映像学
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104 巻
選択された号の論文の25件中1~25を表示しています
巻頭エッセー
論文
  • 具 慧原
    2020 年104 巻 p. 31-50
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    小津の「日本的なもの」は、彼の戦後作品が1970年代にアメリカの論者たちによって伝統的なものと解釈されて以来、盛んに議論された。しかし従来の研究は主に表象の分析に偏っているため、小津を初めて「日本的」と評価した1930年代の議論の全貌は十分に検討されていない。従って本稿は言説史的方法論を取り入れ、小津安二郎の「日本的なもの」が1930年代の日本国内においてどのように論じられたかを批評言説に即して考察し、当時に言われた「日本的なもの」という概念の内実を明らかにすることを目指す。第一に、小津に対する「日本的」という評価の出現を確認する。その上で、こうした評価を起こした三つの要因として、『出来ごころ』に見られる変化や小津の小市民映画を重視する批評家の態度、そして「日本的なもの」を話題にする日本映画批評の全体的傾向を提示する。第二に、これらの要因を踏まえながら、今村太平、北川冬彦、沢村勉の論稿を彼らの批評的立場に即して検討する。これを通して小津の「日本的なもの」は「二次元性」「腹藝・靜」「文化的混淆」として捉えられ、さらにそれらは伝統的なものに限定されておらず、小津の同時代の監督が共有するものとしてみなされたことを示す。その結果、小津の生きていた時代の日本国内における「日本的なもの」の議論は、その始まりからアメリカの短絡的な議論とは全く違い、一層複雑な様相を帯びていることが明らかになる。

  • 長谷 憲一郎
    2020 年104 巻 p. 51-72
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    近代日本における染色業および紡績業の発展に尽力した稲畑勝太郎が、リュミエール兄弟と日本での独占契約を締結し、実施したシネマトグラフ事業とは、いったい何だったのだろうか。本稿は2017年に筆者が発掘した新資料稲畑勝太郎のリュミエール兄弟宛て書簡4通(1897年)によって新たに判明した五項目にフォーカスし分析した。事業の背景には映画装置の渡来直前の明治後期、古都京都において第四回内国勧業博覧会が開催され、博覧会やパノラマ館、幻燈興行といったスペクタクルが消費され、受容されていた環境があった。実業家の稲畑は、野村芳国と横田永之助のスクリーン・プラクティスに基づく視覚的実践の経験に着目し、映画興行および映画撮影を成功させるべく二人に協力を要請して彼らの経験を有効に活用した。リュミエール兄弟のサポートはもちろんのこと、彼らのような興行者の協力を得ることで、稲畑のシネマトグラフ事業は、映画が単なる映写機でも撮影機でもなく、現実世界を自動的に再創造し、イリュージョンを生み、時空間をも越えさせる装置であることを見事に示したのだ。本稿は、日本における映画前史と映画史を接続させたという点において、稲畑は日本映画史に極めて重要な役割を果たしたと結論づけた。

  • 河野 真理江
    2020 年104 巻 p. 73-94
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    本論文は、日本における「メロドラマ」の概念を探求する。「メロドラマ」は、“melodrama”の旧来からの翻訳語であるが、フィルム・スタディーズにおけるメロドラマ概念の浸透によって、現在その意味は曖昧になっている。そもそも“melodrama”がいつ日本語文脈に受容されたのかは明らかになっていない。メロドラマ映画にかんする先行研究を踏まえつつ、この「メロドラマ」の実態を明らかにすることが本論文の目的である。

    “melodrama”の日本語文脈への導入は、1870年代の翻訳辞典に始まり、当初はしばしば「歌舞伎」と訳されていた。1880年代には洋行者たちが「メロドラマ」の観劇体験を報告するようになり、1910年代にその知識は演劇関連の学術書に応用された。1920年代、メロドラマの言説は、映画にかんするものに集中していき、この言葉の意味は地域言語的なものへと変容していく。1930年代には、「メロドラマ」は通俗的、感傷的な劇を指す言葉となり、女性映画を含む日本映画のジャンルの一つとしても理解されていった。

    主な論点は以下の二点である。

    1. メロドラマと日本文化との出会いは、19世紀後半に位置する。

    2. 日本における「メロドラマ」はその固有性ばかりでなく、メロドラマ概念の普遍性を実証する。

  • 今井 瞳良
    2020 年104 巻 p. 95-113
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    本稿は、日活ロマンポルノの団地妻シリーズが性別役割分業を前提とした「団地妻」イメージの起源でありながら、固定化された「団地妻」言説を批評するシリーズでもあったことを明らかにする。ロマンポルノ裁判をきっかけに興隆した映画評論家や批評家によるロマンポルノ言説は、低俗な娯楽とみなされるロマンポルノを称揚するために、芸術的創造の主体としての監督を必要とした。そのため、複数の監督によって製作された団地妻シリーズが批評的な評価を得ることは、ほとんどなかった。ところが、団地妻シリーズの第1作『団地妻 昼下りの情事』(西村昭五郎監督、1971年)は、専業主婦として家にいる女性と仕事で通勤している男性を分割するジェンダー化された空間である団地を舞台に、性別役割分業を前提とした中流階級の安定性を支える高度経済成長期以後の戦後史の語りに組み込まれることで、「団地妻」イメージを室内で退屈する専業主婦として固定する「団地妻」言説を生み出していった。しかし、その後の団地妻シリーズは人気シリーズとしてマンネリの打破やメディア状況の変化、他社製作などに対応しながら1971年から1987年まで全29作も作り続けられたことによって、多様な「団地妻」を描き出し、固定化された「団地妻」言説に対する批評性を獲得していることを明らかにした。

  • 阪本 裕文
    2020 年104 巻 p. 114-136
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    映画監督・映像作家の松本俊夫は前衛記録映画論を提唱し、新理研映画に在職していた期間(1955~1958)に実質的な初監督作品として『銀輪』(1956)、正式な監督作品として『マンモス潜函』(1957)、『伸びゆく力』(1958)、『日本原子力研究所第二部——JRR-2』(1960、松本の参加は1958年末まで)を監督した。これまで『銀輪』以外の作品は所在不明であり、新理研映画時代の松本の仕事は不明な部分が多かった。しかし本論に係る調査により『マンモス潜函』と『日本原子力研究所第二部』は現存が確認され、『伸びゆく力』は別の監督によって改作された改訂版の現存が確認された。本論はこれら新発見作品を主な分析の対象とする。まず第1節にて、新理研映画時代に併行して起こった教育映画作家協会での政治的論争と新理研映画の労働争議が、松本の中で結びついていたことを論証する。続く第2節にて、新発見作品の演出を個別に分析し、前衛記録映画論を提唱する以前の松本の映画の中に、前衛的な記録的手法の兆候があったことを論証する。最後に第3節にて、実験工房とのコラボレーションである『銀輪』の中で、松本の演出が強く表れている箇所を分析し、『銀輪』と新発見作品の間に連続性が存在することを論証する。これにより本論は、前衛記録映画論の形成過程を明示するという目的を達成する。

  • 茂木 彩
    2020 年104 巻 p. 137-157
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    フランスの映画監督クレール・ドゥニの作品の大きな特徴は、その不可解さにある。しばしば心理的な説明が欠如し、間接的な仕方で物語理解に必要な情報が観客に与えられる。その遠回しな表現には、意味を遅延させ明白な結論を妨げる不透明さがある。本稿では、このようなドゥニの作品の不透明性をめぐり、『ネネットとボニ』(1996年)における電話や匂い、水面、ガラスといったモチーフを手掛かりに、登場人物間のコミュニケーションの問題を明らかにするとともに、それを観客とイメージの関係へと敷衍して考察を行う。まず電話は、偽造されたテレホンカードによる無作為なつながりを形成することで物語の中心をずらすとともに、主人公の家族の血縁的なつながりの断絶を強調する。次に水面は、物語終盤に起こる主人公ネネットの中絶未遂や家族の過去の秘密を暗示する。水面はまた、中絶未遂の場面で、浴室のガラスへと引き継がれる。ガラスは、浴室からの異臭に気づき、妹を助けようとする兄ボニおよび観客とネネットとの間に視覚的な不自由さをもたらすだけでなく、ネネットの赤ん坊をボニが誘拐する場面で、防音ガラスのようにも機能し、場面の劇的効果を減じる。このようにドゥニは、ガラスを活用して視聴覚的な障壁を観客との間に築く。観客をイメージから遠ざける一方で、その触感的視覚性によって、イメージに対する観客のより一層の注意をも喚起する。容易かつ即時的な理解を回避させること。そこには、イメージに対する観客の自発性を求める監督の姿勢が垣間見える。

  • 田中 晋平
    2020 年104 巻 p. 158-178
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    本論は、小川プロダクションによる映画『どっこい!人間節 寿・自由労働者の街』(1975年)の上映活動がどのように展開されたのかを検討する。1960年代末から成田空港建設反対闘争の現場となった三里塚を記録してきた小川プロが、次に映画撮影に選んだ空間が東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と並ぶ日本三大寄せ場と呼ばれた横浜・寿町だった。小川プロのスタッフは、寿町に住み込み、日雇労働者らのインタビューを行い、失業者たちが無事に冬を越すため、寝る場所や炊き出しを確保する「越冬」の様子などを記録した。

    『どっこい!人間節』の上映の詳細については、公開当時に小川プロが発行していた『小川プロニュース』などの資料に基づき、調査を進めた。本作は、その上映を介して、不況下の寿町における厳しい現実を各地域に伝え、野宿者への新たな支援運動を生むなど、メディアとしての役割を担ったといえる。また会場は祝祭空間のように演出され、上映だけでなく、寿町の住人を撮影した写真の展示、映画に登場するミュージシャンの演奏も行われた。ただ、公開時における上映の方向性も要因となり、『どっこい!人間節』が記録した寿町の住人たちの生の形式に、これまで議論が及ぼされてこなかったのではないかという問題提起も本論では行う。

  • 安部 孝典
    2020 年104 巻 p. 179-197
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    フランソワ・トリュフォーの映画で描かれる人物の死は、写真や肖像画のような不動化されたイメージとしばしば関連づけられ論じられてきた。しかし、トリュフォー作品に見られる死のイメージは静的なイメージだけではなく、ある種の運動状態にあるイメージとも結びつく。本稿は、機械的な動きに代表される動的なイメージが人物をさらに死へと駆り立てる場合があることに注目して、トリュフォー映画における死のイメージを再考するものである。

    まず、先行研究を追いながら、写真撮影が人物の死を導く場合に写真の不動性が死の不動性と結びつく例と、そうした写真に宿る死の不吉さをふり払うものとしての蝋燭の炎の例をそれぞれ確認する。また、さらなる不吉さを写真に与える行為としての、写真の切断によるフレーミングの多重化について考察する。

    つづいて、不動性と死という従来のトリュフォー映画の死のイメージの図式を拡張するために、写真以外のモチーフと死が結びつく例を分析する。具体的には、第二のフレームとしての鏡と、人物の擬似的な彫像化の関係について、イメージの二重化というキーワードを基に検証する。

    最後に、無重力状態からの落下という運動を手がかりに、動きのあるイメージに導かれる人物の死という新たな観点を提示する。また、そうした可動性が死と結びつく例をさらに敷衍して、回転するイメージにおける機械的な自動性について考察する。

  • 森田 のり子
    2020 年104 巻 p. 198-218
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    本論はアジア・太平洋戦争期の日本において、それまで左翼思想を背景とした記録映画の表現方法に取り組んできた作り手らが、戦時国策プロパガンダの要請に対して自らの議論と製作実践をどのように変容させていったのかという問題を、「主観」的表現という論点に着目して考察するものである。具体的な対象として、当時国内最大のドキュメンタリー映像分野の国策映画製作会社であった、日本映画社の撮影技師・坂斎小一郎と演出家・桑野茂の両活動に照準する。

    まず、1940年代初頭までに記録映画の表現における「主観」「客観」の関係性をめぐる議論と実践が充実していたことを確認した上で、アジア・太平洋戦争期になると国民としての「主観」を持つ「戦記映画」が求められていったことを論じる。こうした状況のなかで、『陸軍航空戦記 ビルマ篇』(1943)の撮影を担った坂斎は戦地の現実に向き合うこと自体に積極的意義を見いだしたものの、完成作品はその認識とギャップを呈していた。一方、『基地の建設』(1943)の演出を担った桑野は、戦争当事者の立場で想定したような現実に対面できなかったことで、結果的に自らの認識を生かした作品を手がけることとなった。それぞれの条件の下で異なる展開をたどりながら、両者とも表現する主体としての「作家」であろうとする問題意識に基づき、自らの左翼思想によって培った「主観」と戦時国家に要請される「主観」とを接続しようと試みたことを明らかにする。

  • Elise VOYAU
    2020 年104 巻 p. 219-241
    発行日: 2020/07/25
    公開日: 2020/08/25
    ジャーナル フリー

    In the 1970s, Japanese photography underwent crucial changes, which allowed it to grow into a significant field in today’s global art scene. By comparing a major photographic series of the time——Fukase Masahisa’s “Ravens” (1976-1982)——and the activities of the Workshop School of Photography (1974-1976), this article suggests that these changes materialized around the concept of the original print, and the passage from the printed medium to the exhibition medium. From here this article particularly seeks to understand the theoretical context of the debates that these changes sparked in post 1968 Japan.

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