『大乗起信論』は染法と浄法が相熏相生して断絶しない様相を真如・無明・妄心・妄境界の四法の熏習を通じて論証する。真如の熏習は自体相熏習と用熏習の二種によって明かし、自体相熏習を無漏の法を具有して、不可思議業の作用によって境界の性となることを論じる。『釈摩訶衍論』は自体相熏習中に「用熏習」や「熏習」の語を付加した註釈を施す。また自体相熏習と用熏習の両者を法身自然熏習門・応化常恒熏習門とする理論を構築する。
用熏習者については、改めて縁相散示生解門として総説と別説の二方面から釈明する。まず総説で『釈論』は用熏習者を「用熏習とは」と、人格を有する「用熏習の者」とする解釈を試みる。用熏習の相について、慈行などは業用自在無礙門と縁熏習鏡の教説を示唆することになる。別説は有簡択縁と無簡択縁によって示される。即ち『起信論』にいう差別縁を有簡択縁、平等縁を無簡択縁と捉え直した論を展開し、無簡択縁は未入正位と已入正位の二門として説示される。未入正位では、十信の凡夫と一切の二乗と三賢の菩薩等は、未だに正体智や後得智を得ることなく、如理を証することもないと明かされ、已入正位では地上の菩薩が内に正体智を証得し、外に後得智を得て、一分の智用は正しく如来と等しく、本熏力によって自然に修行し真如を増長して無明を滅することが論じられる。
已入正位所説段の『釈論』(『大正大蔵経』所収)には、『起信論』(真諦譯)の引用文に差異がみられ、真諦譯にない文が挿入されている。問題となる引用文が、新譯の実叉難陀譯と酷似することは興味深いことといえよう。
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