映像学
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98 巻
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論文
  • 鶴淵幻燈舗の幻燈を中心に
    福島 可奈子
    2017 年 98 巻 p. 5-24
    発行日: 2017/07/25
    公開日: 2017/09/13
    ジャーナル フリー

    【要旨】

    鶴淵幻燈舗は、明治期に文部省の委託で初めて西洋幻燈を製作・納品し、その後の幻燈の普及に多大な影響を与えている。しかし鶴淵幻燈舗の事業の実態については、現存史料が少ないために、先行研究では断片的にしか明らかにされてこなかった。本論は、近年新たに発見された鶴淵幻燈舗発行の機関誌をも参照しながら、同舗の製造・宣伝・販売事業と、販売先のひとつである博文館の雑誌『少年世界』が主宰するお伽幻燈隊の活用方法について検証し、「通俗教育」事業としての幻燈と諸メディアのつながりの一端を明らかにしようとする。なぜなら同舗製作の幻燈は、近代国家としての「国民」の形成を目指していた明治政府にとって必要不可欠な教育ツールと目されたからであり、また明治期は現在考えられているような概念やメディアが定着・分離する以前であり、写真、幻燈、児童雑誌など多様なメディアが混在していたからである。そして「通俗教育」の名のもとにそれを横断する形で、鶴淵幻燈舗の製造・販売事業、お伽幻燈隊の受注事業があった。本論では、メディア考古学の観点から、メディアの多様性と相互の連関に注目するとともに、従来等閑視されてきた幻燈の実際面、製造・販売者や使用者の視点からの、技術的側面や具体的使用例を検討しつつ、明治期の「教育」現場での、他メディアとのつながりをも含む幻燈の果たした役割を明らかにする。

  • 正清 健介
    2017 年 98 巻 p. 25-47
    発行日: 2017/07/25
    公開日: 2017/09/13
    ジャーナル フリー

    【要旨】

    本稿は、小津安二郎の映画『お茶漬の味』(1952)における対話上のカッティングポイント(CP)の原則を、物語との関係において明らかにするものである。その目的は、サイレント=ハリウッドの影響下にあった小津がどのようにその規範を受け独自のトーキー規範を編み出したか、その一端を明らかにすることである。デヴィッド・ボードウェルは、表情に対する台詞の先行性というトーキーの特性から小津が台詞の後に一定の間合いを置き、CP を人物が話し終わる時(終わった後)に設定したと指摘する。しかし、本作のCP は必ずしもこの規則に従っていない。小津は時折、話し手が話し終わる前にCP を設置している。この事例は、小津がショットを「視覚的・言語的に統一されたブロック」とみなしたとするボードウェルの主張において例外として立ち現れる。小津は、時としてブロックとしてのショットの統一性を壊してでも、CP を前倒しという形で修正して台詞を聞き手のショットに被せている。それにより、話し手の音声の聞き手のショットへの侵犯という事態を浮上させ、それを物語上の人物の力関係と連動させることで、映像と音声というレベルにおいて話し手の聞き手に対する精神的圧力を表象している。その圧力は、ミシェル・シオンが「既に視覚化されたアクスメートル」と呼ぶ画面外の声が権能を振るった結果だと解釈可能である。視覚面の分析に偏向する先行研究に対し、本稿は音声とショットの関係に着目することで映画音響論として本作を再考する新たな試みである。

  • 『ジョニー・ベリンダ』(1948)における手話の役割
    玉田 健太
    2017 年 98 巻 p. 48-67
    発行日: 2017/07/25
    公開日: 2017/09/13
    ジャーナル フリー

    【要旨】

    1948年のジーン・ネグレスコ監督によるハリウッド映画『ジョニー・ベリンダ』で、主役で聾唖のベリンダ・マクドナルドは⼀切言葉を話さない。この点において、メロドラマ映画や特に40年代女性映画の典型的な例として、本作はしばしば先行研究によって取り上げられてきた。しかし、本作の重要な主題のうちのひとつは、まさに言葉に他ならない手話をベリンダが習得するという点にある。そこで、本稿は手話が⾮言語的なメロドラマの⾝振りではなく、言葉そのものである点を議論の出発点とする。すると、他の40年代女性映画における男性医師の機能(ヒロインが自分では言語化できないトラウマや真実を言語化する)と、本作の医師ロバートの機能は異なることになる。それを踏まえ、主に裁判のシーンを言葉という観点から分析することを通じて、男性医師ロバートもベリンダと同じく、支配的な社会から疎外された人物であることを明らかにする。本作はエンディングで、ベリンダやロバートらマイナーな言葉を話すもの同士が結束し、支配的な社会に取り込まれることもなく、また逃げ出すのでもなく、そこから適度な距離を保った新たな社会を打ち立てようと試みている様を描いているのだ。最後に本稿は、エンディングの⼆面性を明らかにし、彼女らの試みが孕む不安と希望を指摘する。

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