文化資源学
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論文
  • 齊藤 紀子
    原稿種別: 論文
    2018 年 16 巻 p. 1-16
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/07/12
    ジャーナル フリー

    本論文では、ヴォーリズが住宅を設計する際に居間に備える調度品の1つとして想定していたピアノについて、(音楽の演奏を主たる目的とした場ではなく)日常生活を営む場にもち込まれたものとして捉え、生活文化のなかに位置づけることを試みる。ヴォーリズは、1905年に英語科教員として来日し、その後、教え子と近江兄弟社を興して滋賀県近江八幡を拠点に、関西圏や軽井沢をはじめ、日本国内各地に教会や教育機関、住宅などを設計した。近江兄弟社では、米国製ピアノやオルガンの輸入・販売も行っている。ヴォーリズは日本の音楽文化と深い関わりがあるが、音楽学の研究対象となることはなかった。 本稿ではまず、ヴォーリズの住宅設計観が表された著作『吾家の設計』と『吾家の設備』をもとに、ヴォーリズにとってピアノが家庭に音楽を囲むひと時をもたらすために必要な楽器であったことを整理する。そして、建築(文化)史の先行研究でヴォーリズが参照したとされるアメリカのインテリア雑誌“Architectural Digest”においても、居間にピアノを備えた住宅が繰り返し紹介されているものの、室内装飾の呈を示すピアノが多く、ヴォーリズのピアノに対する理念とは相容れないことを指摘する。 そのうえで、ヴォーリズの生い立ちに着目し、居間にピアノを備えるヴォーリズの住宅設計観の背景を、熱心なクリスチャンの家庭で育ったこと、米国で幼い頃から学校や所属する教会のオルガンを弾いていたこと、来日後も近江兄弟社の行事や設計を手がけた教会の献堂式で奏楽していたことに探っていく。ピアノを切り口にみていくと、ヴォーリズの住宅は建築学よりもアメリカンホームの文化史の概念に近いものであることがわかる。そして、ヴォーリズの住宅設計観にとり込まれたピアノは、ヴォーリズ建築研究者山形氏が提唱する「生活学としての住宅設計」に通じる、生活文化を担う1つの道具として捉えられる。

  • 渡邊 麻里
    原稿種別: 論文
    2018 年 16 巻 p. 17-33
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/07/12
    ジャーナル フリー

    1975年、歌舞伎座において、日本人のための日本語による、同時解説イヤホンガイドが導入された。現在、イヤホンガイドは歌舞伎公演に定着し、多くの観客が利用するようになり、歌舞伎において重要な地位を占めている。しかし、イヤホンガイドの実態や、誕生の経緯とその目的は、これまで明らかになっていない。そこで本稿では、イヤホンガイドの歴史を振り返り、歌舞伎におけるイヤホンガイドとは如何なるものかを改めて考えるため、1960年の歌舞伎アメリカ公演の際に導入された、イヤホンを用いた同時通訳に着目した。 この同時通訳は、当時ニューヨーク・シティ・バレエの総支配人であり、アメリカ公演で重要な役割を果たしたリンカーン・カースティンの発案によるものである。1960年以前、同時通訳は国際会議では利用されていたものの、舞台芸術においては、同時通訳ではなく、パンフレットや開幕前及び休憩時間における解説が主流であった。それでは何故、アメリカ公演において、歌舞伎に同時通訳が導入されたのか。その目的と経緯を、歌舞伎公演の前年の1959年に行われ、カースティンが関わった雅楽アメリカ公演や、歌舞伎アメリカ公演における演目選定を通して考える。また、アメリカ公演の同時通訳は、ドナルド・リチーと渡辺美代子の二人の通訳者により行われ、その同時通訳台本が残されている。この台本をもとに、当時上演された『仮名手本忠臣蔵』と『娘道成寺』の二つを取り上げ、同時通訳の内容がいかなるものであったのかを考察してゆく。

研究報告
  • 中川 三千代
    原稿種別: 研究報告
    2018 年 16 巻 p. 35-52
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/07/12
    ジャーナル フリー

    本稿では、フランス人美術商エルマン・デルスニス(Herman d’Oelsnitz)が日本で開催した展覧会活動について論じる。デルスニスは1922年から1931年まで、ほぼ毎年の仏蘭西現代美術展覧会と、その他大小さまざまな展覧会を開催した。更に1934年から3年間は、作品斡旋という形でフランス絵画を日本に紹介した。これら全期間を対象としてデルスニスの活動を明らかにする。まずデルスニスの関与した展覧会を分類整理する。その上で、主要な展覧会の実施体制、出品内容、入場者数などについて考察する。更に、三越、大阪朝日新聞社、国民美術協会の協力について考察し、展覧会を継続可能にした要因を論じる。1931年までの展覧会活動を3つの時期に区分し、その後の活動を加えて4つの時期区分とする。具体的にはデルスニスが個人で企画し、政府や美術団体の協力を得て開催した時期を初期とし、1924年設立の日仏芸術社を拠点として活動を拡大し、美術月刊誌『日仏芸術』の発行も併せて行った時期を中期とし、それ以降、日仏芸術社の閉鎖までを後期とする。更に、デルスニスの活動終了までを晩期とする。時期区分に従い仏展などの展覧会について特徴をまとめる。特に1934年にデルスニスの活動が復活できた要因として、教育機関、美術団体に属する多くの日仏芸術社時代の協力者との人的関係の重要性を明らかにする。本稿はデルスニスの展覧会活動について通観し、デルスニスと日仏芸術社が日本でのフランス美術普及に果たした役割を見直す基礎を与えると考える。

  • 辻 泰岳
    原稿種別: 研究報告
    2018 年 16 巻 p. 53-68
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/07/12
    ジャーナル フリー

    本論は発足した当初の国立近代美術館(現:東京国立近代美術館)とその特別展(企画展)の会場について検証する。戦前はもちろん戦後においても、日本には近代や現代といった名称を掲げるミュージアムは少ない。そのため占領期から1950年代には、新たに登場する近代美術館の活動とデパートメント・ストアや画廊、公園等を利用する芸術運動とが入り交じっていた。だが丹下健三や谷口吉郎といった建築家たちが「芸術の総合」という標語を掲げ、日本の国内外で開催された博覧会や展覧会の会場を設計していたことは次第に忘れられ、これまでの研究でも二次的に扱われてきた。また明治や大正、昭和戦前期、戦時下の博覧会や展覧会をひとつひとつ挙げるまでもなく、こうした対象を遡り考察しうることは自明である。しかしながらこうした時期を対象としてこれまで研究の成果が蓄積されてきた一方で、戦後の動向については具体的な検証がなされぬままにあり、それをどのように位置づけていくかについては課題となっている。そこで本論はこの観点から、戦後の建築や都市に関わる人々が関与した国立近代美術館の会場設計に焦点を当てる。またそのために本論は東京国立近代美術館に保管される特別展の調書をはじめとする先行研究で未検討の資料を用いて、展示空間を品物や作品などが並べられた物理的な拡がりとして読み解くことで、展示する施設あるいは制度を事物から捉える方法を示す。具体的にはまず、国立近代美術館の性格を規定する敷地の選定や建築物の改修、そして発足時の特別展を検証する。続いて同館で開催された一連の「現代の眼」展などを事例として取り上げることで、こうした特別展の作品や器物あるいは資料が、それをつくりだした作者によってだけではなく、ディスプレーを含めてどのように視覚化されたのかを会場から読み解いていく。

  • 土屋 正臣
    原稿種別: 研究報告
    2018 年 16 巻 p. 69-80
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/07/12
    ジャーナル フリー

    本稿は1960-70年代の市民参加型発掘調査がなぜ衰退し、今日までほとんど継続されなかったのかという点を明らかにしていく。これにより、今日の地域社会と発掘調査、埋蔵文化財行政の在り方の本質的な課題を浮き彫りにすることができると考えた。東松山市を中心とする埼玉県内の文化財保護をめぐる議論を事例として、この問題を検証した。その結果、保存運動は開発者による「上から」の圧力だけでなく、物質的豊かさを求める人々の「下から」の要求に沿わざるを得なかったことから、変質していったことを明らかにした。その変質とは、保存運動が単に遺跡の保存だけでなく、都市整備総体の中に遺跡を活かす試みを行っていたことにあった。このことから、本事例がまちづくり総体として遺跡を活かす議論を展開する上で重要な示唆を持つものと結論付けた。

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