本稿は従来ほとんど学術的関心の対象とならなかった日朝貿易の展開過程を分析し,日韓国交正常化交渉のさなかの1960年代前半に,むしろ日朝貿易の制限緩和が進んだ要因を明らかにする。先行研究では,日本政府と経済界とのせめぎ合いのなかで,日朝貿易は漸進的・事後承認的に制度化されたといわれる。本稿はこれまで単一アクターとして仮定されてきた日本政府内の省庁間対立に注目し,通産省や大蔵省が日朝貿易の制度化に大きな役割を果たしたと主張する。すなわち,戦後日本の朝鮮半島政策には,同じ資本主義陣営の韓国を優先しようとする外務省の「冷戦の論理」だけでなく,北朝鮮との経済関係の拡大を模索する通産省,大蔵省,経済界の「経済の論理」が存在した。そして,日韓会談の停滞を直接の契機として,日本政府内では「冷戦の論理」よりも「経済の論理」が優勢となった。それゆえ,日朝貿易は東アジア冷戦下においても発展し続けた。
本稿は,フィリピンの日本占領史研究において等閑視されてきた対日協力をめぐって住民間で頻発した暴力の状況と,それをめぐる戦後のフィリピン司法制度の恣意的運用について社会史的に考察する。ここでは,戦前より砂糖産業で隆盛を極めたネグロス島において,駐留日本軍を主体とする治安維持活動に関与したエリート住民と貧困層住民とが引き起こした暴力を事例として取り上げる。また,この暴力激化の過程において,戦前よりシュガーバロン(砂糖貴族)として社会的地位が高いエリートが駐留日本軍によって遂行された対ゲリラ戦の中で貧困層と共に対日協力を行いながらも,貧困層を利用しながら,戦後期において国家反逆罪の「汚名」から逃れているプロセスを明らかにする。そして,その結果もたらされた戦後のフィリピン社会分断の一側面を提示する。