年報カルチュラル・スタディーズ
Online ISSN : 2434-6268
Print ISSN : 2187-9222
最新号
選択された号の論文の8件中1~8を表示しています
  • 有元 健
    2019 年 7 巻 p. 3-6
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/10/21
    ジャーナル フリー
  • 岡田 桂
    2019 年 7 巻 p. 7-26
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/10/21
    ジャーナル フリー
  • 井口 由布, アブドゥル・ラシド
    2019 年 7 巻 p. 27-45
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/10/21
    ジャーナル フリー
    「女性器切除female genital mutilation: FGM」をめぐって国際社会では、女性の人権と健康の侵害であるという「普遍主義」と現地の伝統であるとする「文化相対主義」によって対立がくりひろげられてきた。本論考は、「FGM」論争を言説としてとらえ、ポスト植民地における女性の身体とセクシュアリティをめぐる政治のなかに位置づけることで、この対立がいずれも近代医学の普遍性という暗黙の前提の上に成り立っていることを示す。なお本論考は「FGM」を自明のカテゴリーとしてあつかわないためカギ括弧をつけて使用している。「FGM」論争は、国際機関や西洋フェミニストによる「普遍主義」と「FGM」をさまざまな身体加工の一つとして考える文化人類学者による「文化相対主義」との対立によって特徴づけられてきた。1990 年代からこの論争を言説の問題としてとらえる動向が開始し、ポスト植民地における自己表象、西洋における家父長制の隠蔽、西洋のフェミニストによる帝国主義的搾取への加担などの問題が論じられた。
     本論考は、「FGM」論を言説としてとらえるこれまでの動向において、じゅうぶんに着目されてこなかった医学的なまなざしについて論じる。女性の身体を対象化する医学的なまなざしの強力さは、研究者たちの分類への執拗なこだわりから見てとれる。「FGM」の研究と分類のプロジェクトは植民地における医療の制度化とともに開始し、人類学者の研究や宗教指導者の議論をも包摂し、現在の世界保健機構による4分類において頂点を極めている。「FGM」を医学的に分類するプロジェクトは、国際機関や各国が行う保健政策、NGOによる人道支援、宗教組織の行う施策へと変換され、植民地において開始した近代医学における管理体制の、ポスト植民地的な展開の一つといえるかもしれない。本稿は、「普遍主義」と「文化相対主義」の双方における暗黙の前提ともなっている医学的なまなざしを検証することによって、「FGM」論争における対立の超克をめざす。
  • 金 悠進
    2019 年 7 巻 p. 47-71
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/10/21
    ジャーナル フリー
    1955年、アジア・アフリカ会議がインドネシアのバンドンで開催された。植民地主義に反旗を翻す舞台となった「バンドン」は、しばしば第三世界の連帯の象徴的記号として捉えられる。本稿は、このような反植民地主義の連帯としての「バンドン」イメージを相対化し、よりローカルな文脈から、異なる都市イメージの構築を目指す。具体的には、バンドンの若者たちによる文化実践がなぜ植民地主義の残影を引きずり、いかにしてナショナル・アイデンティティを喪失しつつも西洋の模倣から脱却していったのかを論じる。主にポピュラー音楽を中心に、近代美術やイスラームなどバンドンのローカルな日常の文化実践における特殊性/多様性に着目しつつ、アジア・アフリカ会議の「裏」舞台を描く。上記分析過程を通じて、「インターアジア」におけるカルチュラル・スタディーズの分析枠組みを提示する。
     脱植民地主義を掲げる戦後最大の歴史的出来事として、アジア・アフリカ会議が植民地都市バンドンで開催されたという文脈は、現在に至るまで当該都市の文化実践を規定してきた。にもかかわらず、国家の共産主義化、脱植民地主義化と乖離するかのように、バンドンの若者たちが脱イデオロギー的な西洋志向の文化実践に傾注し続ける背景を、近代美術を事例に論じる。さらに、西洋模倣型の実践形態が都市における庶民的・国民的文化の周縁化、ひいては新たな植民地主義への構造的加担に帰結する背景を1970 年代のポピュラー音楽における対抗文化的実践から明らかにする。最後に、イスラームが新たな文化実践の代替的イデオロギーとして台頭することによる「新たな連帯」の萌芽を提示する。
  • 張 瑋容
    2019 年 7 巻 p. 73-94
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/10/21
    ジャーナル フリー
     本論文は1990 年代哈日現象の影響を引き継ぎ、日本の物事への好意的な受容が一般化しつつある現代台湾の文脈の下で、日本のメディアコンテンツの受容から、台湾人視聴者と〈日本〉との関係性を解くことを試みる。具体的には、インターネット掲示板「PTT」の中の日本テレビトラマ掲示板で起きたドラマ「おっさんずラブ」の人気現象に注目し、そこに掲載される「おっさんずラブ」の関連投稿の考察を通じて、ドラマをめぐる言説に投影される台湾人視聴者の「〈日本〉への眼差し」の解析を、本論文の目的とする。
     まずは「〈日本〉への眼差し」を軸に先行研究を整理した結果を、「〈日本〉をめぐるファンタジー」という重層的で変動的な諸世代の〈日本〉への集合的想像によって持続的に形成されつつある動態的な枠組みで概念化した。この概念に基づき、「おっさんずラブ」の関連投稿の言説分析を通して、台湾人視聴者の「おっさんずラブ」への眼差しの向こう側に 映っている「〈日本〉をめぐるファンタジー」の重層的で変動的な構造を解析できた。言説の集中と反復、修正と転向により構築・増強されながらも、常にゆらぎとズレを伴うこの不安定な構造は、以下の三次元を行き渡って構造化されていくものである。それは①男性同士のホモセクシュアリティをめぐるユートピアと、②ドラマの構造に向ける良質ドラマ の理想像への期待といった、ドラマの「内部」に向ける視聴者の眼差しから解析された次元、及び③〈日本〉を重要な他者と位置づける集合的想像というドラマを抽象化する「外部」の議論から解析された次元を行き渡って構造化されていくものである。台湾人視聴者の重層的な〈日本〉への眼差しにより照らし出されたこの言説空間のゆらぎ、不安定性、自己増強・回復の性質は、「〈日本〉をめぐるファンタジー」という構造を前面化させてくれるのである。
  • 西田 梨紗
    2019 年 7 巻 p. 95-116
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/10/21
    ジャーナル フリー
     本研究の契機は、なぜローレンスとリーはヘンリーの悪夢のなかで、エドワードに兵隊の音頭をとるドラマーの役割を与えたのか、という疑問である。エドワードのモデルはラルフ・ウォルド・エマソンの息子エドワード・ウォルド・エマソンであり、エドワードはヘンリー・デイヴィッド・ソローを慕っていた。ヘンリーとエドワードの親しい関係は劇中で描出されている。だが、ヘンリーがみた悪夢のなかでは、エドワードには兵隊の音頭をとる役割が与えられており、彼にこの役割は不似合いであるために違和感を覚える。
     この問いを明らかにするため、本研究ではまず1960年から1970年頃におけるソローの評価とともにベトナム反戦運動に着目し、Jail が執筆された時代背景を振り返った。次に、この戯曲中でアイデンティティの問題が主張されている場面と、権威に対する不服従の精神が描かれている場面を取り上げた。ここでは、ソローが生涯を通じて持ち続けたʻʻCivil Disobedienceʼʼ の精神をテーマにしたJail が、なぜこの時代に営利目的としない劇場や大学で次々と上演されていたのかをベトナム戦争における問題と関連付けながら考察し、当時求められていた精神を明らかにした。最後に、ヘンリーがみた悪夢の場面に着目し、戦場で兵隊の音頭を取るエドワードの姿はなにを意味するのかをWalden に流れるʻʻDifferent Drummerʼʼを鍵語に検証を行った。
     検証の結果、エドワードに兵隊の音頭をとる役割のみならず、攻撃を受け負傷させることで、戦争がもたらす脅威を観客に訴えかけようとしたローレンスとリーの意図が明らかになった。また、彼らはヘンリーが登場人物たちに自分自身の存在を再認識させる場面を織り込むことで、当時の若者たちが模索していたアイデンティティの問題をも観客に投げ かけているといえよう。
  • 木場 安莉沙
    2019 年 7 巻 p. 117-142
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/10/21
    ジャーナル フリー
     本研究は言語的/パラ言語的情報をマルチモーダルに分析し、哲学的知見と言語学的知見の交錯するところに位置づけられるものである。本研究ではメディアに見られる性的少数者の表象を対象とし、バトラーやフーコーの知見を援用しつつディスコース分析の手法を用いて、セクシュアリティの表象に見られる特徴や、表象と関連して動的に産出されるパワーおよびイデオロギーについて考察する。データとして子供向けアニメ映画やバラエティ番組を扱い、そうしたフィクションおよびノンフィクションにおける表象の間に関連性が見られるかどうか、また表象に働きかける「イデオロギーの戦略」や「攪乱」の可能性について明らかにすることが本研究の目的である。分析の結果から、ノン/フィクション間には表象上の類似点が見られるものの両者ともに新しいキャラクラーの登場によって表象の揺れが見られること、このことが攪乱の現れであるとともにその契機となること、さらに、一貫して変わらないように見える表象も異なる(そして多層的な)イデオロギーの戦略から産出されていることが明らかとなった。
  • 須納瀬 淳
    2019 年 7 巻 p. 143-161
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/10/21
    ジャーナル フリー
     第二次大戦後から、カメルーンでは独立を求める人々とフランスとの間で戦争が行われた。独立した他のアフリカ諸国と比べたとき、この国には二つの特殊性がある。第一に、フランス植民地であった「ブラック・アフリカ」のなかで唯一、武力によって独立運動の弾圧が行われたこと。第二に、両国間で起きた戦争についての語りが、独立後のポストコロニアル国家および旧宗主国フランスの双方によって公的な場から排除されてきたということである。この意味で、それは文字通りの「隠された戦争」だった。
     本稿では、カメルーンの戦争の認識をめぐるこうした困難な状況を辿った後に、国家が提示する公式の〈歴史〉に抵抗しつつ、この戦争について独自の視点から語ろうとしてきた作家たちの試みについて検討する。とりわけ、国家が歴史的な「真理」を決定してきたカメルーンのような国においては、いくつかの文学的作品は単なる「作り話」の範疇には 収まらない重要な意味を持っている。それらは、国家的〈歴史〉に対して、過去の出来事について複数の視点から為された作家たち独自の解釈による介入として読むことができる。
     独立直後においては、その出来事についての語りが許されない状況下で、モンゴ・ベティは植民地主義の実態を告発するために小説を政治的ルポルタージュの代替表現として用いた。また彼より後、独立後に生まれた作家たちは、彼とは異なる観点や手法からその出来事にアプローチしているが、われわれはそこに認められる二つの特徴を重要なものとして挙げている。一つは独立闘争における女性の視点に焦点があてられていること。もう一つは過去が次世代に語り継がれる伝承が問題とされることである。
     最期に、マックス・ロベの小説『打ち明け話』をとりあげ、アフロ・ディアスポラとしての主体が、戦争の過去と持つ特異な関係性を明らかにする。
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