文化資源学
Online ISSN : 2433-5665
Print ISSN : 1880-7232
15 巻
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論文
  • 坂口 英伸
    原稿種別: 論文
    2017 年 15 巻 p. 1-19
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/07/11
    ジャーナル フリー

    本論では鉄筋コンクリートの観点から、近代日本の記念碑研究に検討を加える。従来の記念碑研究が銅像を中心とした建設背景や制作者の分析であるのに対し、本研究は鉄筋コンクリートという構造と素材に主眼を置き、近代日本における鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生と発展を論じる。記念碑制作の担い手である彫刻家と建築家の関係に着目すると、鉄筋コンクリート造の記念碑が登場する道筋が明瞭となる。記念碑への鉄筋コンクリートの導入者は、西洋建築を学んだ建築家である。その応用の背景には、日清・日露戦争による大量の戦死者の存在があった。鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生期にあたる明治40年代、碑文を刻んだ平らな一枚岩を垂直に立てる従来の伝統的な記念碑に加え、戦死者の遺骨や霊名簿などの奉納が可能な内部空間を有する記念碑が必要とされた。内側に空洞をもつ複雑な形態の記念碑の建造には、専門知識と実用に秀でた建築家の関与が欠かせなかったのである。一方で彫刻家もコンクリートを率先して作品に摂取した。硬軟自在なコンクリートは、新たな美術素材として彫刻家の間に浸透、彫刻家は積極的に建築へ接近した。1926(大正15)年、彫刻と建築との融合を目指す彫刻家団体として構造社が誕生。設立者の日名子実三は、建築家・南省吾の監修のもとで《八紘之基柱》を設計、その総高約37mは1940(昭和15)年当時の日本で最大規模を誇った。鉄筋コンクリートという堅牢な構造の採用により、日本の記念碑はかつてないモニュメンタリティを獲得したのである。記念碑は記念事項の将来への伝達を目的に作られる。顕彰すべき事跡の長期的保持は、記念碑の物理的堅牢性に結び付く。記念事項をより長く伝えるためには、より強固な素材と構造が必要である。鉄筋コンクリート(Reinforced Concrete)は、文字通り「補強(reinforced)」を目的とした堅固な素材であり、記念碑の存続を維持するには最適の材料である。記念碑の構造に鉄筋コンクリートが採用された理由は、記念事項の永続性へ対する欲求にあったと結論づけられよう。

  • 李 知映
    原稿種別: 論文
    2017 年 15 巻 p. 21-33
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/07/11
    ジャーナル フリー

    1930年代の朝鮮における演劇活動は、日本の植民地統治期間であったにもかかわらず、戯曲の創作、演劇批評、そして公演活動が、それまでのどの時期よりも活発な活動を見せていた。活発な演劇活動を支えていたのは、如何なる要因であったのか。本論文では、その内最も大きな要因として、朝鮮総督府の手によって京城に設置(1935年12月10日開館)された「府民館(ブミンゴァン)(부민관)」に着目する。そしてとりわけ、主に「府民館」で公演を行なっていた劇団の一つである「劇芸術研究会(グゲスルヨングへ)(극예술연구회)」(以下、「劇研」)の演劇活動の考察を通じて、「府民館」と当時の朝鮮演劇界の関係性について明らかにすることを、本論文の目的とする。「劇研」の演劇活動は、第1期から第3期までに分けられるが、特に、第2期の主な活動は「府民館」にて行なわれた。「劇研」の方針は「翻訳劇中心論」と「小劇場優先論」に立脚していた第1期活動から、第2期活動での「観客本位」、「演劇専門劇団化」、「リアリズムを基盤とするロマンチシズム」の開拓などに主軸をおくという変化を見せる。その活動方針の変化の中心には、柳致眞(ユチジン)(유치진)という人物が大きく関わっていた。しかしそれだけではなく「劇研」の活動方針の変化を助長した要因、言いかえれば、活動方針の変化の前提になった大きな要因として、「府民館」が存在したのである。当時「府民館」の存在があってこそ、「劇研」の活動を通じて、柳致眞(ユチジン)の「観客本位論」を劇場という場で試すことが可能になった。また、大劇場での公演に適合する劇作技法と公演様式、そして演技方法に関する工夫と、その実践が可能となった。こうした「劇研」の「府民館」での活動を反映して、当時の演劇界にはさらなる動きが起こった。演劇や演技について生まれた新たな思想が、「府民館」の動きと競い合うようにして、当時の演劇界を盛り立てたのである。

研究報告
  • 新井 葉子
    原稿種別: 研究報告
    2017 年 15 巻 p. 35-48
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/07/11
    ジャーナル フリー

    本稿は、これまであまり整理されていなかった明治期の軍用空中写真撮影状況について明らかにする試みである。まず、日本初の空中写真撮影について整理するにあたり、「日本で初めて軍用空中写真の撮影が試みられたのはいつか」という問いと、「日本で初めて軍用空中写真の撮影が成功したのはいつか」という問いとに分けて考察する。次に、日本における空中写真画像の普及を検討するために、「日本で初めて空中写真を掲載した一般刊行物はどれか」、「日本で撮影された空中写真画像のうち、現存する最古のものはどれか」、「日本で空中写真が一般国民の関心を引くようになった時期はいつか」との問いを立てて、本稿執筆時点での結論を記述する。以上の5つの問いを通して、明治期に気球から撮影された軍用空中写真の来歴を整理するものである。

  • 筬島 大悟
    原稿種別: 研究報告
    2017 年 15 巻 p. 49-59
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/07/11
    ジャーナル フリー

    現在、UNESCOの世界遺産条約と無形文化遺産条約では、それぞれ遺産リストへの登録に必要とされる価値が異なっているが、その価値の解釈において両者は混同され、その結果条約の運用に混乱をもたらすようになっている。今後の両条約の円滑な履行のため、両条約の関係を明らかにして論点を整理することは重要となるが、本稿では、この価値規定とその解釈の変遷に焦点を当て、両条約の現在の履行の問題点を整理し、両条約の現在の履行の関係性について分析を行った。その結果、世界遺産条約では、資産の多様性を重視する方策を各国が政治的に利用した資産の登録を行うことで世界遺産としての価値の逓減を招き、条約の精神が無形文化遺産条約化していることが、またその一方で、無形文化遺産条約では、地域比不均衡問題の発生や価値の顕著性の付与など、その履行が世界遺産条約化してきており、両条約の精神や制度が相互に交錯している現状にあることが明らかになった。

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