南部さんとは私の東大の物理学科大学院特別研究生時代とプリンストン高等研究所(Institute for Advanced Study; IAS)のvisiting member時代の二度にわたる共同研究の機会があった.
南部力学と南部ブラケットは,通常のハミルトン形式の拡張として,南部が1973年に提唱した新しい力学形式である.その概要と意義を非専門家向きに解説する.また,弦理論およびM理論との関連,影響についても簡単に触れる.
南部の豊かな発想の源を求めて,2002年8月1日に筆者が南部と交わした議論を紹介する.その中に南部が最晩年に流体力学に取り組んだ芽がある.南部流体力学を説明しながら,次に南部は何をしようとしていたかを,浅薄を顧みず筆者なりに推察する.
物理系の量子状態を自在に操れるならば,多くの物理学者の願望が満たされるだけでなく,量子情報処理のような学際的な研究でも大いにインパクトがあるはずだ.しかし,量子状態は撹乱に弱いので正確な制御は容易ではない.ここでは,系に印加する外場を利用した断熱的な制御に着目したい.例えば,静止したスピンに平行な(古典)磁場を印加したあとで,磁場の向きを十分ゆっくり動かすと,これにスピンの向きが追随する.量子状態の断熱的な制御は概念的に簡明であると同時に頑健でもあると考えられている.
このスピンに断熱サイクルを施す.つまり,磁場を閉じた経路に沿って十分ゆっくりと一周させる.サイクルの最初と最後をくらべてスピンは変化するだろうか? 多くの場合スピンの期待値は元に戻るが,ベリーは波動関数に幾何学的な位相因子が現れることを指摘した.これは,微分幾何学的な解釈から量子ホロノミーとも呼ばれ,量子物理学の要所,例えば量子ホール効果の久保公式などに顔を出すことが知られている.
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いつでも断熱サイクルは量子系の期待値を元に戻すだろうか?
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多くの文献での想定とは異なり,この答は「否」だ.断熱サイクルの結果として期待値が元に戻らないことは,その背後にある量子系の定常状態が変化したことを含意する.つまり,そのようなサイクルは断熱的に系を励起させたり,あるいは逆にエネルギーの低い状態へと導く.もしくは,等価なことではあるが,複数の定常状態を断熱サイクルが交換させたと考えてもよい.この現象は,量子ホロノミーとの類似から「新奇な量子ホロノミー」(exotic quantum holonomy)と呼ばれる.この現象はスピン特有のものではなく,離散的なエネルギー固有値を持つより一般の物理系でも起き得る.
新奇な量子ホロノミーは一見すると意外で奇妙だが,とりたてて自然法則と矛盾するものでもない.むしろ,大半の基本的な例が前世紀には気づかれなかったことが奇妙なことのようにも感じられる.最初の報告例は一般化点状ポテンシャル下の質点である.その後,フロケ系(周期外場を受ける系),量子回路,量子グラフ等でさまざまな例が見いだされてきた.近年では Lieb-Liniger模型(一次元ボーズ粒子系)のような多体系での例も報告された.ただし,これらの例を実験で直接的に検証した報告はまだない.応用としては断熱量子計算の加速が論じられた.
具体例の探索と平行して,数理的な背景も明らかにされてきた.そこでは,サイモンや藤川が導入した幾何学的位相の理論的枠組みが引き継がれた.ここから,非エルミート系の量子論との繋がりも見いだされた.さらに,アハロノフ-アナンダン流の非断熱幾何学位相の,新奇な量子ホロノミーにおける対応物も発見された.
これらの結果から新奇な量子ホロノミーは,量子動力学に内在する位相幾何学(トポロジー)的な側面の一つだとみなせる.