映像学
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選択された号の論文の8件中1~8を表示しています
論文
  • 田口 仁
    2023 年 109 巻 p. 5-26
    発行日: 2023/02/25
    公開日: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    足立正生を中心に製作された映画『略称・連続射殺魔』(1969年)は、連続射殺事件の犯人として逮捕された少年永山則夫のドキュメンタリー映画である。『略称・連続射殺魔』は一般に松田政男を主唱者とする「風景論」と一対のものとして考えられ、同作を扱うほぼ全ての論考において、映画は「風景論」の絵解きとして解釈されてきた。だが、「風景論」は映画の製作について手法を指示するものではなく、映画にその理念が実現されていたとすれば、同作が製作から5年もの間封印されたことの理由にも疑問が残る。本稿では、この映画について作品の実態に即したカット分析と同時代の文化史的な文脈を参照した分析を行うことでその特質を明らかにし、60年代の制度批判的芸術表現総体との関連において位置づけ直すことを試みる。

    まず第一節では議論の前提となる「風景論」の左派運動的制度批判と永山則夫の人生物語との関係を整理し、次いで第二節では「風景論」を映画に反映的に読みこむ既存の解釈と対照してショット分析を示すことで、映画が実際には永山の個人性に寄り添うナラティヴを展開していたことを明らかにする。最後に第三節では、足立の実験映画作家としてのキャリアと赤瀬川原平を中心とした人的交流から、『略称・連続射殺魔』の封印の理由を分析し、同作をエクスパンデッド・シネマとして解釈することで、むしろこの封印の行為こそが「風景論」の左派芸術運動的な側面の表現であったことを示す。

  • 三浦 光彦
    2023 年 109 巻 p. 27-48
    発行日: 2023/02/25
    公開日: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    本稿では、ロベール・ブレッソンの1951年の作品『田舎司祭の日記』に関して、物語論と演技論の観点から分析を行う。『田舎司祭の日記』において物語がどのように語られているか、物語と演技がいかに結びついているかを精査した上で、テクスト外の現実の作者であるブレッソンとテクスト内の語り手とがどのような関係を結んでいるのかを明らかにすることが本稿の目的である。まず、テクスト外の現実がテクスト内のフィクションに作用する次元を物語論的観点から論じているエドワード・ブラニガンの理論の有用性を示した上で、映画公開当時、ブレッソンがどのような社会的・歴史的状況に置かれていたかを概観し、それが物語理解にいかに作用するかを考究する。次いで、一見、司祭の一人称による語りに見えるこの映画が実際には、司祭とは別のもう一人の語り手を想定する必要があること、そして、司祭による語りと別の語り手による語りが混同していることを、テクスト分析を通じて明らかにする。その上で、こうした語りの構造が映画における役者たちの発声の仕方と結びついていること、さらに、演技指導を通じてブレッソンという現実の作者がテクスト内の語り手に限りなく接近していることを詳らかにする。最終的に、ブレッソンという現実の作者が『田舎司祭の日記』において、「不可視の語り手」としてあたかも映画全体を語っているかのようにテクスト全体を構造化していると結論づける。

  • 常石 史子
    2023 年 109 巻 p. 49-67
    発行日: 2023/02/25
    公開日: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    無声映画は、タイトル(中間字幕)を入れ替えるだけでさまざまな言語の版を作成できる、際立って国際性なメディウムであった。染色・調色・ステンシルカラーといった無声映画特有の着色は、色変わりごとにスプライス(つなぎ目)が生じるのが難点だったが、タイトル挿入のための編集作業が必要な状況ではさほど障害にならず、豊かに花開いた。着色された各断片とタイトルを組み合わせて上映用プリントを1本ずつ手作業で仕上げるポジ編集のプロセスは、ドイツ語圏においては1920年代前半まで主流だった。

    1920年代半ばから後半にかけて、機械現像の導入と扱えるフィルムの長さの伸長により、上映用プリント1巻分をスプライスなしに仕上げることが可能になった。またネガの複製に特化したフィルムの登場で、単一のオリジナルネガから各言語版のネガを複製しても十分な画質が得られるようになった。こうして近代的なネガ編集のシステムが完成すると、これにともなって着色はポストプロダクションのプロセス全体を阻害する要素となり、色変わりの頻度は減少した。単色染色は部分的に残ったが、やがて完全に消滅する。

    そしてこのネガ編集こそ、1929年前後に起こったトーキー化の必須条件だった。トーキー化は音声の記録のみに関わる技術革新ではなく、映画フィルムを手工芸品から工業製品へと変貌させる、編集、複製、現像それぞれの領域における数年がかりの歩みがあってこそ、はじめて可能になったのである。

  • 中島 晋作
    2023 年 109 巻 p. 68-88
    発行日: 2023/02/25
    公開日: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    本論文は、増村保造の映画に現れる空間の特殊性を考察する。増村の映画には、男女間の非対称な権力構造を内包した閉ざされた空間が頻出する。これまでの増村に関する批評では、そのような空間の持つ閉塞性を打破する存在として、俳優、特に女性の身体に着目した論考が多かった。とりわけ、増村の多くの映画で主演として存在感を放った若尾文子が、増村映画を論じる際の重心として、論者の関心を引いてきた。本研究では、増村保造の映画における、男女を閉じ込める閉ざされた空間としての「閉域」に着目し、このような閉域が映画にどのようなかたちで現前しているのかを分析する。

    まずは、『盲獣』(1969)の美術セットによる特異な「閉域」の存在に着目する。この映画と江戸川乱歩による原作小説との差異の分析を通して、映画においては閉域を満たす暗闇が強調されていることを明らかにする。また、やはり閉域の暗闇を胚胎する『音楽』(1972)においては、閉域の暗闇が、その外部空間へも拡張することを論証する。これらの映画を分析することによって明らかになるのは、増村の映画空間における暗闇の重要性である。最後に、増村保造の初期作品における暗闇の位置づけを分析することで、暗闇の「黒」という色彩が、封建的な家族制度や社会構造からもたらされた権力性を内包していたことを明らかにする。

  • 田中 晋平
    2023 年 109 巻 p. 89-108
    発行日: 2023/02/25
    公開日: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    1974年に大阪で安井喜雄たちが創立した《プラネット映画資料図書館》は、映画のフィルムや関連資料の収集・保存に加えて、自主上映活動を続けてきたグループである。本論では、筆者が〈神戸映画資料館〉で担当した《プラネット》に関する資料(自主上映会のためのチラシや機関誌など)の整理作業を踏まえ、1970年代半ばから1980年代後半までに開催されたその上映活動の歴史的な役割を考察する。具体的には、《プラネット》の上映を実現してきた人間およびモノのネットワークに注目し、自主上映と新たに勃興したミニシアターなどの映像文化との差異を明らかにしたい。

    まず《プラネット》の前身となる上映活動として、1960年代末に結成された《日本映画鑑賞会OSAKA》の時代に遡り、関西における自主上映の地層を検討する。次にフィルム・コレクターや他の上映グループとの関係性を構築しながら、《プラネット》の活動が展開され、国内外で製作された古典的映画、アニメーション、ドキュメンタリー映画、実験映画・個人映画におよぶ多様な作品が上映されてきた経緯を確認したい。また論点として、自主上映グループが、モノとしてのフィルムをいかに確保し、活動を行ってきたのかに着目する。さらに1980年代後半に《プラネット》が関わった「OMSシネデリック」のシリーズなどを取り上げ、自主上映の活動とミニシアター文化との差異について論じる。

  • 行田 洋斗
    2023 年 109 巻 p. 109-127
    発行日: 2023/02/25
    公開日: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    本論文は、演出の観点からストローブ゠ユイレ作品における俳優の発話について論じる。これまでの先行研究では、その不自然なアクセントや休止を伴った特異な俳優の発話について「音楽的」や「異化効果」といった言葉とともに論じられてきたが、抽象的かつ曖昧なかたちでしか考察されてこなかった。本稿では、作家のインタビューや演出時のリハーサル映像、メモが残された脚本等の資料を使用し、その生成過程を探ることで、ストローブが「朗誦」と呼ぶ発話を具体的に分析することを目的とする。

    そのため、まず第一節ではフランツ・カフカの『失踪者』の翻案作品である『階級関係』(1984年)を例にとり、監督のリハーサル前の構想を確認する。第二節では、そのリハーサル映像に基づいて、特定の語が実際にどのように演出され、俳優に身体化されているのかを分析する。続く第三節では、前節までに確認した発話が、作品のなかでいかに形成され、どのような役割を担っているのかを確認する。そして最後に俳優の身体とテクストの両方を重視する、反復という方法論について論じたい。以上の考察から、ストローブが「朗誦」と呼ぶものとは、俳優固有の声と、テクストに内在する情動を結びつけることであると結論づける。

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