ブラックホールとは,重力が極めて強く光すら脱出できない(つまり原理的に観測不可能な)時空領域である.そのため,既知のブラックホールと思われる天体は「ブラックホール候補天体」というのが正しい.
ブラックホールの定義に「重力が強くて光も脱出できない」とあるが,これは「光の軌道も重力で曲がる(質量をもたない光子にも重力が働く)」ことを意味する.このような挙動はニュートン重力では不可能なので,ニュートンの理論よりも正確に重力現象を記述する理論でなければブラックホールを理解できない.
現実の重力現象を正しく記述する理論の最有力候補は,一般相対性理論である.しかし,一般相対論の検証は,例えば太陽系の弱い重力場で実施されてきたが,もっと強い重力場での検証はまだ不十分である.そのため,一般相対論を修正したさまざまな修正重力理論も生き残っている.それら理論の中から最適なものを探す研究を,重力理論の「探査」ということにしよう.
重力理論の探査はこれまで主に,太陽系の弱い重力場と宇宙全体の規模の平均的な重力場でおこなわれてきた.星など個々の天体規模で,太陽系より強い重力場における重力理論の探査は,次の三つでようやく緒についたところである:(a)2015年に初検出された重力波イベント,(b)2018年に実現した我々の天の川銀河中心の巨大ブラックホール候補天体(いて座Aスター,Sagittarius A*,Sgr A*)の重力場に起因する重力ドップラー効果の検出,(c)2019年に成功したM87銀河中心の巨大ブラックホール候補天体の影の撮像.
このうち(b)はもっとも地味な研究だが,太陽の400万倍の質量をもつSgr A*を周回する星々(S-starsという)の観測を米国と欧州のグループが1990年代後半から始めた(これが2020年ノーベル物理学賞の50%になった).筆者(理論)と共同研究者(観測)も2013年から,すばる望遠鏡でS-stars観測を進めている.そして,観測技術の革新を経て,S-starsの一つの星S0-2がSgr A*に最接近した2018年に,S0-2から届く光の分光観測でSgr A*の重力に起因する重力ドップラー効果が測定できた.これは一般相対論と矛盾せず,ニュートン重力の却下を意味する.そして現在,重力理論の探査を計画中である.
一般相対論を始め多くの重力理論では,重力とは時空が曲がる効果だと考えて,時空の形を決める計量テンソルgμνを重力場とみなす.そして,Sgr A*周辺のS-stars観測による重力理論の探査でカギとなるのは,ブラックホール時空の計量gμνが含むパラメータをいかに測定データから決めるかである.一般相対論のブラックホール時空計量のパラメータは,ブラックホールの質量(ブラックホールに落ちた質量)と自転角運動量(重力場の向きが中心軸周りに回転する向きに傾く効果)である.修正重力理論では他にも未知パラメータや,計量とともに重力を担う未知の場も含む.こういったパラメータや場に観測データの測定精度の範囲で制限を付けることで,修正重力理論の可能性を調べることができる.
この研究はこれから深まっていくところであり,理論も観測も手がついていないテーマは沢山ある.興味をもった若手の皆さんの参加を大歓迎したい.
タンパク質は20種類のアミノ酸からなる高分子であり,その立体構造には生物学的に重要な意味が込められている.例えば,体内の生化学反応として重要な酵素反応を考えると,酵素タンパク質は結合する基質分子とぴったりと結合するように「設計」されている.これは「形」(分子の表面の様子)からも推察できるが,原子レベルで見ると,様々な原子間結合(水素結合など)が酵素基質間にうまく存在しているということでもある.よって,タンパク質の構造を原子レベルで調べることは最も重要であり,そのための実験手法(X線回折法,NMR,クライオ電子顕微鏡など)が開発されてきた.
一方,実験技術の進歩だけでなく,計算機の発展と相まって,分子シミュレーション法(分子動力学法ともよばれる)によるタンパク質の理解も進んできた.タンパク質の結晶構造を初期状態として(速度としてはマクスウェル分布を仮定して),古典的なニュートン方程式を原子に対して解くことにより,タンパク質の熱力学的な性質や動力学的な性質のかなりの部分はわかるのである.これはファインマンが教科書で述べたように,原子のjigglings and wigglingsから生体分子を理解しようとする試みである.
しかし,分子シミュレーションにも様々な困難が存在する.その一つは,タンパク質が機能を発現するときの構造変化の問題である.ある状態Aから別の状態Bに構造変化する際に,タンパク質は自由エネルギーのバリアを乗り越えて,ある状態から別の状態に遷移する.しかし,それは非常に時間のかかるプロセス(レアイベントともよばれる)であり,分子動力学法が不得意とする現象である.この問題に対処するために,ここ10数年で様々なアルゴリズム手法が発達してきているが,その中でもパスサンプリングの手法が有用である.
パスサンプリングにおいて,最も基本となるのは古典力学の最小作用の原理である.経路(パス)に対する作用を定義することで,ニュートン方程式を作用の「最小化」の問題に置き換えることができる.これは,始状態と終状態を決めた経路を計算するということであり,上で述べた状態AからBへの構造変化を考えるときは重要となる.しかし,タンパク質のような巨大な自由度をもつ系に対してはこれらの作用は使いづらいので,我々は経路を探すためにもっと簡便な手法を利用している.
その一つはストリング法とよばれる,経路を離散的に区分して最小自由エネルギー経路を求める方法だが,それを用いて酵素タンパク質や巨大な膜タンパク質の構造変化を捉えることができた.ただし,この手法は平衡統計力学に基づく手法であり,構造変化の動的な性質については直接的にはわからない.そこで我々は超並列計算を利用して,多数の粒子に重みをつけてパラレルに走らせる重み付きアンサンブル法とよばれる手法をいくつかのタンパク質に適用した.その結果,タンパク質の構造変化の時間スケールや構造変化が起こるときの軌道の動的な性質を突き止めることができた.
近年,低エネルギーの陽電子をTiO2結晶表面に入射すると,O+イオンが真空中に脱離する現象が観測された.この陽電子刺激脱離は,陽電子と内殻電子の対消滅によって引き起こされる.
電子や光子を固体表面に入射したときに,電子励起やイオン化を経由して起こる粒子の脱離は,表面科学の基礎的現象として古くから研究されてきた.特に,TiO2結晶表面におけるO+イオンの脱離は,内殻電子の励起やイオン化を初期ステップとするイオン脱離の典型的現象として,その過程が詳細に調べられてきた.内殻電子を励起・イオン化できるエネルギーをもつ電子や光子の入射によって固体表面を構成する原子の内殻軌道に正孔が生成すると,その不安定な状態が緩和する過程で原子内や隣接する原子との間で複数の電荷の移動が起こる.その結果,表面で生成したO+イオンが周辺のイオンとクーロン反発を起こして脱離する.内殻正孔状態が緩和する過程で生じるイオン脱離は,表面吸着種においても観測される.
一方,陽電子刺激脱離では,固体表面で入射陽電子が内殻電子と対消滅することによって内殻正孔が生じる.その状態の緩和過程においてイオン脱離が起こる点は,電子や光子の入射による脱離と同じである.しかし,陽電子が固体に入射してから消滅するまでの振る舞いが脱離の特徴として反映される.
固体内に侵入した陽電子は,電子と対消滅する前に様々な過程を経由する.電子との対消滅の断面積は,散乱断面積よりも遥かに小さく,入射陽電子は固体内で電子散乱やフォノン励起を繰り返して急速にエネルギーを失う.熱エネルギー程度まで減速した陽電子は,固体内を熱的に拡散した後に電子と対消滅する.数keVまでの比較的低い入射エネルギーであれば,陽電子の固体への侵入長よりも拡散長の方が長くなり,入射陽電子の多くは拡散中に表面まで戻ってくる.このような陽電子が表面にある原子の内殻電子と対消滅することで,イオン脱離が誘起される.
陽電子が電子と対消滅するのに入射エネルギーの消費を必要としないので,陽電子刺激脱離は入射エネルギーがほぼゼロでも起こる.また,拡散中に表面まで戻ってきた陽電子は,表面上に形成されているポテンシャル井戸に束縛されることで,表面層の電子と対消滅する確率が大きくなる.この表面局在性から,陽電子刺激脱離におけるO+イオンの収率は電子を入射した場合と比較して桁違いに大きい.さらに,陽電子は消滅するサイトを自ら選択するという性質をもつために,特定のイオン種の脱離が顕著になる.
陽電子入射に特有の脱離現象は,他の粒子を入射した場合とは異なる化学結合の切断や結晶構造の変化を固体表面にもたらすことを意味する.すなわち,陽電子刺激脱離過程の解明は,未解明である陽電子と固体表面の動的な相互作用の理解に繋がるだけでなく,陽電子ビームを用いた新たな表面分析法や表面微細加工法の開発に道を拓く可能性がある.
系の対称性やトポロジー,内在する相互作用により,電子状態が相対論的ディラック方程式で記述される物質が見出され,注目を集めている.このような準粒子はディラック電子と呼ばれ,光速近くまで加速された電子と同様に,エネルギーが運動量に比例する分散関係をもつため,通常の金属や半導体にない伝導特性を示す.三次元系ではビスマス,二次元系では単層グラフェンが好例であり,いずれの物質も伝導キャリアが外部擾乱に影響されにくいため,シリコンを凌ぐ高い易動度を有する.また磁場中では,ディラック点に固定された特異なランダウ準位が現れるため,グラフェンでは通常の「整数」でなく,「半整数」の量子ホール効果が発現する.
さらに最近では,固体中の様々な量子現象(磁性,強誘電性,電子相関など)とディラック電子のカップリングがもたらす新しい物理や物性も精力的に探索されている.例えば,磁性トポロジカル絶縁体薄膜での量子異常ホール効果や,空間反転対称性の破れや磁気秩序に起因するディラック電子を有する(半)金属での巨大な異常ホール効果(または熱流版の異常ネルンスト効果)が観測され,基礎と応用の両面から期待が高まっている.このため強相関ディラック電子系の物質開拓は急務とされているが,従来の系はそれぞれ独自の結晶・電子構造を有しており,単発的な発見であった.これに対し我々は,ブロック層の概念を利用することで,系統的に多彩なディラック電子系の開拓を行った.これまで,超伝導体や熱電物質などの幅広い層状物質においてブロック層の元素や構造を変化させることで,主要な物性を保持したまま,バンド幅や異方性などのパラメータ制御がなされてきた.筆者は,このブロック層の概念を適用できるディラック電子系として層状物質AMn X2(A=アルカリ土類,希土類,X=Sb,Bi)に着目した.本物質系は,ディラック電子を担うX -正方格子層とA2+–Mn2+–X 3-からなる絶縁ブロック層が積層した構造を有し,基本物質A=Srでは,スピン縮退した擬二次元ディラック電子がバルク状態として形成される.このため,Aサイトの元素を置換することにより,ディラック電子が磁性や極性(強誘電性)とカップルする物質を創製できる.
まず,スピンをもつEuでAサイトを置換した物質では,高易動度を保ったまま,Eu層の反強磁性秩序に依存して電気抵抗率が約一桁変化する.量子振動の解析とバンド計算の結果,Euスピンとの交換相互作用によりディラック電子バンドに大きなスピン分裂が誘起されることがわかり,微視的状態の変化も明らかとなった.
次に,Srよりもイオン半径が大きいBaでAサイトを置換した物質では,X -正方格子がわずかに歪み,面内方向に極性が生じる.この結果,スピン軌道結合により波数に依存したスピン分裂がディラック電子バンドに生じ,スピン・バレー結合状態が実現する.バルクにもかかわらず半整数量子ホール効果が観測され,X -層あたりのホール伝導度が,各バレーで完全スピン偏極した状態と整合する量子化を示すことが明らかとなった.
本物質系では,このようにスピン・バレー・トポロジーが相関する量子伝導をバルクで実現できるため,元素置換などによる系統的な制御を通じその物理を深化させ,さらなる新奇物性の開拓が期待される.