映像学
Online ISSN : 2189-6542
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28 巻
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日本映像学会第九回大会特集号
  • 小笠原 隆夫
    28 巻 (1983) p. 60
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー
  • 山口 良臣
    28 巻 (1983) p. App1-
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー

     テレビを通して物を見るとは,その対象物からの光束―テレビシステム―ブラウン管からの光束―眼球―視神経―中枢の一状態の覚知に他ならないだろう。私の身体を介して循環する回路を作り上げる時,テレビシステムによる画像の変容,時間のずれ等々は,私の日常的な身体的反応を撹乱する。「見る」と「見られる」の間にはさまった,このエレクトロニクスメディアが作り出すずれを意識的に取り出してみること。

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  • 広沢 文則
    28 巻 (1983) p. App2-
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー

     この人形展は、昭和57年、初夏発表され、内外に多くの注目を集めた、作品である。人形作家として既に有名な、辻村ジュサブロー先生が、花魁に魅せられて、江戸文化の華、吉原の美女たちにいどまれた、大意欲作である。

     この辻村ジュサブローの人形の世界を映画化(映像化)して見ようと、演出担当の宮沢誠一君とこころみた。どこまで辻村作品の、“情念の世界”、“通”、“いき”という美意識を表現できるかが一番の問題点であった。

     この辻村作品を一言で表現すれば、廓を総桧造りで再現し、その建物の中で、花魁の人形五十体、大道具、小道具四八五点など、当時のおもかげがしのばれる豪華な花魁が華やかに舞っていると云える。ただ、それは、人形の高さ約25㎝の超ミニサイズの再現である。

     この超ミニサイズで、しかも、動かない人形を通して、この吉原の花魁の情念の世界、辻村ジュサブローの世界をどう映像化するかたいへんに苦労した。この人形の館、妓楼模型は、遊女の部屋、内所、廊下、風呂場等が精巧に再現されているのは良いが、撮影用には作ってあるわけでなく、まだ二階は天井がないので照明や撮影が比較的やり良かったが、一階はまるでカメラや照明器材が入りこむことが出来ないので非常に困難な撮影であった。

     人形が動かないのだから、カメラや照明により動きを観客に感じさせ、辻村ジュサブローの情念の世界を映像化した。

     この動きを感じさせるために、クレーン・ドリー等を使用する事も考えたが、小さい所に入り込めないので、シュノーケル装置を使用した。この装置により、せまい廊下をスムーズに移動し、又階段をあたかも花魁が上っているような感じの動きに撮影することが出来た。

     しかし、辻村ジュサブローの完成された芸術作品を、表現することは、えてして、その価値を下げてしまう事がかなりありますが、人形や、建物、そして小道具には、かなわないまでも、何かそれが持っているムードだけは、感じられるものが出来たと、自負しておるしだいである。

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  • ほしの あきら
    28 巻 (1983) p. App3-
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー

     映像の中の風景は余りにも現実のそれと似ている。手に取って自由に見ることのできる写真以上に映画は現実とそっくりに見えるため,現実の意味性に規定された見せ方,受け取り方に安住してしまいがちだ。だが,映像は平面性に支えられた光と影の虚構であり,現実とは異なる質と内容を持ち得るものである。ものを創るということは,対象の持っている意味を知覚させるのではなく,特別な知覚を作り出すということだ。対象を通してイメージを「もの」化することにおいて,対象は重要なのだ。

     色や形だけを使うというのではなく,部分を取り出せば現実(単純な対象の単純な動作)を写し取ったフィルムを「対象」として,映画の持つ構造はどうにでも変えられるということに着目しながら,現実に規定されないフレーム内だけの実在性を作り上げようと意図した。フレーム内の時・空間を変形・再組織することで対象を現実の意味性から解き放ち,知覚認識を困難にすることは,見ること(知覚認識)自体が美学であり,自由な感性的体験であることを再認識させるだろう。

     白い影がとりついているというモチーフから,男が歩いて来てカメラの前で止まり,振り向くという繰り返しを,ネガとポジを重ねたり色調や脱色,1コマ毎の加工など全て手作業で分解した。出来上りに対する大雑把なプランはあったが,ディテールは作業の過程でのインスピレーションによった。つまり,初めに頭の中にあるイメージと対象としての元フィルムの総体と,「もの」化されたフィルムとを結ぶ作業が重要だったのであり,私自身も作る過程で「見ること」―不規則で不合理で衝動的な―を体験したのだ。途中で停止した一コマを指がなぞるのは,流れを注視できなくなった頃という計算で決めたので,そのタイミングが難しかった。

     音はLCI使用の野球盤の音をベースに,TVのチャンネル音,タイプライター,コンプレッサー,ブザー,声など現実に耳にする音を加工し,再統合したものである。画面の説明でなく,その空間だけの存在感を作り上げようとしたもので,狙いも作業方法も,基本的に画面と同じである。

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  • 中川 邦彦
    28 巻 (1983) p. App4-
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー

     テキストもまた、書き手が読み手へ向けて発する発話行為でもある。

     ところで、発話行為は同時に3つの行為を遂行する。すなわち、メッセージを伝達する語句的行為 acte locutoire であり、また、発話行為自体がすでに当該の行為の遂行の一部であるので非語句的 illocutoire である(例えば、「私は…を約束する」と言うことは、「約束」という行為を遂行することである)。さらに、質問するという行為の遂行のために質問の発話行為を行なう時、質問するという行為が、相手を尊重しているということを表わす行為でもあり得るのだから、発話行為は余剰語句的行為 acte perlocutoire ですらある。

     したがって、テキストもまた余剰語句的行為を遂行する。

     そこでもしもある行為が禁止されると、当該の行為は別の行為で表現される。例えば、「デカメロン」の若い農夫は、修道女たちと情交を遂げたいという欲望を、修道院の庭を耕したいと喚喩的に発話するのである。したがって、テキストの発話行為における語句的行為を、いかなる余剰行為の表出であるかと決めることが問題となる。

     ある分裂病患者(ウニカ・チュルン)の手記(「ジャスミン男」)に着想を得た私の映画作品(「動的統辞法のワルツ」1980年制作)を、系列的に解読する。すなわち、物語の連続要素を3つの相(潜在的、現実化過程的、結果的)に分ける。考えることの可能な物語のいくつかを、所与の実質を使って表出する。すると、これら実質は、当該の物語の各相を、喚喩的に、あるいは、隠喩的に表現することになる。

     ところで、実質と物語の連続要素(の各相)の関係は、制約されにくいので、まず相互無依存の関係で製作する(この作業前提に基づいて、実験作業を「白い人」と命名した)。こうした組み換え作業の結果、巨大なテキストが出現することになる。この中から、解釈可能な物語像(メッセージ)を取り出すことができる。また、解釈困難なメッセージを予測することもできる。後者が、禁じられた行為を表わしているに違いない。

     しかしながらこの作業は不可能である。すなわち、見なければならないデータのリアル時間が、私の一生を越えるからである。

     そこで、小さな単位で解釈を行ない、不可能なものを除いていく。そこに出現する禁止の法則を追跡者とし、禁止の連鎖を捕捉する。

     今回は、こうした実験のための一段階として、映像化するための諸問題の発見のために1ページ分をシュミレートしてみた。

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  • 大森 康宏
    28 巻 (1983) p. App5-
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー

     記録映画が民衆を動かすプロパガンダに重点を置くとしたなら,それは劇映画となってしまうであろう。しかし観衆も制作者も劇映画とは認めようとはしない。現実の様子を撮影した映像が人間の手によってまとめられていることを忘れさせてしまうからであろう。

     カメラの存在そのものが,現地の撮られる人々を非日常の世界に誘い込む性質を持った記録映画は,どのような理解と反応を観客に与えるであろうか。

     このジプシーの映画は,フランス社会を今も移動し生活する様子を演技づけることなく撮影したものである。その結果,長老の話し,家馬車の人々,カゴ作りなどすべてにカメラの存在が反映した。それは,ジプシーの人生の恣意性と演技性,そして異なる文化への適応性が表出した。

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論文
  • 吉岡 敏夫
    28 巻 (1983) p. 8-12
    公開日: 2017/04/25
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    S. Kracauer, in his book ‘Theory of Film’, tries to find the significance of the medium where the nature of the medium follows properties of the medium itself. And he calls the findings to be ‘the basic aesthetic principle’. He posturates that the properties of the photography and the film are to record and to reveal the physical reality.

    He analyzes the common problems of the photography and the film; the problems concerning the photographic or the cinematic approach, affinities and appeals. It is supposed that they are making the core of his theory.

    Especially, the concept of affinities is important. They consist of unstaged reality, the fortuitous, endlessness and the indeterminate that are in common with photography and film, and a flow of life is added actually to the case of film. Affinities are to be considered aspects of the physical reality. This concept of affinities determine the condition of the properties of media. Because they are able to be recorded and to be revealed only by the photographic and the cinematic media.

    The purpose of my research is to look for the possibility of a new image-making, and especially to try to find some methods of recording and revealing of the physical aspects of the reality made through the contemporary image media.

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  • 山田 幸平
    28 巻 (1983) p. 13-17
    公開日: 2017/04/25
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     Masakazu Nakai, who proved his cultivated tastes in the illuminating speculations on arts, devoted short life to developing new conceptions of the world and ‘Wissenschaft’. This eminent student of aesthetics was among the members of the generation blessed with abundant heritages from Kyoto Gakuha.

     In the days of intellectual crisis from 1920’s to 40’s, when some attempt was a pressing need for philosophy to be vitalized, Nakai’s choice was to take up the survey of the cinema = image arts within an extensive historical perspective of Ästhetik = Kunstwissenschaft.

     Except for the short period of speculative stagnation in wartime, he was continuously concerned from the creative point of view with probing into the aesthetic implications of this genre, which would in turn present new perspectives to philosophy.

     Among the topics treated by this incisive mind are subjectivity; function; technology; and language. The keen inquiries into these issues do and will remain the best stimulation for those engaged in the theoretical and historical studies of image arts.

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  • 脇 リギオ
    28 巻 (1983) p. 22-27
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー
  • 伊奈 新祐
    28 巻 (1983) p. 28-32
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー

    I think that different images or notions of time is a important theme in Video Art. By retrospectively considering the problem of time-control in the development of Video technology, I would like to search for a more contemporary mode on time-phenomenon in Video Art.

    In this paper, I select and examine the work “Ancient of Days” by Bill Viola. In this piece, I observed the way of producing a image of time in the post-production which editing process made time-lapse sequence, on the basis of “the continuity of taping” as a characteristic of Video (real time → time-lapse sequence → VIDEO TIME). On the other hand, taking consideration of experimental films and musics, I understood that the act of “seeing” by viewer is a mode of time-consciousness in itself. And I concluded that this kind of piece was a model of time-perception.

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  • 杉山 平一
    28 巻 (1983) p. 40-45
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー
  • 藪 亨
    28 巻 (1983) p. 46-56
    公開日: 2017/04/25
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    Until the beginning of this century photography was not associated with art and design. It was considered simply as a mean of mechanical sketching. Later on, however, a chance for breaking this alienation sprang from the Modern Movement in Germany which transferred great emphasis from handicraft to mechanical engineering, thus inspiring a formative capability for mechanical production. This encouraged the reconsideration of photography as useful device for design, and, later in 1920’s, it attained full recognition in the works of the “Bauhaus” and the “Deutscher Werkbund”. This report, making full use of abundant source material, deals with the development of photography in the Modern Movement, and attempts to throw much additional light upon Modern Design’s assimilation of photographic influence. I maintain that the movement, later in 1920’s, became the foundation of photographic activities for design in the machine age. It is not too much to say that it forecast the future close relationship between photography and design.

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