映像学
Online ISSN : 2189-6542
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97 巻
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論文
  • 中根 若恵
    97 巻 (2017) p. 5-23
    公開日: 2017/03/03
    ジャーナル フリー

    【要旨】
    1990年代以降、映画制作者が、自身やその身辺の事柄を主題にするセルフドキュメンタリーの領域に、多くの女性制作者が参入するようになった。これは制作的な側面が男性によって担われることが多かった映画界に大きな変化をもたらした。本稿は、そうした女性のセルフドキュメンタリーの事例として、河瀨直美(1969年-)の作品群に注目し、その特徴と社会的意義を明らかにする。まず第一に、河瀨の作品群にはフィクションとドキュメンタリーの境界を曖昧化するようにして、自らの私生活に焦点を当てるパフォーマティヴな自己表象が一貫した特徴として見られることを指摘する。その上で第二に、そうした自己表象が物質的な身体の提示とも結び付けられながら、慣例的な家族の枠組みを超えた「親密圏」とも呼べる他者との親密な関係の構築過程が示されていることを論じる。最後にこれら2点について、出産をテーマにした2作のドキュメンタリー映画、『垂乳女 Tarachime』(2006年)と『玄牝-げんぴん-』(2010年)を事例に取り上げ、詳細に検討する。こうした考察を通して、河瀨のドキュメンタリー作品群は、一般に女性と結び付けられている行為を敢えてパフォーマティヴに見せながら具体的かつ個別的な他者とのつながりを生み出すことの重要性を見せており、それは、身体というもっとも具体的な自己を起点とした新しい形の親密圏から公共圏へのつながりを見せる点で、自己決定によるオルタナティヴな共同体のあり方を示していると結論づける。

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  • 木原 圭翔
    97 巻 (2017) p. 24-43
    公開日: 2017/03/03
    ジャーナル フリー

    【要旨】
     リンダ・ウィリアムズが2000年に発表した「規律訓練と楽しみ――『サイコ』とポストモダン映画(“Discipline and Fun: Psycho and Postmodern Cinema”)」は、ミシェル・フーコーによる「規律訓練(discipline)」の概念を援用しながら『サイコ』(Psycho, 1960)における観客の身体反応の意義を考察した画期的な論考であり、同作品の研究に新たな一石を投じた。ウィリアムズによれば、公開当時の観客はヒッチコックが定めた「途中入場禁止」という独自のルールに自発的に従うことで物語に対する期待を高め、結果的にこの映画がもたらす恐怖を「楽しみ(fun)」として享受していた。
     しかし、『サイコ』の要である「シャワーシーン」に対しては、怒りや拒絶などといった否定的な反応も数多く証言されているように、その衝撃の度合いや効果の実態については、さらに綿密な検証を行っていく必要がある。本稿はこうした前提の下、シャワーシーンの衝撃を生み出した複数の要因のうち、従来そうした観点からは着目されてこなかったヒッチコックのテレビ番組『ヒッチコック劇場』(Alfred Hitchcock Presents, 1955-62)が果たした役割について論じていく。これにより、先行研究においては漠然と結びつけられていた『サイコ』と『ヒッチコック劇場』の関係を、視聴者観客の視点からより厳密に捉え直すとともに、シャワーシーンの衝撃に大きく貢献した『サイコ』の宣伝手法(予告編、新聞広告)の意義をあらためて明確にすることが本稿の目的である。

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  • 片岡 佑介
    97 巻 (2017) p. 44-64
    公開日: 2017/03/03
    ジャーナル フリー

    【要旨】
    本稿の目的は、新藤兼人監督作『原爆の子』(1952)と関川秀雄監督作『ひろしま』(1953)のテクスト分析を通じ、両作品がいかに「無垢なる被害者」の像を生み出しているのかを明らかにすることにある。両作品はGHQ/ SCAPによる映画検閲の解除後、間もなく同一著書から製作された原爆映画であるために、これまでも比較考察がなされてきたが、従来研究は主題や製作過程、受容の観点から両作品を対照的なものと位置づけてきた。これに対し本稿は、両作品に共通する演出方法とジェンダー化された無垢の表象とに着目する。より具体的には、宝塚少女歌劇団の同期であった乙羽信子と月丘夢路がそれぞれ演じる白いブラウス姿の女教師による歌唱シーン、及び音楽のサウンドブリッジを契機に過去を想起する白血病の少女によるフラッシュバックシーンなどの場面を精査し、両作品の差異をこれらの場面での演出上の差異に由来するものとして新たに意味づける。そして両作品の語りの構造において、それぞれ画面に繋留されない女教師の歌声と沈黙する白血病の少女が主要な役割を果たしていることを浮き彫りにする。本稿では、明治以降の国民国家形成期における音楽の社会的機能にも目を配りつつ、両作品が映像と音声で構成される映画の媒体的特質に依拠した対照的な演出方法を用いながらも、しかし、共に原爆の「無垢なる被害者」と戦後の理想的な国民国家像とを構築していることを解き明かす。

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  • 藤田 修平
    97 巻 (2017) p. 65-86
    公開日: 2017/03/03
    ジャーナル フリー

    【要旨】
    函館イルミネイションやあきた十文字、青森、湯布院といった地域の名前がついた映画上映イベントを「地域の映画祭」と呼ぶとすれば、それらはカンヌやベルリンといった国際映画祭とは異なり、プレミア上映を行う場でも映画作家を見出す場でもなく、(その地域で上映されることのなかった)商業映画を上映するだけに留まるが、地域の住民が企画・運営を担っていることに特徴がある。「地域の映画祭」は1970年代半ばに誕生し、全国に拡がり、1980年代に入って地方公共団体の支援が始まるとその数は増加し、2007年には100以上の映画祭が確認された。こうした映画祭はいかに誕生し、どのような特徴を持っているのか。また、国際映画祭との違いは何か。本稿では日本で最も古い映画祭であり、「町おこし」や「地方の映画祭」のモデルとされた湯布院映画祭を取り上げ、その誕生に至る経緯と背景を探る。その上で映画祭という新しい映画受容の〈場〉を公共空間として捉え、ハーバーマスやアーレントの研究を参照しながら、日活ロマンポルノが上映されたこと、外国映画の上映やゲストの招待をめぐって内部で大きな対立に発展したことを手掛かりとして、その〈場〉の特徴を探っていく。

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