オーストリア文学
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32 巻
選択された号の論文の17件中1~17を表示しています
  • 2016 年 32 巻 p. Cover1
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 32 巻 p. Toc1
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • ーあるいは「避暑地」の誕生
    新井 裕
    2016 年 32 巻 p. 1-12
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
    一八世紀に執筆された数多くの紀行文学の中で、アイペルダウアー氏の手になる書簡体の作品は、とりわけ興味深い(2)。ドナウ川の向こう側の集落カグランに住む親戚に宛てて書かれたこの手紙には、当時のウィーンの人々の習慣がお上りさんの視点から事細かに報告されている。それだけではない。氏はその冒頭で、生まれ育ったアイペルダウアー村を出てウィーンへと至る道中の、その道路のありさまにもまた言及している。道にぽかんと口を開けた自然の窪み、人の手によって掘られたらしい穴などの存在を知ると、この時代の旅行がどれだけ大変であったのかがよく伺える。もちろん彼は何度もこの窪みに足をとられて、地面に叩きつけられるのであるが。ともあれこの作者が、当時の旅の持つ魅力や困難さを読者に伝えることに成功しているのは、間違いないだろう。
  • シュティフター『水晶』における学習過程
    磯崎 康太郎
    2016 年 32 巻 p. 13-24
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
    一八四八年の革命を経て、雑誌版『ピッチ焼き職人』(Die Pechbrenner,1849)は単行本版『みかげ石』(Granit)になり、雑誌版『聖夜』(Der heilige Abend, 1845)は単行本版『水晶』(Bergkristall)になった。『みかげ石』は、改稿版が公表されたシュティフター作品のなかでは、改稿により分量が大幅に減少した唯一の作品であり、雑誌版のペストをめぐる逸話が大幅に改変された。これに対して『水晶』への改作は、筋書きに変更が見られないことから、小規模の改稿にとどまるものであるという見解が一般的である(1)。本論では、この小規模の改稿を再検討し、改作後の『水晶』を『みかげ石』との連続性のなかで考察したい。単行本版を収めた作品集『石さまざま』(Bunte Steine, 1853)のなかでは、『みかげ石』が第一巻の最初の、『水晶』が第二巻の最初の物語となったため、両作品は離れて配置された。しかし、作者シュティフターが一八五一年十一月に「最初の物語(=《みかげ石》)の後には、《聖夜》が続きます」(PRA 18, 95)と 予告しているように、作者の頭のなかで両作品が連続していたのではないかと推測されるのである。 四八年の三月革命を目の当たりにして、青少年の教育の必要性を痛感したシュティフターは、教育的な関心をもって『石さまざま』に取り組み、ここでは「子どもの物語」から「青少年の物語」への方向転換が図られているものの、この作品群の核となる共通項を見つけ出す試みはあまり成功していない(2)。青少年の教育という観点からこの作品群を理解しようとする際、『水晶』は一つの躓きの石となる。シュティフター作品に頻繁に登場する教育者の存在や、何か を学んでいる学習者の様子も、この作品では見えにくいからである(3)。実際に『水晶』の研究史は、救出という帰結や物語冒頭のクリスマスをめぐる描写から考えられた宗教的な解釈と、自然の脅威と子どもたちの極限状態についての解釈という二極に牽引されてきたように見える。本論ではこうした
  • リルケ研究史批判
    黒子 康弘
    2016 年 32 巻 p. 25-35
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
    一八四八年の革命を経て、雑誌版『ピッチ焼き職人』(Die Pechbrenner,1849)は単行本版『みかげ石』(Granit)になり、雑誌版『聖夜』(Der heilige Abend, 1845)は単行本版『水晶』(Bergkristall)になった。『みかげ石』は、改稿版が公表されたシュティフター作品のなかでは、改稿により分量が大幅に減少した唯一の作品であり、雑誌版のペストをめぐる逸話が大幅に改変された。これに対して『水晶』への改作は、筋書きに変更が見られないことから、小規模の改稿にとどまるものであるという見解が一般的である(1)。本論では、この小規模の改稿を再検討し、改作後の『水晶』を『みかげ石』との連続性のなかで考察したい。単行本版を収めた作品集『石さまざま』(Bunte Steine, 1853)のなかでは、『みかげ石』が第一巻の最初の、『水晶』が第二巻の最初の物語となったため、両作品は離れて配置された。しかし、作者シュティフターが一八五一年十一月に「最初の物語(=《みかげ石》)の後には、《聖夜》が続きます」(PRA 18, 95)と 予告しているように、作者の頭のなかで両作品が連続していたのではないかと推測されるのである。 四八年の三月革命を目の当たりにして、青少年の教育の必要性を痛感したシュティフターは、教育的な関心をもって『石さまざま』に取り組み、ここでは「子どもの物語」から「青少年の物語」への方向転換が図られているものの、この作品群の核となる共通項を見つけ出す試みはあまり成功していない(2)。青少年の教育という観点からこの作品群を理解しようとする際、『水晶』は一つの躓きの石となる。シュティフター作品に頻繁に登場する教育者の存在や、何か を学んでいる学習者の様子も、この作品では見えにくいからである(3)。実際に『水晶』の研究史は、救出という帰結や物語冒頭のクリスマスをめぐる描写から考えられた宗教的な解釈と、自然の脅威と子どもたちの極限状態についての解釈という二極に牽引されてきたように見える。本論ではこうした先行研究に対峙しながら、『水晶』の教育の問題を再検討したい。
  • デジタル化された情報環境におけるカール・クラウス
    河野 英二
    2016 年 32 巻 p. 36-46
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
    一 カール・クラウスとソーシャルメディア 諷刺家カール・クラウス(一八七四―一九三六)は今日、しばしばネット文化との関連で論じられている。例えばブログの登場時に、当時のオンライン・マガジンを代表していた《テレポリス》では、彼の個人誌《ファッケル》(一八九九―一九三六)で展開されていた新聞批判が、ブログにおける同種の試みの先駆けとして評価された(1)。《ファッケル》のオンライン・アーカイブ版(2)が公開された二〇〇七年以後は、この主題が学術的な観点からも考察されるようになった。同年に〈デジタル文学マガジン〉の保存をめざして発足したポータルサイト〈ディリマグ〉の主催者レナーテ・ジャコムッツィがブログの類例として《ファッケル》に言及し、それが〈政治的・文化的・メディア的な環境についての個人的な論評を伴った、単独の作者による公共圏フォーラム〉であったと述べていることはその一例である(3)。 ところが近年、《ファッケル》がブログ的な一面をもつことを認めながらも、クラウスの諷刺にむしろインターネット言説に対する批判の根拠を見出す主旨の著書が刊行された。アメリカの小説家ジョナサン・フランゼンがハイネとネストロイに関するクラウスのエッセイを英訳し、多数の自注を施した《クラウス・プロジェクト》(二〇一三)である。フランゼンによればブログやツイッターは読者が文学を味読し、作者と対話するための時間を奪う点で多大な害悪をもたらしており、その一部で見られる疑似文学的な傾向はクラウスがウィーンの新聞の文芸欄記事に見出していた文学とジャーナリズムの混淆の再現である(4)。また、電子書籍事業を展開して出版産業を圧迫し、質が保証されない〈読者レビュー〉によって文学の評価基準を混乱させているアマゾンの社主ジェフ・ベゾスは、クラウスが代表作である反戦劇《人類最期の日々》(一九二二)で登場させた〈黙示録の騎士〉(Bd. 10, 677)になぞらえられる(5)
  • ローベルト・シンデル詩集『あとからの灯火(ともしび)』
    福間 具子
    2016 年 32 巻 p. 47-59
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
    はじめに ドイツ語圏において、ローベルト・シンデル(一九四四―)の名は主に長編小説『生まれ(Gebürtig)』(一九九二)(1)の作者として広く知られている。『生まれ』は、いわゆる「第二世代」(2)―ホロコーストの犠牲者あるいは生還者を親に持つ世代―が一九八〇年代になってなおウィーンにおいて非ユダヤ人と関わる際に感じる困難と、そこに起因する自己の存立の不安定さを扱った作品として注目を集め、その後英語とヘブライ語へ翻訳されると、「ホロコースト文学」というジャンルにおいても重要な作品のひとつに数え入れられるようになった。二〇一三年には『生まれ』を含む三部作の二作目となる『冷たい男(Der Kalte)』(3)が出版され、戦後ユダヤ人のアイデンティティの問題を扱った散文作家というイメージはさらに確たるものとなりつつある。
  • エルフリーデ・イェリネク『光なし』における合唱隊
    井上 百子
    2016 年 32 巻 p. 60-71
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
    エルフリーデ・イェリネクは今から四半世紀以上前に行われたインタビューで、主体と言語の不可分な関係を前提とする心理劇と自身の作品を異なるものと位置づけ、行いたいのは「もう一つの演劇」であると宣言した(1)。この発言の背景には、既存の演劇に更新を迫る彼女の急進さがなかなか理解され難かったという事情がある。彼女は、散文デビュー当初から心理を持った登場人物を描いてきたわけではない。ト書きを付し、役ごとに台詞の振られた戯曲であっても、配役名は抽象的で、特定の言説を担わされているに過ぎない。『雲。家。』(一九八八)以降は、ハイナー・ミュラーを彷彿させるような配役もト書きもない作品が発表されるようになる。演出家への挑戦状ともいえるような作品を解説するかのように、イェリネクは登場人物とは「発話からなるのであり、存在しているものからなるのではない」(2)と述べ、それ以後も「役者は発話することなのであり、発話するのではない」(3)と念を押している。「もう一つの演劇」 の中核をなすのは、言葉を発することだ。役者は発話を通じて生まれる。ここで通常、当たり前とみなされる役者の身体と発話の関係は切り離された(4)。作家による要請は観客にもおよんだ。「観客は聞こえることを舞台上に見るべきではない」(5)。これは調和のとれた知覚に対する批判的な見解だといえる。こうした「もう一つの演劇」との取り組みが現在のイェリネクの演劇テクストに脈々と受け継がれているならば、今日「もう一つの演劇」はいかなる様相をなして いるのだろうか。
  • 満留 伸一郎
    2016 年 32 巻 p. 72-73
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • 木村 裕一
    2016 年 32 巻 p. 74-75
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 32 巻 p. 76-87
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 32 巻 p. 88-92
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 32 巻 p. 93-99
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 32 巻 p. 98-99
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 32 巻 p. A1-A10
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 32 巻 p. Toc2
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
  • 2016 年 32 巻 p. Cocer2-Cover2
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/03/31
    ジャーナル フリー
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