テキストもまた、書き手が読み手へ向けて発する発話行為でもある。
ところで、発話行為は同時に3つの行為を遂行する。すなわち、メッセージを伝達する語句的行為 acte locutoire であり、また、発話行為自体がすでに当該の行為の遂行の一部であるので非語句的 illocutoire である(例えば、「私は…を約束する」と言うことは、「約束」という行為を遂行することである)。さらに、質問するという行為の遂行のために質問の発話行為を行なう時、質問するという行為が、相手を尊重しているということを表わす行為でもあり得るのだから、発話行為は余剰語句的行為 acte perlocutoire ですらある。
したがって、テキストもまた余剰語句的行為を遂行する。
そこでもしもある行為が禁止されると、当該の行為は別の行為で表現される。例えば、「デカメロン」の若い農夫は、修道女たちと情交を遂げたいという欲望を、修道院の庭を耕したいと喚喩的に発話するのである。したがって、テキストの発話行為における語句的行為を、いかなる余剰行為の表出であるかと決めることが問題となる。
ある分裂病患者(ウニカ・チュルン)の手記(「ジャスミン男」)に着想を得た私の映画作品(「動的統辞法のワルツ」1980年制作)を、系列的に解読する。すなわち、物語の連続要素を3つの相(潜在的、現実化過程的、結果的)に分ける。考えることの可能な物語のいくつかを、所与の実質を使って表出する。すると、これら実質は、当該の物語の各相を、喚喩的に、あるいは、隠喩的に表現することになる。
ところで、実質と物語の連続要素(の各相)の関係は、制約されにくいので、まず相互無依存の関係で製作する(この作業前提に基づいて、実験作業を「白い人」と命名した)。こうした組み換え作業の結果、巨大なテキストが出現することになる。この中から、解釈可能な物語像(メッセージ)を取り出すことができる。また、解釈困難なメッセージを予測することもできる。後者が、禁じられた行為を表わしているに違いない。
しかしながらこの作業は不可能である。すなわち、見なければならないデータのリアル時間が、私の一生を越えるからである。
そこで、小さな単位で解釈を行ない、不可能なものを除いていく。そこに出現する禁止の法則を追跡者とし、禁止の連鎖を捕捉する。
今回は、こうした実験のための一段階として、映像化するための諸問題の発見のために1ページ分をシュミレートしてみた。
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