言語文化教育研究
Online ISSN : 2188-9600
ISSN-L : 2188-7802
14 巻
選択された号の論文の12件中1~12を表示しています
特集「多文化共生と向きあう」
シンポジウム
論文
  • 日本語教育コーディネーターの実践をとおした考察
    萬浪 絵理
    2016 年 14 巻 p. 33-54
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/04/30
    ジャーナル フリー

    本稿は,地域日本語教育の場において,日本語能力向上という外国人市民の「ニーズ」に応えつつ市民同士が相互理解をめざす学習活動とはいかなる形であるのかを,日本語教育コーディネーターの視点で考察するものである。地域日本語教室は多文化共生社会の実現に向けて多様な言語・文化の背景をもつ市民が対話・協働によって対等な関係づくりをめざす場であるという理念が謳われているものの,現実には多くの日本語ボランティアが日本語指導の役割を負わされているために理念が実践におりていないと言われて久しい。問題を状況主義的に捉え,日本語学習者としての外国人,日本語ボランティア,一般市民という3つの層の関わりに着目して教室活動の実践をおこなった結果,日本語学習と相互理解が両立することがわかった。両立のために重要なものは「学習支援」の概念と具体的な方法であった。

  • そこにある「常識」を問う
    オーリ リチャ
    2016 年 14 巻 p. 55-67
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/04/30
    ジャーナル フリー

    本稿は日本における多文化共生と向き合うべく,ある異文化交流の場に焦点を当て,そこであたりまえのように行われている「◯◯国」を紹介する活動に対し持っている違和感を明らかにすることを目的としている。Hall(1997)が提唱する表象の概念を用い,「◯◯国」を表象する行為は必ずしも「無害」ではなく,(1) 差異の強化,(2) 二項対立の構図の構築,(3) ステレオタイプ構築に繋がる行為であることが記述できた。その背景には常識の支配力やヘゲモニーの維持に関連するイデオロギーが見え隠れしていることも明らかになった。また,日本社会の構成人である母語話者・非母語話者一人一人が「市民」になるためには,(1) 批判的意識,(2) 有標質問・有標イメージに対する認識,(3) 文化の再考,(4) 「わたし」という存在に対する認識が必要であることが示唆できた。

Regular contents
論文
  • 言語表現支援の様相と参加者意識
    家根橋 伸子
    2016 年 14 巻 p. 68-84
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/04/30
    ジャーナル フリー

    教室で地域の日本人と留学生がひとつのテーマについて話し合い,その中で日本人参加者に留学生の日本語による自己表現を支援してもらうことを意図した授業実践を試みた。それにより,留学生が日本語を自分を表現する言葉としていくことを目指した。実践後,支援が行われていたかを知るため「話し合い」の録音データを分析した結果,教師(筆者)が意図したような言語表現支援が生起している場面は稀であった。そこで言語表現支援が生起しなかった要因を参加者の意識から探ることを目的に,参加者インタビューデータを分析した。その結果,教室を構成する留学生・日本人参加者・教師それぞれの相手と自分に対する認識,参加意図,相互行為過程の認識の間に相違があり,その中で支援が抑制されていた可能性が示された。本実践は多くの課題を抱えるものであったが,「日本語を自分の言葉とする」自己表現型教室実践,また地域住民参加型教室実践を再考していく一つの実践例を提供するものである。

  • 齊藤 聖菜
    2016 年 14 巻 p. 85-103
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/04/30
    ジャーナル フリー

    本稿では,学習者が自身に変化をもたらす対話を行い,創造を行っていく過程が「学び」であると定義し,対話型の口頭発表の授業実践において,可視化されにくい「学び」の実態を検証する。分析対象は,教師に「学び」が可視化されなかった1名の学習者である。この学習者は,教師が設定した基準に基づくと発表技能にあまり向上が見られなかったと評価されていた。分析の結果,本稿で検証したような学習者であっても,他者や自己と対話し,学習者の内部で変化が起こり,新たな信念や認識を創造していくという「学び」が生じていることが示された。この結果から,授業実践者が目に見える変化によってのみ「学び」を捉え,プロセス全体で捉えていなかったことが課題である可能性が示唆された。これらを踏まえ,「学び」を結果だけでなくプロセスとして捉え,プロセスの全体像を観察可能にする方策を検討していく必要があることを提言する。

  • 日本人日本語教師にどのような役割が担えるのか
    木村 かおり
    2016 年 14 巻 p. 104-127
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/04/30
    ジャーナル フリー

    日本語教育の現地化とは何か。本稿ではこれを現地の教師たちが互いを,また現地の日本語教育をエンパワーメントし合うことと捉えている。マレーシアの大学教員である筆者は,現地において日本語教師たちとエンパワーメントし合うために「何が必要なのか」「私に何ができるのか」を考え,クリティカル・アクションリサーチとしてB大学をめぐる社会的実践活動を繰り返し省察している。本稿では,現場の教師が求めているものと現状の矛盾を明らかにし,その矛盾の克服に私がどのような働きかけをしていたのかを活動理論を用いて分析し日本人教師の役割を探った。矛盾の克服には,「情報」や「同僚間の連携」を道具として,結びつきの実践を行うことが必要であること,たとえビジターという外国人教師であっても,日本人教師が現地の教師間の共同体の境界を越えた第3の共同体の同僚として教師間にノットワーキングを働きかける役割が担えることが確認できた。

  • 高等学校韓国朝鮮語教育ネットワークに所属する教師のライフストーリー・インタビューからの考察
    澤邉 裕子
    2016 年 14 巻 p. 128-149
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/04/30
    ジャーナル フリー

    本稿は第二外国語教育の制度がない日本の高等学校における韓国・朝鮮語教育が教師のいかなる教育観によって支えられているかについて,高等学校韓国朝鮮語教育ネットワークに所属する教師に対するライフストーリー・インタビューの語りのデータをもとに考察した。韓国にルーツを持つ在日コリアン教師,日本人教師,それぞれにおいて韓国・朝鮮語教育の目的は単なる外国語運用能力の育成にとどまるものでなく,隣国の言語である韓国・朝鮮語を学ぶことを契機に生徒たちの日本社会への気づきやそれに伴う問題意識を高める等の意味があるという教育観,韓国・朝鮮語を用いての「交流」を重視し,教育実践に取り入れる姿勢は教師たちに共通のものとして見出された。高等学校の韓国・朝鮮語教育を支えるものとして,こうした教師たちの教育観,そしてそれを支える個人や学校のネットワークがあり,教師たちは主体的な行動力のもと韓国・朝鮮語教育や日韓交流の場を創り出していることを述べた。

フォーラム
  • [書評]三代純平(編)『日本語教育学としてのライフストーリー―語りを聞き,書くということ』
    松本 明香
    2016 年 14 巻 p. 150-161
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/04/30
    ジャーナル フリー

    本稿は三代純平(編)『日本語教育学としてのライフストーリー―語りを聞き,書くということ』の書評である。本書は各論者が,それぞれ立場からの言語教育研究観を示し,また各論者の展開するライフストーリー研究から導かれる,日本語教育学におけるライフストーリー研究観を論じるものである。本稿では同じくライフストーリー研究を行う筆者が自身の視点から本書に向き合った後の感想,多様化する日本語教育の状況を踏まえた上で今後のライフストーリー研究への展望,さらなる期待を述べた。

  • 森有礼の日本語廃止論・英語採用論を中心に
    福元 美和子
    2016 年 14 巻 p. 162-173
    発行日: 2016/12/30
    公開日: 2017/04/30
    ジャーナル フリー

    明治期は近代日本語の歴史においてもっとも変化と躍動が起きた時期である。鎌倉室町期以降,さまざまなお国ことばが混在した話し言葉と書き言葉が大きく乖離した状態で受け継がれてきた日本の言葉を,全国で統一した話し言葉,さらに言文一致が求められるようになっていった。その先駆けとして森有礼は「日本語廃止論・英語採用論」を唱えたとされている。本稿では,後世に渡って批判の的とされてきたその原点ともいえるアメリカの言語学者ホイットニーとの書簡のやりとりの一部分を中心に,森有礼は本当に「日本語廃止論・英語採用論」を提唱したのか考察を試みる。

編集後記,編集委員会
feedback
Top