映像学
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最新号
選択された号の論文の16件中1~16を表示しています
巻頭エッセー
論文
  • 鷲谷 花
    2019 年 102 巻 p. 31-53
    発行日: 2019/07/25
    公開日: 2019/11/19
    ジャーナル フリー

    1949 年の「ドッジ・ライン」実施に伴う失業危機への対策として開始された失業対策事業に就労する失対労働者たちは、「ニコヨン」の通称で呼ばれた。失業者でもあり、最低所得労働者でもある「ニコヨン」は、戦後日本の人権・貧困・労働問題の凝縮した表象として、1950 年代の映画・幻灯など「スクリーンのメディア」にたびたび取り上げられた。戦後独立プロダクション映画運動の嚆矢としての『どっこい生きてる』(1951 年)は、失対労働者の組織的協力を得て製作され、初期失対労働運動の原点としての「職安前広場」という空間の記録という機能も担った。失対労働者による文学運動の成果としての須田寅夫『ニコヨン物語』を原作とする同名の日活映画(1956 年)は、左翼組合運動からは距離を置いた視点から、失対労働者にとっての「職場」の形成と、そこでの労働組合の功罪相半する意味を映し出す。また、失対労働者たちが自作自演した幻灯『にこよん』(1955 年)は、屋外労働者・日雇労働者を男性限定でイメージする通念に抗して、失対事業における「女性の労働問題」を物語った。失対事業における「女性の労働問題」への問題意識は、望月優子監督の中編映画『ここに生きる』(1962 年)にも引き継がれる。「ニコヨン」と呼ばれた失対労働者は、労働運動・文化運動の一環として、「スクリーンのメディア」における自分たちの表象に主体的に関わり、敗戦以降の日本における失業・貧困・労働をめぐる意味の形成の一端を担ってきた。

  • 桑原 圭裕
    2019 年 102 巻 p. 54-74
    発行日: 2019/07/25
    公開日: 2019/11/19
    ジャーナル フリー

    アニメーション制作の現場では、動画と音の同期に関して「動画は音より2フレーム前にすると仕上がりが良い」という「動画先行の原則」が語られてきた。たとえば映像と音楽の一体をテーマに 1929 年から 10 年間にわたって制作されたディズニーの短編アニメーション映画シリーズ「シリー・シンフォニー(The Silly Symphony)」の諸作品をコンピューターで解析すると、確かに時代がくだるにつれて動画を先行させるようになってきた事実を確認することができる。しかし、この動画先行の原則は、あくまで映像制作者たちの経験則に基づいており、その科学的な根拠はこれまで十分には解明されてこなかった。実写かアニメーションかを問わず映像制作の現場において、我々が映像と音を知覚する際に双方のずれを感ずるのは、3 フレーム以上、時間にしておよそ 0.1 秒以上といわれている。したがって、「動画先行の原則」について論じるためには、感覚刺激が脳に到達するまでの問題として知覚心理学の理論を援用する必要がある。

    本稿の目的は、このようなフレーム処理が一部の実制作の現場で採用されるようになった経緯の背景にある理論的根拠を提示するとともに、このように時間を先取りする手法が、アニメーションに限らず映像全般において、その芸術としてのダイナミズムをもたらしていることを、具体的な作例の分析を通して明らかにすることにある。

  • 早川 由真
    2019 年 102 巻 p. 75-93
    発行日: 2019/07/25
    公開日: 2019/11/19
    ジャーナル フリー

    本論文の目的は、縫合理論を手がかりに、リチャード・フライシャー『見えない恐怖』(See No Evil, 1971 年)における不可解なショットの分析を通じて、殺人者というキャラクターの生成(およびその不成立)のメカニズムを明らかにすることである。このフィルムにおける不可視性を活かしたサスペンスは高く評価されてきたが、クライマックスにおいてキャメラが水中からジャッコを見上げる不可解なショットに関しては、暴力や死の不可視化に関連しているにもかかわらず、これまでに論じられてこなかった。そこでまず、盲目の主人公・サラの「視点」を示すかのようなこのショットを、エドワード・ブラニガンの議論を手がかりに、〈盲者の視点ショット〉ととらえる視座を導きだす(第 1 節)。次に、縫合理論をキャラクターの生成という観点から整理しつつ、顔の見えない殺人者がクライマックスの直前でブーツをわざわざ脱ぐために、ブーツとジャッコの顔がいちども同一画面に映りこまないという事実を指摘する(第 2 節)。そして、殺人者の現れ方を分析していく過程で、ブーツとジャッコの顔の結びつき、すなわち〈身体の縫合〉には綻びがあり、ジャッコは殺人者というキャラクターとしてうまく成立しないことを明らかにする。最終的に、水中からのショットにおいては、不可視であるはずの殺人者の顔が不在(無)として画面上に露呈するという複雑な事態が生じていることが浮かびあがってくる(第 3 節)。

  • 大谷 晋平
    2019 年 102 巻 p. 94-114
    発行日: 2019/07/25
    公開日: 2019/11/19
    ジャーナル フリー

    本論は 1950 年代から 1960 年代にかけての松本俊夫と羽仁進の映画活動原理の違いを、権力と個人の関係における態度の差異を読み解くことで明らかにするものである。彼らは共に 1950 年代に映画制作を開始し、新たな映画表現の探求を積極的に行っていたが、その背景には、複雑な現実を捉えるための新たな方法の探求が当時の表現者全体の課題であったという状況がある。

    第一節では、それらの課題が花田清輝や安部公房らを中心としたアヴァンギャルド芸術運動を通して、芸術と政治の優位性、権力に対する作家の態度など様々な観点を含むリアリズムの問題として当時の表現者たちに共有されていったことが明らかにされる。松本や羽仁を含む一部の新しい世代の映画人たちはその芸術運動と関わり、問題意識を共有していく。

    第二節では、松本の前衛記録映画論を考察する。彼は、日本共産党が記録映画を利用していたことを批判し、観客を啓蒙する映画ではなく、その感性に訴えて固定観念を破壊する作品作りを目指したのである。

    第三節では、羽仁進の映画論を明らかにした上で松本の前衛記録映画論との差異について考察する。羽仁は、カメラを通して人物を「凝視」することで、その人物を取り巻く環境やその人物内部に起因する不自由さの発見を目指した。ただ、それらの発見を伝える羽仁の作品は松本に批判される。最後に、その批判を考察の切り口にして、両者の差異を明らかにする。

  • 築地 正明
    2019 年 102 巻 p. 115-136
    発行日: 2019/07/25
    公開日: 2019/11/19
    ジャーナル フリー

    本稿では、ジル・ドゥルーズ著『シネマ 1』、『シネマ 2』における「記号(signe)」概念に焦点を当てた考察を行う。それは、この概念が『シネマ』全二巻における本質的な要素をなしており、ドゥルーズによる「記号」概念の理解と、『シネマ』全体の理論に対する包括的視点を得ることとは、分けて考えることができないと思われるからである。またそれに加えて、ドゥルーズの提起した「記号」の理論は、古典的な映画研究にとどまらず、広く映像理論領域においても、今なお普遍的な価値を有していると考えられる。すでにこれまでにも、『シネマ』の批判的な分析の試みは、多くの理論家によってなされてはいる(1)。しかしながら、特にこの「記号」という点に関しては、必ずしも包括的な論述はなされてこなかったように思われる(2)

    それゆえ本稿では、ドゥルーズが、アメリカの論理学者 C.S. パースの記号論、およびフランスの哲学者アンリ・ベルクソンのイマージュ論から引き出し、発展させた自身の新たな記号論と、クリスチャン・メッツの提起した言語学を基礎とする記号学とを対決させている、『シネマ 2』第 2 章の精読を通じて、この概念の重要性とその独特の性質を明らかにすることを試みたい。

  • 今井 瞳良
    2019 年 102 巻 p. 137-154
    発行日: 2019/07/25
    公開日: 2019/11/19
    ジャーナル フリー

    本稿は、白川和子が主演した日活ロマンポルノの団地妻シリーズ『団地妻昼下りの情事』( 西村昭五郎監督、1971 年 ) と『団地妻 しのび逢い』(西村昭五郎監督、1972 年)の分析を通して、「団地妻」が「密室に籠る団地妻」からの解放を模索していたことを明らかにする。団地妻は憧れのライフスタイルであるとともに、社会から隔絶され、孤立した「密室に籠る団地妻」としてイメージされてきた。ところが、団地妻イメージとして絶大な影響力を持った白川主演の「団地妻映画」は、「密室に籠る団地妻」からの解放を模索する「団地妻」と、会社に組み込まれた不安定な「団地夫」の夫婦を定型としている。「団地妻映画」は、「密室に籠る団地妻」というイメージにはあてはまらない作品であったのだ。ところが、結婚して本物の団地妻となり引退した白川和子は、「団地妻映画」と「密室に籠る団地妻」という相反するイメージを接続させ、遡行的に団地妻イメージの起源となっていく。白川が「団地妻」を演じた『昼下りの情事』と『しのび逢い』は、「密室に籠る団地妻」からの解放を模索する「団地妻映画」であったにもかかわらず、団地妻イメージの起源として捏造されたのである。

  • 駒井 政貴
    2019 年 102 巻 p. 155-173
    発行日: 2019/07/25
    公開日: 2019/11/19
    ジャーナル フリー

    フランスでは 1908 年にフィルム・ダール社が映画の製作を開始して以降、映画の芸術化を標榜してきた。しかしながら、ルイ・ドゥリュック等がアメリカやスウェーデン映画と比べ自国映画の後進性を映画批評において指摘した時、何が欠けていると考えたのだろうか。ドゥリュックが自ら監督をした時に、どのような要素を、フランス映画に導入しようと考えたのかということを、ここではドゥリュックの戯曲や、第一次大戦中から書き始めた小説を分析しながら考察した。

    戦前には演劇批評や劇作をしていたドゥリュックは、第一次大戦が勃発すると、戦争に対しての反対意見を表明するための小説を書き始めた。ドゥリュックの小説を読むと、一人称での語りや小説での様々な形式を試みており、ドゥリュックは演劇出身でありながら、小説の方法を積極的に取り入れ、小説を書いたことが分かる。後にドゥリュックは映画を製作した際、小説を書くことでドゥリュックが得ることになったこれらの方法を、映画批評を通してアメリカ、スウェーデン映画から学んだ映画技法を使い、自作の映画に取り込み、フランス映画を新しい局面へ導いたと考えられる。

    上記の観点から、第一次大戦中から小説の執筆を始め、映画を意識的に見始めるようになったドゥリュックの文学と映画にどのような影響関係があったのか考察する。

  • 雑賀 広海
    2019 年 102 巻 p. 174-194
    発行日: 2019/07/25
    公開日: 2019/11/19
    ジャーナル フリー

    本論文は、『ブレード/刀』(1995)における監督ツイ・ハークの主観性について論じる。本作について先行研究が注目するのは、その難解な物語と暴力的な映像表現である。後者の暴力性に関しては、カメラの視線が客観的に事物を捉えることで、世界がリアリスティックに描写され、それが暴力的に映ると指摘される。ツイ・ハーク自身、本作では「ドキュメンタリー的撮影」を試みて、「真実らしく」見えるようにしていたと述べる。しかし、その難解な物語構造に注目すれば、主人公の女性のボイス・オーバーが語る主観的な物語であることは明白である。本論文はまずこのボイス・オーバーの声の身体性に着目し、これが非身体的領域と身体的領域の間で揺れていることを示す。次に、この身体性の揺らぎが人間と動物の境界の揺らぎに接続することを論じる。そして、本作のクライマックスでは、この不安定な身体を捉えるカメラもまた主観性と客観性の間に位置することになる。こうして、本作は彼女の声とカメラの視線を軸として、男性/女性、非身体化/身体化、人間/動物、主観/客観、といった二項対立を設定しつつも解体し、無秩序な混乱状態に観客を導く。以上の映像分析からは、ボイス・オーバーの声とカメラの視線を通じて、監督の主観性が動物的で女性的な身体感覚となって物語世界のなかに現前してくることが明らかとなる。この身体化の現象によって、本作は監督の主観性のもとに置かれる。

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