鈴鹿越は箱根越と共に東海道中の坂路の双壁であつて、其の聚落發達の状況もよく一致して居る。鈴鹿越に發達せる聚落中、その主なるものは兩端の關・土山及び中間の坂下であつて、現今何れも略ぼ宿驛時代盛時の街村式の市街形を保持してゐるが、明治以後宿驛制度の廢止等に鐵道交通の發達に件ひ、市街の職能上に一大變化をもたらし、何れも往時の繁榮はない。然し其の中、關は位置最も良好なる爲三者中最も活氣あり若干囘春Rejuvenateしてゐる。土山之に次き、坂下は最も劣る。かの箱根越の小田原・箱根・三島の三宿が夫々現代に適する様に職能が變つて相當の囘春をしたものとは同日の談でない。鈴鹿越の坂下が關・土山に比し宿驛として一層純粋のものであつただけに、そして其の位置が山中にあるに拘らず、箱根の如き風景美を持たないので、宿驛時代に箱根と竝稱きれた坂下は鈴鹿越三宿中最も衰微して居るのである。工費五十六萬一千圓を以て坂下から鈴鹿峠までの道路改修と、峠に一三五間のトンネル(大正十一年六月起工)を穿つことゝなめ、今やトンネル成り、改修道路も今夏を以て完成することになつた。この工事完成の曉には坂下・土山間に自動車の運轉を見るに至るであらう。然らば目下關・坂下間及び土山・水口間には定期の自動車があるから、それと連絡して關西線と近江線とを連絡すると、此の鈴鹿越は再び現代の交通路として幾勢囘春することなるのであるが、然し交通路としての往時の價値と繁榮とは再び得難いことであらう。但し、三重縣側の山地には杉檜の植林がかなめ發達してむるから、その森林の所有權は殆んど此の谷以外の手にあるにしても、將來その伐採の進行と共に交通も盛となり、沿道の住民は經濟的には相當復活し得られるであらう。
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