・消費の額を明らかにし、輸出入の過不足を調査し、町村民の自覚と発奮を促し、富の増加を計るべしとある。
     郷土誌の編纂とその展覧は、その出来不出来を一覧する機会となった。そこで、町村相互の競争を求めつつ、郷土に役立つ人材の育成を期待したものと考えられる。この時期、国家を支える基盤となる地方行財政の強化を急務としていたため、郷土は町村という具体的な範域をとったといえる。
  • 福田 珠己
    セッションID: S504
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    1 問題の所在
     「郷土」とは,所与の存在として「そこにある」ものなのであろうか。『郷土―表象と実践』(「郷土」研究会 2003)で議論されたのはそのような対象としての郷土ではない。むしろ,社会的実践の中で郷土なるものがどのように策定され具体化されているのか,そのことが問題とされたのである。
     本報告は,このような「郷土」の理解を継承するものである。具体的には,明治から昭和にかけて,ある意味で,郷土となるものとかかわり続けた人物,棚橋源太郎に焦点をあて,郷土なるものがどのように具体化・視覚化されたのか,彼の思想との関連から考察する。

    2 棚橋源太郎と博物館
     棚橋源太郎(1869-1961)は,多様な顔を持つ。理科(博物学)教育を中心とした学校教育、社会教育(生活改善運動)、博物館と多岐にわたる活動を精力的に展開してきた人物である。そのような人物を取り上げるのには理由がある。それは,地理学的知の実践が、狭い意味での学問分野の中に限定されるものではないからである。つまり,地理学者,あるいは地理教育者として名を連ねている者のみが地理学的知の実践者ではないのである。
     他方,棚橋の活動期間が極めて長いことも,今回注目する理由の一つである。明治初期から昭和にかけて,様々な社会的状況の中で,郷土なるものに向かい合い続けてきたことに注目することによって,学校教育(あるいは地理教育)の枠の中で郷土なるものを検討してきた従来の郷土研究とは異なった視点を提供できると考えるからである。
     棚橋源太郎の生涯を振り返ると,時期によってその活動にいくつかの特徴を見出すことができる。ここでは,棚橋の生涯を振り返りながら,特に,郷土との関連から説明していこう。
     第一に,博物学教育者として,理科教材や実科教授法について,思想や方法を展開した時期があげられよう。後の東京高等師範学校で学び,その後,附属小学校に赴任する頃,明治30年頃までがそれにあたる。この時期の棚橋は,実物を重視した理科教育(博物学教育)の展開のみならず,当時導入された郷土教育の教授法にも力を注いだ時期である。この時期の郷土教育については,地理学においても検討されているところである。
     第二は,教育博物館への関心が高まった時期である。具体的には,東京高等師範学校附属東京教育博物館主事となった1906年(明治39)から,2年間のドイツ・アメリカ留学をへて,1924年(大正13)に東京教育博物館を退職する頃までがそれに該当する。実科教授法や郷土教育を論じる中でも,学校博物館について言及していたが,この時期には,本格的な教育博物館を立ち上げることに力を注いだ。また,西洋の博物館事情を積極的に紹介した時期でもある。
     第三は,1925年(大正14)の二度目のヨーロッパ留学を経て,日本赤十字博物館を拠点として博物館活動を展開する時期である。この時期,棚橋は,郷土博物館設立の運動にも関与するが,通俗教育(社会教育)へと軸足を移していること,また,日本の博物館界の基盤形成を行い,同時に,国際的な視野で博物館を論じたことも特筆すべきことである。

    3 考察
     棚橋源太郎が実践しようとした,あるいは,視覚化しようとした「郷土」とはどのような存在なのだろうか。また,どのような思想や社会状況と関わっているのだろうか。本報告では,第一に,理科教育から郷土教育,通俗教育へと棚橋の活動の重点が移動していく中で,「郷土」はどのような役割を果たしたのかという点,第二に,郷土なるものがいかなるスケールで思考・実践されてきたかという点,すなわち,様々なスケールで展開される思考・実践の中に「郷土」を位置づけることに焦点をあて,郷土なるものの具体化について論じていきたい。

    【文献】
    「郷土」研究会 2003. 『郷土―表象と実践』嵯峨野書院.
  • 森 正人
    セッションID: S505
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    本発表は、中世の武士である楠木正成が1930年代の日本においてどのように意味づけられ、彼に関する催事や事物が形作られていったのか、またそうした出来事をとおしてどのように人びとのアイデンティティが刺激されたのかを論じる。よく知られるように、楠木正成と息子正季は後醍醐天皇に対する忠誠を、命を賭して体現した人物として『太平記』に描かれているが、南北朝時代の南朝に与したため江戸時代にいたるまで朝敵と見なされていた。楠木正成の名誉回復がなされ、江戸時代末期に尊皇攘夷運動が高まると、「忠君」楠木正成は顕彰の対象となる。各地で執り行われた鎮魂祭は招魂社の設立運動にいたり、後に靖国神社と名を変える招魂社にまつられる英霊から区別された楠木正成はただ一人、湊川神社に祀られることになった。  国家を代表する偉人としてがぜん注目されるようになった楠木正成は、宮城前への銅像設置や、南北朝のどちらが正統であるかをめぐってなされた南北朝正閏論争をとおして完全なるナショナル・ヒーローの座へ登りつめていった(森2007)。したがって、楠木正成の近代に注目することで、日本のナショナリズムや国家的アイデンティティの問題の一端が明らかになると思われるのだが、この楠木正成が見せた国家的偉人への軌跡を正面からあつかった研究は実はそれほど多くない。  近代日本のナショナリズム研究は、1990年代に大きな興隆をみた。ベネディクト・アンダーソン(1997)の想像の共同体の議論を受けながら、近代史や法制史を中心に国家的諸制度の整備が確認された。地理学においては近代における均質的な国家空間創出のためのさまざまな物質的基盤が解明された。それらの研究が一段落した後に残されたのは、国家的な諸制度や観念の形成に貢献したローカルなるものの役割の検討であった。すなわち、アイデンティティであれ諸制度であれ、それらは決して国家によってのみ作動されたのではなく、地域や郷土などといったローカルな地理的範域での実践もまた国家的なものを下支えしていたことが確認されたのである(「郷土」研究会2003)。  ただし、国家的スケールに対して地域的スケールでの実践の重要性を強調するだけでは、国家と地域を二項の固定的なものと前提してしまう。国家も地域も、首尾一貫性を持つ地理的スケールではない。それらは、相互の関係性のなかで認識されるべき地理的スケールであるだけでもない。むしろ国家的スケールも地域的スケールも、後にそれと確認されるスケールでの諸実践をとおして認識される。したがって、一貫した地域も国家もなく、事後的に確認される地域的なるものと国家的なるものととらえ、地域と国家というスケールの二分法の不可能性と、それが生成されるプロセスに取り組むことが重要となろう。こうした空間への視座は、近年の英語圏人文地理学における空間の存在論の高まりと共鳴している(Massey 2003, 2005; アミン2008)。  国家/地域的なるものを、出来事をとおしてその都度に構成し直される関係的なものとすれば、国家や地域へのアイデンティティもまた、自律的な人間主体の内側からの発露とすることも、あるいは人間主体の外側に措定される権力主体からのイデオロギー的呼びかけととらえることも困難になる。すなわち、とある地理的範域に対するアイデンティティは、前提される地理的スケールの外部、人間主体の外部にある事物や自然や機械などの客体との折り重なりの中でつねに刺激され、形作られ続けているのである。アイデンティティを含む人間の感情や倫理は、つねに資本によっても多方向へ屈曲されている(スリフト2007)。  本発表はとくに1930年代に照準する。この時期、楠木正成は国家的偉人であると同時に、彼を輩出したり彼が最期を遂げたりした場では地元の英雄として取り上げられた。それは楠木正成の死後600年を祝う1935年に一つのピークを魅せた。楠木に関わるイベントは郷土を確認させる出来事であり、そのイベントは行政だけでなく新聞社やレコード会社やラジオ局などの資本によっても開催されたのである。
  • 荒山 正彦
    セッションID: S506
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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     1927(昭和2)年に,東京日日新聞社と大阪毎日新聞社の両社が主催した「日本新八景」選定のイベントは,沖縄県を除く全国46道府県において,「郷土の風景」をめぐる大きなムーブメントをもたらした(荒山2003).東京日日・大阪毎日の両紙上では「郷土の熱狂」が報じられ,また田中(1981)はそこに「郷土愛の発露」を指摘した.昭和の新時代を代表しうる風景地を選定するという新聞社の呼びかけに対して,ローカルな社会では地元の風景地を推薦することで,風景国日本を構成する具体的な一範域としてのアイデンティティを確認する契機となったのである.                        一方日本新八景選定のイベントは,鉄道や船舶を利用したツーリズムとも結びつき,風景地の選定は,あるいみ観光地の選定でもあった.すなわち地元を代表する風景地は,その範域の構成員にとっての風景地というばかりではなく,範域の外部からもまなざされる風景地であった.鉄道や船舶のネットワークによって結びつけられた日本国土の構成員にとっても,他所の「郷土の風景」は,その価値を共有し共感しうるものであった.    本シンポジウム「地理思想としての「郷土」」の前半では,ある範域において「郷土」という表象と実践がどのようになされてきたかを検討してきた.そこで後半の本発表では,郷土がツーリズムと接合し,まなざしの対象や消費の対象としてさらなる意味を担っていく様相を検討したい.そもそもツーリズムのホスト(目的地)とは,どこにでもあるありふれた事物ではなく,ある場所に固有で特徴的な事物にほかならない.郷土をめぐる表象や実践において対象化される個別の出来事や物事は,ローカルな範域での固有性や特徴であり,したがって,ツーリズムにおけるまなざしの対象として,両者はすぐれて親和的な 関係にあるといえよう.  しかしながら他方で,郷土とツーリズムとは本来的に結びついていたものでもない.両者が親和的な関係性を持つからといって,本質的な結合関係にあると断じることはできない.郷土の表象や実践と,ツーリズムの表象や実践とは,それぞれ異なる歴史的系譜を持っているのである.本発表の目的は,この郷土とツーリズムとの接合を検証してみることにある.  ところで,郷土をめぐる諸実践は,明治初期から各地でさまざまなかたちをとってなされ,その結果,郷土なるものは全国各地に点在し分布することとなった.では,これらをパノラマ的に一望し,一覧し,個別の郷土がツーリズムの目的地として浮かびあがってくる契機はどこにあったのであろうか.他所の郷土とは本来的には何の関わりもなかったツーリストが,全国スケールでの郷土の一覧のなかから消費の対象を(旅行の目的 地を)選びだす.そして,このプロセスにおいて前提となるのが,ツーリスト(ゲスト)とホスト(目的地)を結びつけるメディアにほかならない.メディアを通してゲストはホストにめぐりあうことができるのである(荒山2009).ツーリズムのメディアには,鉄道や船舶といったツーリズムの空間を物理的につくりだすものと,印刷物のように質的なツーリズム空間の形成を担うものとがある.ここでは,主として後者に注目してみたい.  さて,いわゆる郷土研究の成果がプリントメディアとして形をなすのは,1913(大正2)年に創刊された雑誌『郷土研究』からであるとされるが,郷土とツーリズムとの結びつきが明確に企図されたのは,1928(昭和3)年に創刊された『旅と伝説』においてであった.『旅と伝説』は,鉄道省が補助金を出し創刊されたもので(大藤1990),全国各地の「郷土」を鉄道旅行によって経験するための案内書の役割を果たした.この系譜は,1932(昭和7)年に創刊された雑誌『郷土風景』や,1939(昭和14)年から鉄道省によってシリーズ化された『郷土旅行叢書』へとつながっていると考えられる.また一方,ジャパン・ツーリスト・ビューローによって1919(大正8)年から刊行がはじめられる『旅程と費用概算』では,旅行の目的地としての「郷土」との結びつきが次第に強まることとなる.発表においては,これらの雑誌メディアの分析を通して,「郷土」とツーリズムとの接合を検討してみたいと考える.
  • 遠城 明雄
    セッションID: S507
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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     第一次世界大戦前後からの工業化と都市化の進展によって、地方都市においても空間・社会の構造変容が進んだ。その結果、生活関連施設の整備が追いつかなかったことから、都市問題が深刻化し、民衆運動も活発化した。本報告の課題は、福岡県門司市における地域住民組織をめぐる動きを検討することによって、「大衆社会」へと移行しつつあった当該期の都市社会の変動の一端を論じることにある。  門司市では、明治期から区長制度や衛生組合が行政の補助機関として、地域住民と市政を媒介する役割を果してきた。しかし、事務量の増加などを理由として、1925年度から「町総代制」を設置することが決定された。市会で制定された町総代の主な取扱事項は、(1)隣保の親善皆和に務める事、(2)市行政事務の執行を援助し法令通達の普及を務める事、(3)教育自治其他公共的観念の発達を務める事、(4)産業の振興、生活の改善其他住民の福利増進を図る事、(5)町内住民の納税其他義務観念の向上を務める事、(6)名簿を備え付け町内の戸数及現在者を明らかにする事、などであった。  高岡(1995)によれば、第一次世界大戦後に町総代制を市政の補助機関としてにみならず、地域住民の「共同体」あるいは「自治」を身につける場とすることを目的として、その再編・整備が行われた。門司市の場合、労働者層を中心に住民の移動性が高く、行政が把握できない人も多くいた。また市政に対する住民の関心も高いとは言えなかった。そのため、「公共事」に進んで参与する「市民」の創出が、地域秩序の安定を図ると同時に、複雑化する都市行政の簡素化のために求められた。町総代制はこうした都市社会の状況に対応する装置としての役割を期待されたのではないかと思われる。  そうした行政の意図は、『門司市民読本』(1933)にも表れており、そこでは「愛郷心」や「郷土への愛着」を涵養することによって、住民が「隣人との協同を通して」、「よき市民」となり、よき市民になることで、「よき国民」や「世界の門司市民」となることが目指されていた。ただし、全体の約310地区のうち、2年たっても町総代を決めることができなかった地区が複数あった。その理由は町内での競争にあり、住民間の調整と協同は容易に実現しなかった。  昭和初期になると全国各地で電燈料などの値下げ運動が頻発しており、北九州地方では1930~31年にかけて、門司市、八幡市、折尾町の二市一町による九州軌道株式会社に対する電燈料と電車運賃の値下げ運動が発生した。  門司市では当初、社会民衆党門司支部が主体となって運動が始まり、その後市会議員が運動に関与し、交渉の中心となった。1930年12月に、従来の市会を中心とした運動では弱体であるとの反省から、町総代と衛生組長を運動に参加させて「値下期成同盟会」が組織された。その後、二市一町の市会議員による連合協議会が九州軌道と交渉したが、解決に至らなかったため、町総代会は料金不納などの実力行使に訴え、運動は「民衆化」し先鋭化することになった。  1931年2月に運動のこれ以上の拡大を懸念した門司市の警察署長や松本学福岡県知事らが調停をはかり、市会議員らは署長への白紙一任を受けいれた。しかし町総代会はそれに反対し、市民大会を開催するなどしたが、運動継続を主張した一部の町総代を除いて、大多数が一任を受け入れたことで問題は漸く収束に向った。この運動を通して、一部の町総代は市会議員の弱腰を批判して、自分たちこそが市民の意見を代表する存在であると主張するようになっており、町総代会は町を通じて地域住民を掌握するのみならず、市民大会などによって「大衆」を動員することで、市会と並ぶ力を行使しえる存在になったと言える。以上、町総代制は地域への行政国家の浸透の基盤となると同時に、地域住民による政治への参加を実質化する基盤ともなったのであり、その役割を両義性をはらむものであったと思われる。  
  • 大和 広明, 高橋 日出男, 三上 岳彦
    セッションID: S601
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    はじめに
    東京周辺の人口が増え続け,それに伴い市街地が郊外に広がってきた.東京から50km圏内には約3100万人の人口が集中している(2005年国勢調査).河村(1977)や松本ほか(1989)では,高度経済成長期に市街地が拡大するにつれて,主に夜間に現れる東京都心を中心としたヒートアイランドが拡大していることを指摘している.暖候期の日中には,東京都の北部から埼玉県南部にかけての広い地域で高温になることがAMeDASデータの解析やシミュレーション結果から明らかになっている(藤部,1993;Kusaka et. al.,2000).また,東京都心の気温は20世紀の100年間に約3℃上昇しており,これは世界のほかの大都市と比べても大きな値となっている(三上,2003).このように,以前と比べて東京をふくむ首都圏でヒートアイランド現象が広域化・深刻化してきている.
     しかし,このような現状に対して,現象の把握は十分とはいえない.現在までのヒートアイランド現象の研究は,既存のルーチン観測であるAMeDAS・一般大気環境局のデータを解析したもの(山添・一ノ瀬,1994など)や移動観測によって行われてきた(榊原,1994など).しかし,AMeDASでは首都圏のヒートアイランド現象の実態を明らかにするには観測点密度が低く,一般大気環境局のデータは,東京都内以外は気温の測定点が少ない.また,移動観測では長期間のデータを得ることが難しい.これらの欠点を補う目的で,多数の温度計を設置した研究が行われてきた.伊藤ほか(1994)は,東京都内の100カ所の百葉箱に温度計を設置して観測している.また,安藤ほか(2003)および三上ほか(2004)では,首都大学の気候学研究室と東京都環境科学研究所が共同で東京23区に高密度に展開した気象観測網(METROS)の都区部の気温データを解析している.それによると,東京23区内では,夏季日中に特に北部が高温になり,夜間は東京湾沿いが一番高温になることが明らかになっている.しかし,これらの先行研究は対象範囲が東京都内に限られているために,首都圏全体のヒートアイランド現象の現状は十分に把握できていない.
     以上のような背景の下,首都圏全体のヒートアイランド現象を空間的・時間的に高密度に観測するために,新たな観測網を展開することにした.新たな観測網を「広域METROS」と呼称する.広域METROSは首都圏の多地点の百葉箱にて,地上気温を10分間隔で観測する観測網であり,首都圏の12大学・研究機関(帝京大学・首都大学・日本工業大学・防衛大学校・早稲田大学・千葉大学・日本大学・駒沢大学・江戸川大学・千葉工業大学・国立環境研究所・EscoT)で構成している広域METROS研究会が運営している.広域METROSは2006年7月から観測を開始し,現在も観測中である.
    暖候期の日中の高温域
    暖候期の日中の気温分布は海風の影響を強く受けていた.海風が内陸まで進入する13~15時の気温分布は,海風が進入している沿岸域が低温となり,進入の遅れる東京の北西部に高温域が形成されていた.この高温域は海風前線のすぐ内陸側に位置し,海風の進入とともに内陸へ移動していた.海風が平野全体進入した後の夕方の高温域は,海風吹走方向の都心の風下地域に現れていた.
    夜間のヒートアイランド
    夜間の気温分布はいずれの季節も降水がないときには,東京都心を中心としたヒートアイランドがみられた.都心と周辺との気温差は夏に小さく,秋から春にかけて大きくなる傾向が認められ,冬季の晴天弱風時に最大になっていた.
  • 境田 清隆, 倉持 真之
    セッションID: S602
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
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    比較的海水温が低い太平洋に接する仙台では、暖候季の日中に海風が発達し、低温な海風が日中の昇温を阻害する「頭打ち」現象が知られる。発表者は以前、仙台平野に展開している小学校の百葉箱の気温観測データを使用し、海風による気温の低減(冷却効果)量を算定し、海岸からの距離が同程度であるならば、都心における冷却効果が郊外をむしろ上回ることを示した(江越・境田,2005)。 ラフネスの大きな都心では地表における海風の吹走が阻害されるが、鉛直的にみると都心の高層ビルが鉛直混合を活発化しているとも考えられる。しかし実際の市街地でこのような気温の鉛直観測を実施することは困難であり、実証的な研究は極めて乏しい。そこで今回、宮城県の協力を得て、仙台市の都心部にある宮城県本庁庁舎付近で気温と風の観測を実施したので、その結果を報告する。 宮城県庁は仙台都心のCBD地区にあるが、県庁庁舎(高さ約90m)と東西に隣接する県議会(同約30m)および県警本部(同約40m)の屋上とバルコニーと地上に温度計(計16点)と超音波風速計(2点)を設置し、2008年4月中旬から7月下旬まで観測を実施した。また25箇所の小学校の百葉箱を利用して5年前から継続しているヒートアイランド観測網のデータも利用した。 風向の日変化と天気図等の検討を経て、対象期間から13日の海風事例日を抽出した。その中から4月16日の事例を紹介する。風向の東西成分から早い時刻にも東風成分がみられるが、南東風の海風が到達したのは10:40頃と見られる。これ以降、庁舎の東側では0.2m/s程度の下降気流が卓越し、上階から順次気温の低下が認められる。小学校のデータをみると、海風の進入に伴って全ての地点で昇温の頭打ち現象が認められるが、県庁付近で顕著なことから、高層ビルの関与が示唆される。 海風による冷却効果は事例ごとに異なるが、全体を通して4-5月の方が6-7月に比べ大きいこと、風速と正相関を有することが判った。都心に対し、海岸とほぼ同距離にある郊外として野村、高層ビルは無いが低層住宅密集地として南小泉を選び、海風日の3者の気温差を検討した。その結果、日の出前のヒートアイラント゛の形成と、海風によりそれが解消されていく過程が見て取れる。海風吹走時では都心の冷却量が低層住宅地よりも大きく、郊外よりも低温になっていることが判った。
  • 福岡 義隆, 中川 清隆, 渡来 靖
    セッションID: S604
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/06/22
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 熊谷と多治見が日本一高温になった理由をヒートアイランドというlocal-climateのみならずmeso-climateのフェーン、macro-climateのラニーニャなどとの関係で考察し、WRFモデルによるシミュレーションの可能性と限界にも触れる。 2.暑さの原因およびメカニズム  熊谷や多治見が暑いのは何故か、考えられる要因を次にいくつかあげてみよう。_丸1_内陸型気候説(海岸からの距離)_丸2_都市気候成因説_丸3_フェーン説~近くの山岳(高原)の影響(滑昇反転下降流)_丸4_谷地形(谷風循環反転下降流)_丸5_逆転crossover現象との関係_丸6_夏のモンスーンとラニーニャ  本稿では特に_丸2_の都市気候説と_丸3_フェーン説を中心に考察を進めた。 3.都市気候形成のバックグラウンド  気候の内陸度については、大陸度(K:、ゴルチンスキーの式、A:気温年較差、Φ:緯度)   K=1.7×(A-12sinΦ)/ sinΦ   によると、東京が43.7であるのに対して熊谷は45.8と大きい。なお、名古屋は48.2、多治見は51.9 である。仮に海風で東京や名古屋の方からの熱移流があったとしても海岸からの距離や、低温の海風による昇温抑制効果などを考えると、臨海大都市の影響はあまり考えられない(東京37℃、34℃)。  さらに、2007年の夏だけについて考えられることは、かなり強く広範囲に及ぶラニーニャの条件下にあって西太平洋全般に高温状態にあったことも確かである。 3.フェーン説に関する考察  2007年8月16日や2005年8月6日などの熊谷市の高温時には明らかに西~北西風が吹いていた。この2例以外でもかなりの割合で関東山地越えの風の時に猛暑になっている。明らかにフェーン風発生にともなう気温上昇と考えられる。まれにはウェットフェーン時のタイプもあるが、多くはドライフェーン時のタイプである。フェーンによる熊谷市など北関東の高温現象は、渡来靖ら(2008)のシミュレーション解析でも明らかにされている。 参考文献 河村武 1964. 熊谷市の都市温度の成因に関する二三の考察、地理学評論 37 560-565 浅井冨雄 1996. 『ローカル気象学』 東大出版
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