西欧語observeと観察との等価性を前提に、観察を重視する理科教育は成立しているといってよい。しかしobserveは、主客分離を前提として成立する行為であるのに対し、主として仏教によって発展させられた観察は、観世音菩薩に込められている折りから分かるように、主客融合への果てしない努力を要求している。このように行為の主体と客体との関係からすれば、これらの二つの言葉は相互に否定しあってさえいるのである。たとえ理科教育がこの等価性をいい募っても、「カンサツ」という言葉の響きに接したとき、児童生徒はもちろん教師でさえも、observeではなく、伝統的な観察を再把握しているのである。ソシュール学の基本的命題であるシニフィエとシニフィアンの不可分性からすれば、この事態が生じるのは当然といえよう。その結果、理科の教師か真剣に、また誠実に対応すればする程observeを否定し、観察の本質的態度である主客融合を正しい態度として、児童生徒に勧めることになってしまうのである。西欧自然科学を結果として否定してしまう観察に基づいて、理科教育が施されていることが問題なのではない。多くの留保をつけ加えた上でいえば、西欧自然科学を否定することは理科教育本来の姿であるともいえよう。理科教育本来の姿についての議論はしばらく措くとして、とりあえず現実問題として憂慮すべきは、観察という行為がobserveの権威の下に教授されている事実であろう。理科教育を誠実に施すべく努力すればする程、西欧自然科学が要求する見方であるobserveはもとより、伝統文化に基づいた見方である観察すら伝えることに失敗している事例は、理科教育史上数多く見いだすことが出来る。にもかかわらず西欧自然科学が標榜する普遍性に幻惑されて、理科教育はこの致命的ともいえる錯誤に気づくことはない。本報告は、エピステモロジーを導入することにより、理科教育の混乱解消を試みたものである。
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