帝国都市フランクフルトでは1525年の市民蜂起での要求を機に、1531年、市参事会が共同金庫を設立した。しかし、共同金庫は、市民蜂起での要求とは異なり、労働能力や労働意欲のある貧民「家住み貧民」を救済対象とした。 さらに共同金庫は、様々な事業も行うようになり、直接的な分配による救済さえも周辺的なものになっていったのである。この様々な事業に、子ども台帳の作成がある。これは、教会の出生記録を土台とした市民の管理と援助、市参事会による統治のインフラ形成でもあったといえる。そして、共同金庫の事業として貸付が挙げられる。貸付による援助の基準は、担保の預け入れと返済能力の有無であった。また、貸付は生活基盤の援助ではなく、資産のある市民へのある種の投資を主な目的としたと考えられる。 このように、フランクフルトにおける共同金庫の運営の実態から、救貧自体が市民の労働を期待する投資的側面を有していたということができるだろう。
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